2016年12月4日日曜日

ルカの福音書1章57節~80節「アドベント(2)~ザカリヤの応答」



今日はアドベント、イエス・キリストの到来を覚える礼拝の二回目となります。今年のアドベントから降誕までの説教のテーマは「良き知らせ」。先回は、皆様にこの一年どの様な良い知らせを受け取ったのか、考えてもらう様お勧めしました。

私自身もこの一週間、身近な所から、また世界から届いた様々な知らせについて振り返ってみましたが、一つ気がついたことがあります。それは、今の時代、私たちの元には余りにも多くの知らせが届くため、それらについて思い巡らしたり、深く考えたりすることが非常に難しいと言うことです。

届いた知らせに一喜一憂することはあっても、いつの間にか心の中から消え去ってゆく。そんな知らせが多かった気がします。もしかすると、大切な人から大切な知らせを受け取っていたかもしれないのに、目先のことに心奪われ、それを十分受けとめないまま、時間だけが過ぎてしまったのではないかと言う残念な思いが心に残っています。

何が受けとめるべき知らせなのかをよく考える。その知らせが自分にとって、身近な人にとって、この世界にとって、どのような意味を持つのか深く思い巡らす。その様な時間を持つことがより一層大切な時代に、私たち生きているのではないかと思います。

ところで、先回と今日のお話の主人公ザカリヤは、ザカリヤ自身にとっても、ユダヤの人々全体にとっても非常に大切な知らせを受け取りました。神殿で栄誉ある奉仕をしていた時、御使いが現れ、年老いたザカリヤ・エリサベツ夫婦に男の子が生まれること、名をヨハネとつけること、この男の子が成長し、救い主の先駆けとして活躍することが告げられたのです。

しかし、ザカリヤはこの良き知らせを信じ切ることができず、その為に口を開くことができない、不自由な生活を強いられることになった。これが、先回までの流れです。

今日は、月満ちてザカリヤの妻エリサベツが男の子を産むと言う喜びの場面から始まります。ザカリヤが不自由な生活を強いられてから、およそ10か月後のことでした。

 

1:57~61「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。」

 

子どもが生まれたと聞いて、近所の人や親戚がお祝いに駆けつける。赤ん坊を真ん中にして人の輪ができ、笑顔が広がる。子どもの誕生は誰にとっても嬉しいもの。けれども、特に年老いたザカリヤとエリサベツ夫婦にとって、また、二人の苦労を知る知る親しい人々にとっては、一際嬉しい日であったでしょう。

しかし、そんな喜びも一段落。男の子が生まれて丁度八日目、人々は驚くことになります。当時の一般的な風習だったのか、それともザカリヤ、エリサベツの親族の習慣であったのか。人々はお父さんの名にちなみ、幼子にザカリヤと命名しようとします。

それに対して、エリサベツは「いいえ、ヨハネと言う名にしなければなりません」と反対を表明。「あなたの親戚にも、そんな名前の人はいないじゃないか」と反論する人々と押し問答となります。「それじゃあ、ここはお父さんに決めてもらおう」と考えた人々は尋ねます。

 

1:62~65「そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。」

 

「幼子の名前は何にしますか」と、人々が身振りで尋ねたところを見ると、ザカリヤは耳で聞くこともできない状態に置かれていたのでしょう。そこで、口をきけないザカリヤが、板を取り出し、「彼の名はヨハネ」と書き記したその瞬間、ものが言えるようになったのを見て、人々は神を恐れ、名前の問題は一件落着となりました。

私たちはここに、口と、恐らく耳をも閉じ、ザカリヤに不自由な生活を強いた神様の行動が、実はザカリヤのための恵みの訓練であったと見ることができます。

長い間祭司として忠実に神に仕えてきたものの、自分とユダヤの民を祝福する神様の良き知らせを信じ切ることができなかったザカリヤ。厳しい現実の中で、小さく固まってしまっていたその信仰を大きく開くために、神様は訓練と言う恵みをザカリヤに与えたのです。

口と耳を閉じられると言う不自由な生活の中、ザカリヤは大きくなってゆく妻のお腹を見ながら、良き知らせを思い巡らしたでしょう。救い主に関して神様がこれまで告げられたことばについて考え、神様の力、愛、真実を思い、その実現を確信するに至ったと思われます。

周りの人が反対しても、断固「子どもの名はヨハネ」と書き記したその行動からは、彼らが神様の良き知らせを受け入れたこと、神様を信頼している様子が伺われます。

つまり、ザカリヤが神様のことばを良き知らせとして、心から受け入れるには、神様のことばを思い巡らし、神様がどのようなお方なのかよく考える時間が必要だったのです。今、私たちのもとには、救い主誕生の知らせだけでなく、救い主が誰で、どのようなお方で、何をされたのか。その良き知らせが届いています。

私たちも、受け取った知らせを良き知らせとして受けとめるため、イエス・キリストについてのことばを思い巡らし、その意味を考える時間を持つこと。ザカリヤから教えられたいと思うのです。

こうして、良き知らせで心満たされたザカリヤの口から、賛美と預言のことばが溢れでます。先ずは、イスラエルの民を顧み、救い主を与えて下さる神様への賛美です。

 

1:67~75「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」

 

ザカリヤが属するイスラエルの民は、神の民として選ばれ人々。神様のことばを受け取り、それを記録してきました。それが旧約聖書です。旧約聖書には、救い主に関する様々なことばがあり、イスラエルの民はそれを通して来るべき救い主を待ち望んできたのです。

ザカリヤは「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに」とか、「主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」と語りました。父祖アブラハムの時代から続いてきた民の歩みを振りかえり、神様が約束を忘れず、実現してくださる真実なお方であることを確認しているのです。ついに救い主が到来し、民を救って下さる時が来たと言う、ザカリヤの心に高まる期待感を、ここに見ることもできます。

