2016年8月14日日曜日

マタイの福音書16章21節~26節「命の使い方」


「世の中には二種類の人間がいる。〇〇な人間と、〇〇な人間だ。」という言い回しを聞いたことはあるでしょうか。「世の中には二種類の人間がいる。勇気のある人間と、勇気のない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。音楽の分かる人間と、分からない人間だ」など。特別なことでなくても、「世の中には二種類の人間がいる」という言葉で、続く言葉に注目させる言い回しです。

 今日の聖書箇所、「世の中には二種類の人間がいる」という表現は出て来ませんが、内容としては、人間はどちらかに分かれるのだと教えるもの。敢えてこの表現を使うならば、「世の中には二種類の人間がいる。いのちを救おうと思い失う者と、キリストのためにいのちを失いながらもそれを見いだす者」と言えるでしょうか。

 いのちを救おうとしてそれを失う者か、いのちを失いながらそれを救う者か。どちらかしかない。私たちは、そのどちらの者となるのか。どちらの生き方をしたいのか。決めないといけない。神様に与えられた命を、どのように使うのか。今日の箇所から、皆様とともに考えていきたいと思います。

 

マタイ16章25節

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

 

有名な言葉ですが、逆説的で難解。よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉。果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。

 

この言葉。マタイの福音書に沿って言えば、有名な場面で語られた言葉となっています。

 マタイ16章13節~16節

「さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』」

 

 イエス・キリストの公生涯、救い主としての歩みをされたのは約三年半。その救い主の歩みの中で、このピリポ・カイザリアの出来事は、重要な転換期の場面となります。

これまで様々な奇跡を行い、多くの説教をなしてきた。この頃には、主イエスに対する世間の反響を聞くに十分な下地が出来た。頃合いや良しと見て、イエス様は弟子たちに聞きます。「人々は私のことを誰だと言っているのか。」

 「イエスを誰とするのか。」これは非常に重要な問いです。人間はこの問いを前に、どのように答えるのかで、その人生が決まる。私たちも、「イエスとは誰か」との問いには、心して答えるべきでしょう。

 

それはそれとしまして、当時の群集はどのように思っていたのか。これまでの活動からすれば、優れた教師、偉大な説教家、病人を癒す名医、あるいはローマの支配から解放してくれる王などなど、色々な答えが出て来そうなところ。弟子たちも、あの人がこう言っていた、この人がこう言っていたと思い出しながら、バプテスマのヨハネという声があります。エリヤだという人もいました。エレミヤだという人も、預言者ではなかろうかとの噂もあります、と答えていきます。

 当時の群集は、イエスを普通の人ではないと思っていた。イエスのところに押し寄せ、耳を傾け、熱狂する。しかし、昔の預言者の再来か、殉教したバプテスマのヨハネの力があるのか、新たな預言者なのかはともかく、預言者という理解が精一杯。イエス様を指して約束の救い主とする声は聞こえていなかった。

 

 そこでもう一つの問いが発せられるのです。「では、あなたがたはわたしをだれだと言うのか。」「群集は良いとして、私とともに過ごしているあなたがたは、わたしを誰だと言うのですか。」弟子たちは何と言うのか、緊張の場面。

この問いに答えたのは、一番弟子とも言えるペテロで「あなたはキリストです。」と告白します。福音書の中には、主イエスの弟子として、ふがいなく見える姿がいくつも出てくるペテロですが、ここにこれ以上ない神聖な告白をします。あなたは預言者ではありません。約束の救い主、キリストです、との告白。

 イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたでしょうか。この告白を聞くために、救い主としての歩みをされてきたのです。これまでの経験を経て、ペテロを始め弟子たちはイエスを「キリスト」、約束の救い主であるということは理解した、信じるに至った。大変感謝なことでした。

 

 イエスが約束の救い主である、キリストであるという告白は素晴らしいもの。しかし、それでは約束の救い主とは何か。キリストとは何か。イエスがキリストであるとするならば、この後、どのような歩みを送ることになるのか。ここにきて、イエス様がはっきりと言われるのです。

