イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて20回目となります。先週は「自分の敵を愛せよ」とイエス様が説く所。いわゆる愛敵の教えを学びました。
敵と聞いて、今の自分にその様な存在はちょっと考えつかないと言う人は、神様に恵まれた環境を与えられていることを感謝できたかと思います。しかし、イエス様の時代のユダヤ人の様に、憎み合うサマリヤ人とか、迫害するローマ人と言った様な敵はいないとしても、敵と言うことばを、イライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く対象と置き換えるなら、思いの他、身近な所に敵がいることに気づかされた教えでもあります。
反抗的な態度で向かってくる子どもは、その瞬間親にとって敵。感情的なことばで自分を責める配偶者は、その瞬間夫や妻の敵。自分の悪口を言い触らした友人も仲直りするまでは、私たちにとって敵と言えるかもしれません。いずれにしても、一瞬にせよ長い時間にせよ、イライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く相手に対し、私たちはどの様に反応してきたか。どう応答するようイエス様は教えているのか。この点を皆様と共に考えてきました。
そして、最終的な勧めとしてイエス様が語られたのが、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」です。今日考えたいのは「完全でありなさい」とはどういう意味なのか。それは、私たちが実行できる生き方なのかということです。
恐らく、多くの人は「完全であれ」と聞きますと、心から敵を赦した状態。何を言われても言い返さない。何をされてもやり返さない。怒りも憎しみも感じることなく、相手のために善を実行することのできる状態と考えるでしょう。心においても、ことばにおいても、行いにおいても、罪のない状態を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、聖書はこの地上に生きる限り、私たちはその様な意味での完全には、誰も到達できないと教えています。それは、死後天国において神様が私たちに与えて下さる恵みと教えているのです。
それでは、イエス様の言う完全とはどの様な意味なのでしょうか。先程読みましたピリピ人への手紙では、同じことばが「成人」と訳されていました。
3:15「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」
日本では20歳で成人と認められます。大人として生きることを求められる年齢です。最近はご存じの様に成人式の混乱ぶりから、本当に20歳が成人で良いのか議論されるようにもなりました。いずれにしても、成人とは肉体的にも精神的にも成熟、成長した人、一例を挙げれば自分の言動に責任を持てる人と言えるでしょうか。
そして、成人は必ずしも完全ではありません。間違った選択をすることもありますし、様々な点で失敗を犯します。しかし、そうだとしても、間違った選択で人に迷惑をかけたら謝罪し、失敗したら同じ過ちを繰り返さない様努力する。その様な振る舞いが成人の資質と考えられます。
繰り返しますが、成人イコール完全ではありません。山上の説教およびこの箇所で使われていることばは、所謂罪も失敗も犯さない完全なクリスチャンではなく成人、つまり成熟、成長したクリスチャンを指す。このことを押さえておきたいと思います。
それでは、ここでパウロが「成人である者はみな、このような考え方をせよ」と勧める、成人の考え方、生き方とは何でしょうか。三つにまとめて考えてゆきます。
第一に、成人の信仰者は、自分は完全ではないこと、不完全な者であることを認める人です。「自分はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」「すでに捕らえたなどと考えてはいません」と、パウロが語っている通りです。
パウロは、信仰者としての歩みを重ねるにつれ、自分の不完全さ、罪と弱さの自覚を深めた人でした。イエス様を信じた時から、順序を追って見てゆきます。
Ⅰコリント15:9「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。…」
エペソ3:8「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私…」
