2016年5月22日日曜日

マタイの福音書5章27節~32節「山上の説教(14)~結婚を尊ぶ~」


何故、人間には男と女とが存在するのか。どうして、男女はお互いに求めあうのか。いわゆる、性の問題については昔から多くの人々が考え、議論してきました。

新聞の人生相談を読むと、幼子の性的な行動を心配する母親、どうしたら自分の思いを相手に伝えられるか悩む女性、性的な欲求と葛藤する青年、配偶者の不倫に苦しむ夫婦、夫と死別した後、70歳代で恋愛をして喜ぶ女性などが登場してきます。

 性は健康な人間としてのしるしであるとともに、心配や悩みの種でもある。喜びの源である場合もあれば、苦しみの源でもある。私たち人間は生涯、性と無縁では生きられない者なのだなと感じます。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で14回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、イエス様を信じる者の姿を八つの面から描いた八福の教えで始まっています。

そこで私たちは、イエス様を信じた者は天の御国を受け継ぐ。天の御国の民として生きる祝福を受けとることを教えられました。さらに、天の御国の民にはそれにふさわしい義、正しい生き方があることも、続くところで確認しました。それは、当時最も正しい生活を送る人々として尊敬されていた「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」と表現されています。

天の御国の民にふさわしい義。それは、神様が私たちに与えてくださる恵みです。同時に、私たちが取り組むべき生き方でもあります。その具体的な内容について、先回は「姦淫してはならない」と言う律法に関するイエス様の教えから見てきました。

 

5:27~30「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

一般的に、性の問題は二つの極端によって本来の意味を捻じ曲げられてきたと言われます。

一つは性的な欲求を汚れたこと、罪とみなし、これを恥じたり、隠したり、禁止する極端。性的な欲求を克服し、消してしまえば心が清くなると言う禁欲主義です。しかし、聖書は性的な欲求そのものを汚れたものとみていません。それを消したり無くしたりすることを命じてもいません。むしろ、その様な不自然な努力は無駄に終わると警告しているのです。

もう一つは、性的な欲求を思いのまま発散する自由こそ大切と考える極端。快楽主義です。しかし、異性に対する献身的な愛を欠いたまま、快楽と欲望をどこまでも追及することで、人間は真の満足を得ることはできないことを、快楽主義者たち自身が証言しています。

禁欲主義では、性の問題を解決できない。快楽主義では、私たちが真に求める満足を受け取ることができないと言えるでしょうか。

それらに対して、このイエス様のことばは、性の問題に対する聖書の立場を教えていました。注意したいのは、イエス様は「情欲つまり性的な欲求を抱いて女、異性を見ることは罪」と言われたのであって、「異性を見て性的な欲求を感じることを罪」とされたのではないと言うことです。

イエス様は性的な欲求そのものを汚れ罪とは考えていません。聖書は、神様が人間を創造した時、性的な欲求をも与えて下さったと教えています。ですから、イエス様が問題としているのは性的な欲求そのものではなく、その用い方です。

性的な欲求が心に起こること自体は自然なことであり、神様の創造にかなった健全なこと。しかし、もし「その人によって性的な欲求を満たしたい」と言う思いを抱いたまま、異性を見続けるなら、たとえ行動に移さなくとも、それは心の中で姦淫の罪を犯していることに他ならないと教えられます。

イエス様の時代、パリサイ人は文字通り結婚相手以外の異性と性的関係を結ばなければ、「姦淫してはならない」と言う律法を守っているから大丈夫と考え、人々にも教えていました。しかし、イエス様の教えは、罪における思いの世界と行動の世界の垣根を撤去したのです。神様の眼に思いの世界と行動の世界の区別はありません。何故なら、私たちが心の思いにおいても異性に対するきよい愛を抱いて、接することを願っておられるからです。

ですから、たとえ右の目、右の手の様に、それ自体は良い物であっても、私たちの心を罪に誘うものがあるなら、それを捨てよと命じていました。誇張された、非常に強い表現ですが、イエス様は性の賜物を悪用乱用しやすい私たちに、それを正しく管理すること、自制することを教えられたのです。

禁欲主義でもなく、快楽主義でもない。イエス様は、性の賜物を正しく用いて私たちが真の喜びと満足を受け取るための管理主義、自制主義を勧めているのです。

それでは、性的な欲求、性の賜物を正しく用いる、管理するとはどういうことでしょうか。それは、神様が私たちに性の賜物を創造し、与えて下さった目的を知ることに始まります。

