2016年10月30日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(26)~御国が来ますように~」


先週土曜日から、私たちの教会ではカウンセリング研修会が始まりました。昨年度に続いて講師を務めてくださる後藤先生が面白い話をして下さいましたので、ちょっと紹介したいと思います。

ある年の正月、先生は東京にある明治神宮に出かけました。毎年20万人とも30万人とも言われる参拝客で賑わう有名な神社の様子を見てみたかったのだそうです。そこで、初詣に来た何人かの人に「ここに祭られているのが誰か、知っていますか」と質問すると、皆が「知らない」と答えたそうです。さらに、「この神社に祭られているのは明治天皇ですが、あなたは明治天皇が願い事を実現することができると信じていますか」と尋ねると、人々は「分からない」「信じられない」と答えたと言うのです。

「鰯の頭も信心から」と言うことばもある様に、日本人は祈る相手が誰か、信じる神様がどのようなお方であるのかを余り気にしない。祈りの対象、信じる対象が誰であるかよりも、とにかく自分が熱心に祈ること、自分が心から信じることを大切にする宗教性を持っているのではないか。そういうお話でした。

日本人は「真心」とか「心を込めて」と言うことばが好きだと言われます。確かに「人の真心は天にも通じる」とか「心を込めて祈ればきっと願いは叶う」等と聞くと、何か説得力を感じたりもします。しかし、よく考えてみますと、私たちは良く知らない神に心からの祈りをささげることができるでしょうか。そのご性質やお働き、私たちのことをどう思っているのか分からない神を信頼したり、自分の深い思いや願いを語ることができるでしょうか。

今イエス様が弟子たちに教えた祈り、主の祈りを学んでいます。主の祈りによって、本来の祈りとは何かを私たちは教えられるのです。これまで教えられたのは、イエス様を救い主として信じる者には、この世界を創造した神様が祈りの相手として与えられること、神様に心からの信頼を込めて「天の父」と語りかけられること。私たちには、信頼して祈れる神様と神様との親しい関係という、二つの恵みが与えられたということです。

祈るべき神様がどのようなお方か知っている恵み。私たちの必要を知り、私たちを子として愛してくださる神様に祈り、神様と交わることのできる恵み。皆様はこの恵みをどれ程自覚しているでしょうか。

これを踏まえた上で、先回は、主の祈りの第一の祈願「御名があがめられますように」を考えました。祈りと言えば、自分の必要や願いから始めてそれで終わりがちな人間。神様が主ではなく、神様を自分の必要を満たし、自分の願いを叶えるしもべの様に考えてしまいやすいのが私たち人間です。イエス様はその様な私たちの性質を戒め、先ず私たちが御名、つまり神様のご性質やお働きを知ること、神様のすばらしさが、そのまま人々に認められ、敬われ、賛美されることから祈り始めよと命じられました。

しかし、今の世界において、神様の御名はあがめられてはいません。反対に無視され、汚されています。大自然の災害や耐えがたい不幸に直面すると、「神がいるなら、どうしてこのようなことが起こるのか」と不満の声をあげます。物事が上手くゆかないと「ジーザズクライスト、こんちくしょう」と叫んで、自分の問題は棚上げ、責任を神様に転嫁しようとします。神様の存在やそのお働きはあがめられるどころか侮られ、無視されていると言うのが、イエス様の昔も今も変わらない世界の現実です。

この様な世界で、神様があがめられることを真に願うのであれば、神の御国の実現を求めることが必要になる。こう考えたイエス様は、私たちを第二の祈願に導かれます。

 

6:9~13「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 

「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけの後に、六つの祈りが続きます。前半は御名、御国、みこころと神様のことを覚えての祈り。後半は日ごとの糧、負い目即ち罪の赦し、悪から救いと、私たちの必要のための祈りとなっています。

今日注目したいのは、第二の祈願「御国が来ますように」です。ここで御国と訳されていることばは、聖書の他の個所では神の国となっています。当時ユダヤ人は神様の名を直接口にすることを畏れた為神の国とは言わず、御国と呼ぶのが習慣だったようです。

この一語で、私たちは神様が王であること、神様はご自分が支配する国を持っておられることを告白しています。しかし、今世界地図のどこを探しても、神の国と言う国を見つけることはできません。それでは御国、神の国とはどこに存在するのでしょうか。イエス様はこの様に言われました。

 

ルカ1720,21「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 

神の国はあなた方の心の中にある。そうイエス様は明言しました。使徒パウロは同じことを別のことばで表現しています。

 

ガラテヤ220「…もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

 

子どもを愛する親は、子どもの存在が心から離れることはないでしょう。私たちは人を愛すれば愛するほど、その人の存在が常に心にあり、まるで心がその人に占領されてしまったように感じることがあるのではないでしょうか。「キリストが私の内に生きておられる」。そう言えるまでに、神様が私たちの心を占領し、支配している状態にある。ことばを代えれば、イエス様を信じる者が神の国の民、神の国はその心にあると言うことができます。

それでは、神の国の民である私たちは、どの様な恵みを受け取っているのでしょうか。

一つ目は、罪を認め、罪を悔い改めることができる恵みです。神の国の民は、自分の人生を聖なる神様の視点で見て、考えることができます。間違ったもので心満たそうとしている時、愛すべき人を愛することができずに対立する時、私たちはその背後に、神様のみ心を受けとめようとしない自分の罪があることを認め、罪を悲しみます。

