2016年6月26日日曜日

マタイの福音書5章38節~42節「山上の説教(17)~右の頬を打つような者には~」


昔から、演劇、小説、映画などの格好のテーマとして取り上げられてきたものの一つに、復讐があります。例えば、アレクサンドル・デュマの「巌窟王」。無実の罪で投獄された主人公が脱獄して巨万の富を手にする。やがてモンテ・クリスト伯爵を名乗って自らを陥れた者たちの前に現れ、次々に復讐を果たしてゆく。子どもの頃、私も少年版「巌窟王」に夢中となり、主人公の活躍を手に汗握りながら応援していた。そんな思い出があります。

日本では、主君浅野内匠頭を苦しめた吉良上野介と吉良側に偏った判決を下した幕府に対し立ち上がった四十七士の仇討ち物語が、江戸時代から今に至るまで人々の共感を呼び、毎年年末になるとテレビに登場してきます。

不当な苦しみを受けた者が立ち上がり、悪者を倒してゆく。理不尽な仕打ちを受けた者が、仇を討つ。復讐物語の主人公たちが人気を博す理由は、正義が廃れ悪がはびこる、弱者が踏みつけにされ強者が奢る、そんな不公平極まりない世の中に対する不満解消。溜飲が下がる。平たく言えば心がスカッとすると言うことがあるように思われます。これはこれで理解できます。しかし、同時に、悪者に対して復讐心を抱くのは当然とされ、個人的な復讐が正当化されるとしたら、この世界は何と恐ろしい場所になる事かとも思われます。

復讐心と言えば大げさな気もしますが、兄弟喧嘩に親子喧嘩、夫婦喧嘩。地域、職場、学校における隣人、同僚、仲間との争い。子どもも大人も老人も、男も女も、言われたら言い返す、やられたらやり返す。自分はそうしたいし、そうする権利がある。小から大まで復讐心は至る所に見られ、あらゆる世代に共通する心の病と考えられます。

今日の個所で、イエス様が扱っているのは誰の心にも宿っている復讐心の問題でした。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて17回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、八福の教えで始まっています。ここには、イエス様を信じる者が受け取る八つの祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと。イエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。

続く段落では「あなたがたは地の塩、世の光」と語り、私たち天の御国の民は、この世の腐敗を防止する塩、神様のすばらしさを現す光として生きる使命があることを教えられます。

次に天の御国の民にふさわしい義、義しい生き方とは何かについて、イエス様は教え始めました。最初は「殺してはならない」と言う十戒の第六戒、二番目は「姦淫してはならない」と言う第七戒、先回は「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う第三戒に込められた神様のみこころを、説き明かされたのです。

そして、今日の個所では十戒と同じく旧約聖書に定められた律法、「目には目で、歯には歯で」に込められた神様のみこころを教えておられます。これまでの三つと同じく、この律法も律法学者やパリサイ人によって真の意味が歪められていたからです。今日は主に38節39節を取り上げ、私たち天の御国の民の生き方を考えてゆきたいと思います。

 

5:38,39「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」

 

「目には目を、歯には歯を」という律法は、旧約聖書に三回登場します。それは、自分が受けた傷に対して、度を越した怒りを抱き、仕返しを行うと言う風潮がイスラエルの社会を覆っていたことに対し、みこころを痛めた神様が定めたものでした。つまり、神様に背いて生きる人間が生まれつき本能として持っている激しい怒り、仕返ししたいと言う復讐心を制限、抑制することを目的としたものだったのです。

また、この律法は元々裁判官の立場にある者が判決を下す際の基準でした。目が傷つけたなら目まで、歯を傷つけられたら歯までとし、罪と刑罰のバランスを重んじると言う公平の精神を主旨としていたのです。実際には、文字通り目や歯が取られることはなく、金銭による償いが代わりに行われていたと言われます。

しかし、イエス様の時代、人々から尊敬される律法学者、パリサイ人は、これを自分に対して危害を加えた隣人に対する個人的復讐の承認と考え、そう人々にも教えていたのです。

神様のみこころは、人間の中にある「やられたらやり返す」と言う本能や態度を抑制することにありました。それなのに、人々はやられたらやり返す、傷つけられたら傷つけ返す権利があると考え、復讐心とそれに伴う自分の態度や行動を当然のこととしたのです。神様の願いとは正反対の方向にこの律法を捻じ曲げてしまったわけです。

それに対しイエス様は、「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません」と説いています。このことばも誤解されてきました。

