私たち夫婦は31年前、私が神学校2年時の3月結婚しました。背中を押してくれたのは教会の牧師です。「牧師になるなら、結婚していた方が良い。できれば子どもがいたらもっと良い。交際している女性がいるなら早く結婚しろ」と勧められた、と言うより命じられました。
しかし、このことばが、何となくプロポーズのタイミングを掴めないまま交際を続けていた私の背中を押し、妻の家に行き結婚の承諾を得ることができたのです。けれども、神学校の校長先生に「3月ごろの結婚を考えています」と報告をしたら、「山崎君、3年生には卒論もあるのに、結婚なんかして学びに集中できるんですか」と言われ困ってしまいました。
尊敬する二人の恩師のうち、一人は在学中に結婚せよと言い、もう一人は在学中の結婚はいかがなものかと反対の意見。板挟みになった私は悩みました。
尤も校長先生が反対した背景には、当時家族寮が一杯で、結婚しても入る部屋がないという問題のあったことが分かりました。幸いにして私たちと同時期に家族持ちの神学生が二組入学することになり、学校としては急場凌ぎですが、古い男子寮を家族部屋に改装せざるを得なくなったのです。お蔭で、私たちは普通の家族寮の家賃の3分の一の値段で生活できると言う恵みを受けることができました。
結婚前、二人の恩師が助言をしてくれたのですが、今でも覚えていることばがあります。牧師は「どんなに安くても良いから結婚指輪を送ること、どんなに近くてもいいから必ず新婚旅行に行くこと。女性は愛情が目に見えないと納得しないから」と勧めてくれました。非常に分かりやすく、実行可能なアドバイスです。
他方、首を捻ったのは校長先生のアドバイスです。校長先生は「山崎君、結婚したら奥さんと真剣に恋愛しなければいけませんよ」と勧めてくれました。当時の私には「?」と言う感じの勧めです。
それまで、信仰の先輩からは「クリスチャンが交際するなら、結婚を前提に神様の前に真剣にしないといけない」とは聞いていました。しかし、同時に「楽しいのは結婚まで。一緒に生活するって大変だ」とか、「恋愛は結婚まで。結婚生活は戦いだよ」等と聞いていたからです。
一般的には「結婚は恋愛の墓場」とか、俗な表現ですが「釣った魚にエサはやらない」等、恋愛と結婚は別と考えられています。クリスチャンの結婚もそういう意味では一般の結婚と変わらないのかと、その頃は考えていたわけです。
しかし、今回山上の説教で、イエス様による姦淫の禁止と離婚についての律法に関する教えを読むうちに、ことばとして明確に語られてはいるわけではありませんが、ここにイエス恋愛の勧めがある。特に、神様が定めてくださった一人の人と、生涯をかけて真剣に恋愛することを、イエス様は私たちに願い、勧めておられるのではないかと思ったのです。
イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で15回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、イエス様を信じる者の姿を八つの面から描いた八福の教えで始まっています。ここには、イエス・キリストを信じる人が受け取る様々な祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと、イエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。
そして、今日の個所は、天の御国の民に神様が与えて下さる義、正しい生き方を教える段落で、それをイエス様は性と結婚と言う面から扱っておられます。既にこの個所を二度扱ってきましたが、前半と後半に分けてもう一度ポイントを確認したいと思います。
先ずは前半。姦淫を禁じる律法についてです。
5:27~30「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」
当時、律法学者やパリサイ人は実際に結婚相手以外の異性と性的な関係を持たなければ、この律法を守っていると考えていました。それに対し、イエス様は情欲、性的な欲求をもって異性を見ること、異性に接することを姦淫とし、心の中でも、行いにおいても姦淫を犯さぬよう命じています。