 

 マタイ16章21節

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」

 

 キリストとは何か。約束の救い主の歩みとは何か。多くの苦しみを受け、宗教的指導者から捨てられ、殺される。その後、三日後によみがえる。これがキリストの歩みであると明確に教えられた場面。「あなたがたの言う通り、わたしは神のキリストです。そのキリストであるわたしは、苦しめられ、捨てられ、殺されなければならない。」弟子たちが、この方こそキリストと理解したからこその説明でした。

(これ以降、十字架での死へと向かっていくという点で、このピリポ・カイザリアの出来事はイエス様の生涯の中でも転換期となるのです。)

 

 ところで何故、キリストは殺されなければならないのか。私たちの罪を身代わりに背負い、死なれるためです。「命の使い方」という視点で考えますと、主イエスの命の使い方は驚くべきものです。命を自分のために使わない。父なる神に与えられた使命のために。私たちを救うために命を使われる方。私たちは、イエス様のこの命の使い方の結果、救われたのです。

 ところが、このイエス様の「命の使い方」に「それはない」と言う者が現れます。驚くことに、つい先ほど、素晴らしい告白をしたペテロが主イエスをいさめたというのです。

 

 マタイ16章22節

「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」

 

 ペテロは、イエス様が約束の救い主であるという信仰は持っていました。しかし、その約束の救い主が苦しみの中で死ななければならないということは理解していなかった。「あなたはキリストでしょう。それが苦しめられるとか、捨てられるとか、そんな不吉なことを。しかも、殺されるなんて。めったなことを言うものではありませんよ」との発言。

目の前にいるのが約束の救い主であれば、その言葉がどのようなものであっても、受けとめるべきでした。しかし、それが出来なかった。直前に「あなたはキリストです」と告白しながら、その直後にキリストをいさめ始めた。ペテロらしいとも言えますが残念な姿です。

 ところで、この時のペテロは、信仰を失っていたわけではありません。むしろ、善意というか、熱意というか、イエス様を思ってこそ、「苦しみ、捨てられ、死ななければならない」との言葉に、「そんなことはない」と声を上げたのです。

 何故、ペテロはイエス様の思いが分からなかったのでしょうか。それは、主イエスの命の使い方。自分のために生きるのではない。人のために命を使う。その命の使い方は思いもしなかった。それこそ、救い主の生き方であると思えなかったのです。

 

 このペテロに対して、イエス様より痛烈な言葉が響くのです。

 マタイ16章23節

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

 

「下がれ、サタン」とこれ以上ない程、強烈な言葉。「あなたはキリストです。」と神聖な告白をしたペテロが、その直後に「下がれ、サタン」と言われる。ピリポ・カイザリアにおける大事件です。

 ペテロの思い、イエス様を思ってこその発言ということは、誰より主イエスがご存知だったはずです。それを「下がれ、サタン」と非常に強い叱責の言葉。何故イエス様は、これ程強い言葉で、ペテロを叱責したのでしょうか。

イエス様はここで、救い主である自分は死ぬと宣言されました。それはつまり、罪人の身代わりに死ぬことを意味しています。ペテロは、善意に基づいて発言したとしても、あなたのために死にますと宣言されたイエス様に対して、そんなことはないといさめたことになります。

 罪人の身代わりとして死ぬと宣言された救い主に対して、そんなことはないといさめた。仮にペテロの言う通り、キリストが死ぬことがなかったとしたら。ペテロ自身は自分の罪のために裁きを受ける存在となる。キリストが死ななければ、ペテロは永遠の苦しみを味わうことになるのです。つまり、自覚はなかったと思いますが、この時ペテロは、自分の滅びを願っていたことになります。