 

創世記1:28「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

神様は人間を創造し、性の賜物を与えた後、生み、増えることを命じました。神様はこの世界を人間の働きによってさらに良い世界へとすることを願っておられましたから、新しい命が生み出され、この世界に増え広がるようにと言われたのです。つまり、神様が私たちに与えられた性の目的の第一は命を生み出すためでした。

二つ目は、結婚した男女による愛の交わりのためです。

 

創世記2:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

 

両親から自立した男女が結び合う、つまり生活を共にする中で、心も体もひとつとなる交わりをなすことが、神様のみこころと教えられるところです。

しかし、この様に私たち人間の幸いを願い、神様が定められた結婚と言う制度が、これ以降人間の罪によって歪められてしまいました。特にイエス様の時代、パリサイ人は旧約聖書に定められた離婚の律法を自分たちの都合のよいように解釈し、男性の側の身勝手な理由による離婚が横行していたのです。

 

5:31、32「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」

 

男性優位、男尊女卑の風潮は古今東西共通して見られるものです。ユダヤ人の社会も例外ではなく、旧約聖書の昔もイエス様の時代も男性優位、女性は社会的弱者の立場にありました。その様な背景の中、旧約聖書で離婚に関する律法が定められたのは、男性の側の身勝手な理由による離婚が頻発していたので、それを抑制するため、離婚によっていっそう弱い立場に追い込まれることがないよう、女性を守るためだったのです。

そのために、離婚が許される理由は「恥ずべき事」と言う特定のことに限られ、男性はそれを証明しなければならず、なおかつ、複数の証人によって承認してもらわなければなりませんでした。さらに、人々の前で離縁状を手渡し、女性が完全に自由であることを示す義務もあったのです。

イエス様はこの様な状況について、次のように教えています。

 

 マタイ19:8「イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」

 

 神様は、あなた方の心が妻の欠点や弱さに関してかたくななので、やむなく離婚を許可をしたに過ぎない。だから、問題解決のための努力を重ねたうえで、離婚に際しては本当にやむを得ない客観的な理由があり、それを公に認めてもらった場合にのみ離婚は容認される、そう、イエス様は教えられたのです。

 それを、イエス様の時代の男性は、妻の側のささいな失敗や欠点をも赦さず、むしろこれをもって離婚する権利がある、いや、その様な場合神様は離婚を奨励しているとすら考え、離婚状を乱発して女性を泣き寝入りに追い込み、それを意に介していなかったらしいのです。

その当時も今もそうですが、身勝手な理由の中には、配偶者以外の異性に心を惹かれ、結婚するために離婚を決めた人々も相当いただろうと考えられます。心の中で姦淫の罪を犯しながら、それを正当化するために離婚を進めると言う酷さです。

そして、イエス様の弟子たちですら、不貞以外の理由で離婚はできないと教えられると、「もし妻に対する夫の立場がそんなに不自由なものなら、結婚しない方がましです」と答えたことが聖書にしるされています。いかに、結婚の目的が尊ばれず、むしろ踏みにじられていたことかと思わされます。

神様のみこころは、人間の罪によって結婚が歪められているからと言って、決して離婚を良しとはしてはいません。しかし、神様が離婚を許容されるただ一つの場合があるとも言われます。それは、不貞ことばに代えるなら不品行です。共に生活をしてゆく責任を放棄したとみなされても当然である様な不誠実な行いとも言えます。その代表が不貞であり、今日でいうなら日常的な暴力なども含まれるでしょう。

しかし、その様な場合でも、自動的に離婚しなければならないと言うことではありません。罪を犯した者が悔い改め、配偶者のもとに立ち返るよう、できる限りの努力を惜しんではならないことは言うまでもないでしょう。

以上、「姦淫してはいけない」と言う律法が、性的な賜物を正しく管理し、用いることを、離婚に関する律法が、神様が定めた結婚を尊ぶように教えていることを確認してきました。

イエス様の昔の状況は今も変わりません。と言うより、より一層深刻で酷い状況と思われます。私たち天の御国の民は、性の領域、家庭の領域でも義を追い求めてゆくため、この世界に遣わされ、生かされているのです。