イエス様の教えは性を汚れたことみなし、これを恥じたり、禁止したりする禁欲主義でも、性的な欲求を思いのまま満たそうとする快楽主義でもありませんでした。むしろ、「右の目、右の手が罪に誘うなら、それを捨てよ、それを切り落とせ」と言う、誇張された非常に強い表現で、神様が私たちに与えて下さった性の賜物を正しく管理すること、自制することを教えられたのです。後半は、離婚に関する律法についての教えです。
5:31、32「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」
旧約聖書の昔も、イエス様の時代も、ユダヤ人の社会は男性優位、男尊女卑の風潮が色濃く、女性は社会的弱者の立場にありました。その様な中、男性の側の身勝手な理由による離婚を抑制し、女性を守るために定められた離婚の律法が、イエス様の時代には本来の目的が歪められ、むしろ人々は離婚状さえ渡せば罪にならぬと考え、安易で身勝手な離婚が横行していたらしいのです。それに対して、イエス様は本来不貞以外の理由で妻を離婚することは許されないとし、結婚を尊ぶよう命じていました。
神様が与えて下さった性の賜物を正しく管理し、結婚関係中でそれを用いること。不貞以外の理由で離婚しないこと。これが神様のみこころと確認できるところです。
しかし、です。離婚しないことが神様のみこころであるとしても、離婚さえしなければ良いのでしょうか。実際に離婚しなければ、私たちの結婚生活は神様のみこころに従っていると言えるでしょうか。そもそも神様が結婚の制度を定めたのは、何の為だったのでしょうか。
神様のみこころは、離婚せず結婚を続けると言う消極的なことで終わるものではありません。私たちに対する神様の目的はもっと積極的なもの。長老教会の式文には「結婚は、神がその栄光を表すため、また、人類の幸福のため、この世の初めから定めたもの」と表現されていました。
たとえて言うなら、お母さんが自分の子どものために可愛い人形を作ってあげたとします。その子どもが人形を大切にせず、すぐに壊してしまうことは、お母さんの思いに反することです。けれども、お人形を作ってあげたお母さんの第一の願いは、子どもが人形を壊さないようにすることにある訳ではありません。その人形を喜び、その人形で思いっきり遊び、お母さんに感謝し、お母さんとの関係を深めることにあります。
果たして、私たちは結婚関係を喜び、楽しんでいるでしょうか。私たちの結婚生活は、神様のすばらしさ、神様の愛を表しているでしょうか。これこそが、私たちに性の賜物を与え、人生の伴侶を与えてくださった神様のみこころであること。心の思いにおいても、行いにおいても姦淫せぬように、不貞以外の理由で離婚せぬようにイエス様が強く戒めた真の理由であることを確認したいと思います。
それでは、結婚関係を喜び、結婚生活を通して神様のすばらしさを表すために、私たちはどうすればよいのでしょうか。
エペソ5:21「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」
エペソ人への手紙の中で、著者パウロが結婚について教える段落の最初に、このことばが登場します。「互いに従いなさい」とは、私たちが夫であれ妻であれ、自分のためではなく相手のために生きることを意味しています。
聖書の他の個所では、しもべとなれと言うことばで表現されています。しもべには主人がいます。宗教改革者ルターの奥さんはケーテと言う名前でした。ルターは「ケーテよ。あなたはあなたを愛する夫を持つ。あなたは女王、私はそのしもべである」と言ったそうです。
ルターの時代のヨーロッパでも、新約聖書の時代でも、これは非常に過激で革命的な考え方であったと思われます。妻が夫に従う、妻が夫のしもべと考える人は多くても、夫が妻に従うべきしもべと考える人は少なかったでしょう。
聖書が「従う」とか「しもべ」と言う時、大切な点は、私たちが相手の必要や関心を、自分の必要や関心よりも優先すると言う点にあります。
夫婦二人で一日を過ごす時、どちらの願いを優先し、どちらが譲るのかと言うことが問題になります。夫が仕事から帰った時、夫には家事育児で疲れた妻を休ませるか、自分の食事の支度をさせるか。妻には仕事帰りの夫のために食事を整えるか、夫にそれをやってもらって自分が休むか。それが問題になることもあるでしょう。あるいは、子育てや大きな買い物をする際、二人の考え方が違い、どちらかに決めねばならない時もあるでしょう。
