皆様は、働きを託されること、役割を与えられることは喜びでしょうか。嬉しいことでしょうか。
ガキ大将にあれを買って来いと、使い走りをやらされる。やりたくない家のお手伝いをさせられる。本来、自分の働きではない雑務を押し付けられるなど、働きや役割を託されることが嬉しくないことがあります。かたや、地位のある人に「あなただから任せます。」と働きが託される。非常に重要な役割を任せられることは、光栄なこと。嬉しいこと、感謝なことです。皆様はこれまでの人生で、働きを託されて光栄に感じたこと、喜びや感謝を感じたことはあるでしょうか。
聖書では、私たちの神様、世界の造り主であり、王の王である方が、私たち神の民に重要な働きを託していると教えています。地位が高いといって、これ以上高い位はないというお方が、「あなたに任せたい働きがあります。」「あなただから任せるのです。」と、私たち一人一人に使命を与えていると言うのです。この聖書の教えを真剣に受け止め、毎日を生きることが出来る信仰者は幸いです。
それでは神様から、私たち神の民に託される使命とはどのようなものでしょうか。
人が神様を無視した結果、人間も世界も悲惨な状態になりました。神を無視して生きる人間が増え広がり、ますます悪が広がる世界。この世界を良くするために神様がとられる基本的な方針は、神の民を通して世界を祝福するというものでした。
どのように生きたら良いのか分からなくなった人間に対して、毎朝九時になると「今日はどのように生きるべきなのか」天から神様の声が聞こえて来るとか、人が悪に走ろうとする度に、「やめよ」と天より神様からの語りかけがあるとか。私たちの神様は全知全能のお方ですから、そのようにして、世界を良くしていくことも出来ます。しかし、基本的にはそのようなことはされないのです。
神様を信じる神の民を通して、どのように生きたら良いのか分からない人間に、本来の生き方を示す。悪が広まる世界に「やめよ」と声を出すのは、神の民が取り組むこと。神の民は、言葉と行動をもって、神様を、救い主を宣べ伝えていく働きが託されているのです。
(世界を祝福する働きは、神様、救い主を宣べ伝える働きだけではありませんが、今日は伝道がテーマなので、主にこの部分に焦点を当てて考えていきます。)
ところで、神の民を通して世界を祝福するという神様の方針について、皆様はどのように思うでしょうか。
神様のお考えについて、私たちがとやかく言うのは、これ以上ない不遜であることは重々分かるのですが、自分の不甲斐なさを思うと、果たしてこの方針で良いのだろうかと首を傾げたくなります。特に新約の時代。復活されたイエス様が天に昇るのではなく、地上に残って伝道された方が、神の民がその働きをするより上手くいくはず。私が説教するのではなく、イエス様が説教された方が良いに決まっている。神の民が、言葉と行動をもって、神様と救い主を宣べ伝えていくのではなく、神様ご自身がそれをされた方が良いのではないかと思うのです。
しかし、この点について、イエス様はこれ以上ない程明確に答えを出しておられました。
ヨハネ16章7節
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」
復活の主イエスが地上に残り、一人で伝道活動をするのが良いのではない。むしろ、去っていくことが神の民にとって良いこと。キリストは天に昇り、助け主と呼ばれる聖霊なる神様が遣わされ、神の民が伝道することが、神の民にとって益なのだと言うのです。復活のイエス様が地上に残る。約二千年間、地上での歩みを送り、今も直接会うことが出来るお方がいることの方が、より伝道がうまくいくであろうと思うのですが、そうではないとイエス様は言われるのです。
神の民を通して世界を祝福するというのは、(表現が人間的で不適切ですが)神様がよく考えての方針。神の民である私たちにとっても、その方が良いと言われること。このように考えていきますと、改めて、キリストの証人として生きる使命が与えられていることの重要性が分かります。
ところで、私たちは「本当に」キリストの証人としての使命を与えられているのでしょうか。聖書のどの箇所から確認出来るでしょうか。
実に色々な箇所から確認することが出来ますが、今日は使徒の働きの冒頭に焦点を当てます。確かに「私」はキリストの証人という使命が与えられていることを皆で確認出来るようにと願っています。
使徒1章3節~7節
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』」
十字架での死と復活を経た主イエスは四十日の間、弟子たちに現れました。その具体的な場面は福音書にいくつも記されています。
ところで、福音書に記された復活したイエス様が弟子たちに会う場面。日時が記されているものは、全て日曜日ということをご存知でしょうか。起こった出来事が全て記されているわけではないですし、日時が記されていない場面もあるのですが、福音書全体からは、日曜日毎に弟子たちに現れた印象があります。そのため、イエス様は六週間に渡って、日曜日だけ弟子たちに現れたと考える人もいます。(そうだとすれば、六週目でイエス様の昇天、七週目で聖霊降臨となります。ただし、この考え方は、使徒の働き一章にある四十日を概数と受け取る必要があります。)
四十日の間、毎日のように弟子たちに現れたのか。日曜日毎だったのか。どちらにしろ、その時間は貴重なものでした。いよいよ弟子たちのもとを去り、天に昇られるイエス様から、直接教えを受ける最後の機会。おそらく多くの事が語られ、教えられたと思うのですが、使徒の働きではごく簡単にまとめられ、イエス様が弟子たちに命じたことは主に二つ。エルサレムから離れないように。聖霊を遣わす(聖霊のバプテスマ)という父の約束を待つようにとのこと。この二つです。
ところで聖霊が遣わされるのは、イエス様が去って行かれてからと教えられていました。ここでイエス様は聖霊を遣わすという父の約束の実現を待つようにと命じておられますが、それはつまり、自分はもう去っていくのだと言っていることになります。(弟子たちの応答を見ると、イエス様が語られた内容を理解していないように思いますが)自分はあなたがたのもとから去る。しかし、約束通り、助け主なる聖霊をあなたがたに遣わす。その実現をエルサレムで待つようにと命じられたのです。