それでは、結婚を尊ぶとは具体的にどういうことでしょうか。神様が私たちの幸いのために定めた結婚から祝福を受けるには、どの様な結婚生活を送ればよいのでしょうか。

第一に、結婚関係の外にある異性、あるいは結婚前に異性と、行動においても、心においても姦淫を犯さない様つとめることです。性の賜物を新しい命を生み出すため、愛の交わりのため、そして夫と妻と言う関係の中でのみ用いることが、神様の祝福を受ける生き方であることを自覚したいと思います。

結婚前の男女は、ともに神様を第一として生きることを願う異性と結婚に導かれるよう祈ること、結婚している男女も単なる性的な欲求の発散ではなく、愛の交わりのために性の賜物を用いることができるように祈ることもお勧めしたいと思います。

結婚関係にあるからと言って、配偶者の人格を傷つけるような性の用い方は愛に背くことです。「夫婦生活を守るに際して、相手に対する配慮や礼儀正しさに心を用いない者は、姦淫を行う者である」。アンブロシウスと言う人のことばです。

第二に、思いやりと赦しを、夫婦関係を守る大切な帯とすることです。私たちが愛し,生涯を共にすると誓った人は、不完全な存在です。どの様な夫婦でも共に生活する中で、嫌なことを言われて傷つけられたり、相手の欠点や弱さにガッカリしたり、期待を裏切られるような行動をとられて怒ったりと言うことがあるように思います。

昨年カウンセリング研修会を行った際、講師の後藤先生が言われたことばで、心に残っているものがあります。それは、「日本人は情が深いと言う良い点もありますが、親子や夫婦の関係において、お互いを自分とは異なる人格の他人として見ることが苦手ではないでしょうか」ということばです。

確かに、第三者なら赦せることでも、これが自分の夫あるいは妻と言うことになると、「夫はこうあるべき」「妻はこうあるべき」という願いが強くあり、「どうしても我慢できない、赦せない」と感じ、相手を責めること、さばくことになりがちではないかと思います。

配偶者の欠点や失敗よりも、それに対して「絶対に赦せない」と心をかたくなにすることの方が、夫婦関係をはるかに損なうものです。イエス様も、離婚に至る理由は相手の失敗や欠点よりも、自分の側が心をかたくなにすることだと言われました。

相手の失敗に寛容な態度で対応することができるように。さばく人や裁判官になるのではなくて、相手が成長できる協力者、パートナーになれるように。一言で言えば、相手を責める前に、自分自身が夫として、妻として、霊的に成長するよう祈り、つとめることが大切ではないかと思います。

 

3:12~14「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」

2016年5月15日日曜日

ヨエル書3章18節~21節「一書説教 ヨエル書~その日を見据えて~」


AD三十年四月九日の日曜日(のことだと考えられます)。人類史上、最も重要な事件が起こりました。主イエスの復活です。私たちの罪を背負われ死なれた救い主が、死に勝利し復活された。新時代の幕開け。福音の中の福音。奇跡中の奇跡。このイエス・キリストの復活を記念して、私たちは毎年、イースターをお祝いします。

復活したイエス様は、四十日の間、弟子たちに現れ、神の国のことを語られたと言います。その最後、弟子たちに、命令と約束を伝えられました。エルサレムから離れないように、そして聖霊が与えられるという約束を待つように。この命令と約束を残して、主イエスは天に昇られました。

 そのため、弟子たちはエルサレムで祈りつつ、聖霊が与えられるという約束を待ちました。イエス様は、どれ位待つようにとは言われませんでした。長らく待つことになるのか。その約束はすぐに実現するのか分からない。聖霊が与えられると、キリストの証人になると言われたが、それが具体的にどのようなことか分からない。それでも弟子たちは、エルサレムから離れないで、命じられた通りに、待ったのです。

 

 AD三十年五月二十九日(のことだと考えられます)。イエス様が天に昇られてから十日後。都エルサレムはユダヤの三大祭の一つ、「七週の祭」とも、「初穂の刈り入れの祭」とも、「ペンテコステ(五旬節)」とも呼ばれる祭で賑わっていました。多くの人が集まるこの時、聖霊が与えられるという約束が実現します。(つまり、弟子たちがエルサレムで約束の実現を祈りながら待っていたのは最大でも十日間でした。)

