2016年5月1日日曜日

マタイの福音書5章21節~26節「山上の説教(12)~仲直りしなさい」


家庭では親子喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩に嫁姑の対立。社会に出れば、出世争い、権力争い、派閥争いに政権争い。世界を見渡せば民族紛争、エネルギー戦争、領土紛争。古今東西、この世界から喧嘩、争いが絶えたことはありません。

何故、人間は喧嘩するのか。どうして争うのか。「人類は戦争を終わりにせねばならない、さもなくば、戦争が人類を終わりにするであろう。」20世紀最大の危機と言われたキューバ危機。アメリカとソ連が一色触発、核戦争を起こす寸前まで進んだと言われる危機的状況を危うく逃れたケネディ大統領は、この様に語りました。

しかし、未だ人間は戦争を終わらせる術を見出せずにいます。社会でも、家庭でも、友人同士でも喧嘩、対立は深まるばかり。喧嘩を止められず崩壊してしまう家庭は増えるばかりと言う気がします。

この様な世界にあって、イエス・キリストを信じる者はどう生きるべきなのか。それを、教えるのが今日の個所です。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で12回目となります。山上の説教の入り口には、「幸いなるかな」で始まることばで、イエス様を信じる者の姿を八つの側面から描いた幸福の使信、八福の教えがありました。

次は、イエス様がクリスチャンを「地の塩、世界の光」と呼んで、私たちがこの世界に生かされている意味、目的を教えてくださいました。そして、先回、イエス様を信じる者には、律法学者やパリサイ人の義にまさる義が与えられることが約束されたのです。

 

5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

 

イエス様の時代、ユダヤの社会にあって、律法学者やパリサイ人は最も正しい生活をしている者と考えられていました。だとすれば彼らにまさる義とはどのような生き方なのか。イエス様は、神様が私たちに恵みとして与えてくださる義、正しい生き方とは何かを、今日の5章21節以下、具体的に教えてくださることになります。

 

5:21「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」

 

「人を殺してはならない」と言う戒めは、旧約聖書の十戒の六番目に出てくる神様の律法です。しかし、律法学者はこれに「人を殺す者はさばきを受けなければならない」という規定を付け加えました。そうすることで、神様の律法を単なる人間社会の法律違反、殺人の禁止に変えてしまったのです。その結果、ナイフや暴力で人の命を奪わなければ裁判にかけられ、罰を受けることもないので大丈夫。だから、自分は神様の律法を守っていると人々は考え、安心できるということになりました。

しかし、これは「殺してはならない」と言う律法に対する、律法学者やパリサイ人の誤った解釈でした。彼らは、この戒めに込められた神様のみこころを消し去り、これを人間社会の法律の問題にしてしまいました。

そこで、イエス様はこの律法の真の意味を説明しています。この律法を肉体的な殺人だけではなく、私たちが心の中で行っている様々な形の殺人を禁止をするものとして解き明かされたのです。

 

5:22「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 

イエス様が教える殺人とは、先ず腹を立てること、怒りです。憎しみ、憤り、妬み、苦々しい思い、今のことばで言えばイライラ、むかつくなどの思いを心に抱き、ことばや態度にあらわすことです。私たちは感情的に責める、無視する、心を閉ざすなどの態度で、相手の心の平安を奪うことをしていないでしょうか。

聖書における最初の殺人事件は、兄カインが弟アベルを殴り殺した事件です。弟が何か兄にしたわけではありません。兄のカインは自分のささげものが神に受け入れられず、弟のささげものが神に受け入れられたことで、弟を妬みました。弟の存在が癪に障り、遂に事件を起こしてしまいました。妬みが怒りに、怒りが殺人に発展してしまったのです。

次は、能無しと言うこと、軽蔑です。人を見下し蔑むこと。今で言うなら上から目線でしょうか。私たちは能力、社会的立場、容姿、収入などによって相手の価値を判断し、心で人を見下し、態度にも出してしまうことがあります。