 そのペテロに対して「下がれ、サタン」と言われたイエス様。それはつまり、わたしはあなたのために死ななければならない。あなたのために死ぬ覚悟をしている。その邪魔をするな、という意味です。「下がれ、サタン」という強烈な叱責の言葉は、どうしてもあなたを救いたいのだという強烈な愛の言葉でもあったと読めます。

 

 ペテロの「あなたはキリストです。」との告白を受け、キリストとは罪人のために死ぬものだと話しを進め、本当にそのためにいのちを捨てようとされるイエス様。このようなやりとりの後に語られたのが、例の難解と思える言葉です。

 マタイ16章24節~26節

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」

 

 「いのちを救おうとする者はそれを失い」「いのちを失うものはそれを見いだす」。これは何も一般論、一般的な格言として語られたわけではありません。

(一般論として、この聖句と似た言葉を言ったとされる人で、ギリシャ人クセノフォンがいます。その意味は、戦において、何としてでも生きようとする者は大抵は死ぬことになり、ひたすら見事な最後を遂げようと志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれるというもの。決死の覚悟で戦に臨めという意味です。主イエスはこのような意味で、この言葉を語ったわけではありません。)

聖書は、いのちは尊いものであり、私たちも自分のいのちを守るように教えられています。いのちを危険に晒すことは避けるべきであり、心も体も健康であるように、自分の出来ることに取り組むのは聖書的です。自分のいのちを大切にするという意味で「いのちを救おう」とすることは、正しいこと。このイエス様の言葉をもって、自分のいのちを守る努力はすべきでないと考えるのは間違いでしょう。

 

それでは、このイエス様の言葉はどのような意味なのか。主イエスはまず、ご自身の歩まれる道を提示しました。それはまさに、自分のいのちを救う道ではなく、罪人を救うためにいのちを失う道。それが、救い主の歩む道でした。続けて、目の前の弟子たち、そして私たちキリストを信じる者の歩むべき道を示されました。

「わたしは約束の救い主として、罪人のために、あなたがたのためにいのちを捨てます。しかし、それはわたしだけの生き方ではない。わたしに従いたいと願う者。私に従うあなたがたも、同じ様に生きるのですよ。自分のいのちは、自分のものではないこと。その所有権は神様にあること。自分のために命を使うのではなく、わたしのために、福音のためにいのちを用いるように。」との勧めです。

このイエス様の願い、勧めに私たちはどのように応えるでしょうか。

 

 本来、神様を愛し、隣人に仕えるために与えられた命。ところが私たちは私たちの創造主を無視して生きることを選び、その結果、与えられた命を自分のために使うようになりました。罪の中での命の使い方、それは自分のために命を使うというもの。罪の悲惨の一つのあらわれ方は、命の使い方が分からなくなるというものです。

 そのような私たちに、キリストは命の使い方を教えて下さいました。それも、ご自身がお手本となって、あるべき命の使い方を示して下さいました。しかし、イエス様の罪人のために自分の命を使うという生き方は、ただお手本というだけでなく、私たちが正しく命を使うことが出来るように、私たちを救い出す働きでもありました。イエス様は私たちの教師というだけでなく救い主なのです。

 

 今朝、この礼拝の中で、今一度自分の命の使い方について、真剣に考えたいと思います。これまでどのように命を使ってきたのか。これから、どのように命を使うつもりなのか。

 あるべき命の使い方を、キリストが教えて下さいました。自分のために生きるのではない。神様のために、隣人のために生きること。しかし、それでは具体的に、自分はどのように生きるのか。今日を、明日を、この一週間、具体的にどのように生きるのか、真剣に考えたいと思います。

 同時に、そもそも自分自身には、正しい命の使い方は出来ないことを認めること。イエス様の救いの御業によって、罪から解放されることによって、本当の意味で正しく命を使えるようになることも覚えることが出来ますように。イエス・キリストに対する信頼と、私たち自身の決意と、神様が祝福して下さいまして、この一週間、私たち皆であるべき命の使い方に取り組むことが出来るように祈りつつ礼拝を続けていきます。

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