 具体的に何が起こったのか。天から、激しい風が吹いてくるような音が響き渡り、炎のような分かれた舌が現れて、弟子たちの上に留まり、すると弟子たちは他国語で話し始めたといいます。聖霊が与えられたしるしは、音と舌。音と舌と言えば、「言葉」のしるしですが、実際に弟子たちは言葉の面で著しい力を発揮します。言葉の力として、他国語で話せるようになりましたが、それだけではなく、力ある説教をすることが出来た。この日のペテロの説教で、三千人もの人がキリストを信じ、新約の神の民の集まり、教会が誕生します。

 

 天に昇られる前、イエス様が約束された「聖霊が与えられ、キリストの証人として生きていく。」ことが実現した日。その結果、教会が誕生した日。この出来事を総じてペンテコステの出来事と呼び、私たちは毎年、ペンテコステを祝います。今日が、ペンテコステの祝いの日です。

(ユダヤの三大祭は、聖書の定めに従って、仮庵の祭、過越の祭、ペンテコステと言えます。キリスト教では聖書が定めているわけではありませんが、一般的にクリスマス、イースター、ペンテコステと考えられています。)

 

 イエス様が天に昇られる前、聖霊が与えられ、キリストの証人となるとの約束を受けたのは、その場にいた弟子たち。主イエスの約束は私たちには関係のない話かと言えば、そうではなく、あのペンテコステの日にペテロが次のように宣言していました。

 使徒2章38節~39節

そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』

 

 聖霊が与えられるという約束は、約二千年前の弟子たちに限定されたことではなかった。キリストを信じる者(洗礼を受ける者という表現ですが)にも、聖霊が与えられるのだと明言されています。

 このペンテコステの祝いの日、キリストを信じた者は、聖書の宣言を信じ、助け主である聖霊が与えられていること。キリストの証人と召されていることを再確認します。まだ、キリストを信じておられない方は、キリストを信じることで本当に大きな恵みが約束されていることを知る機会になるようにと願います。

 

 ところで、このペンテコステの日になされた説教。言葉に力が与えられ、三千人もの人がキリストを信じた説教。これほど、聞いてみたい説教はないと思うのですが、嬉しいことに、聖書に収録されています。使徒の二章に記されたペテロの説教。

この祝いの日、是非とも読んで頂きたいのですが、この説教の冒頭で、ペテロは興味深いことを言います。聖霊が与えられるという出来事は、十日前のイエス様の約束が実現したことではなく(勿論、そのような側面もありますが)、これより何百年も前、ヨエルの預言が実現したことなのだと言うのです。

 使徒2章16節~21節

これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

 

ペンテコステという出来事は、ヨエルの預言と関係がありました。長い前口上となりましたが、今日の説教は断続的に取り組んでいます一書説教の二十九回目となります。扱うのは旧約聖書第二十九の巻、ヨエル書。このペンテコステの祝いの日に、ヨエル書の一書説教という巡り合わせを嬉しく思います。全三章の小さな書。とはいえ、明快、流麗、簡潔にして絵画的と評される名著。これから起こることとしてヨエルが語り、語られたことが実現したとペテロが受けとめ、その時から広がった教会の中にいる私たちが、ペンテコステの祝いの日にヨエル書を読む。神の民の連なりを味わいながら、読み進めたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 ヨエル書の始まりは次のようなものです。

 ヨエル1章1節

ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。

 

 聖書の中に預言者は多くありますが、その多くはいつの時代、どのような預言者が語ったものか記されています。

 ヨエル書は年代の記述無し。名前だけで、肩書など無し。これでは、私たちには誰だか分からないのですが、それはつまり、この当時、ペトエルの子ヨエルと言えば、多くの人が誰だか分かる有名な人だったのかもしれません。

 年代については、語られている内容と(南ユダに敵対する国として、ツロ、シドン、ペリシテなどが出てきます。アッシリヤ捕囚、バビロン捕囚間近になると、敵国の脅威は、アッシリヤ、バビロンとなります。)、他の預言書との引用の関係から、聖書に記された他の預言者よりも早い時期に活躍したものと考えられます。(この前提に立って言えば、ヨエルの預言は、イザヤ、エゼキエル、ミカ、アモス、マラキなどに引用が見られ、影響を与えたと言えます。偉大な預言者。)

 