この教えを社会制度にまで広げ、自分の領地で実行しようとしたのがロシアの文豪トルストイです。トルストイは、国が持っている軍隊、警察、裁判所など悪を行う者を懲らしめ、罰する制度を廃止し、理想社会を実現しようと考えました。

しかし、聖書はこの社会が罪人からなると言う現実を無視していません。国家や為政者の存在を認め、彼らには社会の秩序を保ち、弱い者、正しい者を悪から守る責任があると教えています。

イエス様が文字通り頬を打たれた場面が、聖書に登場します。十字架につく前、大祭司から尋問を受けた際、大祭司に尋ねたことが反抗的な態度とみなされ、役人に平手打ちにあいました。それに対して、イエス様は「もしわたしの言ったこと(質問)が悪いのなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか」と言って、抗議しています(ヨハネ18:23)。

また、使徒パウロも自分に鞭を当てようとしたローマ人の百人隊長に向かい、「ローマ市民である者を、裁判にもかけず、鞭打ってよいのですか」と訴え、堂々と抵抗しました(使徒22:25)。イエス様もパウロも正義のために抵抗し、戦っていたのです。

ですから、ここでイエス様が問題にされているのは、国家や社会制度のことではありません。人から侮辱的なことを言われたり、されたりした場合、私たちが示す態度や行いはどのようなものか。その心にあるものは何かでした。「あなたの右の頬を打つ様な者には…」「あなたを告訴して下着をとろうとする者には…」「あなたに一ミリオン行けと強いる様な者には…」。あなたの、あなたを、あなたに、と天の御国の民、キリストの弟子が、個人としてとるべき態度を、当時の人々に身近な例を用い教えておられるのです。

それでは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とは、何を意味するのでしょうか。当時、ユダヤ人の社会では、手の甲で人の頬を打つことは侮辱の中でも最大の侮辱とみなされていました。その様なことをした者には、重い罰金が科されたと言う記録もあります。ですから、人々はその様な侮辱を受けたら、自分には重い罰金を請求する当然の権利がある、と考えていたでしょう。

しかし、イエス様は人々が常識と考えていた権利を放棄するようにと語るのです。怒りや復讐心に駆られて行動することは天の御国の民にはふさわしくないと言われるのです。私たちにふさわしいのは、侮辱的な言動をなした人に愛をもって応答することと教えています。

イギリスにビリー・ブレイと言う有名な伝道者がいました。ブレイはイエス様を信じる前は怒りっぽく乱暴な人で喧嘩太郎と呼ばれていたそうです。ブレイのことを怖がり憎んでいた一人の男がブレイが改心したことを知り、仕返しをするチャンスと考え、彼のもとにやってきました。ある日、仕事場で男は何の理由もないのに、ブレイを殴りつけたのです。

ブレイにとっては、男を地面にたたきのめすぐらいはほんの朝飯前のこと。しかし、彼はそうする代わりに、相手を見つめ「私があなたを赦すように、神様があなたを赦してくださるように」と答え、その場を去っていったのです。

この出来事が、男の人生を変えました。男は、ブレイがしようと思えば何ができるかを知っていました。以前のブレイだったら、苦も無く自分を叩きのめすことができたのに何もせず、そればかりか、自分を赦し自分のために祈ってくれたブレイの行動の奥に、神様がいることを感じたのです。

皆様はどうでしょうか。反抗的な子どもの態度に腹を立て、大声で怒鳴ってしまったことはないでしょうか。配偶者の無責任な行動に怒る余り、これからは一切自分から愛情を示すことはすまいと決心し、心を閉ざしたことはないでしょうか。身勝手な隣人の振る舞いに堪忍袋の緒が切れて、その行動を責め立て、対立関係に陥ってしまったことはないでしょうか。そして、その様な場合、非は相手にあるのだから自分の怒りや態度に問題なし、と考えてはこなかったでしょうか。

大声で怒鳴る。心を閉ざす。相手を無視する、感情的に責める。どれも、怒りに駆られて私たちが行う復讐、報復です。しかし、特に相手に問題がある場合、自分の怒りや態度を正当化しがちです。向こうが無責任なのだから、こちらも無責任になって何が悪いと考えるのです。そんな相手を忍耐し、愛する責任は自分にはないと考えたくなるのです。

 しかし、イエス様は違う見方をなさいます。右の頬を打つ様な者には、左の頬を向けよ。つまり、たとえ問題を引き起こしたのが相手であろうとも、あなたの方から愛をもって応答せよと言われるのです。

 私たちにとって、このことばは非常にハードルが高いと感じられます。しかし、イエス様はその十字架の死によって私たちにそれを為す力、自由を与えて下さったと聖書は教えています。今日の聖句です。

