2016年もあと一か月で終わろうとしています。この一年を振り返って、皆様は良き知らせを耳にしたでしょうか。良き知らせと聞いて、何が思い浮かぶでしょうか。
子どもの就職、結婚、出産。家族や友人の活躍など、身近な所から喜びの知らせを受け取った方もいるでしょう。他方、愛する者の病や死、友人の苦しみ等、悲しい知らせを受け取った方もおられるでしょう。あるいは、最初は悲しみとしか感じられなかったけれど、時間が経つにつれ良き知らせと感じられるようになったものもあるのではないでしょうか。
また、社会に目を向けますと、リオ五輪での日本選手の活躍や、大隅教授のノーベル医学賞受賞は喜びの知らせでしたが、目を覆いたくなるような残酷な事件や、自然災害による被災者のニュースは、心痛む悲しみの知らせでした。
さらに、世界からは、断続的に続くテロ事件、イギリスのEU離脱や先のアメリカ大統領選挙の結果など、人々が驚き、「これから世界はどうなるのか」と恐れや不安を覚える知らせが多かったように思います。
今や世界は狭くなりました。私たちの元には、身近な所からも海の向こうからも、様々な知らせが届きます。人生は、私たちが様々な知らせを受けとめ、それが自分にとって、世界にとってどのような意味を持つものかを考え、応答する歩みと言えるかもしれません。
ところで、聖書はすべての人が聞くべき大切な知らせ、それにどう応答するのかが、人生に大きな影響を与える知らせがあると教えています。それは、世界を創造した神様からの良き知らせ、救い主の到来を告げる良き知らせです。
今日、ルカの福音書に登場するザカリヤは、今からおよそ二千年前、ユダヤをヘロデ王が治めていた時代、誰よりも先に、神様からの良き知らせを耳にした人でした。
1:5「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」
ユダヤの王ヘロデとありますが、ヘロデはユダヤ人ではなく外国人。しかも、ローマ政府と交渉し、金で王の地位を買った人物で、人々から嫌われていました。しかし、独立を失ったユダヤ人は、自分たちの王を選ぶことができない状態。政治的にも、宗教的にもローマ帝国に圧迫され、国としては衰退の極み。人々は苦しみに喘いでいました。
その頃、ザカリヤが属する祭司階級にはローマと手を結び、自分の立場と利益を守るため、神様と聖書の教えを軽んじる者も多かったと言われます。しかし、ザカリヤは妻とふたり、その様な風潮に流されず、信仰の道を歩んでいたようです。
1:6、7「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」
二人して神様を敬い、神様に信頼して生きるザカリヤとエリサベツ。貧しくても、年老いても仲の良いオシドリ夫婦。勝手な想像ですが、そんな二人の姿が目に浮かんできます。しかし、この夫婦には一つの悩みがありました。エリサベツが不妊の体質であるため、また二人とも既に高齢のため、子どもを持つと言う望みはもはや絶えた状態にあったことです。
これは、夫婦二人の個人的な悲しみにとどまりません。今では想像できない様な社会の風潮が彼らを苦しめていました。当時は、一般的に、難病や子どもができない等の理由で苦しむ人は、その人の隠れた罪に対する神からの罰を受けていると考えられていました。特に祭司と言う職業は、血筋や後継ぎが重んじられましたから、ザカリヤとエリサベツが、一際人々の心ない言葉や態度に苦しめられたことは容易に想像できます。
しかし、自分たちの願いがかなえられなくても、それゆえに世間から苦しめられても、ザカリヤとエリサベツは神様を信頼して歩んできたと、聖書は語っています。
願いが叶わず、目に見えるご利益がないと、神様に対する信頼が揺らいだりするところが無きにしもあらずの私たち。年を重ね、自分たちの願いはもはやかなえられないと受けとめつつ、神様の戒めと定めに従い続けたこの夫婦の歩みにならいたいと思います。
さて、そんなザカリヤに御使いが現れ、良き知らせを伝えることになります。それは、ザカリヤにとって一生に一度の晴れ舞台でのことでした。
1:8~12「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われた。」
当時、祭司の職にあった人は二万人以上とされ、それが二十四組に分けられていました。各組千人近い祭司がいて、年に二度一週間ずつ、当番で務めを果たすため、各々の家から都エルサレムの神殿に出かけてゆきます。
神殿では様々な奉仕があり、祭司が協力してことを進めてゆかねばなりません。しかし、神殿の奥にある聖所と言う場所で、罪のための供え物をし、供え物をのせた祭壇の上で香をたくという奉仕は、くじ引きで選ばれた祭司がただ一人、これを行うことができたのです。この奉仕こそ、祭司なら誰もが待ち望む聖なる奉仕であったとされます。
この時、神殿の奉仕を担当したのは、二十四組の内アビヤの組。そして、最も栄誉ある奉仕は、この組に属するザカリヤに与えられたのです。一度選ばれた者は二度と選ばれませんでしたから、ザカリヤにとって生涯に一度きりの奉仕です。
この奉仕を行っていた時、御使いが現れ、この様に語りました。
1:13~17「御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
先ず御使いが告げたのは、妻エリサベツが男の子を産むことでした。これまでずっと祈り願ってきたのに与えられなかった子ども。もはや叶わないものとあきらめ、心の底に沈んでいた様なその願いを、神様が聞いてくださったとの知らせです。名前も「神は恵み深い」と言う意味の「ヨハネ」と定められていました。
また、男の子はあなた方夫婦にとって喜びとなるだけでなく、多くの人もその誕生を喜ぶと告げられています。つまり、彼らの子どもは、イスラエルの民全体の祝福に関わる特別な子どもだったのです。