 そのメッセージは、どのようなものでしょうか。ヨエルの預言には、きっかけとなる出来事があったようです。

 ヨエル1章4節~5節

かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。

 

 ヨエルの時代、いなごの大襲来が起こった。蝗害。今の私たちにとっては、馴染みのない災害ですが、非常に恐ろしいもの。大量のいなごの襲来を受けると、その地は何もなくなると言われます。農作物に限らず草木は全て食い尽くされる。草木で作られた製品も食い尽くされる。被害地域は、食糧不足、飢饉となる。旧約時代、いけにえをささげる礼拝ですのでこの災害は、礼拝にも影響を与えたはずです。

 この災害を契機に、ヨエルは預言しました。いなごの襲来を、神様の裁きと認めて、悔い改めるようにとの呼びかけ、悔い改めの勧めがヨエル書の中心メッセージの一つです。

 ヨエル1章13節~14節

祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。

 

 ところで何故ヨエルは、いなごの襲来という災害を、神様の裁きと受け止めたのでしょうか。何か悪いことがあれば、それは神様の裁きとして受けとめ、悔い改めることが良いということなのでしょうか。

 ヨエルが、いなごの襲来を神様の裁きとして受け止めたのは、かつてモーセが予告していた言葉を知っていたからだと思います。

 申命記28章15節、38節~39節

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。・・・畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。

 

 聖書の言葉を絵空事とはしなかった。聖書の言葉を、実際の生活に適応出来たヨエル。宗教を頭の中だけのこと、生活習慣だけの話としないように。神様が世界を創り、支配されていることを知りつつ、信仰と日々の生活を別なものとしないように。ヨエルに倣い、起りくる出来事を神様との関係で受け止める信仰者でありたいと思います。

 

 既に起こったいなごの襲来を契機に預言をしたヨエルですが、過去だけを見たのではなく、この機会に神様との正しい関係を回復しないと、一段と恐ろしい裁きが起こると、未来を見据えて警告を発します。ヨエル書の中に、いくつもその警告を見ることが出来ますが、たとえば、

 ヨエル2章11節

主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。

 

 ヨエル書に繰り返し出てくる「主の日」についての警告です。「主の日」は、聖書全体を通して繰り返し出てくる言葉ですが、旧約聖書では、神様の裁きの日、恐ろしい日として語られることが主です。

今確認しましたようにヨエル書でも、裁きの日、恐ろしい日と記されていますが、同時に喜びの日、回復の日であるとも記されます。ヨエル書において、「主の日」は、恐ろしい日であり、希望の日でもあるのです。

この主の日は恐ろしい日であり、同時に希望の日であるという文脈の中で、あのペンテコステ預言がなされるのです。

 ヨエル2章28節~32節

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。

 

 以上のことから、ヨエルの語るメッセージを、簡単にまとめると、次のようになります。今、悔い改めるように。やがて、神様の裁きの日が来るので、それに備えて、神様との関係をあるべき状態に整えるように。その神様の裁きの日は、恐ろしい日であり、同時に回復の時、希望の日であること。その希望の日を待ち望むように。

 このメッセージを、当時の人たちはどのように受け止めたでしょうか。私たちはどのように受け止めるでしょうか。

ヨエルの預言は聖書として記録され、神の民に読み継がれていきました。それぞれの時代、神を信じる者たちは、やがて主の日が来ることを信じ、主の日の到来に備えてきました。神様を信じるとは、神の言葉が実現するのを待つという側面があります。

 

 ところで、ヨエルが預言した主の日が、どのように到来したのか。新約に生きる私たちは、知っています。主の日の恐ろしさ。神様の裁きは、キリストに降りかかり、主の日の喜び、希望は、キリストを信じる者に与えられたのです。ヨエルの見据えていた日が、キリストによって驚くかたちで到来した。繰り返し、恐ろしい日と言われた主の日が、キリストを信じる者には、ただ喜びの日となったのです。この凄さ、この恵み深さを、今日よくよく味わいたいと思います。

 

 主の日は約二千年前に到来した。しかし、もう一つ、私たちが待っている主の日があります。キリストがもう一度来られる日、再臨の日。その日には、キリストを信じる者たちは神様とともに生き、命が溢れる。神に敵対する者たちは、決定的に裁かれる。ヨエルは、このキリストの再臨の日についても、次のように預言していました。

 ヨエル3章18節~21節

その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。

 

