教会でも、毎週の礼拝で祈ります。日々主の祈りをささげる人も多いでしょう。しかし、果たして私たちはどれ程その意味を考えつつ祈っているでしょうか。
信仰生活に祈りは欠かせないと分かってはいても、祈りが苦手と言う人。何を祈ってよいのか分からないと言う人。忙しくて時間がないと言う人も、この短い祈りの意味をひとつひとつ味わうことで、祈りに親しみ、神様との交わりを充実させることができるのではないかと思います。
主の祈りを祈って、より深く神様を知り、神様と親しむ。私たちがこの世界に生かされていることの意味を知る。神様の眼でこの世界を見るようになる。祈りと言えば、自分の必要が満たされ、自分の願いが叶うための手段としか思っていなかった者が、主の祈りを学び、祈る内に、聖書の世界観、人生観に心の目が開かれてゆく。この様な祈りの生活を目指して、今日も主の祈りを学びたいと思います。
さて、主の祈りは六つの祈願があり、前半の三つは神様のための祈り、後半の三つが私たちの必要の為に祈りとなっていることは、これまでも確かめてきました。今日扱うのは三つ目の祈願の最後、「みこころが天で行われる様に、地でもおこなわれますように」となります。
イエス様は、最初に御名があがめられるように祈ることを教えています。祈りの出発点が私たち自身ではなく、神の御名つまり神様ご自身であることを明らかにされました。自分自身の必要、願いへの関心から神様ご自身への関心へ。この変化が私たちの祈りを豊かなものとすることを、イエス様は示されたのです。
次の祈りは「御国が来ますように」です。神の国が到来して、神様の支配が私たちの心に、また、世界中に広がるように祈れとの勧めです。これに続くのが「みこころが地でも行われますように」です。神の国がこの世界に広がるためには、みこころに従う者たちが起こされ、本当に神の国が来ていることを人々に証しする必要があるからでしょう。
ところで、最初にみこころについて整理しておきたいと思います。普段あまり意識することはないかもしれませんが、聖書が教えるみこころには二つの意味があります。一つ目は「絶対的なみこころ」と呼ぶことのできるもので、聖書に明確に示された神様のご計画、神様の教えで、イエス様を信じる全ての人に実現するみこころ、全てのクリスチャンが信じ、従うべきみこころです。
二つ目は「一般的なみこころ」と呼ばれ、聖書に明確に示されていない事柄について、私たちが考え、行うみこころです。その場合、私たちは絶対的なみこころを土台として考える訳ですが、その人の性格や賜物、置かれた状況などによって、みこころは異なることがあります。つまり、これがただ一つの絶対的なみこころと言うのではなく、人によって異なる場合があるもの、幅があるものと言えるでしょうか。
聖書は、神様が私達の人生に対し、この世界に対して、絶対的なみこころ、決して変わることのないご計画を持っていると教えています。私たちの人生に対してなら、例えばこのようなみこころが示されています。
Ⅰヨハネ3:2「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
また、この世界に対する神様の絶対的みこころ、ご計画も、様々なことばで示されていますが、これも一つの例をあげるにとどめたいと思います。
Ⅱペテロ3:13「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
神の子とされたものの、未だ罪人の私たちがキリストに似た者となる。この世界が正義に満ちた新しい世界と変わる。すでに、このご計画が実現完成しているのなら、私たちは思い悩むことも、苦しむこともないでしょう。しかし、現実には日々心の思いにおいて、ことばや行動において私たちは罪を犯します。この世界には不義がますます横行し、正義は廃れつつあります。悪人が栄え、義人が苦しむことも珍しくありません。
何故、神様は直接手を伸ばして私たちの心をきよめ、この世界を正し、改良されないのでしょうか。神様は私たちを、この世界を見放したのでしょうか。聖書は、それは違うと語っています。神様は、ご自分の計画を私たちとともに実現しようとしておられると教えているのです。
神様は、ひとりひとりがみこころと信じること、それを行うことを通して、私たちをキリストに似た者へと造り変え、この世界に神の国を広げようと計画しておられる。つまり、神様がひとりひとりの人生を、この世界を良いものとするために選んだ大切なパートナー。それが、私たちキリストを信じる者、神の国の民なのです。
皆様は、私たちに対するこの神様の恵み、神様の期待をどれほど感じているでしょうか。この恵み、この期待を覚えて、主の祈りを祈る者でありたいと思います。
そして、聖書において示された私たちの生き方についてのみこころの中心にあるもの。それが、神様への愛と隣人に対する愛でした。聖書の中で最も大切な戒め、教え、みこころは何かと尋ねられたイエス様はこう答えています。
マタイ22:37~40「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
私たちがなす決断や行動は、それが小さなことであれ、大きなことであれ、すべて神様への愛と隣人への愛に基づくものであれ。これがイエス様のメッセージ、私たちに示された絶対的なみこころでした。
