2016年5月22日日曜日

マタイの福音書5章27節~32節「山上の説教(14)~結婚を尊ぶ~」


何故、人間には男と女とが存在するのか。どうして、男女はお互いに求めあうのか。いわゆる、性の問題については昔から多くの人々が考え、議論してきました。

新聞の人生相談を読むと、幼子の性的な行動を心配する母親、どうしたら自分の思いを相手に伝えられるか悩む女性、性的な欲求と葛藤する青年、配偶者の不倫に苦しむ夫婦、夫と死別した後、70歳代で恋愛をして喜ぶ女性などが登場してきます。

 性は健康な人間としてのしるしであるとともに、心配や悩みの種でもある。喜びの源である場合もあれば、苦しみの源でもある。私たち人間は生涯、性と無縁では生きられない者なのだなと感じます。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で14回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、イエス様を信じる者の姿を八つの面から描いた八福の教えで始まっています。

そこで私たちは、イエス様を信じた者は天の御国を受け継ぐ。天の御国の民として生きる祝福を受けとることを教えられました。さらに、天の御国の民にはそれにふさわしい義、正しい生き方があることも、続くところで確認しました。それは、当時最も正しい生活を送る人々として尊敬されていた「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」と表現されています。

天の御国の民にふさわしい義。それは、神様が私たちに与えてくださる恵みです。同時に、私たちが取り組むべき生き方でもあります。その具体的な内容について、先回は「姦淫してはならない」と言う律法に関するイエス様の教えから見てきました。

 

5:27~30「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

一般的に、性の問題は二つの極端によって本来の意味を捻じ曲げられてきたと言われます。

一つは性的な欲求を汚れたこと、罪とみなし、これを恥じたり、隠したり、禁止する極端。性的な欲求を克服し、消してしまえば心が清くなると言う禁欲主義です。しかし、聖書は性的な欲求そのものを汚れたものとみていません。それを消したり無くしたりすることを命じてもいません。むしろ、その様な不自然な努力は無駄に終わると警告しているのです。

もう一つは、性的な欲求を思いのまま発散する自由こそ大切と考える極端。快楽主義です。しかし、異性に対する献身的な愛を欠いたまま、快楽と欲望をどこまでも追及することで、人間は真の満足を得ることはできないことを、快楽主義者たち自身が証言しています。

禁欲主義では、性の問題を解決できない。快楽主義では、私たちが真に求める満足を受け取ることができないと言えるでしょうか。

それらに対して、このイエス様のことばは、性の問題に対する聖書の立場を教えていました。注意したいのは、イエス様は「情欲つまり性的な欲求を抱いて女、異性を見ることは罪」と言われたのであって、「異性を見て性的な欲求を感じることを罪」とされたのではないと言うことです。

イエス様は性的な欲求そのものを汚れ罪とは考えていません。聖書は、神様が人間を創造した時、性的な欲求をも与えて下さったと教えています。ですから、イエス様が問題としているのは性的な欲求そのものではなく、その用い方です。

性的な欲求が心に起こること自体は自然なことであり、神様の創造にかなった健全なこと。しかし、もし「その人によって性的な欲求を満たしたい」と言う思いを抱いたまま、異性を見続けるなら、たとえ行動に移さなくとも、それは心の中で姦淫の罪を犯していることに他ならないと教えられます。

イエス様の時代、パリサイ人は文字通り結婚相手以外の異性と性的関係を結ばなければ、「姦淫してはならない」と言う律法を守っているから大丈夫と考え、人々にも教えていました。しかし、イエス様の教えは、罪における思いの世界と行動の世界の垣根を撤去したのです。神様の眼に思いの世界と行動の世界の区別はありません。何故なら、私たちが心の思いにおいても異性に対するきよい愛を抱いて、接することを願っておられるからです。

ですから、たとえ右の目、右の手の様に、それ自体は良い物であっても、私たちの心を罪に誘うものがあるなら、それを捨てよと命じていました。誇張された、非常に強い表現ですが、イエス様は性の賜物を悪用乱用しやすい私たちに、それを正しく管理すること、自制することを教えられたのです。

禁欲主義でもなく、快楽主義でもない。イエス様は、性の賜物を正しく用いて私たちが真の喜びと満足を受け取るための管理主義、自制主義を勧めているのです。

それでは、性的な欲求、性の賜物を正しく用いる、管理するとはどういうことでしょうか。それは、神様が私たちに性の賜物を創造し、与えて下さった目的を知ることに始まります。

 

創世記1:28「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

神様は人間を創造し、性の賜物を与えた後、生み、増えることを命じました。神様はこの世界を人間の働きによってさらに良い世界へとすることを願っておられましたから、新しい命が生み出され、この世界に増え広がるようにと言われたのです。つまり、神様が私たちに与えられた性の目的の第一は命を生み出すためでした。

二つ目は、結婚した男女による愛の交わりのためです。

 

創世記2:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

 

両親から自立した男女が結び合う、つまり生活を共にする中で、心も体もひとつとなる交わりをなすことが、神様のみこころと教えられるところです。

しかし、この様に私たち人間の幸いを願い、神様が定められた結婚と言う制度が、これ以降人間の罪によって歪められてしまいました。特にイエス様の時代、パリサイ人は旧約聖書に定められた離婚の律法を自分たちの都合のよいように解釈し、男性の側の身勝手な理由による離婚が横行していたのです。

 

5:31、32「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」

 