 旧約の神の民が、ヨエルの言葉を受けてキリストの到来を待ち望んだように、私たちもヨエルの言葉を受けて、キリストの再臨を待ち望む決意をすることで、このペンテコステを祝いたいと思います。

 以上、簡単にですが、ヨエル書を読む備えに取り組みました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。速い人であれば五分程で読めてしまう書。繰り返し読むのも良いでしょう。

ヨエルを通して語られたメッセージ。その中心は、今、悔い改めるべき罪があれば悔い改めること。そして、やがて「主の日」が来ることを覚え、備え待つように。このメッセージを、真正面から受け止めたいと思います。自分の歩み、自分の心を確認し、悔い改めるべき罪がないか。また、今の私が「主の日」に備えるとは何なのか。キリストの再臨に備えるとは、具体的に何に取り組み、どのような生き方をすることなのか。皆でよく考えたいと思います。

 聖書を読み、悔い改めつつ、神様の約束の実現を待つ。そのように、このペンテコステの日を祝いたいと思います。

2016年5月8日日曜日

マタイの福音書5章27節~32節「山上の説教(13)~もし、右の目が~」


誰が言ったのかは分かりませんが、聖書は「性書」つまり性に関する問題を扱った本とすることばを見たことがあります。勿論、聖書のテーマは性に限りません。しかし、神様に創造された人間にとって、性の問題がいかに重要なものか。聖書が性について詳しく教えていることは間違いないと思います。

とかく、性の問題は、二つの極端によって真の意味を捻じ曲げられてきたと言われます。一つは性を動物的なもの、汚れたことのしるしとみなし、これを恥じたり、隠したり、禁止する極端。もう一つは、性をもて遊び、これを思いのまま発散する自由こそ大切と考える極端です。前者は性をタブー、避けるべきものと考え、後者は性を偶像とし、何よりも大切なものと見なしています。聖書の視点からは、どちらも人間の性に対する間違った極端な考え方と言えます。

聖書における男女の性的関係については、最初の人アダムが「人は、その妻エバを知った」(創世記4:1)とある様に、「知る」と言う独特の表現が使われていました。「知る」には「人格的に知り合うこと、交わり、愛する」等の意味もあります。

ですから、性的関係は私たちにとって、単なる生き物としての行動ではありません。対等な人間同士が愛の交わりを行う一つの方法として、神様が与えてくださった良き賜物、贈り物でした。しかし、神様に背を向けた人間は、この良き賜物を悪用、乱用するようになったのです。

最初に大きな町を築いた人レメクは多くの妻をめとり、これを支配しました。イスラエル一の怪力男サムソンは異教の女デリラに溺れて力を失い、悲劇的な最期を遂げます。ダビデ王は部下が敵軍と対戦中一人王宮に安穏とし、部下の妻と関係を持ち、罪の深みに落ちてゆきました。

聖書の例を挙げなくても、古今東西、性にまつわる男女夫婦関係のもつれ、家庭の崩壊、悲惨極まりない事件は絶えたことがありません。今も私たちはそれらについて聞かない日、見ない日はありませんし、問題は一層広く、深くなっているように思えて仕方がありません。

この様な世界にあって、イエス・キリストを信じる者はどう生きるべきなのか。それを、教えるのが今日の個所です。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で13回目となります。山上の説教の入り口には、「幸いなるかな」で始まることばが八つ続いていました。イエス様を信じる者の姿を八つの面から描いた八福の教えです。

次は、クリスチャンを「地の塩、世界の光」と呼ばれ、私たちがこの世界に生かされている意味、目的が教えられました。さらに「わたしを信じる者には、律法学者やパリサイ人の義にまさる義が与えられる」と、イエス様は約束されたのです。

 

5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

 

イエス様を信じた者は天の御国を受け継ぐ。この地上において天の御国の民として歩むことになります。そして、天の御国の民にはそれにふさわしい義、正しい生き方があると、イエス様は言われたのです。それが、当時最も正しい生活を送る人々と尊敬されていた「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」でした。

天の御国の民にふさわしい義。それは、神様からの恵みです。同時に、私たちが取り組むべき生き方でもあります。その具体的な内容が、先回は「殺してはならない」という律法の意味を巡って教えられました。今日は「姦淫してはならない」と言う律法をもとに、イエス様が語られます。

 

5:27「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」

 