 

 ガラテヤ5:13、15「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。…もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

 

 右の頬を打たれるような侮辱的なこと、嫌なことをされたり、言われたりする時、私たちの中には傷つけられたと言う思い、悔しさや怒りが涌いてきます。それを相手にぶつけて一言言わねば気が済まないとか、責めるとか、心を閉ざすと言う態度や行い。それは、一見自分を守ることのように見えます。しかし、実はその様な時、私たちは悔しさや怒りに支配されており、愛する自由を失っている。怒りと復讐心の奴隷と言う悲惨な状態にあるのです。聖書はそれを肉の働きつまり罪の働きと呼んでいました。

 もし、私たちが悔しさや怒りに支配されたまま行動するなら、聖書はこれを「互いに噛み合ったり、食い合ったりしているなら」と表現していますが、夫婦関係も親子関係も隣人関係も、教会の交わりも滅びてしまう、破壊されてしまうと警告されています。

しかし、イエス様は十字架で罪を贖い、私たちを悔しさや怒りの支配から解放し、愛をもって人に仕える自由を与えて下さいました。天の御国の民としての自由、神の子としての自由です。

 皆様は、神様がイエス・キリストによって、私たちにこの様な自由を与えて下さったことを信じ、受け入れているでしょうか。この自由を、実際の生活の中で味わうことができているでしょうか。

 最後に、天の御国の民としての自由、神の子としての自由を味わう歩みを進めるために、二つのことをお勧めしたいと思います。

 ひとつ目は、自分が抱えている悔しさや怒りについて話すことのできる信仰の友と交わることです。一般的に、怒りのパワーは内側にため込んでいると増大し、信頼できる人に話をすることで半減すると言われます。

自分を認め、受け入れてくれる人に話をすることで、私たちの心は整理されてゆきます。あれ程怒ったのは何に傷ついたからなのか。相手の言動について誤解や思い込みはないか。そもそも自分は相手に何を求め、何を伝えたかったのか。冷静に振り返ることができます。

自分のために祈ってもらったり、アドバイスを求めたりすることも良いと思います。悔しさや怒りを自分一人で抱え込まないこと。信仰の友に助けを求めることをお勧めします。

二つ目は、神様の愛を受け取り、安らう時間を取ることです。悔しさや怒りを感じる相手から、私たちは安心を受け取ることはできません。しかし、苦しみと葛藤の中で神様に向かい、神様の愛を受け取る時、自分がどれほど大切な存在であるかを知り、安心できるのです。

神様から頂く愛と安心は私たちの力の源です。難しい相手に対して愛をもって応答するにはどうしたら良いかを考え、それを実践する歩みへと私たちを導き、励ましてくれます。その際、農夫の心で自由と言う種を育ててゆくことをお勧めしたいと思います。悔しさや怒りから解放され、愛をもって応答する自由は、徐々にゆっくりと私たちの内に育ってゆきます。すぐに芽が出る訳でも,実がなる訳でもないのです。

農夫は種を撒いたからと言って、すぐに芽が出る実がなるとは思っていません。自分の力だけで作物を育てることができないことを知っています。しかし、芽が出る時、実がなる時が来ることを知っています。その時まで根気よく日々育てる仕事を続けてゆくのです。

私たちも自分の力だけで与えられた自由を育てることはできません。神様に信頼し、信仰の友と交わり、日々神さまのみこころは何かを考え、取り組んでゆくのです。神様が寛容、忍耐、親切などの芽をだし、実を結ばせてくださる時を待つのです。一度や二度やってみて上手くゆかなくとも失望しない。急がず、焦らず、日々神様に信頼し、自分の最善を尽くす。

私たちがみな、イエス様が血を持て贖い、与えて下さった尊い自由を味わうことができるように、愛をもって互いに応答する教会となれるように、日々の歩みを進めてゆきたく思います。

 

2016年6月12日日曜日

マタイの福音書5章33節~37節「山上の説教(16)~偽りを捨て、真実を語れ~」


「人間と他の動物の違いは何か」と言う問いに対して、よく言われてきたことの一つに「人間だけがことばを使うことができる」と言うものがあります。しかし、今では、よく知られていることですが、イルカやクジラの群れは会話をしていると言われ、鳴き声の意味の分析も進められています。

けれども、人間ほど多種多様な方法で、様々な思いをことばにして表現できる動物はいないのではないか。つまり、ことばの多様さ、表現能力と言う点で人間は他の動物に抜きんでていると言うこと。これもまた広く認められているようです。

