2017年2月12日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(29)~罪をお許しください~」


「赦し」は、古今東西文学、演劇、映画などにおいて一大テーマでした。友を裏切ったことに苦しみ、自ら命を絶つ主人公が登場する物語があります。加害者が法的な罰を受けても、謝罪をしても、なお怒りが収まらず、人を赦せないことに苦しむ主人公が登場する物語もあります。赦しとは何か、人間は本当に人を赦せるのか。赦されざる罪はあるのかないのか。様々な作家が赦しをテーマとする作品を書いてきました。

 今日、新聞の人生案内、人生相談の欄にも、親を赦せない子どもの怒り、配偶者の仕打ちに心を閉ざす人の苦い思い、血を分けた兄弟に赦してもらえない人の苦しみ、隣人の言動に傷ついた人の嘆き、あるいはそうした人にどう対応すればよいのか分からないと言う人の悩み等が頻繁に見られます。

 聖書においても同様です。「兄弟を何度まで赦すべきでしょうか」と尋ねた弟子ペテロに対し、「七を七十倍するまで」と答えたイエス様のことばを筆頭に、新約聖書には赦しに関する例え話、出来事、勧めや命令が繰り返し登場してきます。教会の交わりにおいても、赦しは非常に大きな問題であったことが分かります。

 私自身、「家族なら、あるいはクリスチャンなら赦すべき」等と簡単に言うことのできない、大変な苦しみを経験してこられた方々と交わる中で、人を愛するという神様のみこころにおいて、最も難しいのがこの赦しではないかと感じています。

 ですから、今日の説教が皆様にとって、特に赦しの問題で苦しんでおられる方にとって重荷ではなく、イエス様からの慰めまた励ましとなることを願い、お話させて頂きたいと思うのです。

 さて、今日取り上げるのは第五番目の祈りです。主の祈りは全部で六つ。前半が「御名があがめられるように」「御国が来ますように」「みこころがなりますように」と、神様のための祈り。後半は一転して、私たちの必要のための祈りとなっています。

 先週は、第四番目の「日ごとの糧を今日もお与えください」を学び、私たちの肉体の必要を知り、日常生活に必要な物を備えてくださる天の父の存在を確かめることができました。それに対して第五の祈りは、私たちの霊的な必要のため罪の赦しを祈り求めるよう、イエス様が教えてくださったものです。

 

 6:12「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

 

 「負い目」と言うことばは借金を意味します。イエス様の時代、人々は罪を神様に対する借金と考えていました。ですから、負い目と罪と置き換えてよく、実際にルカの福音書の「主の祈り」では罪と言うことばが使われています。

しかし、敢えてイエス様が罪を負い目、借金と表現したことには意味がありました。それは、どの様な罪であれ、私たちの犯す罪は神様に対する罪であり、この世の借金と同じく、私たちの罪も神様の前に精算すべき時が来ることを伝えたかったのでしょう。神様による最終的な審判の時に返済し、精算すべき借金。それが人間の罪と言う考えです。

それでは、神様に対して返済すべき責任のある借金、私たちの罪はどれ程のものなのでしょうか。果たして、私たちは自分の罪の酷さ、深刻さを正しく理解しているでしょうか。自分は神様のさばきに耐ええない者、滅ぼされて当然の者と言う自覚はあるでしょうか。

聖書の教える罪は、神様のみこころに反することすべてを指します。私たちがそれを罪と感じるかどうかではなく、神様のみこころに反する人間の思いや行動はすべて罪であるとイエス様は教えられました。

 

5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 

たとえ法律上の殺人は犯したことがなくても、隣人に腹を立て、友を馬鹿にし、人を見下し、その失敗を責めるなら、私たちの罪は神のさばきに価すると、イエス様は語っています。これらが、十戒の第五戒「殺してはならない」に反する思い、行動だからです。

さらに、第五戒も含めて、十戒の内八つは「~してはならない」という戒めでした。それは、いかに私たちが日常的に罪を犯す者であるかを示していると言われます。私たちは日々神様以外のものを頼りにします。神の御名をみだりに口にします。

また、今まで私たちは心の中で何人の人を殺し、情欲をもって異性を見てきたでしょうか。自分を偽り、神のものを盗み、隣人のものをむさぼってきたでしょうか。どれ程、人を愛し、人に仕える熱心に欠けていたでしょうか。まさに、罪と言う借金で首が回らない状態に、私たちはありました。

しかし、神様は滅ぼされて当然の私たちを心からあわれんでくださいました。私たちの犯した罪の責任を私たちに負わせず、イエス様に負わせました。イエス様が身代わりとなり、十字架で罪のさばきを受けて死なれたので、私たちは罪の赦しの恵みを受けとることができるようになったのです。

 

ローマ4:2551「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

 

キリストを信じる者は神との平和を持っていると、聖書は語っています。神との平和とは、もはや私たちは神様からさばかれ滅ぼされることも、責められることもない、安全で安心できる神様との関係にあることを意味しています。

