聖書は繰り返し「神様を信頼する」ように教えています。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」とか「どんな時にも、神に信頼せよ。」と直接的に言葉で勧める箇所もあれば、出来事を通して主を信頼することがいかに大事なことか、あるいは神様を信頼しないことがいかに危険なことか教える箇所もあります。「神様を信頼する」というのは聖書の中心的テーマの一つ。
しかし、自分が神様を信頼出来ているか、正しく判断することは意外と難しいことです。人に信頼を置かないように教えられていますが、これは誰とも信頼関係を築いてはいけないという教えではありません。本来、神様にのみおくべき信頼を、人間相手に持たないように。金銭に信頼を置かないように教えられていますが、金銭を一切持たない生活が勧められているわけではありません。金銭を正しく管理すること、金銭を第一としないように教えられているのです。神様を信頼するとは、自分は何もしないということでもありません。受験や仕事の成功を祈り、あとは何もしない。回復を願ったのだから、薬も飲まない、病院にも行かないということが、神様を信頼している証ではありません。
「神様を信頼する」とは、絶対的な信頼を、神様にのみ置くこと。そして自分のなすべきことをわきまえて、取り組むこと。言葉としては、このようにまとめることが出来ますが、実際にこのように神様を信頼出来ているのか、自分で判断することは難しいのです。
出エジプトの際、前に海、後ろにエジプト軍、絶体絶命のイスラエルの民に対して、モーセが言ったことは「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」でした。この時、神の民が取り組むべきは、黙ること。一方でダビデが巨人ゴリヤテと一騎打ちに臨む時、「この戦いは主の戦いだ。」と叫びましたが、武器を選別し、ダビデ自身がゴリヤテを倒しました。同じ主の戦いでも、なすべきことが異なるのです。
このように考えますと、神様を信頼するとは具体的にどのような生き方なのか。今自分は、神様を信頼する歩みを送っているのか、よく考え、よく顧みる必要があることが分かります。
断続的に行ってきた一書説教、今日は三十三回目。聖書は全部で六十六巻ですので、今日の一書説教で折り返し地点。ここまで四年半かかりましたが、皆様とともに一書説教の歩みが進められていることを大変嬉しく思います。
開くのは旧約聖書第三十三の巻き、ミカ書。近隣列強が力を増し、国家存亡の危機を迎える時代。何に信頼を置いたら良いのか、多くの人が混乱していた時代。そこに、「信頼すべきは誰か」を訴える預言者ミカの言葉が響くことになります。かつて神の民に語られた言葉ですが、同時に今の私たちに語られている言葉として受け取ることが出来ますように。自分は何に信頼を置いて生きているのか。神様を信頼するとはどのようなことか、ミカ書を通して考えることが出来ますように。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。
それでは預言者ミカが活動したのは、具体的にはどのような時代だったでしょうか。
ミカ書1章1節
「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。」
ミカが預言者活動をしたのは、三人の王、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代。(同時代、同じ南ユダで活躍したのがイザヤとなります。ミカとイザヤは相互に影響を与えたと考えられています。)
ヨタム王の時代、前王ウジヤの影響もあり、南ユダはまだ繁栄の中にありました。ヨタム王自身も「主の目にかなうことを行い・・・勢力を増し加えた。彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたから。」(Ⅱ歴代誌二十七章)と言われる善王。しかし国際情勢は、強国アッシリヤが力をつけはじめ、緊張が高まり始めた時期でもあります。(北イスラエルのペカ王は、反アッシリヤ政策をとり、近隣諸国に反アッシリヤ同盟を持ちかけます。後に、反アッシリヤ同盟に加わらないアハズに対して、ペカは戦争を起こします。)このヨタム王、二十五歳で王となり、十六年間の治世。その父ウジヤの五十二年間の治世と比べて三分の一以下。四十一歳にして死にます。聖書には死因が記されていなく、若くして一体何があったのかと思うところ。
続くアハズが大問題の王となります。二十歳という若さで王となり、十六年間の治世。宗教的な堕落。アッシリヤが力を増す中で、親アッシリヤ政策を採り、同盟というよりは自らその支配下に下る歩みを選択します。聖書の観点からは残念な歴史。アハズ王がアッシリヤにへつらう姿が、聖書に記録されていました。
Ⅱ列王記16章10節~12節
「アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。」
アッシリヤの支配下に下るというのは、貢物を納めるだけでなく、アッシリヤの宗教を取り入れる意味もあった。王自ら率先して、アッシリヤの祭壇作成を行います。
こうなると、前王ヨタムの若すぎる死が悔やまれるところ。二十歳で王となったアハズは、それまでどのような教育を受けたのか。周りにいる家臣は、どのような人たちだったのか。ある人は(サムエル・シュルツ)、エルサレムの親アッシリヤ派の人たちが、アハズが王となるようにしたと考えますが、十分あり得ることでしょう。この時代、信仰は衰退し、力ある者と仲良くなること、力を得ることが第一とされました。神の民の歴史として、実に残念なところ。国が残るために何をすべきなのか、繁栄するためには何が必要なのか、大混乱の時期。
アハズに続くのが、ヒゼキヤ王。歴代の南ユダの王の中でも、信仰的な王、善王として名高い人物。アッシリヤに追従することを止め、神殿の宗教改革を行います。アッシリヤに歯向かったため、攻撃されることになるも、神様を信頼して奇跡的な大勝利を手にする王。よくぞ、この国家的存亡の危機になる中で、ヒゼキヤが王となったと思える人物。
ところでヒゼキヤが、なぜこうも信仰的な歩みを送ることが出来たのか。そこには、ミカの働きを認めることが出来ます。
エレミヤ26章18節~19節
「「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」」