作家の山本周五郎は、無名の新人時代、誰の推薦も受けていないという理由で、大出版社のベテラン編集者に見下され、大切な原稿を読んでもらえないばかりか、ゴミ箱に投げ捨てられるという仕打ちを何度も受けたそうです。だからでしょう。「人間として最低の行為は、人の心から意欲を奪うことだ」と言い残しています。

三つ目は「ばか者」つまり悪口を言うこと、罵ることです。相手の失敗を人前で責めたり、罵ることは心にナイフを突き刺すことです。人のあら探しをして悪口を言いふらすのは、人の評判を奪うことでしょう。

怒りは殺人につながるから無視できない、というだけではありません。イエス様は人の心の平安を奪う怒りも、人の心の意欲を奪う軽蔑も、人の心を傷つけその評判を奪う悪口も、人の命を奪うのと等しく、聖なる神様にさばかれるべき罪とされたのです。

但し、聖書はすべての怒りを罪としている訳ではありません。イエス様は柔和な方でしたが、しばしば怒りを表されました。一例をあげれば、安息日に病人を癒すという良いわざまでも禁じ、律法違反として訴えようとしたパリサイ人たちを「怒って…見回し、その心のかたくななのを嘆かれた」(マルコ3:5)と言う出来事が聖書に出てきます。

イエス様は怒りを表しました。それは罪や不正、偽善に対する正当な怒りです。ですから、私たちも悪や不正に対して怒らないとしたら、それは問題です。聖書には「心理を愛し、悪を憎め」とも勧められているからです。

けれども、気を付けないといけないのは、私たちの場合、自分では正義の怒りだと思っていても、往々にして罪そのものに対して怒っているのではなく、相手の態度に自分のプライドが傷ついたり、願うとおりに相手が行動しないため自分がイライラするということがあるのではないでしょうか。

厄介なことに、私たちは自分を正義の人と思い込みやすい存在です。「私は怒りの奥に隠れている自己中心の性質に気がつきにくいという弱点をもっている」と、肝に銘じておく方がよいかと思います。

ことばを代えて言えば、怒りはその人の間違った行いにだけ向けられるべきでしょう。罪の中にある人に対しては悲しみとあわれみの念をもって接していかなければならないと思います。相手の行いに「ノー」を言うのは良しとして、相手の存在を責め否定するような感情的な言動は、私たちの側の罪なのです。

アメリカのある町に孤児院を経営する女性がいました。経営は厳しく、日々の食べ物にも苦労するような状況でした。それでも彼女はクリスマスに子どもたちに贈り物をしたいと思い、町に出てゆき寄付を募ります。ある酒場に入り、テーブルを回って寄付を募っていたところ、突然酔っぱらった男がグラスを投げつけたため、それが彼女の顔に傷をつけ、グラスも割れてしまいました。

場が静まり返る中、女性は割れたグラスを拾い集め、静かに立ち上がります。そして「これは私への贈り物として頂きますが、私の愛する子どもたちのためにも、何か頂けるでしょうか」と語ったそうです。それを聞いた人々は、グラスを投げた男も含め、皆が寄付をしたと言う実話があります。

怒りの感情や軽蔑、悪口から解放されるというのは、非常に難しいことです。私たちの力だけでは不可能と聖書は教えています。しかし、そんな私たちも罪を悔い改め、神様の赦しの愛を繰り返し味わうことで、この女性のように正しく怒りをコントロールすることができるようになる。イエス様を信じる者はこの様な恵みを与えられていることを自覚したいと思います。

 しかし、「殺してはならない」と言う律法の意味はこれにとどまりません。私たちが人に対する怒りや悪口を抑えるだけではなく、わだかまりのある人々との関係を良くすること、仲の良い関係を作ることが、この律法の真の目的であることが教えられるのです。

 

 5:23,24「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

 

