2016年5月8日日曜日

マタイの福音書5章27節~32節「山上の説教(13)~もし、右の目が~」


誰が言ったのかは分かりませんが、聖書は「性書」つまり性に関する問題を扱った本とすることばを見たことがあります。勿論、聖書のテーマは性に限りません。しかし、神様に創造された人間にとって、性の問題がいかに重要なものか。聖書が性について詳しく教えていることは間違いないと思います。

とかく、性の問題は、二つの極端によって真の意味を捻じ曲げられてきたと言われます。一つは性を動物的なもの、汚れたことのしるしとみなし、これを恥じたり、隠したり、禁止する極端。もう一つは、性をもて遊び、これを思いのまま発散する自由こそ大切と考える極端です。前者は性をタブー、避けるべきものと考え、後者は性を偶像とし、何よりも大切なものと見なしています。聖書の視点からは、どちらも人間の性に対する間違った極端な考え方と言えます。

聖書における男女の性的関係については、最初の人アダムが「人は、その妻エバを知った」(創世記4:1)とある様に、「知る」と言う独特の表現が使われていました。「知る」には「人格的に知り合うこと、交わり、愛する」等の意味もあります。

ですから、性的関係は私たちにとって、単なる生き物としての行動ではありません。対等な人間同士が愛の交わりを行う一つの方法として、神様が与えてくださった良き賜物、贈り物でした。しかし、神様に背を向けた人間は、この良き賜物を悪用、乱用するようになったのです。

最初に大きな町を築いた人レメクは多くの妻をめとり、これを支配しました。イスラエル一の怪力男サムソンは異教の女デリラに溺れて力を失い、悲劇的な最期を遂げます。ダビデ王は部下が敵軍と対戦中一人王宮に安穏とし、部下の妻と関係を持ち、罪の深みに落ちてゆきました。

聖書の例を挙げなくても、古今東西、性にまつわる男女夫婦関係のもつれ、家庭の崩壊、悲惨極まりない事件は絶えたことがありません。今も私たちはそれらについて聞かない日、見ない日はありませんし、問題は一層広く、深くなっているように思えて仕方がありません。

この様な世界にあって、イエス・キリストを信じる者はどう生きるべきなのか。それを、教えるのが今日の個所です。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で13回目となります。山上の説教の入り口には、「幸いなるかな」で始まることばが八つ続いていました。イエス様を信じる者の姿を八つの面から描いた八福の教えです。

次は、クリスチャンを「地の塩、世界の光」と呼ばれ、私たちがこの世界に生かされている意味、目的が教えられました。さらに「わたしを信じる者には、律法学者やパリサイ人の義にまさる義が与えられる」と、イエス様は約束されたのです。

 

5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

 

イエス様を信じた者は天の御国を受け継ぐ。この地上において天の御国の民として歩むことになります。そして、天の御国の民にはそれにふさわしい義、正しい生き方があると、イエス様は言われたのです。それが、当時最も正しい生活を送る人々と尊敬されていた「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」でした。

天の御国の民にふさわしい義。それは、神様からの恵みです。同時に、私たちが取り組むべき生き方でもあります。その具体的な内容が、先回は「殺してはならない」という律法の意味を巡って教えられました。今日は「姦淫してはならない」と言う律法をもとに、イエス様が語られます。

 

5:27「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」

 

「姦淫してはならない」は「殺してはならない」と同じく、旧約聖書十戒の中にある七つ目の戒めです。結婚している者が配偶者以外の異性と性的な関係を持つことを中心として、広く性的な不道徳を禁じている律法です。

しかし、イエス様の時代、律法学者やパリサイ人はこれを肉体的な姦淫、一線を越えることの禁止と考え、自分たちが守ることのできる戒めに引き下げていました。実際の姦淫に及ばない限り、この戒めに関して自分たちは潔白と思い、安心しきっていたのです。

けれども、イエス様は、その考えは神様のみこころを無視し、歪めるものとしました。聖なる神様の眼は私たちの心の奥に向けられていると指摘したのです。

 