ところでエルサレムというのは、弟子たちにとってどのような場所でしょうか。つい先ごろ、挫折した場所。皆が皆、イエス様を裏切った失敗の場所。しかも、主イエスを殺そうと企てた者たち、十字架につけろと叫んだ者たちがいる所。出来ればそこにいたくない。しばらくは近寄りたくないところ。何故、エルサレムに留まらなければならないのでしょうか。
十字架にかかる前、イエス様は聖霊なる神様が弟子にして下さることとして、次のように教えておられました。
ヨハネ14章26節
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
イエス様が弟子たちのもとを去ってから与えられる聖霊は、聖書のこと、イエス様のことを思い起こさせてくださる。たしかにこれも、聖霊なる神様が私たちに下さる大きな恵みの一つです。
聖書のこと、主イエスのことがよく分かる。これは非常に大事なこと。しかし、それだけであれば、弟子たちはエルサレムに留まっている必要はなかったと思います。どこで待つのでも良かったはずです。それでは何故、弟子たちはエルサレムに留まって、聖霊が遣わされるという約束が実現するのを待つ必要があったのか。
それに対する答えと、イエス様ご自身の約束として、もう一度聖霊が与えられることが告げられることになります。
使徒1章8節~9節
「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」
聖霊が遣わされると何が起るのか。(先に確認したように、イエス様のこと、聖書のことがよく分かるという恵みもあるのですが、それと同時に)力を受け、キリストの証人となる。イエス様のことを宣べ伝える力を得ることになる。そして、その働きはエルサレムから始まり、全世界へ広がって行くという約束です。まずはエルサレムから。そのため、弟子たちはエルサレムに留まるように命じられていたのです。
こうして、イエス様は天に昇られて、去って行かれた。後は約束の実現を待つのみとなります。それでは、このイエス様の約束はいつ実現したでしょうか。この時、弟子たちはどれ位の期間、エルサレムで待っていたのでしょうか。
この約束が実現した様子は、使徒の二章に記録されます。
使徒の働き2章1節~4節
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
イエス様が十字架につけられたのは、過越しの祭の時。あの過越しの祭から五十日後の祭りが、この五旬節の日です。(つまり、弟子たちは約束の実現を待つのに長くても十日。イエス様が弟子たちに現れたのが日曜日毎と考えると待っていた期間は一週間となります。)
過越しの祭も、五旬節の祭も、ユダヤ人の三大祭に数えられます。イエス様が十字架につけられた時、エルサレムは多くの人が集まっていたと思いますが、その時から直近で、最も多くエルサレムに人が集まる時。まさにこの時というタイミングで聖霊が遣わされるという約束が実現します。
弟子たちに聖霊が遣わされる。この最初の時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。
そのために、神様が用意して下さったのは、風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば、「言葉」だと思いますが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。(神様は必要に応じて奇跡を行われますが、これは最初の時で、弟子たちにはこのような奇跡が必要だったと考えられます。)
聖霊が遣わされ、弟子たちはキリストの証人として力を得て、具体的に何をしたのか。この日、ペテロは説教をし、その結果、三千人ものクリスチャンが生み出されることになります。大事件と言える伝道の成果。そのペテロの説教も使徒の働き二章に収録されています。さらに多くの苦難の中で、それでも弟子たちがキリストの証人として歩んでいく様が、使徒の働き全体の内容となり、是非とも読んで頂ければと思います。
それはそれとしまして、今日はこの聖霊が遣わされた日にペテロが語った説教の最後の言葉に注目して、説教をまとめていきたいと思います。
使徒2章38節~39節
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
聖霊が遣わされるという約束が実現した日。ペテロはその説教の最後の最後で、非常に重要なことを語ります。聖霊が遣わされる、キリストの証人という使命とその力が与えられるのは一体誰なのか。二千年前、イエス様と直接会った弟子たちだけに対する約束なのか。いや、そうではないというのが、この時のペテロの主張です。
聖霊が遣わされるのは私たちだけではない。悔い改め、キリストを救い主と認め、洗礼を受ける者。神の民となる者には、同じように聖霊が与えられる。この約束は、その場にいてペテロの説教を聞いている人たちだけでなく、その説教を直接聞くことが出来ない人たちでも、遠くにいる人たちでも、ともかく神の民になる全ての者に対する約束なのだと宣言されるのです。
主イエスを救い主と信じる者は、神の民とされ、聖霊が与えられ、キリストの証人としての使命と、その力が与えられる。この聖書の教えを受け取ることが出来るでしょうか。
以上、今一度、私たちはキリストの証人という使命とそれを果たす力を頂いていることを、聖書から確認してきました。
過ぎし一年、皆様はキリストを宣べ伝えることについて、どのように取り組んできたでしょうか。また、新たなこの一年、どのように取り組みたいと思うでしょうか。
出来るならば両極端を避けたいと思うのです。伝道すること、キリストの証人として生きることを、自分の力ですべきこととして、肩に力を入れて必死に取り組む姿勢。反対に、私がすることではなく聖霊なる神様がすることだから、特に何も考えない、なるようにしかならないという姿勢。
そのような両極端ではなく、キリストを信じる者には、キリストの証人となる使命と力が与えられる約束を信じること。本来の私にはキリストを宣べ伝える力などないけれども、聖霊なる神様がそのような私も用いて下さること。そのため、今生きている場所、遣わされている場所で、どのようにキリストを宣べ伝えるのか真剣に考えることに取り組みたいと思います。
私たち皆で、世界を祝福する者として、キリストの証人として生きる幸いを味わいたいと思います。
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