人を励まし、勇気づけることば。人をがっかりさせることば。人を慰め、癒すことば。人を傷つけ、絶望に追いやることば。ことばの影響力は非常に大きなものです。旧約聖書の箴言は、ことばの用い方とその影響について教えていますが、数ある格言の中に、この様なものがあります。

 

箴言1624「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。」

 

親切なことばを蜂蜜に譬えたこの格言は、いかに親切なことばがそれを聞いた人の心を喜ばせ、健康をもたらすかを印象的に描いています。しかし、いかに親切なことばでもそこに語る人の真実がこもっていなければ嘘、偽りとなります。

皆様は、有名なシェークスピアのリア王をご存じでしょうか。年老いたリア王が三人の娘に王国を譲り、王の仕事から引退したいと考えます。王は心の中では既に娘たちに分け与える領地を決めていました。

しかし、年老いて我儘になっていたリア王は最高の敬愛を受けたいと考え、三人の娘たちの愛情を試そうとします。長女と次女は巧みなことばで父親への愛を表現しますが、率直正直な三女は見え透いた方法で愛を図ろうとする父親をあわれみ、応えることを拒否。腹を立てた父親に国外へ追放されてしまいます。

案の定、残された娘たちの家で暮らすリア王は、耄碌した老人、厄介者と見なされ、冷たく扱われました。遂には彼女たちの策略によって国を追われると、正気を失い、野原をさまよう乞食となり果てたのです。やがて、隣国の王に嫁いだ正直者の末娘に助けられ、共に領地を回復すべく戦いますが、二人を待っていたのは戦死と言う運命であったと言う悲劇です。

本心を偽り、巧みに親切なことばを語る偽り者が得をし、正直者が馬鹿を見る。残念ながら、現代でもどこかの家、学校、会社で、同じようなことが起きているでしょう。

「巧言令色少なし仁」とも言われます。巧みにことばを使い良いことを語っても、心に真実がなければ意味がないと言う戒め、あるいは、ことば巧みな人ほど、心に真実が乏しいので注意せよと言う警告、とも取れます。

神様が私たちに与えて下さったことばと言う賜物。本来なら、それを用いて人を喜ばせ、人を慰め、人の徳をたて、神様と親しい関係をつくるべきことばを悪用乱用して、嘘偽りのはびこる社会にしてしまった人間。この様な罪の現実を踏まえつつ、イエス様が真実なことばを語るよう勧めているのが、今日の個所となります。

さて、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて16回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、八福の教えで始まっています。ここには、イエス様を信じる者が受け取る様々な祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと、私たちイエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。

続く段落では、「あなたがたは地の塩、世の光」とイエス様は語りました。私たちはその生き方を通して、この世の腐敗を防止する塩、神様のすばらしさを現す光となる使命があることを教えられたのです。

次に天の御国の民にふさわしい義、義しい生き方とは何かについて、イエス様は教え始めました。最初は「殺してはならない」と言う十戒の第六戒、二番目は「姦淫してはならない」と言う第七戒について真の意味を説明されたのです。

そして、今日の個所では「「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う第三戒に込められた神様のみこころを、説き明かしておられます。

 

5:33、34a「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。」

 

皆様ご存じの様に、キリスト教結婚式には必ず誓約と言うプログラムがあります。「~兄弟・姉妹。あなたはこの兄弟・姉妹と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、堅く節操を守ることを約束しますか」。私たち夫婦も31年前、お互いに誓約をかわしました。「約束します」と答えた時の緊張感は今でも心に残っています。

ところが、ここでイエス様は「決して誓ってはいけません」と語り、一切の誓い、誓約そのものを禁じているように見えます。事実、フレンド派と呼ばれるキリスト者たちはたとえ法廷の場に立とうとも、一切誓約しないと言う立場をとっています。

しかし、聖書は、偽って誓うなと戒めてはいますが、誓いそのものを禁じてはいません。むしろ、誓約する際の心得について教えているのです。

 

申命記23:21~23「あなたの神、【主】に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、【主】は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、【主】に誓願したとおりに行わなければならない。」

 

実際、旧約聖書では、ダビデとヨナタンが主によって友情の誓いを交しています。新約聖書でもパウロが兄弟姉妹に対し、自分の行いが愛から出たものであることを神によって誓約していました。イエス様も裁判の席においてご自分が神の御子、キリストであることを誓約されました。

と言うことは、ここで禁じられているのは主の御名によって誓うこと自体ではなく、本当に実行するつもりのない誓約やみだりに主の御名を用いて誓うこと、誓約の悪用乱用が禁じられていると考えられます。イエス様が敢えて「決して誓うなかれ」と誇張的で、強い表現を使われたのは、嘘偽りが横行する人間社会に深く心を痛めておられたからに他なりません。