そして、神様による救いを、ザカリヤは「贖い」と言いました。これを「救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救い」と言い換えてもいます。贖いとは、束縛状態にあって苦しむ人を、代価を払ってそこから救い出し、解放することを意味します。

ザカリヤの時代の人々、また、現代の私たちは何によって束縛されているでしょうか。当時ユダヤの人々はローマ帝国の支配下にあり、その圧制に苦しんでいましたから、ユダヤ人にとっては、救い主が敵であるローマからの解放を実現することの預言と受け取れます。そうだとすれば、この預言はその時代で実現して終わり。今の私たちには関係がないことになります。

しかし、聖書は、贖いを、私たち人間の心を深い所で束縛している罪の力からの解放をと教えています。ザカリヤが言う様に、私たちが、正しく、きよく、神様に仕える生活を送ること、つまり神様との正しい関係、神様との親しい関係に生きることを妨げる敵として罪の力が描かれているのです。

聖書は、私たちを、怒りや憎しみの感情に束縛されやすい存在、金銭や物質への欲望、快楽に束縛されやすい存在、思い通りに物事や人を動かしたいと言う願いに束縛されやすい存在であることを教えています。人間は、それらの束縛から、自分の努力で自由になれない悲惨な存在であるとも語っています。

ザカリヤは、神様が与えて下さる救い主を「救いの角」と呼んでいます。「角」は力を意味しますから、「救いの角」は力強い救い主のことと考えてよいでしょう。また、救い主は「しもべダビデの家」に立てられたとも言われています。これは、救い主イエス・キリストの父ヨセフが預言の通りダビデの子孫であることを示すものでした。

私たちは、キリストが力強い救い主として、ご自身の命を十字架にささげて、ユダヤの人々を、私たちを罪の力から解放し、神様との正しい関係、親しい関係に入れてくださったことを、ここで確認したいと思います。

こうして、神様の恵みを賛美したザカリヤは、今度は妻のお腹の中にいる我が子に顔を向け、語りかけます。我が子ヨハネとヨハネが指し示す救い主についての預言です。

 

1:76~80「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」

 

ヨハネは救い主のために道を備え、人々に罪の赦しによる救いについて教えると言われています。つまり、ヨハネは、イエス・キリストの救いとは罪からの救いであることをはっきり語ることを最大の使命とする預言者でした。

皆様は「救い」と聞くと、どんなことを考えるでしょうか。ザカリヤの時代の人々でしたら、ローマ帝国の支配からの解放と言う政治的な救いを願うでしょう。病気による痛みからの解放、健康の回復を救いとして願う人もいるでしょう。貧しさからの救い、経済的な豊かさを救いと考える人もいるでしょう。人間関係の苦しみ、悩みからの解放を救いと考える人もいるのではないかと思います。

しかし、神様の目からみる時、救いに関して尤も根本的な問題は罪であることを、ザカリヤの預言は教えているのです。神中心ではなく、自己中心に生きる罪が、支配する者と支配されるものと言う人間関係を生む。持てる者が持たざる者を顧みない社会を生む。人間の罪に対する罰として病や死の苦しみがあると、聖書は語っていました。

ヨハネの働きは、人々にとって最も重要な問題は罪であることに気づかせること、罪からの救い主イエス・キリストへと、人々を導くこととザカリヤは告げています。これが、預言の最も大切なメッセージでした。

さらに、ザカリヤは「暗黒と死の陰に座る者たち」について語っています。これは、荒野を行く旅人が夜の闇につかまり、恐れと不安の中身動きできず、座り込んでしまうしかない姿を、罪に束縛された私たちの姿に重ねたことばです。

しかし、そこに朝日が昇るとどうなるでしょうか。朝の光を受けた旅人の心は活力を回復します。進むべき道を見出し、そこに進み行く勇気と希望を与えられます。罪に束縛された私たちにとって、イエス・キリストは朝日のような存在です。イエス・キリストによって罪の赦しの恵み、神の子とされる恵みを受けた私たちは、神様を愛する人生、人を愛する人生、つまり平和の道を歩むことができるのです。

以上、良き知らせに対するザカリヤの応答、ザカリヤの賛歌を見てきました。最後に、短くふたつのことを確認したいと思います。

第一に、私たちはキリストを信じる者として、今この地上で、どれ程大きな恵みと祝福を受けているのかを確認し、感謝をささげたいと思います。どんな罪も赦し、私たちを受け入れてくれるキリストの愛。神様と親しい交わりができる恵み。心から神様に仕え、人に仕えることのできる平和な心と言う恵み。自分の罪の酷さを見つめる時、その様な恵みを受けるに値しないと感じ、畏れる私たちに、神様はいかに良くして下さったか。どれ程恵みを注いでおられるのか。このアドベントの季節、私たち何度でもこの恵みを確認し、感謝し、賛美する時を持ちたいと思います。

第二に、ザカリヤの預言に示された祝福が、すべての神の民とこの世界に実現するため、もう一度来られるイエス・キリストを待ち望むことです。ザカリヤの預言は実現しましたが、未だ部分的です。未だ私たちの内に罪は残っています。この世界も罪に大きく影響されています。身近な所からも、海の向こうからも様々な悲しい知らせが届くのが、私たちの現実です。それにもかかわらず、私たちが失望しないのは、キリストがもう一度この世界にきて、救いを完成してくださると言う、神様からの良い知らせをもっているからです。

今キリストを信じる者に与えられた恵みを味わうこと。再びこの世界に来られるキリストを待ち望むこと。二つのことに心を向ける歩みを、私たち皆で進めてゆきたいと思います。

 

コロサイ316「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 

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