5:28「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

 

このことばを読んだヴァレリーと言う作家は「もし、私が心に情欲をもって女性を見ることで姦淫するなら、一体私は何人の女性を妊娠させてしまうことか。恐らく、町中の女性をそうさせてしまうのではないか」と恐れたそうです。

心に浮かぶ思いや願いの中で罪を犯す自分。小説や映画に登場するその様な場面を好んで読もう、観ようとしている自分。汚れた思いや不潔な願望から無縁ではいられない自分。このイエス様の教えの前に立つ時、誰一人自分はきよいと言うことはできませんし、自分の罪を認め、悲しむ他はないと思わされます。

罪とは表に現れた行いだけではなりません。むしろ、私たちの心、行動、習慣を支配している性質、私たちに卑しいことを思わせ、行動に駆り立てる力ではないかと教えられるのです。ことばを代えるなら、私たちは何も悪いことをしていなくても罪深いと言うことです。

先程ダビデ王が姦淫の罪を犯したのは、部下を戦場に出して自分一人家で安穏としていた時であることを話しました。誰も見ていない状態で、ただ一人いる時、私たちがふと思うこと、したいと願うこと、繰り返し考えてしまうこと。そこにその人の本質が現れると言われます。それまで、勇猛果敢、謙遜で信仰的な人であったダビデが、一人王宮にいて心捕らわれたのは強烈な情欲でした。罪とは私たちの思い、考え、行動を支配する性質であることを肝に銘じたいところです。

次に、イエス様は罪の凄まじさを説いてゆきます。罪は、神様から与えられた良いものを用いて私たちを誘惑すると言われるのです。

 

5:29、30「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

ここで右の目が取り上げられたのは、前の節で「情欲を抱いて女を見る者は」とあり、姦淫が代表的な罪として考えられていたからでしょう。それにしても、右の目右の手があなたを罪に誘惑するなら、それを抉り出せ、切って捨てよとは衝撃的なことばです。

但し、これはイエス様がしばしば用いた誇張法と言う表現。文字通り実行するよう求めたものでありません。もし、そうだとすれば、弟子たちは片目片手とならざるを得ません。また、たとえ右目をとっても左目が躓きとなり、右手を切り捨てても左手が罪を犯させる道具となる。つまり、私たちが体中を切り刻んでもなお足りないと言うことになります。

イエス様が言いたいのは、罪は、目や手の様に、神様が与えてくださった良いものを用いて私たちを罪に誘惑し、正しい生き方から転落させる程の力をもつと言うこと。だから、躓きとなるもの、罪を犯すきっかけを断固取り除くよう、私たちに命じておられるのです。

さらに、イエス様は「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりはよいから」として、罪を放っておくなら、人生全体を破壊する程の大きな影響力をもつことを明らかにされました。

ゲヘナはユダヤの都エルサレムの南にあるヒンノムの谷のことです。現在は美しい公園になっているそうですが、イエス様の時代そこは死体やごみの焼却場。一日中火が消えることがない状態にあったことから、罪人に対する神のさばきの代名詞となりました。「ゲヘナに投げ込まれる」とは「永遠の死、滅び」に落ちることを意味していたのです。

イエス様が罪のきっかけとなるものを断固取り除くよう命じているのは、永遠の死と言う世界があるからでした。そこは、神様の愛のない世界。人間本来の生き方に立ち帰ることのが出来ない者が、永遠に生き続けなければならない世界です。だから、そうなる前に罪のきっかけになるものを取り除くよう、イエス様はあえて誇張的な表現を用い、強く勧めてくださいました。

最後に、この様な罪の力、罪の誘惑に、私たちはどう対応したらよいのか。どう対応することができるのか。共に考えてみたいと思うのです。

ひとつ目は、罪が私たちの地上の人生と永遠の人生にもたらす影響を自覚することです。

結婚前に性的な関係を繰り返した男女について書かれた本を読んだことがあります。現代は、結婚前、結婚外の性的な関係を余り問題にしません。むしろ、それを勧め、賞賛する風潮すら感じられます。