実際、当時の律法学者やパリサイ人は誓いに関する律法を形骸化していました。人々が神様の前における心の真実を気にかけなくてもよいものにしてしまったのです。

具体的には、ありもしないこと、思ってもいないことさえ誓わなければ大丈夫と考えていたようです。ですから、人々は些細なことでも主の御名で誓約をしたり、真剣に実行する思いがあるかどうかを考えずに誓う。その様な軽々しい誓約を罪と意識することなく、繰り返すことができたのです。

誓う必要がないこと、誓うべきでないことに主の御名を使うことで、人々は神様の前における心の真実を意識すること、考えることがなくなっていったのです。

明治時代の代表的クリスチャン内村鑑三は、キリスト教信仰を深め、聖書を学ぶため、キリスト教国アメリカへと心躍らせ渡りました。しかし、彼はそこで大きなショックを受けました。キリスト教国アメリカで、主の御名がみだりに使われ、軽んじられていたからです。

思いもかけず嫌なことが起こると、「何ていうこった。こんちきしょう」と言う思いを込めて、「Oh my God」や「Jesus」を乱発する人々。日常生活の些細なことでも「Iswear God」、神かけて誓うと口にする人々。これが世界一のキリスト教国かと失望したと書いています。

主の御名を乱発したり、軽々しく誓うことを自戒する。これは、ユダヤの昔も今も、アメリカでも日本でも、イエス様を信じる者が皆心に留めるべきことではないかと思います。

さらに、イエス様の時代のユダヤ人たちには、もう一つの問題がありました。それは、誓いを、絶対に果たさなければならないものとそうでないものとに区別分類したことです。そうした誓いの内、いくつかの例が挙げられています。

 

5:34b~36「すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」

 

主の御名を口にした誓約は絶対に実行しなければならない。しかし、主の御名を避けて、天、地、都エルサレム、自分の頭など、他のものをさして誓約するなら、絶対的な義務はない、守ることができなくても仕方がないと律法学者やパリサイ人は考え、人々にも教えていたのです。ことばを巧みに整えることで、抜け道を作ったと言うわけです。

しかし、イエス様はそれを見逃しませんでした。主の御名を用いようが用いまいが、誓いは神様の前になされる厳粛なもの。天は神の御座、地は神の足台、エルサレムは偉大な王つまり神の都、あなた方の頭も神のもの。だから何を指して誓おうとも、逃げ道にはならないと迫り、人々の言いのがれ、言い訳を封じたのです。

私たちは、当時のユダヤ人の様に頻繁に誓うことはないかもしれません。しかし、誓約とは言わなくとも、人と交わす約束も神様に対する誓約です。天の御国の民とは神様の前に生きる者ですから、どのようなことであれ良く祈り、よく考え、約束誓約する者でありたいと思います。約束誓約したことは誠実に実行できるよう、神様に助けていただく信仰も必要ではないかと思います。

そして、神様の聖なる目は、誓約約束に限らず、日常生活で私たちが交わすことばの真実にも向けられていると、イエス様は語るのです。

 

5:37「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」

 

私たちは、政治家や官僚が国会などで証言する時、それが真実かどうかを非常に気にします。それが虚偽だと分かった時、非常に強く非難します。しかし、夫と妻、親と子の間のことばの真実を同じ様に大切にしているでしょうか。その様な関係の中に嘘が混じる時、親しい関係が一瞬に、あるいは徐々に壊れてしまうことがありうることを考えているでしょうか。

また、日常会話の中で、自分に都合のよい面だけを強調したりすることはないでしょうか。「みんな」「いつも」「誰もが」「絶対に」「当たり前」等と言う誇張したことばを使って、自分の主張を押し通すため、何パーセントかの嘘を混ぜていることはないでしょうか。

「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。イエス様のことばは、私たちの中に宿るこの様な罪の性質にも光を当てているように思われます。

神様にことばの賜物を与えられた人間が、これを悪用乱用している姿は、聖書の中にも登場します。イエス様を死刑にするための裁判で、ユダヤ教指導者が招集した証人たちは皆嘘の証言を行いました。いかにも正義の人らしく振る舞い、偽りの証言でイエス様を糾弾したのです。

その時、裁判所の庭では、「あなたも、あのイエスの弟子ですね」と尋ねられた弟子のペテロが恐れの心に捕らわれて、「私はイエスなど知らない。何の関係もない」と三度嘘の誓いを立てていました。イエス様から警告されていたにもかかわらず、「主よ。たとえほかの弟子が全部離れても、私はどこまでもあなたに従います」と堅く誓ってから、僅か半日後の出来事です。

