2016年12月11日日曜日

ルカの福音書1章26節~38節「アドベント(3)~マリヤへの良き知らせ~」


今日はアドベント、イエス・キリストの到来を覚える礼拝の三回目です。今年のアドベントから降誕の説教のテーマは「良き知らせ」。第一回はザカリヤへの良き知らせ、第二回はザカリヤの応答を扱いました。今日の第三回はマリヤへの良き知らせとなります。

最初に救い主誕生に関する良き知らせを聞いたのは、経験豊かな祭司、人々から信頼されていたザカリヤ。場所はユダヤの都エルサレムの神殿。人々が長い間待ち望んできた救い主到来の知らせを受け取るのにふさわしい人物、ふさわしい場所と思われます。

しかし、それから六か月。御使いが救い主到来という重大な知らせを届けたのは、意外な場所に住む、意外な人でした。

 

1:26,27「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」

 

神様が御使いガブリエルを遣わされた町はガリラヤのナザレ。ユダヤの都エルサレムからはるか北にある田舎でした。当時、人々のガリラヤ、ナザレに対する評価は非常に低いものだったようです。「ナザレから、何の良いものが出るだろう」とか「まさか、キリストはガリラヤから出ることはないだろう」と、この地方を馬鹿にする人々のことばが、聖書にも残っています。ガリラヤには、農民や漁師として働く無学な人が多く、異教の影響もあったため、偉大な人物など、まして救い主など出るはずがないと思われていたのです。

しかも、御使いが向かったのはヨセフと言う人のいいなずけ、マリヤと言う女性です。いいなづけのヨセフは、歴史上最も有名で偉大なダビデ王の家系とは言え、それは昔々の話。かっての栄光は影もなく、ヨセフは貧しき大工、平凡な庶民の一人にすぎませんでした。

また、その頃、ユダヤの女性は14歳から16歳で婚約するのが普通でしたから、マリヤはまだ十代半ばの女性。そんな二人の子どもに、一体誰が目をとめるだろうか。もし、マリヤが「救い主を身ごもりました」と言ったしても、一体だれが彼女のことばに耳を傾け、信用するだろうか。そう思われます。

事実、多くの人が祭司ザカリヤの子ヨハネの誕生を期待したのとは対照的に、マリヤの子イエス様の誕生に期待し、目を向ける人は誰もいなかったのです。

それでは、何故神様は良き知らせを、世間か馬鹿にされ、見下されていた地方に住む者にに届けたのでしょうか。どうして救い主を産むという大切な働きを、人々から信用されにくい若い処女、貧しき大工のいいなづけマリヤに託したのでしょうか。

私たちはここに、一部の権力者や知者、宗教家だけでなく、全ての人を救いに招く神様の広き愛を見ることができます。むしろ、名もなき人、貧しき者、世間から軽んじられ、見下されている弱者にこそ向けられる神様の愛を見ることができますし、見るべきでしょう。

この神様に愛されている者の一人であることを喜ぶととともに、果たして、自分の愛はどの様な人々に向いているのか、私たち一人一人心に問われるところです。

そして、御使いはマリヤにこう告げました。

 

1:28、29「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」

 

「主があなたとともにおられます」と言うのは、神様が特別に親しくその人を守り導いてくださると言う祝福のことばです。同時に、神様が大切なことをその人に託する時、語られることばでもありました。果たして、自分の様に経験に乏しく、社会的な肩書も、教養もない者に、神様は何を期待しておられるのか。マリヤはひどく戸惑ったとあります。

 

1:30~33「すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 

御使いは、マリヤが男の子を身ごもると告げ、生まれた子どもに「主は救い」と言う意味の「イエス」と名をつけよと命じました。その子がいと高き方、神様の子と呼ばれるほど、神様を愛し、神様に従い、力あるわざを為す「すぐれた者」になるとも語っています。

さらに、その力あるわざとは何かと言えば、イエス様がダビデの王位について神の国の王となり、とこしえにヤコブの家即ち神の民を治める者となると預言しました。これらのことは神様からの約束として、旧約聖書で繰り返し語られてきましたが、ついに約束実現と言う良き知らせが、ザカリヤに次いでマリヤにも届いたことになります。

ザカリヤもマリヤも、救い主の到来を待ち望む者の一人でした。しかし、ザカリヤは年老いた妻が救い主のために道を備える預言者を産むと言う知らせに驚きました。それに対してマリヤの場合には、いいなづけのある身で救い主ご自身をみごもると知らされたのですから、その驚き、その畏れたるや、どれ程のものであったかと思わされます。

 

1:34~35「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言うことばは、神様はどの様にして処女である自分から男の子を出産させようと考えておられるのか、教えて欲しいと言う、マリヤの切なる思いの表れと考えられます。

一人の処女が男の子を産み、この子が成長して救い主となる。これも、旧約聖書で預言されていました。いわゆる処女降誕の預言です。人類の歴史の中で、マリヤしか経験していない奇跡を前にして、彼女が不安を覚えたとしても、それは理解できます。

聖書は、神様の前にすべての人が罪人と教えています。罪人には他の人を罪から救う資格も能力もありません。ですから、罪人が罪から救われるためには、罪なき人、神様のみこころに完全に従うことのできる聖なる人間が必要となります。その為に、処女降誕と言うただ一度の奇跡が必要だったのです。

