AD三十年四月九日の日曜日(のことだと考えられます)。人類史上、最も重要な事件が起こりました。主イエスの復活です。私たちの罪を背負われ死なれた救い主が、死に勝利し復活された。新時代の幕開け。福音の中の福音。奇跡中の奇跡。このイエス・キリストの復活を記念して、私たちは毎年、イースターをお祝いします。
復活したイエス様は、四十日の間、弟子たちに現れ、神の国のことを語られたと言います。その最後、弟子たちに、命令と約束を伝えられました。エルサレムから離れないように、そして聖霊が与えられるという約束を待つように。この命令と約束を残して、主イエスは天に昇られました。
そのため、弟子たちはエルサレムで祈りつつ、聖霊が与えられるという約束を待ちました。イエス様は、どれ位待つようにとは言われませんでした。長らく待つことになるのか。その約束はすぐに実現するのか分からない。聖霊が与えられると、キリストの証人になると言われたが、それが具体的にどのようなことか分からない。それでも弟子たちは、エルサレムから離れないで、命じられた通りに、待ったのです。
AD三十年五月二十九日(のことだと考えられます)。イエス様が天に昇られてから十日後。都エルサレムはユダヤの三大祭の一つ、「七週の祭」とも、「初穂の刈り入れの祭」とも、「ペンテコステ(五旬節)」とも呼ばれる祭で賑わっていました。多くの人が集まるこの時、聖霊が与えられるという約束が実現します。(つまり、弟子たちがエルサレムで約束の実現を祈りながら待っていたのは最大でも十日間でした。)
具体的に何が起こったのか。天から、激しい風が吹いてくるような音が響き渡り、炎のような分かれた舌が現れて、弟子たちの上に留まり、すると弟子たちは他国語で話し始めたといいます。聖霊が与えられたしるしは、音と舌。音と舌と言えば、「言葉」のしるしですが、実際に弟子たちは言葉の面で著しい力を発揮します。言葉の力として、他国語で話せるようになりましたが、それだけではなく、力ある説教をすることが出来た。この日のペテロの説教で、三千人もの人がキリストを信じ、新約の神の民の集まり、教会が誕生します。
天に昇られる前、イエス様が約束された「聖霊が与えられ、キリストの証人として生きていく。」ことが実現した日。その結果、教会が誕生した日。この出来事を総じてペンテコステの出来事と呼び、私たちは毎年、ペンテコステを祝います。今日が、ペンテコステの祝いの日です。
(ユダヤの三大祭は、聖書の定めに従って、仮庵の祭、過越の祭、ペンテコステと言えます。キリスト教では聖書が定めているわけではありませんが、一般的にクリスマス、イースター、ペンテコステと考えられています。)
イエス様が天に昇られる前、聖霊が与えられ、キリストの証人となるとの約束を受けたのは、その場にいた弟子たち。主イエスの約束は私たちには関係のない話かと言えば、そうではなく、あのペンテコステの日にペテロが次のように宣言していました。
使徒2章38節~39節
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
聖霊が与えられるという約束は、約二千年前の弟子たちに限定されたことではなかった。キリストを信じる者(洗礼を受ける者という表現ですが)にも、聖霊が与えられるのだと明言されています。
このペンテコステの祝いの日、キリストを信じた者は、聖書の宣言を信じ、助け主である聖霊が与えられていること。キリストの証人と召されていることを再確認します。まだ、キリストを信じておられない方は、キリストを信じることで本当に大きな恵みが約束されていることを知る機会になるようにと願います。
ところで、このペンテコステの日になされた説教。言葉に力が与えられ、三千人もの人がキリストを信じた説教。これほど、聞いてみたい説教はないと思うのですが、嬉しいことに、聖書に収録されています。使徒の二章に記されたペテロの説教。
この祝いの日、是非とも読んで頂きたいのですが、この説教の冒頭で、ペテロは興味深いことを言います。聖霊が与えられるという出来事は、十日前のイエス様の約束が実現したことではなく(勿論、そのような側面もありますが)、これより何百年も前、ヨエルの預言が実現したことなのだと言うのです。
使徒2章16節~21節
「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」
ペンテコステという出来事は、ヨエルの預言と関係がありました。長い前口上となりましたが、今日の説教は断続的に取り組んでいます一書説教の二十九回目となります。扱うのは旧約聖書第二十九の巻、ヨエル書。このペンテコステの祝いの日に、ヨエル書の一書説教という巡り合わせを嬉しく思います。全三章の小さな書。とはいえ、明快、流麗、簡潔にして絵画的と評される名著。これから起こることとしてヨエルが語り、語られたことが実現したとペテロが受けとめ、その時から広がった教会の中にいる私たちが、ペンテコステの祝いの日にヨエル書を読む。神の民の連なりを味わいながら、読み進めたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。
ヨエル書の始まりは次のようなものです。
ヨエル1章1節
「ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。」
聖書の中に預言者は多くありますが、その多くはいつの時代、どのような預言者が語ったものか記されています。
ヨエル書は年代の記述無し。名前だけで、肩書など無し。これでは、私たちには誰だか分からないのですが、それはつまり、この当時、ペトエルの子ヨエルと言えば、多くの人が誰だか分かる有名な人だったのかもしれません。
年代については、語られている内容と(南ユダに敵対する国として、ツロ、シドン、ペリシテなどが出てきます。アッシリヤ捕囚、バビロン捕囚間近になると、敵国の脅威は、アッシリヤ、バビロンとなります。)、他の預言書との引用の関係から、聖書に記された他の預言者よりも早い時期に活躍したものと考えられます。(この前提に立って言えば、ヨエルの預言は、イザヤ、エゼキエル、ミカ、アモス、マラキなどに引用が見られ、影響を与えたと言えます。偉大な預言者。)