「姦淫してはならない」は「殺してはならない」と同じく、旧約聖書十戒の中にある七つ目の戒めです。結婚している者が配偶者以外の異性と性的な関係を持つことを中心として、広く性的な不道徳を禁じている律法です。

しかし、イエス様の時代、律法学者やパリサイ人はこれを肉体的な姦淫、一線を越えることの禁止と考え、自分たちが守ることのできる戒めに引き下げていました。実際の姦淫に及ばない限り、この戒めに関して自分たちは潔白と思い、安心しきっていたのです。

けれども、イエス様は、その考えは神様のみこころを無視し、歪めるものとしました。聖なる神様の眼は私たちの心の奥に向けられていると指摘したのです。

 

5:28「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

 

このことばを読んだヴァレリーと言う作家は「もし、私が心に情欲をもって女性を見ることで姦淫するなら、一体私は何人の女性を妊娠させてしまうことか。恐らく、町中の女性をそうさせてしまうのではないか」と恐れたそうです。

心に浮かぶ思いや願いの中で罪を犯す自分。小説や映画に登場するその様な場面を好んで読もう、観ようとしている自分。汚れた思いや不潔な願望から無縁ではいられない自分。このイエス様の教えの前に立つ時、誰一人自分はきよいと言うことはできませんし、自分の罪を認め、悲しむ他はないと思わされます。

罪とは表に現れた行いだけではなりません。むしろ、私たちの心、行動、習慣を支配している性質、私たちに卑しいことを思わせ、行動に駆り立てる力ではないかと教えられるのです。ことばを代えるなら、私たちは何も悪いことをしていなくても罪深いと言うことです。

先程ダビデ王が姦淫の罪を犯したのは、部下を戦場に出して自分一人家で安穏としていた時であることを話しました。誰も見ていない状態で、ただ一人いる時、私たちがふと思うこと、したいと願うこと、繰り返し考えてしまうこと。そこにその人の本質が現れると言われます。それまで、勇猛果敢、謙遜で信仰的な人であったダビデが、一人王宮にいて心捕らわれたのは強烈な情欲でした。罪とは私たちの思い、考え、行動を支配する性質であることを肝に銘じたいところです。

次に、イエス様は罪の凄まじさを説いてゆきます。罪は、神様から与えられた良いものを用いて私たちを誘惑すると言われるのです。

 

5:29、30「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

ここで右の目が取り上げられたのは、前の節で「情欲を抱いて女を見る者は」とあり、姦淫が代表的な罪として考えられていたからでしょう。それにしても、右の目右の手があなたを罪に誘惑するなら、それを抉り出せ、切って捨てよとは衝撃的なことばです。

但し、これはイエス様がしばしば用いた誇張法と言う表現。文字通り実行するよう求めたものでありません。もし、そうだとすれば、弟子たちは片目片手とならざるを得ません。また、たとえ右目をとっても左目が躓きとなり、右手を切り捨てても左手が罪を犯させる道具となる。つまり、私たちが体中を切り刻んでもなお足りないと言うことになります。

イエス様が言いたいのは、罪は、目や手の様に、神様が与えてくださった良いものを用いて私たちを罪に誘惑し、正しい生き方から転落させる程の力をもつと言うこと。だから、躓きとなるもの、罪を犯すきっかけを断固取り除くよう、私たちに命じておられるのです。

さらに、イエス様は「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりはよいから」として、罪を放っておくなら、人生全体を破壊する程の大きな影響力をもつことを明らかにされました。

ゲヘナはユダヤの都エルサレムの南にあるヒンノムの谷のことです。現在は美しい公園になっているそうですが、イエス様の時代そこは死体やごみの焼却場。一日中火が消えることがない状態にあったことから、罪人に対する神のさばきの代名詞となりました。「ゲヘナに投げ込まれる」とは「永遠の死、滅び」に落ちることを意味していたのです。

イエス様が罪のきっかけとなるものを断固取り除くよう命じているのは、永遠の死と言う世界があるからでした。そこは、神様の愛のない世界。人間本来の生き方に立ち帰ることのが出来ない者が、永遠に生き続けなければならない世界です。だから、そうなる前に罪のきっかけになるものを取り除くよう、イエス様はあえて誇張的な表現を用い、強く勧めてくださいました。