Ⅰテモテ1:15「1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
最初は「使徒の中で最も小さい者」、次は「すべてのクリスチャンの中で一番小さな私」死の直前に書かれた手紙では「罪人のかしら」。私たちはどんなに成長したとしても罪人であり、神様の恵みを必要とする存在と教えられます。信仰の成長とは、自分の罪と弱さの自覚を深めること、より一層神様の恵みの必要を感じ、それを受け取る歩みと教えられるところです。
第二に、成人のクリスチャンは、自ら成長に取り組む人です。「私はとらえようとして追及している」とか「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」「目標を目指して一心に走っている」とある通りでした。
ところで、罪を犯した時、聖書は私たちに何をするように命じているでしょうか。悔い改めることです。しかし、悔いる、後悔すると言うことばが含まれている為でしょうか。「あんなことをしなければよかった」と言う単なる後悔で終わってしまう場合が、多いような気がします。
けれども、悔い改めは単なる後悔とは違います。自分の罪を認め、神様に告白すること。神様から赦しの恵みを受け取ること。同じことを繰り返さないためにどうすればよいのか、神様のみこころを求め自分を改めること、変えることなのです。
パウロが「罪人のかしら」と言っているように、私たちの人生には罪と失敗があって当然です。成功ばかりで葛藤がない、痛みがないなどと言うことはありえません。しかし、その様な現実の自分をしっかりと受けとめ、神様の子どもとしての成長を願い、自分ができることに取り組んでゆく。それが、成人のクリスチャンの考え方なのです。ことばを代えれば、「自分はもう十分成長、成熟した」。この様に考える人は霊的に未熟と言うことです。
自分は罪人だから何もできないと諦めることも、もう自分は十分成長したと考えることも、成人の生き方ではない。私たちが目指すべきは、自分の霊的な成長に関して、自ら取り組み続ける生き方であることを教えられたいと思います。
第三に、成人のクリスチャンは、キリストの愛に捕えられている人です。「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」とパウロが語るように、私たちが信仰の成長に取り組む原動力は、イエス・キリストの愛にあります。
ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
先週、私たちは敵を愛せよと言う教えについて学びました。しかし、それを実行しようとして、逆に相手から冷たいことばを浴びせかけられたら、どうでしょうか。私たちの心は傷つき、怒りが涌いてくるでしょう。それを悔い改めて、これからは怒りや憎しみを抱かないようにしようと決意し、しばらくの間はそれが続いたとしても、また元の木阿弥。それを繰り返すうちに、相手を責め、自分をも責め続ける。自分にはできないと失望してしまう。この様な経験はないでしょうか。
私たちは意志の力や行動力を成長の源にしている限り、自分に失望するしかないことを聖書は教えています。しかし、成人のクリスチャンは、いつでもキリスの愛のうちに立ち続けるのです。愛したい、赦したいと思っている相手に自分は怒りを感じてしまう。しかし、その様な者をイエス・キリストは自ら十字架に命を捨ててまで赦し、愛してくださった。このキリストの愛を受け取りながら自分を変えることに取り組む。パウロによれば、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰による」と言う生き方です。
罪悪感や義務感ではなく、自分を愛してくださるキリストの愛を受け取り、安心することによって、心からこうしようと思い願うことを実行してゆく歩み。これが私たちが目指す生き方なのです。
しかし、再度確認しますが、私たちの信仰がどれだけ成長、成熟しても、人から酷いことを言われたり、されたりしたら、心が痛みます。心の葛藤がなくなることもないでしょう。それでも、私たちはイエス・キリストの愛と赦しは変わらないと言う信仰に立ち続けるのです。自分でも嫌になり、情けなくなるような者を丸ごと受け入れ、大切な友と呼んでくださるイエス・キリストの愛を受けとり、その上でみこころに従い続けてゆくのです。
ナーウェンと言う人が、「すべてのクリスチャンは神様から愛されている者として生き続けるという使命を与えられている」と書いています。いつでも神様の愛を受け取ること。特に人を責め、自分を責める心の状態に気がついたなら、先ず神様の愛に安らぐこと。神様から愛されている者として生きる。これが最も大切な使命であることを意識しながら、日々歩む者でありたいと思います。