男性優位、男尊女卑の風潮は古今東西共通して見られるものです。ユダヤ人の社会も例外ではなく、旧約聖書の昔もイエス様の時代も男性優位、女性は社会的弱者の立場にありました。その様な背景の中、旧約聖書で離婚に関する律法が定められたのは、男性の側の身勝手な理由による離婚が頻発していたので、それを抑制するため、離婚によっていっそう弱い立場に追い込まれることがないよう、女性を守るためだったのです。

そのために、離婚が許される理由は「恥ずべき事」と言う特定のことに限られ、男性はそれを証明しなければならず、なおかつ、複数の証人によって承認してもらわなければなりませんでした。さらに、人々の前で離縁状を手渡し、女性が完全に自由であることを示す義務もあったのです。

イエス様はこの様な状況について、次のように教えています。

 

 マタイ19:8「イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」

 

 神様は、あなた方の心が妻の欠点や弱さに関してかたくななので、やむなく離婚を許可をしたに過ぎない。だから、問題解決のための努力を重ねたうえで、離婚に際しては本当にやむを得ない客観的な理由があり、それを公に認めてもらった場合にのみ離婚は容認される、そう、イエス様は教えられたのです。

 それを、イエス様の時代の男性は、妻の側のささいな失敗や欠点をも赦さず、むしろこれをもって離婚する権利がある、いや、その様な場合神様は離婚を奨励しているとすら考え、離婚状を乱発して女性を泣き寝入りに追い込み、それを意に介していなかったらしいのです。

その当時も今もそうですが、身勝手な理由の中には、配偶者以外の異性に心を惹かれ、結婚するために離婚を決めた人々も相当いただろうと考えられます。心の中で姦淫の罪を犯しながら、それを正当化するために離婚を進めると言う酷さです。

そして、イエス様の弟子たちですら、不貞以外の理由で離婚はできないと教えられると、「もし妻に対する夫の立場がそんなに不自由なものなら、結婚しない方がましです」と答えたことが聖書にしるされています。いかに、結婚の目的が尊ばれず、むしろ踏みにじられていたことかと思わされます。

神様のみこころは、人間の罪によって結婚が歪められているからと言って、決して離婚を良しとはしてはいません。しかし、神様が離婚を許容されるただ一つの場合があるとも言われます。それは、不貞ことばに代えるなら不品行です。共に生活をしてゆく責任を放棄したとみなされても当然である様な不誠実な行いとも言えます。その代表が不貞であり、今日でいうなら日常的な暴力なども含まれるでしょう。

しかし、その様な場合でも、自動的に離婚しなければならないと言うことではありません。罪を犯した者が悔い改め、配偶者のもとに立ち返るよう、できる限りの努力を惜しんではならないことは言うまでもないでしょう。

以上、「姦淫してはいけない」と言う律法が、性的な賜物を正しく管理し、用いることを、離婚に関する律法が、神様が定めた結婚を尊ぶように教えていることを確認してきました。

イエス様の昔の状況は今も変わりません。と言うより、より一層深刻で酷い状況と思われます。私たち天の御国の民は、性の領域、家庭の領域でも義を追い求めてゆくため、この世界に遣わされ、生かされているのです。

それでは、結婚を尊ぶとは具体的にどういうことでしょうか。神様が私たちの幸いのために定めた結婚から祝福を受けるには、どの様な結婚生活を送ればよいのでしょうか。

第一に、結婚関係の外にある異性、あるいは結婚前に異性と、行動においても、心においても姦淫を犯さない様つとめることです。性の賜物を新しい命を生み出すため、愛の交わりのため、そして夫と妻と言う関係の中でのみ用いることが、神様の祝福を受ける生き方であることを自覚したいと思います。

結婚前の男女は、ともに神様を第一として生きることを願う異性と結婚に導かれるよう祈ること、結婚している男女も単なる性的な欲求の発散ではなく、愛の交わりのために性の賜物を用いることができるように祈ることもお勧めしたいと思います。

結婚関係にあるからと言って、配偶者の人格を傷つけるような性の用い方は愛に背くことです。「夫婦生活を守るに際して、相手に対する配慮や礼儀正しさに心を用いない者は、姦淫を行う者である」。アンブロシウスと言う人のことばです。

第二に、思いやりと赦しを、夫婦関係を守る大切な帯とすることです。私たちが愛し,生涯を共にすると誓った人は、不完全な存在です。どの様な夫婦でも共に生活する中で、嫌なことを言われて傷つけられたり、相手の欠点や弱さにガッカリしたり、期待を裏切られるような行動をとられて怒ったりと言うことがあるように思います。

昨年カウンセリング研修会を行った際、講師の後藤先生が言われたことばで、心に残っているものがあります。それは、「日本人は情が深いと言う良い点もありますが、親子や夫婦の関係において、お互いを自分とは異なる人格の他人として見ることが苦手ではないでしょうか」ということばです。

確かに、第三者なら赦せることでも、これが自分の夫あるいは妻と言うことになると、「夫はこうあるべき」「妻はこうあるべき」という願いが強くあり、「どうしても我慢できない、赦せない」と感じ、相手を責めること、さばくことになりがちではないかと思います。

配偶者の欠点や失敗よりも、それに対して「絶対に赦せない」と心をかたくなにすることの方が、夫婦関係をはるかに損なうものです。イエス様も、離婚に至る理由は相手の失敗や欠点よりも、自分の側が心をかたくなにすることだと言われました。

相手の失敗に寛容な態度で対応することができるように。さばく人や裁判官になるのではなくて、相手が成長できる協力者、パートナーになれるように。一言で言えば、相手を責める前に、自分自身が夫として、妻として、霊的に成長するよう祈り、つとめることが大切ではないかと思います。

 

3:12~14「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」

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