しかし、その本を読みますと、思いのまま性的な関係を結んだ人々が、いかに悲惨な結果を味わっているかが分かります。

性的な不道徳を繰り返した男性は、深い自己嫌悪に陥り、学びや仕事に取り組むことのできない無力感に苦しんでいます。結婚後も悪しき習慣を断ち切れないままでいたため、「私はあなたの欲望を満たすための商品や物ではない」と、配偶者から拒否される現実に直面しなければなりません。

また、複数の男性と性的な関係を重ねてきた女性は、本当に結婚したい男性と出会った時、自分の過去を後悔しました。幸い結婚できたものの、自分の過去がいつばれてしまうのか、生まれてくる子供に影響はないのか。恐れと不安の中に生きています。

「少しぐらいなら」とか「他の人もしているから、大したことではない」と思い、選択した罪が、いかに悪しき影響を私たちの人格に及ぼすのか。不道徳な習慣が、大切な人との心通わす交わりをいかに妨げるのか。私たちはよくよく自覚する必要があるように思います。

そして、もし神様の赦しの恵みを受けとらず、何の取り組みもしないまま、罪をそのままにしておくなら、私たちは愛し合う交わりを築く能力を失い、罪と後悔、恐れと不安を永遠に繰り返す世界、ゲヘナへ行くことになる。

先程、イエス様の厳しい警告を私たちは聞きました。その厳しい警告の背後にあるのは、私たちにこの様な世界への道を進んで欲しくない、神様の愛の中で永遠に生きて欲しいと心から願う、イエス様の愛です。このイエス様の愛を心に受け取り、今日と言うこの日から、罪へと誘うものを取り除くことに私たち取り組んでゆきたいと思います。

二つ目は、それ自体は良いものであるとしても、自分を罪へと誘惑するもの、罪を犯すきっかけとなるもの、つまり、自分にとっての右目、右手とは何かを考えることです。

性的な分野で言えば、ある人にとっては、特定の映画や小説を見ること、読むこと、また特定の場所が躓きとなるかもしれません。ある人にとっては異性との交際の場所や時間、方法が罪へと誘うきっかけかもしれません。

いずれにしても、神様が心に赤信号をともしてくれたら、危険なものや状況から断固離れるように。そこに近づかないように。自分にとって弱点となる行動のパターンを変えるべく取り組むように。そう私たちは命じられています。

確認しますが、イエス様は私たちに与えられた性的な賜物を使うことを禁じているのではありません。イエス様が望んでおられるのは、神様の賜物を正しく用いて、私たちが幸いな生活を送ることです。そのために、自分の弱点、自分の弱い分野についてよく考え、対策を考えておくようつとめることなのです。

三つ目は、失敗から学ぶと言う姿勢を持つことです。不完全な存在である私たちは、成長の過程で失敗を免れることはできません。ですから、イエス様を信じる者は神様から罪の赦しの恵みを受け取れると言う信仰、神様との安全な関係にあると言う信仰に立つことが非常に重要ではないかと思います。

神様による罪の赦しを十分受け取らないと、私たちは自分の失敗を認めにくく、受け入れることができません。成長したクリスチャンは罪を犯すことも、誘惑されることもないという考えに捕らわれると、私たちは自分のしたことを後悔したり、責め続けることで終わってしまいます。

しかし、神様の赦しの恵みを確信する中で、自分の失敗を心から認め、弱点を自覚し、同じことを繰り返さないために何ができるかを考える。その様な態度こそ、私たちが神様との正しい関係にあるしるしと、聖書は教えているのです。

神様に助けてほしいのはどの点かを考え、祈り願い求めること。また、信頼できる兄弟姉妹に、もし今度自分が危ない状態にあると思えたら、あるいは自分がしようとしていることを相談し、それが良くないことと思えたら指摘してもらうこと。これも、私たちができることではないかと思います。今日の聖句です。

 

詩篇51:17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

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