そのメッセージは、どのようなものでしょうか。ヨエルの預言には、きっかけとなる出来事があったようです。
ヨエル1章4節~5節
「かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。」
ヨエルの時代、いなごの大襲来が起こった。蝗害。今の私たちにとっては、馴染みのない災害ですが、非常に恐ろしいもの。大量のいなごの襲来を受けると、その地は何もなくなると言われます。農作物に限らず草木は全て食い尽くされる。草木で作られた製品も食い尽くされる。被害地域は、食糧不足、飢饉となる。旧約時代、いけにえをささげる礼拝ですのでこの災害は、礼拝にも影響を与えたはずです。
この災害を契機に、ヨエルは預言しました。いなごの襲来を、神様の裁きと認めて、悔い改めるようにとの呼びかけ、悔い改めの勧めがヨエル書の中心メッセージの一つです。
ヨエル1章13節~14節
「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」
ところで何故ヨエルは、いなごの襲来という災害を、神様の裁きと受け止めたのでしょうか。何か悪いことがあれば、それは神様の裁きとして受けとめ、悔い改めることが良いということなのでしょうか。
ヨエルが、いなごの襲来を神様の裁きとして受け止めたのは、かつてモーセが予告していた言葉を知っていたからだと思います。
申命記28章15節、38節~39節
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。・・・畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。」
聖書の言葉を絵空事とはしなかった。聖書の言葉を、実際の生活に適応出来たヨエル。宗教を頭の中だけのこと、生活習慣だけの話としないように。神様が世界を創り、支配されていることを知りつつ、信仰と日々の生活を別なものとしないように。ヨエルに倣い、起りくる出来事を神様との関係で受け止める信仰者でありたいと思います。
既に起こったいなごの襲来を契機に預言をしたヨエルですが、過去だけを見たのではなく、この機会に神様との正しい関係を回復しないと、一段と恐ろしい裁きが起こると、未来を見据えて警告を発します。ヨエル書の中に、いくつもその警告を見ることが出来ますが、たとえば、
ヨエル2章11節
「主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」
ヨエル書に繰り返し出てくる「主の日」についての警告です。「主の日」は、聖書全体を通して繰り返し出てくる言葉ですが、旧約聖書では、神様の裁きの日、恐ろしい日として語られることが主です。
今確認しましたようにヨエル書でも、裁きの日、恐ろしい日と記されていますが、同時に喜びの日、回復の日であるとも記されます。ヨエル書において、「主の日」は、恐ろしい日であり、希望の日でもあるのです。
この主の日は恐ろしい日であり、同時に希望の日であるという文脈の中で、あのペンテコステ預言がなされるのです。
ヨエル2章28節~32節
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」
以上のことから、ヨエルの語るメッセージを、簡単にまとめると、次のようになります。今、悔い改めるように。やがて、神様の裁きの日が来るので、それに備えて、神様との関係をあるべき状態に整えるように。その神様の裁きの日は、恐ろしい日であり、同時に回復の時、希望の日であること。その希望の日を待ち望むように。
このメッセージを、当時の人たちはどのように受け止めたでしょうか。私たちはどのように受け止めるでしょうか。
ヨエルの預言は聖書として記録され、神の民に読み継がれていきました。それぞれの時代、神を信じる者たちは、やがて主の日が来ることを信じ、主の日の到来に備えてきました。神様を信じるとは、神の言葉が実現するのを待つという側面があります。
ところで、ヨエルが預言した主の日が、どのように到来したのか。新約に生きる私たちは、知っています。主の日の恐ろしさ。神様の裁きは、キリストに降りかかり、主の日の喜び、希望は、キリストを信じる者に与えられたのです。ヨエルの見据えていた日が、キリストによって驚くかたちで到来した。繰り返し、恐ろしい日と言われた主の日が、キリストを信じる者には、ただ喜びの日となったのです。この凄さ、この恵み深さを、今日よくよく味わいたいと思います。
主の日は約二千年前に到来した。しかし、もう一つ、私たちが待っている主の日があります。キリストがもう一度来られる日、再臨の日。その日には、キリストを信じる者たちは神様とともに生き、命が溢れる。神に敵対する者たちは、決定的に裁かれる。ヨエルは、このキリストの再臨の日についても、次のように預言していました。
ヨエル3章18節~21節
「その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。」
旧約の神の民が、ヨエルの言葉を受けてキリストの到来を待ち望んだように、私たちもヨエルの言葉を受けて、キリストの再臨を待ち望む決意をすることで、このペンテコステを祝いたいと思います。
以上、簡単にですが、ヨエル書を読む備えに取り組みました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。速い人であれば五分程で読めてしまう書。繰り返し読むのも良いでしょう。
ヨエルを通して語られたメッセージ。その中心は、今、悔い改めるべき罪があれば悔い改めること。そして、やがて「主の日」が来ることを覚え、備え待つように。このメッセージを、真正面から受け止めたいと思います。自分の歩み、自分の心を確認し、悔い改めるべき罪がないか。また、今の私が「主の日」に備えるとは何なのか。キリストの再臨に備えるとは、具体的に何に取り組み、どのような生き方をすることなのか。皆でよく考えたいと思います。
聖書を読み、悔い改めつつ、神様の約束の実現を待つ。そのように、このペンテコステの日を祝いたいと思います。
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