最後に、この様な罪の力、罪の誘惑に、私たちはどう対応したらよいのか。どう対応することができるのか。共に考えてみたいと思うのです。

ひとつ目は、罪が私たちの地上の人生と永遠の人生にもたらす影響を自覚することです。

結婚前に性的な関係を繰り返した男女について書かれた本を読んだことがあります。現代は、結婚前、結婚外の性的な関係を余り問題にしません。むしろ、それを勧め、賞賛する風潮すら感じられます。

しかし、その本を読みますと、思いのまま性的な関係を結んだ人々が、いかに悲惨な結果を味わっているかが分かります。

性的な不道徳を繰り返した男性は、深い自己嫌悪に陥り、学びや仕事に取り組むことのできない無力感に苦しんでいます。結婚後も悪しき習慣を断ち切れないままでいたため、「私はあなたの欲望を満たすための商品や物ではない」と、配偶者から拒否される現実に直面しなければなりません。

また、複数の男性と性的な関係を重ねてきた女性は、本当に結婚したい男性と出会った時、自分の過去を後悔しました。幸い結婚できたものの、自分の過去がいつばれてしまうのか、生まれてくる子供に影響はないのか。恐れと不安の中に生きています。

「少しぐらいなら」とか「他の人もしているから、大したことではない」と思い、選択した罪が、いかに悪しき影響を私たちの人格に及ぼすのか。不道徳な習慣が、大切な人との心通わす交わりをいかに妨げるのか。私たちはよくよく自覚する必要があるように思います。

そして、もし神様の赦しの恵みを受けとらず、何の取り組みもしないまま、罪をそのままにしておくなら、私たちは愛し合う交わりを築く能力を失い、罪と後悔、恐れと不安を永遠に繰り返す世界、ゲヘナへ行くことになる。

先程、イエス様の厳しい警告を私たちは聞きました。その厳しい警告の背後にあるのは、私たちにこの様な世界への道を進んで欲しくない、神様の愛の中で永遠に生きて欲しいと心から願う、イエス様の愛です。このイエス様の愛を心に受け取り、今日と言うこの日から、罪へと誘うものを取り除くことに私たち取り組んでゆきたいと思います。

二つ目は、それ自体は良いものであるとしても、自分を罪へと誘惑するもの、罪を犯すきっかけとなるもの、つまり、自分にとっての右目、右手とは何かを考えることです。

性的な分野で言えば、ある人にとっては、特定の映画や小説を見ること、読むこと、また特定の場所が躓きとなるかもしれません。ある人にとっては異性との交際の場所や時間、方法が罪へと誘うきっかけかもしれません。

いずれにしても、神様が心に赤信号をともしてくれたら、危険なものや状況から断固離れるように。そこに近づかないように。自分にとって弱点となる行動のパターンを変えるべく取り組むように。そう私たちは命じられています。

確認しますが、イエス様は私たちに与えられた性的な賜物を使うことを禁じているのではありません。イエス様が望んでおられるのは、神様の賜物を正しく用いて、私たちが幸いな生活を送ることです。そのために、自分の弱点、自分の弱い分野についてよく考え、対策を考えておくようつとめることなのです。

三つ目は、失敗から学ぶと言う姿勢を持つことです。不完全な存在である私たちは、成長の過程で失敗を免れることはできません。ですから、イエス様を信じる者は神様から罪の赦しの恵みを受け取れると言う信仰、神様との安全な関係にあると言う信仰に立つことが非常に重要ではないかと思います。

神様による罪の赦しを十分受け取らないと、私たちは自分の失敗を認めにくく、受け入れることができません。成長したクリスチャンは罪を犯すことも、誘惑されることもないという考えに捕らわれると、私たちは自分のしたことを後悔したり、責め続けることで終わってしまいます。

しかし、神様の赦しの恵みを確信する中で、自分の失敗を心から認め、弱点を自覚し、同じことを繰り返さないために何ができるかを考える。その様な態度こそ、私たちが神様との正しい関係にあるしるしと、聖書は教えているのです。

神様に助けてほしいのはどの点かを考え、祈り願い求めること。また、信頼できる兄弟姉妹に、もし今度自分が危ない状態にあると思えたら、あるいは自分がしようとしていることを相談し、それが良くないことと思えたら指摘してもらうこと。これも、私たちができることではないかと思います。今日の聖句です。

 

詩篇51:17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」