イエス様は、ここで仲直りすること、和解がいかに大切かを強調しています。祭壇の上に供え物をささげるというのは礼拝のことです。つまり、もし礼拝の途中で、自分の言動が他の人を傷つけたり、悩ませたりしていることを思い出したら礼拝の場を離れ、兄弟と仲直りをし、それから戻ってくればよいと勧めているのです。

ここで、イエス様は私たちが自分から進んで行動することを命じています。何故でしょうか。私たちの中に、仲直りするため自分から行動することを渋る弱さがあるからではないでしょうか。今はこれこれのことで忙しいから。相手の方に非があるのだから。様々な理由を並べて、自分から行動しようとしない頑固さが私たちの心にあるのではないかと思います。

ですから、イエス様は大切な礼拝を後回しにしてでも、自分から出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさいと勧めているのです。

また、続く譬えでも、和解の大切さをさらに強調し、腰の重い私たちを行動に駆り立てておられます。

 

5:25,26「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」

 

当時の訴訟、裁判の場面を背景にしたこの譬えは仲直りの緊急性を教えています。私たちは和解を先に延ばそうとしがちです。しかし、いつまでも取り組み始めないなら、取り返しのつかないことになります。「仲直りしておけばよかった」と後悔しても、「時すでに遅し」と言う状況が人生には起こるかもしれないのです。

神様が直接あるいは人を通して、仲直りすべき人を教えてくださるその時こそ、私たちが和解にむけて一歩踏み出すチャンスであると教えられるところです。

 先回もお話ししましたが、私は10年前に脳出血で入院しました。その時受けた恵みがいくつかあります。その一つは「もし、明日死ぬとしたら、今日のうちにしておくべきこと、本当にしておきたいことはなにか」と言う視点で考えるようになったことです。

 毎日そんな風に考えていたら緊張して肩が凝ってしまいます。しかし、ここぞという時にこうした視点で人生を考えると、本当に価値あることに力を注ぐことができる様に思います。私にとって効果の一つは、それまでできなかったこと、妻に謝ること、妻に感謝することができるようになったことです。それまで、私たち夫婦が修復不可能な関係にあったわけではありませんが、小さなことにこだわって喧嘩してきたことも数多くあったように思われます。

勿論、仲直りすること、愛し合う関係を築くことは、決して簡単ではありません。時間もかかります。神様の恵みがなければできないことですし、信頼できる人々の助けも必要です。自分が努力することも欠かせません。しかし、イエス様は仲良くすること、愛し合う関係を築くことは、私たちが時間をかけ努力する価値のある尊いことと教えてくださったのです。

最後に、三つのことをお勧めしたいと思います。一つ目は、すぐに良い結果を求めない期ことです。子ども同士ならいざ知らず、わだかまりを持つ大人同士が仲良くなるということには双方の努力が必要です。時間もかかります。

すぐに良い結果を求める信仰は、願うようにならないと不満を感じます。相手に問題があると考えて人を責めたり、神様の愛を疑ったりします。自分の弱さや課題に直面せず苦しい状況が早く過ぎることだけを願うため、具体的な努力に心を向けることができません。

 二つ目は、じっくり自分の弱さや課題に取り組み、努力し続けることです。理想の状態を目指しつつも、自分ができることからやってゆくということです。最初は相手を避けないこと、次は相手のために祈ること、次は自分の方から挨拶してみること。そうやって一歩ずつ進めて行ければよいと思います。継続の中に成長があることを覚えておきましょう。

三つ目は、それでもなかなか変わらない自分にがっかりする時、神様の恵みに信頼することです。自分の無力を認め神様の助けを求めることです。神様の恵みに信頼することで、私たちは失望から救われますし、励まされるからです。

以上、「殺してはならない」と言う律法に込められた神様のみこころを学んできました。自己中心的な怒り、人を見下すような思いや態度、悪口をコントロールすること、捨てること。また、あらゆる人と仲の良い関係を築くこと。神様の恵みに励まされ、お互いに助け合いつつ、私たち皆でこの律法を実践する歩みを進めてゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

エペソ4:31、32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

  

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