また、キリスト復活後に建てられたエルサレム教会では、一時期兄弟姉妹がお互いの財産を持ち寄って貧しい者を助けると言う共同生活が行われていました。財産をささげるかささげないか、またささげるとすれば、どれだけささげるかは本人の自由であったのに、虚栄心にかられたアナニヤとサッピラ夫婦は、実際よりも多くをささげたと虚偽の申請をし、その途端その場に倒れ、息を引き取ったと聖書にあります。

裁判に出席した虚偽の証人たちは、イエス様に不当な苦しみをもたらしました。弟子のペテロは、祈りも熟慮もなく口にした誓約を破ってしまった自分を恥じ、責めました。アナニヤとサッピラ夫婦の偽りは、彼らの身に神様のさばきをもたらしました。

偽りの証言、軽々しい誓い、誇張された嘘。それは他の人の人生に、本人の人生に、また神様との関係にも大きな影響をもたらすことを、私たちは教えられます。

神様は私たちの口にするあらゆることばを見ておられる。意図的な嘘も、少しぼやかした嘘や故意に誇張したことばも聞いておられる。ことばにはならない私たちの思いも見通しておられる。公の場であれ、家庭であれ、友人隣人との会話であれ、私たちのどんな言葉も、この神様の前で口にすると言うことを心に留めながら生活をする者でありたいと思います。今日の聖句です。

 

エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」

2016年6月5日日曜日

マタイの福音書5章27節~32節「山上の説教(15)~恋愛の勧め~」


私たち夫婦は31年前、私が神学校2年時の3月結婚しました。背中を押してくれたのは教会の牧師です。「牧師になるなら、結婚していた方が良い。できれば子どもがいたらもっと良い。交際している女性がいるなら早く結婚しろ」と勧められた、と言うより命じられました。

しかし、このことばが、何となくプロポーズのタイミングを掴めないまま交際を続けていた私の背中を押し、妻の家に行き結婚の承諾を得ることができたのです。けれども、神学校の校長先生に「3月ごろの結婚を考えています」と報告をしたら、「山崎君、3年生には卒論もあるのに、結婚なんかして学びに集中できるんですか」と言われ困ってしまいました。

尊敬する二人の恩師のうち、一人は在学中に結婚せよと言い、もう一人は在学中の結婚はいかがなものかと反対の意見。板挟みになった私は悩みました。

尤も校長先生が反対した背景には、当時家族寮が一杯で、結婚しても入る部屋がないという問題のあったことが分かりました。幸いにして私たちと同時期に家族持ちの神学生が二組入学することになり、学校としては急場凌ぎですが、古い男子寮を家族部屋に改装せざるを得なくなったのです。お蔭で、私たちは普通の家族寮の家賃の3分の一の値段で生活できると言う恵みを受けることができました。

結婚前、二人の恩師が助言をしてくれたのですが、今でも覚えていることばがあります。牧師は「どんなに安くても良いから結婚指輪を送ること、どんなに近くてもいいから必ず新婚旅行に行くこと。女性は愛情が目に見えないと納得しないから」と勧めてくれました。非常に分かりやすく、実行可能なアドバイスです。

他方、首を捻ったのは校長先生のアドバイスです。校長先生は「山崎君、結婚したら奥さんと真剣に恋愛しなければいけませんよ」と勧めてくれました。当時の私には「?」と言う感じの勧めです。

それまで、信仰の先輩からは「クリスチャンが交際するなら、結婚を前提に神様の前に真剣にしないといけない」とは聞いていました。しかし、同時に「楽しいのは結婚まで。一緒に生活するって大変だ」とか、「恋愛は結婚まで。結婚生活は戦いだよ」等と聞いていたからです。

一般的には「結婚は恋愛の墓場」とか、俗な表現ですが「釣った魚にエサはやらない」等、恋愛と結婚は別と考えられています。クリスチャンの結婚もそういう意味では一般の結婚と変わらないのかと、その頃は考えていたわけです。

しかし、今回山上の説教で、イエス様による姦淫の禁止と離婚についての律法に関する教えを読むうちに、ことばとして明確に語られてはいるわけではありませんが、ここにイエス恋愛の勧めがある。特に、神様が定めてくださった一人の人と、生涯をかけて真剣に恋愛することを、イエス様は私たちに願い、勧めておられるのではないかと思ったのです。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で15回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、イエス様を信じる者の姿を八つの面から描いた八福の教えで始まっています。ここには、イエス・キリストを信じる人が受け取る様々な祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと、イエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。