しかし、このみこころを現実の生活の中で実行しようとすると、私たちは、置かれた状況で、自分に対する神様のみこころを考える必要があります。今、ここで、愛すべき隣人は誰か。どのような方法で助けたら良いのか。自分が使うことのできる賜物はなにか。時間はどれぐらいあるのか。相手の思いや必要をよく理解する必要もあるでしょう。自分が行おうと考えていることをどう思うのか。信仰の仲間に相談して、アドバイスをもらうことが良い場合もあると思います。
この様に、生活の具体的な場面で、神様の自分に対するみこころを考え、何ができて何ができないかを判断し、自分のなしうる最善を尽くすことの大切さを教える。そのために語られたイエス様の例え話があります。
10:30~37「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
このお話を読んで、皆様は自分の生き方が誰に重なるでしょうか。自分の安全を守るため人の厄介ごとには巻き込まれたくないとばかり、傷ついた旅人を無視し、道の反対側を通り過ぎて行った祭司やレビ人か。それとも、自分に対するみこころを考え決断し、なしうる限りの最善を行って旅人を助け、立ち去ったサマリヤ人でしょうか。
「あなたも行って同じ様にしなさい」と言うイエス様のことばを聞いて、皆様ならこの教えをどう現実に適用するでしょうか。病んでいる兄弟姉妹を病院にお見舞いに行こうとする人がいるかもしれません。仕事で疲れ、心傷ついた友の話に耳を傾ける時間を取ろうと考える人もいるかもしれません。あるいは、人々を支える医療の仕事をしようと思う人、人々が安全に暮らせるよう治安を守る仕事に就きたいと考える人もいるでしょう。ナイチンゲールが戦場で戦い傷ついた兵士たちのため、敵味方の区別なく収容する病院、赤十字病院を作ろうと考えた時、心にあったのはこの物語とも言われます。
または、自分の家を心傷ついた人々の休みの場として提供する人もいるかもしれません。勿論、その様な人のために祈る、手紙を書くと言うのも良いことだと思います。自分が行ったことのない国に住む隣人、飢餓と貧困に苦しむ人々のために献金すると言うのも良いでしょう。
いずれにせよ、私たちにとって身近な人々のことも、この世界のことも、神様の愛の眼でみること。今、ここで、何をすべきか。何を持って人を助けることができるのか。自分に対する神様のみこころは何なのか。私たちはそれを考え、みこころと信じるところを実行する者となりたいと思うのです。
ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
このことばは、神様のみこころを考え、知る時、私たちは心の一新によって自分を変える必要があると教えています。ですから、もしイエス様の例え話を読んで、自己中心の祭司やレビ人を批判することで終わるなら、私たちは神様のみこころに従っていない事になります。
私たちにとって、みこころに従っていないように見える配偶者や隣人を批判するのは簡単なことです。福祉対策に熱心でないように見える政府を批判するのも同様です。変わるべきは周りの人々や政府であって、自分自身ではないと考えている傍観者、評論家に、私たちはなりやすい者です。
しかし、神様が求めているのは、今、家庭で、地域で、教会で、広くこの世界で、自分に対する神様のみこころは何かを具体的に考えること、つまりどこまでも自己中心でいつづけようとする私たち自身を変えることなのです。
私たちは罪人です。病気になったり、ストレスを抱えると、人のことを思いやる心の余裕をすぐに失ってしまいます。為すべきと思うことをできない言い訳を沢山考えます。誘惑に屈して自分の無力を感じ、心落ち込むこともあるでしょう。子どもを怒鳴ってしまったり、大切な人を傷つけたり、数えきれいない程間違った選択をしてきた者です。
神様を信じているからと言って、自分が道徳的に優れているなどと主張することはできません。むしろ、どうしようもなくなり、神様のところに行き、絶えず助けを求めなければならない存在ではないでしょうか。
その様な時こそ第三の祈願に帰りたいと思うのです。「神様。こんな罪人の私もあなたに救われ、神の国の民の一員として頂きました。今、ここで私がなすべきみこころを教えてください。それを行う思いと力とを恵んでください」。
ただ漠然とみこころがなりますようにと願うのではなく、現実の生活の中で自分に対するみこころを考え、行うこと。失敗したら神様のもとに行き、赦しと助けを受け取ること。そこで、自分のどこを変えればよいのかを考え、改めること。自分の人生に、広くこの世界に、神様のみこころが実現することを何より願う者として、日々歩みたいと思います。
先月長老研修会が行われました。そこで講師の児玉先生が言われたことが今も心に残っています。何故、初代教会に対してローマ帝国の人々は心引きつけられたのか。人々を引き付けたのは建物でもプログラムでもない。その頃誰も行おうとしなかった貧者救済、病気の人に仕えること、物や機械の如く扱われていた奴隷たちを、神様に愛されている人間として接すること等、教会が教会としてなすべきみこころに徹したから。今の長老教会はどうだろうか。愛のわざによる地域社会への影響力はいかにと言う、心刺される締めくくりでした。
最後に、食べ物のことを心配する弟子たちに向かい、イエス様が語ったことばを、今日の聖句ととして読みたいと思います。
ヨハネ4:34「…「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
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