以上、自分は生涯不完全な者であり、神様の恵みが必要であると自覚している人、自ら信仰の成長に取り組む人、イエス・キリストの愛に心捕えられ、キリストの愛、神様の愛を成長の原動力としている人。これがパウロの言う信仰の成人、イエス様の教える完全な生き方であることを確認してきました。
最後に、二つのことをお勧めしたいと思います。
一つ目は、信仰の成長を生涯継続するものと考え、長い目で見てゆくことです。皆様は、良く祈って行ったことなのに上手くゆかないと言うことを経験したことがあるでしょうか。この様な場合、私たちは、上手くいったかいかなかったかと言う結果だけで信仰の成長を判断しがちです。しかし、この様な捉え方は、上手くゆけば喜び、上手くゆかなければ失望と言う歩みの繰り返し。結果によって一喜一憂する信仰です。
しかし、信仰の成長を生涯継続するものと言う長い目で捉えるなら、私たちは上手くゆかなかったなら上手くゆかなかった理由を考えます。失敗と言う結果は、私たちの心の深い所に隠れていたプライドや、弱さを示され、それを神様に取り扱ってもらうチャンスなのです。
これを愛敵の教えに適用すると、どういうことになるでしょうか。自分の敵を愛すると言う教えについて、相手を心から赦す、優しく接する言う結果だけを目標にしていると、相手の心ない言動に怒りを覚えたら、失敗と判断し、やはり自分は人を愛せないダメな人間だという後悔で終わってしまうでしょう。
しかし、結果だけで判断せず、信仰の成長の一段階と捉えるなら、自分の怒りはどこから生まれてきたのか、怒りの表し方は正しかったのかどうかを考えることができます。もし相手の言動が不正なものであるなら、不正に怒りを感じるのは当然であり、自然なことです。
しかし、相手の言動が酷いものであっても、こちら側も酷いことばで言い返す、酷い態度でやり返すと言う形で怒りを表したとしら、それは、私たちの罪であり、問題です。
聖書は、私たちの怒りを相手の悪をとめるという正しい目的のために用いることを教えています。そう考えると、言われたら言い返すやられたらやり返すと言うのは、相手の酷い言動を助長する最悪の選択と言うことになります。むしろ、どうしたら相手の言動を辞めさせることができるか。どうしたら自分の思いを冷静に伝えることができるのか。それを聖書から学ぶ、信頼できる人に相談する、自分でも考える。その上で、実行する。それが神様が望む考え方、生き方なのです。
一歩進み、失敗し、悔い改めて、そこから神様のみこころを学ぶ。次は、より良い選択ができるように準備する。神様のみこころにそって自分を変えること。信仰の成長は少しずつ進んでゆきます。生涯継続する歩みです。一つの結果だけを見て一喜一憂せず、焦らずに長い目で見て、取り組んで行くことをお勧めします。
二つ目は、自分のことをケアしながら信仰生活を進めることです。私たちは神様によって創造された者、被造物です。その一つの意味は、私たちは神様や周りの人々の助けやなしには、正常に機能できない存在だと言うことです。肉体的にも精神的にも霊的にも限界があり、教会の兄弟姉妹や家族、友人などの助けを必要としている存在なのです。
預言者のエリヤが異教バアルの預言者と戦い勝利した後、ひどく落ち込みました。死を願う程の絶望状態で、彼はこの時鬱病を患っていたと考える人もいます。その様なエリヤに、神様が与えたのは、まず休息と食べ物、次に神様からの語りかけ、そして信仰を同じくする預言者たち七千人の存在でした。つまり、エリヤは休息と食べ物と言う肉体的必要、神様からの励ましと言う霊的必要、そして信仰の仲間からの友情と言う精神的必要を満たされ、立ち直ることができたのです。
敵を愛するという歩みにおいても、これは真理です。私たちにとって肉体的に疲れ切った状態で人を愛することは至難の業です。神様の愛に励まされる必要もあります。自分を敵とみなす人から友情は受け取れませんから、安心して交わることのできる信仰の友も必要です。肉体的にも、霊的にも、精神的にも、自分をケアしながら、神様のみこころに従い続ける歩みを進めることをお勧めします。今日の聖句です。
ピリピ3:12「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」
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