そして、今日の個所は、天の御国の民に神様が与えて下さる義、正しい生き方を教える段落で、それをイエス様は性と結婚と言う面から扱っておられます。既にこの個所を二度扱ってきましたが、前半と後半に分けてもう一度ポイントを確認したいと思います。

先ずは前半。姦淫を禁じる律法についてです。

 

5:27~30「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

当時、律法学者やパリサイ人は実際に結婚相手以外の異性と性的な関係を持たなければ、この律法を守っていると考えていました。それに対し、イエス様は情欲、性的な欲求をもって異性を見ること、異性に接することを姦淫とし、心の中でも、行いにおいても姦淫を犯さぬよう命じています。

イエス様の教えは性を汚れたことみなし、これを恥じたり、禁止したりする禁欲主義でも、性的な欲求を思いのまま満たそうとする快楽主義でもありませんでした。むしろ、「右の目、右の手が罪に誘うなら、それを捨てよ、それを切り落とせ」と言う、誇張された非常に強い表現で、神様が私たちに与えて下さった性の賜物を正しく管理すること、自制することを教えられたのです。後半は、離婚に関する律法についての教えです。

 

5:31、32「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」

 

旧約聖書の昔も、イエス様の時代も、ユダヤ人の社会は男性優位、男尊女卑の風潮が色濃く、女性は社会的弱者の立場にありました。その様な中、男性の側の身勝手な理由による離婚を抑制し、女性を守るために定められた離婚の律法が、イエス様の時代には本来の目的が歪められ、むしろ人々は離婚状さえ渡せば罪にならぬと考え、安易で身勝手な離婚が横行していたらしいのです。それに対して、イエス様は本来不貞以外の理由で妻を離婚することは許されないとし、結婚を尊ぶよう命じていました。

神様が与えて下さった性の賜物を正しく管理し、結婚関係中でそれを用いること。不貞以外の理由で離婚しないこと。これが神様のみこころと確認できるところです。

しかし、です。離婚しないことが神様のみこころであるとしても、離婚さえしなければ良いのでしょうか。実際に離婚しなければ、私たちの結婚生活は神様のみこころに従っていると言えるでしょうか。そもそも神様が結婚の制度を定めたのは、何の為だったのでしょうか。

神様のみこころは、離婚せず結婚を続けると言う消極的なことで終わるものではありません。私たちに対する神様の目的はもっと積極的なもの。長老教会の式文には「結婚は、神がその栄光を表すため、また、人類の幸福のため、この世の初めから定めたもの」と表現されていました。

たとえて言うなら、お母さんが自分の子どものために可愛い人形を作ってあげたとします。その子どもが人形を大切にせず、すぐに壊してしまうことは、お母さんの思いに反することです。けれども、お人形を作ってあげたお母さんの第一の願いは、子どもが人形を壊さないようにすることにある訳ではありません。その人形を喜び、その人形で思いっきり遊び、お母さんに感謝し、お母さんとの関係を深めることにあります。

果たして、私たちは結婚関係を喜び、楽しんでいるでしょうか。私たちの結婚生活は、神様のすばらしさ、神様の愛を表しているでしょうか。これこそが、私たちに性の賜物を与え、人生の伴侶を与えてくださった神様のみこころであること。心の思いにおいても、行いにおいても姦淫せぬように、不貞以外の理由で離婚せぬようにイエス様が強く戒めた真の理由であることを確認したいと思います。

それでは、結婚関係を喜び、結婚生活を通して神様のすばらしさを表すために、私たちはどうすればよいのでしょうか。

 

エペソ5:21「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」

 

エペソ人への手紙の中で、著者パウロが結婚について教える段落の最初に、このことばが登場します。「互いに従いなさい」とは、私たちが夫であれ妻であれ、自分のためではなく相手のために生きることを意味しています。

聖書の他の個所では、しもべとなれと言うことばで表現されています。しもべには主人がいます。宗教改革者ルターの奥さんはケーテと言う名前でした。ルターは「ケーテよ。あなたはあなたを愛する夫を持つ。あなたは女王、私はそのしもべである」と言ったそうです。

ルターの時代のヨーロッパでも、新約聖書の時代でも、これは非常に過激で革命的な考え方であったと思われます。妻が夫に従う、妻が夫のしもべと考える人は多くても、夫が妻に従うべきしもべと考える人は少なかったでしょう。