預言者の言葉を聞かない王が多い中、ヒゼキヤとその時代の民は、ミカの言葉で悔い改めたという貴重な記録です。それはそれとしまして、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと色が異なり、政策も正反対となる王が立ち並ぶ。アッシリヤの脅威が増し、実際に北イスラエルが滅びる中で、一体何に信頼を置いたら良いのか。王も人々も混乱した時代に預言者として立てられたのがミカでした。
その預言の内容は、罪の指摘、裁きの宣告と、慰めや希望の言葉が一つの組み合わせとなり、大きく三つのメッセージが合わさり、ミカ書となっています。
(第一のメッセージが一章から二章。第二のメッセージが三章から五章。第三のメッセージが六章から七章です。)
それでは、ミカが主に指摘した罪とは何でしょうか。(勿論、色々な罪を指摘しているのですが、大きくみますと)権力者、地位ある者に対する断罪が多く記録されています。(権力者、地位ある者たちに対する断罪が多いため、ミカは弱者に寄り添う預言者と評する人もいます。)
ミカ2章1節~3節
「ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。』」
ミカが活躍した時代の中でも、特にアハズ王の悪行は聖書に記録されていますが、王だけが悪かったのではありません。王の悪影響が民に出たのか。民の悪が王に影響を与えたのか。その両方なのか。
力ある者が、さらに力を欲しがる。何を信頼したら良いのか多くの者が分からなくなった時代、ミカは権力を得れば安心という思想に楔を打ち込みます。悪人が寝床で悪巧みを計れば、主もまたその罰を計るという知らせ。より権力を得ようと躍起になる者たちへの断罪の言葉が響きます。どれ程力を得たところで、神様に敵対する事ほど、危険なことはないのです。
また預言者に対する宣告も繰り返し出てきます。
ミカ3章5節~7節
「預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、『平和があるように。』と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。」
自分に対する贈り物を持って来る者には平安を祈るが、何も持ってこない者には聖戦を布告したという。宗教を食い物にする預言者たち。唖然となる有り様。自分に与えられた使命を無視し、その立場を自分のためだけに使う悪。その結果、預言者自身が不幸になるだけでなく、神の民が神の言葉を聞くことが出来なくなる。混乱の時代に、ますます混乱が加わるのです。
このような現実を前に、ミカは北イスラエル(サマリヤ)も、南ユダ(エルサレム)も滅びると宣言します。(北イスラエルの滅びは、ミカが生きている間に実現します。)
ミカ1章6節、9節
「わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。・・・まことに、その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。」
神の民が、神様を信頼することなく、自分の幸せのみを求める生き方となっている。そのため、神の民が滅びてしまう。世界を祝福する使命が与えられ、奴隷から助け出され土地が与えられ、ダビデの王位は続くと約束を受け、神様の宝の民と呼ばれた神の民が滅ぶ。絶望的な話。(エレミヤは、ユダの滅亡を預言する際、泣きながら預言しました。ミカも、その宣告を告げる際には、衣を脱ぎ捨て、裸足で歩いて、嘆き、泣き喚いたと記録されています。)
それでは、ミカが告げた慰めや希望の言葉は、どのようなものでしょうか。
重要な内容の一つは王、支配者についての預言。ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと、それぞれの王の時代を生きたミカは、王が国にもたらす影響力の大きさを目の当たりにし、本当の慰め、回復には、真の王、真の支配者が必要であること。その支配者の誕生を予告します。
ミカ5章2節
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
繰り返し堕落し、繰り返し神様以外のものに信頼を置く神の民。その神の民を助け出し、導くのに必要なのは、真の支配者、真の王。その王が生まれることの宣言です。それも永遠の昔からの定めであると言われ、人間の歴史がどのようなものであれ、神様の計画は微動だにしないと確認されます。
このように、神の民が本来の使命に生きるためには、真の支配者が必要であることを確認するミカですが、それでは神の民自身は何も取り組まなくて良いのかと言えば、そうではない。神の民が取り組むべきことも語られていました。
ミカ6章6節~8節
「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
何を頼りに生きれば良いのか分からない。混乱の時代にあって、今一度、神様を信頼する道を示すミカの言葉。神様は、どのようないけにえよりも(それも子どもをささげるというのは異教の風習であったもので、神様が喜ばれるわけがないのですが)、公義と誠実、謙遜と信仰を求めておられる。形式よりも、真実な歩みを求められている。ホセアが告げた「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」との言葉と共鳴します。私たちにとって最も大事なこと。最も優先すべきこととして、この言葉を覚えたいと思います。
以上、簡単にですがミカ書を確認してきました。是非とも、ご自身でミカ書を読んで頂きたいと思います。
国際情勢が不安定になり、皆が我先にと自分の安全を手にしようとする状況。権力者、力ある者はますます力を手に入れ、弱き者はますます虐げられる。正しいこと、真実なことは後ろに下がり、利己的な生き方が前面となる。このように見ていきますと、ミカの生きた時代は、今の私たちの時代とかけ離れているどころか、似通っているように思います。果たしてこのような時代にあって、神の民はどのように生きたら良いのか。真に神様を信頼するとは、どのような生き方なのか。
何を信頼したら良いのか分からない。混乱が増す時代にあって、神様以外のものに信頼を置くことの危険性を必死に訴えたミカ。私たちもミカの言葉に心のうちを探られて、自分は何に信頼をおいていたのか、真剣に確認したいと思います。
神様が私に求めていることは何か。主を信頼するとは、今の私にとってはどのような生き方なのか。皆で深く考え、実践することが出来るようにと願います。
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