さらに、ヨハネについて「ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされる」と告げられています。普通は大人になってから神のしもべとなるのに、ヨハネは母の胎内にある時から特別なしもべとして、神様に選ばれた者と言う意味でしょう。
それでは、ヨハネの働きは何かと言うと、イスラエルの人々の心を神様に立ち返らせること。ことばを代えれば、父親たちが子らに信仰を教えるよう指導し、神に逆らう者の心を正し、来るべき救い主のため人々の心を整えることと告げられています。
一言で言うなら、救い主が現れる前の先駆け。救い主到来を告げて、人々に心の準備をさせると言う非常に重要な働きが、ザカリヤから生まれる男の子に与えられたのです。
ザカリヤはこの知らせをどう受けとめたでしょうか。これを良き知らせとして受け入れたのでしょうか。どうも、そうではなかったようです。
1:18~20「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
「私は何によってそれを知ることができましょうか」と答えた結果、ザカリヤは物が言えなくなります。神様は彼を口を開くことのできない状態に置かれました。彼のことばはそんなに不信仰だったのだろうかと思えないでもありません。しかし、良く見ますと、ザカリヤ神様のことばで十分とは考えず、「ことばの他にしるしはありませんか」と、目に見えるしるしを求めています。
年を重ねた自分たちに子どもなど与えられるはずがないと言う常識が、ブレーキをかけたのでしょうか。祈り続けてきたのに結局は叶えられなかったと言う諦めが心を支配していたのでしょうか。神様の前に決められた奉仕は行っていましたが、年を重ねるほどに自分の経験や知恵に頼り、それ以上のことは神様に期待しないと言う、小さく固まった信仰になっていたのでしょうか。
ザカリヤが神様のことばを信じ切ることができず、しるしを求めた理由は、必ずしも一つではないかもしれません。その心には様々な思いが重なり合っていたのでしょう。しかし、その応答に対し、神様は物を言えないと言う不自由な状態にザカリヤを置きました。
ただし、これは罰と言うより、ザカリヤのために神様が与えた恵み深い訓練と考えられます。もし、これが罰なら、ザカリヤは神殿での奉仕を続けられなかったでしょう。しかし、彼は務めの期間すべての奉仕を終えてから、家に帰っています。さらに、ザカリヤ夫婦から、子どもを授かる恵みは取り去られず、エリサベツは無事子を胎に宿すことができました。
ザカリヤは不自由な生活を強いられましたが、その間神様のことばが実現してゆく様子を妻エリサベツの姿に見ることができたのです。
1:21~25「人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
最初、御使いから神様のことばを聞いた時、ザカリヤは信じることができませんでした。しかし、共に暮らすエリサベツのお腹がどんどん大きくなってゆくのを見つめながら、神様のことばを思い巡らす時を持つことができたでしょう。
やがて男の子が成長し、人々の心を神様に向ける働きを為す姿を、人々の心が整えられた後現れる救い主の姿を思い描いたでしょう。これまで背き続けてきた神の民イスラエルを神様が顧みてくださり、民全体が神様の祝福にあずかる日を仰ぎ見ることができたはずです。
そればかりではありません。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」と言う妻のことばを聞いた時、自分たち夫婦の長年の苦しみに心を向け、それを取り除いてくれた神様を賛美したのではないでしょうか。
共に手を取り合って、神様を賛美するザカリヤとエリサベツ。その様に、長年苦楽を共にしてきた末、神様からご褒美を貰うことができた幸いな夫婦の姿を、私たち思い浮かべても良いのではないかと感じます。
最後に、一つのことを確認したいと思います。それは、神様が私たちに望んでおられるのは、私たちが神様のことばを良き知らせとして受け入れることです。神様のことばを良き知らせとして受け入れることが、私たちの人生も、この世界をも良いものにしてゆくと言うことです。
私たちの元に届く知らせには様々なものがあります。自分自身や身近な人の不運や不幸。天災や事件に苦しむ人々の姿。世界からは飢餓に悩む人々、戦争やテロ事件の知らせも届きます。それらの知らせは、神様が本当にわたしたち一人一人の苦しみに関心を持っておられるのだろうか。本当に神様がこの世界を支配し、正しいものにしようとしておられるのか。その様な思いへと私たちを誘います。
その様な現実の中で、救い主の到来を告げる神様のことばを良き知らせとして信じ、受け入れることは、しばしば難しいことではないでしょうか。ですから、ザカリヤがそう導かれたように、私たちも待降節の季節、救い主についての神様のことばをもう一度思いめぐらす時を持つ必要があると思います。繰り返し神様のことばに聞き、神様が私たち一人一人の小さな苦しみにも、この世界の苦しみにも心を注いでくださっていることを確認したいのです。
神様が、救い主イエス・キリストを通して、私達のような小さな存在にも、この世界全体にも、心を向けておられることを知り、その測り知れない愛を受け取りたいと思うのです。アドベント、待降節の季節、私たち皆が神様のことばを思いめぐらす時を持つことができたらと願います。神様からの良い知らせを受け取った者として、日々の歩みを進めることができるよう励みたいと思うのです。
コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」