けれども、それならば何故イエス様は、罪の赦しを祈り求めるよう勧めているのでしょうか。それは、私たちの中になお罪が生きているからです。罪が私たちの考え方、行動に影響を及ぼしているからです。神様を信じていても、私たちは日々罪を犯します。誘惑に負け、失敗を繰り返す自分の弱さに落胆します。醜い自分が顔をのぞかせると失望します。

その様な私たちの現実を天の父は良く知っておられるので、天の父に罪を告白し、罪の赦しを祈り求めよと、イエス様は教えてくださいました。天の父に罪を告白することで、天の父のあわれみを知ります。天の父が私たちを待っておられ、私たちが犯した罪のために、確かな罪の赦しが備えられていることを知り、安心するのです。イエス様が命を懸けて与えて下さった罪の赦しの恵みを思い、感謝することで、落胆と失望から救われます。

まさに、これが私たちの日々の霊的必要のための祈りであることを確認できます。自分に失望、落胆し、天の父のあわれみを忘れ易い私たちのことを思い、イエス様が教えてくださった大切な祈りであることを覚え、「私たちの負い目をお赦しください」と、祈り続けたいと思うのです。

次は、祈りの後半「私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました。」です。ここで、「あれ?」と思う人がいることでしょう。私たちが礼拝の時唱える主の祈りでは、ここの部分が「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく」となっているからです。

私たちが慣れ親しんでいるこの訳を、今採用している聖書は少ないかもしれません。この表現が、「私たちが他の人の罪を赦すので、神様あなたも私たちの罪を赦してください」と、私たちが神様に条件を示しているような誤解を与えてしまうからと考えられます。

また、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました」と言う部分も、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と訳すことができるし、その方が良いとも言われます。

つまり、ここは「天の父よ。私たちの負い目、罪をお赦しください。そして、あなたが私たちの罪を赦してくださったように、私たちも私たちに負い目、罪のある人を赦しました。あるいは赦します。」と言う祈りでした。天の父のあわれみにより、すべての罪を赦された私たちは、他の人の罪を赦す恵みと責任を与えられたということです。

このことに関して、イエス様の例え話が残っています。

 

18:23~35「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

読んですぐに驚かされるのは、主人から借金を免除されたしもべの酷い行動、余りにもあわれみに欠けた自己中心的なふるまいです。しかし、イエス様は「このしもべの姿は、本当に他人事ですか」と、私たちに問うているように見えます。

ここで、神様は地上の王に、神様の審判は王が行う精算に譬えられています。そして、王の判断によれば、しもべが返済すべき負債は1万タラントありました。当時、1タラントは労働者の約15年分の賃金と言われます。その1万倍ですから、15万年分の賃金と言う途方もない借金です。

これは、私たちが神様に対して犯した罪は到底精算不可能、本来なら私たちは神様のさばきによって、滅ぶべき者であることを教える譬えでした。しかし、いかに努力しても返済できない負債に苦しむしもべを可哀想に思った王は、借金を免除つまり全額棒引きしたと言うのです。

しかし、それほどの恵みを受けたにもかかわらず、同じ仲間に対するしもべの振る舞いは、あわれみに欠けたもの、余りにも自己中心的な行動でした。このしもべは、主人から受けた恵みを余り自覚していないように見えます。

そして、私たちも天の父から受けた罪の赦しの恵みを良く味わわないなら、このしもべの様な他の人を赦そうとしない、あわれみのない生き方に陥ってしまう危険があります。だからこそ、イエス様はこの譬えを語られたのです。

私たちも対人関係を良く点検する必要があると思います。私にはまだ赦していない人はいないだろうか。心にとげの刺さった苦々しい思いを抱いている人はいないか。口をききたくない、顔を合わせたくないと感じる人はいないか。その人の行動や失敗を心で責め続けているような相手はいないだろうか。

もし、家族の中に、兄弟姉妹の中に、職場や地域にそのような人がいることに気がついたら、赦しに取り組みたいと思うのです。神様から与えられた罪の赦しの恵みがいかに限りないものかを味わい、感謝しつつ、その人の幸いを祈ることから始めてゆきたいと思います。

また、神様に、自分の心からその人に対する怒り、責める思いを取り去ってくださるよう祈ることが何度も必要になるかもしれません。その人の幸いのために、自分にできることは何か教えてくださいと神様に祈ることも必要になるでしょう。

そうして赦しに取り組む時、私たちは自分の赦しの不完全さに気がつくことでしょう。もう、その人を赦したはずなのに、事あるごとにその人が自分にしたこと、言ったことを思い起こし、心を乱されることがあります。その人を赦せない理由を考え、その人を責め続ける自分を正当化する頑固な自分に気がつくこともあるかと思います。

その様な時は、人を心から赦せない私の罪をお赦し下さいと、天の父の胸に飛び込んでゆけばよいのです。そこで、天の父に受け止めてもらい、罪の赦しの恵みを味わう。「私も私に負い目のある人を赦します」と告白して、もう一度赦しに取り組む。私たち皆が主の祈りの第五の祈願を祈りつつ、罪の赦しの恵み、人を赦し、人と和解する恵みを受け取る歩みを進めてゆきたいと思います。

 

エペソ432「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

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