マリヤがみごもる間、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」と御使いは言いました。いと高き方つまり聖霊の神様がマリヤをおおうと言われた時の、「おおう」ということばには、「保護する、守る」と言う意味があります。聖霊の神様に守られ、イエス様は罪なき人間としてマリヤの胎に宿ることができたということです。

この処女降誕の奇跡は、私たちに何を語っているのでしょうか。神様が罪の中に生きる人間を見捨てることができず、わざわざ救い主を与えて下さる。それも私たちと同じ人間の姿をした救い主、私たちが近づきやすく、親しみやすい救い主を与えて下さる。それほどに、私たちのことを心にかけてくださる神様の愛を、私たちこの奇跡を通して受け取りたいと思うのです。

ところで、出産については、神様が守ってくださると聞いてホッとしたものの、マリヤの不安がすべて解消されたわけでは、ありませんでした。御使いは心細いマリヤを励ますべく、親戚のエリサベツの存在を告げています。

 

1:3638「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」

 

祭司ザカリヤの妻エリサベツの場合は、処女降誕ではありませんでした。けれども、常識では考えられないような状態、年齢でみごもると言う神様の奇跡がなされたと言う点では共通しています。

事実、この後、マリヤはエリサベツを訪問し、共に励まし合う交わりの恵みを経験することができました。そして、マリヤの心を静め、励ます御使いのことばは「神にとって不可能なことはひとつもありません」において、頂点を極めます。

この知らせを聞いて、応答したマリヤのことば。それが「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言う有名な信仰の告白でした。

もし、私たちがマリヤの立場にあったとしたら、どう応答したでしょうか。この時マリヤはヨセフと婚約中でした。当時の婚約は、未だ同じ家での生活を許されていないと言う点を除けば結婚と同じ重みのある関係です。お互いが夫として、妻として行動する責任が求められる重大な、準備の時期を、マリヤは過ごしていたのです。

その様な時期に子をみごもり、お腹が大きくなって来たら、愛するヨセフとの関係はどうなるのか。周りの人からはどうみられるのか。旧約聖書には、婚約中の女性が男性と性的関係を持った場合、ふたりとも死刑と言う律法がありました。当時、それが常に文字通り行われていたわけではないと思われますが、それにしても、」みごもったマリヤに対する人々の視線が厳しく、冷たいものとなることは容易に想像できます。

ですから、マリヤが御使いに「どうか、その様なことはしないでください。私の幸せを壊さないでください」と叫び、訴えたとしても、無理はないと思います。神様のことばが実現するより、ヨセフとの結婚生活に何事もなく進んでゆく方が、はるかに好ましいと考えたとしても、よく理解できます。

しかし、マリヤは「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と応答しました。自分の考え、自分の計画よりも、神様の考え、神様のご計画をよしとしたのです。

マリヤの目には、自分が歩んで行くその道に、数々の困難や苦しみが見えていたと思います。しかし、そうであっても、神様が真実な方であり、自分と民全体のために最善のことを為してくださると信頼し、困難な道を歩み始めました。神様はこのマリヤを用いて、救いのわざを進めてゆかれることになります。

以上、今日私たちはマリヤに対する神様からの良い知らせを見てきました。皆様は、今日の個所を読み終え、何を思われたでしょうか。最後に、二つのことを確認したいと思います。

一つ目は、今日の出来事に込められた熱心、私たちの救いに関する神様のご熱心です。救い主到来と言う、この世界全体に対する大切な知らせを、名もなき人、貧しき者、世間から見下されていた者のところに届けてくださったのは、その様な者をこそ救いたいと言う神様の熱心の表れです。

救い主をこの世界に送ってくださるにしても、私たちが驚かぬよう、恐れ過ぎぬように、むしろ、近づきやすく、親しみやすいようにと赤ん坊の姿、人間の姿で送ってくださったご配慮。罪のない、聖い人間を救い主として誕生させるため、マリヤの出産を見守り、心細く、不安で一杯のマリヤを励まし続けたお姿。これらの行動にも、私たちに救に関する神様のご熱心を見ることができるのではないでしょうか。

私たち人間の側は、罪を悟ることにおいて本当に鈍い者です。罪からの救いを求める熱心にも欠けています。それにもかかわらず、神様の方は私たちの救いのために、これ程熱心に、これ程全力を尽くして下さっている。その神様のお姿を仰ぎ見、礼拝したいと思います。

二つ目は、神様を信頼して歩む道は、決して平坦ではないと言うことです。この時のマリヤがそうであったように、私たちの願いや計画と、神様のみこころがぶつかる時があるかもしれません。神様が進むように命じる道と、自分が進みたい道が異なる時、私たちはどちらを選ぶでしょうか。神様は真実で最善を為してくださるお方と信じていても、目の前に立ちふさがる困難と将来への不安が心を塞ぐとき、私たちは「あなたのみこころがこの身になりますように」と、神様に応答する事ができるでしょうか。今日の聖句です。

 

へブル10:36「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

私たちは神様の約束を信じています。しかし、神様の祝福を受け取るためには、忍耐が必要であることを理解しているでしょうか。聖書が勧める忍耐は、ただの我慢とは違います。マリヤがそうであったように、私たちの人生、家庭、私たちの住むこの世界に対する神様の祝福は必ずなると信頼すること、信頼しつつ自分に対する神様のみこころを行うために日々最善を尽くすことです。

お互いに助け合い、支え合いながら、私たちもマリヤのような信仰の歩みを進めてゆきたいと思います。

 

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