その様な場合、皆様はどうするでしょうか。どうしてきたでしょうか。喜んで相手を優先しようとする。相手を優先するけれども、嫌々ながらする。あくまでも自分を優先する。三つのパターンがあると思いますが、どれが一番難しく感じるでしょうか。多くの人は一番目の行動を最も難しく感じるのではないでしょうか。
結婚生活を重ねる中、私が教えられた真理で最も認めなくないのは、いかに自分が自己中心な人間か、日々その現実を突きつけられることです。自己中心の私は、夫として自分優先が当然と考えます。相手が拒んでも自分の考え方を譲りたくありません。仮に相手を優先しても、渋々で嫌々。余程の事がない限り、喜んで相手を優先しようなどとは考えない者です。
しかし、聖書は真剣に恋愛するとは従うこと、相手の関心や必要を優先することと教えています。そして、聖書は私たちには自ら進んでしもべになる思いも力もないこと、しかし、イエス・キリストを恐れ、尊ぶなら、それができると教えているのです。
ここで言う「恐れ、尊ぶ」というのは怖がると言うことではありません。私たちが、キリストの十字架において表された神様の愛に圧倒され、心満たされた状態を意味しています。
自己中心で、罪深い私のためにキリストが十字架で死んでくださったこと。キリストがご自分よりも私のこと、私の罪の赦しを優先して喜んで命をささげるほど、私は深く愛され、価値があること。キリストによって私は父なる神様に愛され、神様と平和な関係にあること。 この様な愛を心に受けとる時、私たちは自己中心の性質から解放され、進んで相手の必要や関心を優先することができるようになるのです。
もし、愛されているという実感や自分の存在価値を、結婚相手が自分の必要や関心を満たしてくれることにのみより頼んでいるなら、相手に失望させられた途端、私たちは傷つきます。相手を怒り、責めて、結婚生活を壊してしまいかねません。
逆に、神様の計り知れない愛が心に十分蓄えられているなら、たとえ、相手から愛情や優しさを感じられないとしても、相手を怒り責めることを止め、寛容になれるのです。自己中心の言動に気がついたら、まず神様のところに行き、神様の愛を受け取り、その愛に心満たされること。その上でしもべとしての言葉や態度を選び、実行することをお勧めします。
二つ目は、愛を表現することです。今、礼拝で大竹先生が一書説教をしておられます。何か月か前、旧約聖書の雅歌が取り上げられました。皆様はもう読みましたでしょうか。もし、まだと言う方がいたら、ぜひ読んでみてください。雅歌は、聖書の中でも非常に珍しく、全体が男女の恋愛を描く問答歌となっています。
雅歌を読んで教えられることの一つは、愛とは単なる感情ではなく、それをことばやや行動によってあらわそうと努力することだと言うことです。
一般に、私たちは誰かと親しくなればなるほど、愛情や友情を表すことにおいて怠慢になりがちです。多くの場合、交際や結婚生活の始めの頃は、男女は互いへの愛を表わすことに一生懸命です。しかし、結婚生活が進むにつれ、どちらかがあるいは双方が、愛を表現したり、与えたりすることに努力しなくなります。好もしいと言う感情が落ち着きあるいは冷えて、お互いに相手の存在や行動を当たり前と思う思う状態におさまってしまうのです。
しかし、結婚して何年何十年たとうが、私たちの中には消すことのできない必要が存在し続けます。愛されたい、認められたい、尊敬されたい、感謝されたいと言う魂の必要です。雅歌には、結婚関係にある男女が非常に親密な表現で、愛情や尊敬や感謝や願いを、相手の心に届けるよう努めている姿が描かれています。
勿論、雅歌は古代イスラエルの文化の中で書かれたものですから、直接使える表現はあまり見当たりません。しかし、私たちは私たちなりに、相手の心に届くようなことばや行動を考え、実践してゆきたいのです。夫婦だからこそできる真剣な恋愛をすること、相手がどのような状態にあっても、日々愛を具体的に表すことを心で意識しつつ、生活する者でありたいと思います。今日の聖句です。
Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」
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