しかし、その様な罪人がいつでも神様との正しい関係に帰れるようにと、キリストが尊い命をささげて成し遂げてくださった罪の贖いに頼ることができる。これもまた恵みです。

二つ目は、私たちを大切な子どもとして愛してくださる神様の愛に感謝し、神様のみこころに従いたいと言う思いが生まれ、成長してゆく恵みです。神様を悲しませる罪を避けたい、力の限り神様が喜ばれる道を歩みたいと言う強い願い、イエス様のことばを使えば、心が「義に飢え渇く」状態にある恵みです。皆様は、この様な恵みを自覚しているでしょうか。神の国の民とされたことを喜んでいるでしょうか。

けれども、この様な恵みを受けているとは言え、あらゆる点で私たちは不完全です。罪を悔い改めることにおいて、キリストの罪の贖いの恵みに信頼することにおいて、人生のあらゆる面で、神様のみこころに従って生きると言う点においても、さらにさらに成長の余地がある者です。ですから、「御国が来ますように」と言う祈願は、私たちの心に神様の支配がもっと広がるように、いつでも神様を王とし、従う者となれるようにと願うことなのです。

しかし、この祈願は、私たちの心における神の国の広がりを願うだけにとどまりません。この世界における神の国の広がりを願うものでもあります。これを祈る時、私たちは問いかけられます。「あなたは失われてゆく魂に重荷を感じているか」「神様の救いを知らない人々のために祈っているか、労しているか」と。

残念なことですが、日本人同胞の多くはキリスト教について断片的知識は持っていても、また、キリスト教文化に好意を抱いていても、福音を知りませんし、受け入れてもいません。1%の壁と言うことが言われてきましたが、実際のクリスチャン人口は全体の0.4%だろうとも言われます。

伝統的にキリスト教国と言われてきたヨーロッパでも、日曜日の礼拝時、教会には人影もまばらであったり、伝統的な教会は単なる観光名所と化していると言われます。世界で最も教会が活発な国と言われるアメリカでも、教会の社会に与える影響力の低下、教会の語る福音に関心を示さない世代が増加しているとも言われます。他方、イスラム教国やキリスト教弾圧のもとにある国々では、今もなお厳しい状況における、宣教師の方々の本当に犠牲的な働きが続けられています。

福音伝道を通して世界に神の国を広げてゆくために、何ができるのか。自分がささげられる賜物は何か。第二の祈願を祈る私たちが取り組むべき課題です。

また、福音伝道だけがこの世界に神の国を広げることではありません。飢餓や貧困、戦争から生まれる難民問題、繰り返し起こる自然災害と被害者の救済、高齢者や障害者の方々への対応、教育を受けられない子どもたちの存在、家族の崩壊、差別や社会的不正義など。聖書の視点からすれば、人間の罪を源とする様々な問題がこの世界には山積みです。

神様は、私たち人間にこの世界を正しく管理し、良いものとしてゆくために、各々にふさわしい仕事とそれを行う能力を与えて下さいました。しかし、神様に背いた人間は、仕事本来の目的を見失ってしまったのです。その結果、多くの人にとって仕事は生活を支えるための手段でしかなくなってしまいました。仕事の価値が収入の多さによって測られることも良く見られることです。

けれども、神の国の民は、この世界に仕え、この世界を神様のみこころにかなった場所とするため、ひとりひとりに与えられた賜物、それが本来の仕事であることを知っています。私たちにとって仕事とは、収入の有無に関係がありません。神様は、仕事の価値をその人の収入や社会的地位によって評価されないのです。

それが家事であれ、育児であれ、ボランティアであれ、教会の奉仕であれ、 収入をともなう職業であれ、この世界でともに暮らす人々に仕え、人々の幸せを願って行う仕事を尊いものと喜んでくださる王、それが神様なのです。

 

25:31~40「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。…

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

今は通信の発達により、世界で起こる出来事が身近なものとなりました。昔に比べれば、私たちが仕えるべき世界、隣人の範囲は確実に広がっていると思います。今自分が与えられた仕事を愛のわざとして行うこと。他に自分ができる仕事がないか、考えてみること。特に困窮する人々、苦しみの中にある人、寄る辺なき人をかえりみること。

私たちにとって身近な家庭、職場、地域にも、遠くに住む世界の隣人にも目を向け、心を向け、神の国の民として労すること。御国が来ますようにと祈る時、この様な意味での本来の仕事をなす思いと賜物を、神様に願い求める者でありたいと思います。

 但し、聖書は私たちの努力によってこの世界に神の国が完成すると言う、楽観主義を教えてはいません。罪よる世界の混乱は収束せず、むしろ増大することを教えているのです。

しかし、そうであっても、私たちは悲観も失望もしません。私たちが神の国の広がりのために労した後を、すべて託すことのできるお方を知っているからです。神の国を完成するために、もう一度イエス・キリストがこの世界に到来することを信じているからです。

神の国が完成する時、癒されぬ病も、死もないと言われています。この地上から争い、悲しみ、叫び、苦しみが消えうせ、誰もが愛され、祝福され、心満ち足りることのできる世界に変えられると約束されているのです。イエス・キリストの再臨によって完成する神の国を待ち望み「御国が来ますように」と祈り続けたいと思います。

 

マタイ633「だから、神の国とその義を先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

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