聖書が「従う」とか「しもべ」と言う時、大切な点は、私たちが相手の必要や関心を、自分の必要や関心よりも優先すると言う点にあります。

夫婦二人で一日を過ごす時、どちらの願いを優先し、どちらが譲るのかと言うことが問題になります。夫が仕事から帰った時、夫には家事育児で疲れた妻を休ませるか、自分の食事の支度をさせるか。妻には仕事帰りの夫のために食事を整えるか、夫にそれをやってもらって自分が休むか。それが問題になることもあるでしょう。あるいは、子育てや大きな買い物をする際、二人の考え方が違い、どちらかに決めねばならない時もあるでしょう。

その様な場合、皆様はどうするでしょうか。どうしてきたでしょうか。喜んで相手を優先しようとする。相手を優先するけれども、嫌々ながらする。あくまでも自分を優先する。三つのパターンがあると思いますが、どれが一番難しく感じるでしょうか。多くの人は一番目の行動を最も難しく感じるのではないでしょうか。

結婚生活を重ねる中、私が教えられた真理で最も認めなくないのは、いかに自分が自己中心な人間か、日々その現実を突きつけられることです。自己中心の私は、夫として自分優先が当然と考えます。相手が拒んでも自分の考え方を譲りたくありません。仮に相手を優先しても、渋々で嫌々。余程の事がない限り、喜んで相手を優先しようなどとは考えない者です。

しかし、聖書は真剣に恋愛するとは従うこと、相手の関心や必要を優先することと教えています。そして、聖書は私たちには自ら進んでしもべになる思いも力もないこと、しかし、イエス・キリストを恐れ、尊ぶなら、それができると教えているのです。

ここで言う「恐れ、尊ぶ」というのは怖がると言うことではありません。私たちが、キリストの十字架において表された神様の愛に圧倒され、心満たされた状態を意味しています。

自己中心で、罪深い私のためにキリストが十字架で死んでくださったこと。キリストがご自分よりも私のこと、私の罪の赦しを優先して喜んで命をささげるほど、私は深く愛され、価値があること。キリストによって私は父なる神様に愛され、神様と平和な関係にあること。  この様な愛を心に受けとる時、私たちは自己中心の性質から解放され、進んで相手の必要や関心を優先することができるようになるのです。

もし、愛されているという実感や自分の存在価値を、結婚相手が自分の必要や関心を満たしてくれることにのみより頼んでいるなら、相手に失望させられた途端、私たちは傷つきます。相手を怒り、責めて、結婚生活を壊してしまいかねません。

逆に、神様の計り知れない愛が心に十分蓄えられているなら、たとえ、相手から愛情や優しさを感じられないとしても、相手を怒り責めることを止め、寛容になれるのです。自己中心の言動に気がついたら、まず神様のところに行き、神様の愛を受け取り、その愛に心満たされること。その上でしもべとしての言葉や態度を選び、実行することをお勧めします。

 二つ目は、愛を表現することです。今、礼拝で大竹先生が一書説教をしておられます。何か月か前、旧約聖書の雅歌が取り上げられました。皆様はもう読みましたでしょうか。もし、まだと言う方がいたら、ぜひ読んでみてください。雅歌は、聖書の中でも非常に珍しく、全体が男女の恋愛を描く問答歌となっています。

 雅歌を読んで教えられることの一つは、愛とは単なる感情ではなく、それをことばやや行動によってあらわそうと努力することだと言うことです。

 一般に、私たちは誰かと親しくなればなるほど、愛情や友情を表すことにおいて怠慢になりがちです。多くの場合、交際や結婚生活の始めの頃は、男女は互いへの愛を表わすことに一生懸命です。しかし、結婚生活が進むにつれ、どちらかがあるいは双方が、愛を表現したり、与えたりすることに努力しなくなります。好もしいと言う感情が落ち着きあるいは冷えて、お互いに相手の存在や行動を当たり前と思う思う状態におさまってしまうのです。

 しかし、結婚して何年何十年たとうが、私たちの中には消すことのできない必要が存在し続けます。愛されたい、認められたい、尊敬されたい、感謝されたいと言う魂の必要です。雅歌には、結婚関係にある男女が非常に親密な表現で、愛情や尊敬や感謝や願いを、相手の心に届けるよう努めている姿が描かれています。

 勿論、雅歌は古代イスラエルの文化の中で書かれたものですから、直接使える表現はあまり見当たりません。しかし、私たちは私たちなりに、相手の心に届くようなことばや行動を考え、実践してゆきたいのです。夫婦だからこそできる真剣な恋愛をすること、相手がどのような状態にあっても、日々愛を具体的に表すことを心で意識しつつ、生活する者でありたいと思います。今日の聖句です。

 

 Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」