2016年10月16日日曜日

マタイの福音書25章14節~30節「良い忠実なしもべとして」


「人が生きるのに必要なものとは何か?」という問いに、皆様は何と答えるでしょうか。色々な答えがあると思います。知恵、力、健康。財産、地位、人間関係。夢、希望、趣味。パソコン、スマートホンと答える人もいるでしょうか。あるいはもっと根源的なもの。地球、太陽、空気、水、食料、自然法則、身体、心という答えも考えられます。

人ひとり生きるのに必要なものは実に多くあります。私たちは、生きるのに必要なものを自分で用意しているわけではなく、そもそも命そのものも自分で手に入れたわけではない。私たちに命を与え、命を守るのに必要なものも与えて下さった神様を、どれだけ意識して生きているでしょうか。

 ところで「命を与えて下さった神様を意識する」というのは、今日も生かされて嬉しいというだけではありません。今日私に命があること、生きることに、神様はどのような願いをもたれているのか。今日、私を生かすのに、神様にはどのような意図があるのかを考えることでもあります。

 皆様は、朝起きて、神様は私にどのように生きるよう願っておられるのか。今日一日、どのように生きるよう導かれているのか、考えているでしょうか。夜寝る時に、神様が願われたような生き方が出来たのか、確認しているでしょうか。

 忙しい毎日を生きる私たち。朝起きた途端、一日のスケジュールが頭を駆け巡り、気づいたら夜になり疲れ切って寝ることを繰り返す。しっかりと、祈りと御言葉のうちに神様と交わる時間を、どれ位持つことが出来ているでしょうか。今一度、「神様が私に願われていることは何か」を考えることの重要性を、皆様と確認したく主イエスが語られた一つのたとえ話を見ることにいたします。

 

 十字架での死を間近にした時。都エルサレムでイエス様は多くの話をされていますが、マタイの二十四章には終末預言と呼ばれる説教が記録されています。イエス様が死に、復活し、天に昇られた後、どのようなことが起るのか。もう一度、イエス様は来られるという再臨の約束が語られます。

 イエス様が天に昇られ、もう一度来られる再臨までの間。(今の私たちはこの状態です。)キリストの弟子たちはどのように過ごせば良いのか。まとめとして、次のように語られていました。

 マタイ24章45節~46節

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 

 イエス様がもう一度来られる時まで、キリストの弟子たちはどのように過ごせば良いのか。「忠実な思慮深いしもべであれ」と言われます。私たちが目指すのは「忠実な思慮深いしもべ」としての生き方。

 このうち「思慮深い」ことについて、マタイの二十五章の最初、賢い花嫁のたとえで詳しく扱われています。そして「忠実」であることについては、続くタラントのたとえで扱われる。今日は、このタラントのたとえに焦点を当てます。

 

 マタイ25章14節~18節

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 

 福音書には多くのたとえ話が記されていますが、このタラントのたとえは分量も多く、有名な話。旅に出る主人が、三人のしもべに財産を預けたと始まります。それぞれ主人の見定めた能力に従って、五タラント、二タラント、一タラントを預けました。一タラントというのは、当時の一般的な給与から考えると六千日分。(現在の勤労日数で考えれば)年収で二十四年分。預けられた額が最も少ない者でも一タラント。多く預けられたしもべは、三万日分の給与という莫大な額。つまり、大資産家がしもべに対して絶大な信頼をおいて旅に出たという話です。

 主人が旅に出た後、二人のしもべはすぐに商売を開始し、儲けを出しました。ところが一人のしもべは地面に埋めて預かったお金を隠しました。しもべによって対応に違いがあったのです。

 

 皆様、想像してみてください。もし自分が、莫大な財産を預けられる立場だったとしたら。預かったお金をどうするでしょうか。その預かったお金を元手に、商売を開始するでしょうか。間違いがあってはいけないとして仕舞い込むでしょうか。結論から見ると、商売をして儲けたしもべが称賛されるのですが、自分がその立場だと商売を開始する勇気があるかどうかと悩みます。

 そもそも、真剣に自分がしもべの一人であったらと想像しますと、まず間違いなく、この預かったお金をどうしたら良いのか。どのように管理したら良いのか。主人に聞くと思います。主人に聞かずに、預かったお金に手をつけて商売を開始することが良いこととも思えないのです。

 そのように考え、このたとえを読みますと、不思議なことに、何故しもべたちに財産を預けたのか、主人の意図が語られていません。主人も語らないし、しもべたちも確認していない。大事な部分が隠されたまま、語られているたとえ話。

 

 さて、たとえ話の後半は、主人が帰って来て、預けた財産をしもべたちがどのように取り扱ったのか確認します。

 マタイ25章19節~30節

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 

 旅から帰ってきた主人は、しもべたちと清算の時を持ちます。商売をして、儲けを出した二人のしもべに対しては、激賞でした。

五タラント、二タラントという大金を、それぞれ倍にした。これは凄まじい業績です。普通に考えますと、第一に褒められるのは、その才能、努力、あるいは結果でしょう。「よくやった。あなたの手腕は素晴らしい。」とか、「よくやった。預けた財産が倍に増えた。素晴らしい結果だ。」とか。ところがこの主人が褒めたのは、「忠実さ」でした。しもべが忠実であったことを喜ぶ主人。

 この場合の「忠実さ」とは何でしょうか。主人にはしもべにお金を預けた意図があり、その意図に従って、しもべが財産を扱ったということ。二人のしもべは勝手に商売を始めたのではなく、主人の意図を受け止め、その意図に従って預かった財産を扱ったということです。前半部分で、あえて隠されていた主人の願いを、二人のしもべは正しく理解していた。その忠実さが激賞されました。

 

 片や一タラントを地に埋めたしもべは、大変な悪評価を受けることになります。悪いなまけもの、役に立たぬしもべと言われ、預かっていた一タラントは取り上げられ、外の暗やみに追い出される。恐ろしい結果となります。

 なぜこれほどまでの悪評価だったのか。それは主人の意図を理解しなかったからでしょう。財産を埋める。これは明らかに、主人の意図と違うのは分かります。もし主人が財産を埋めたかったのであれば、そもそもしもべに預ける必要はなかった。自分で財産を埋めて旅に出れば良い。そして、財産を埋める位ならば、銀行に預ける方が良い。このしもべは、自分に預けた主人の意図を無視した。これが、これ程までの悪評価となったのです。

 

 以上、タラントのたとえでした。このたとえは、どのような場面で語られたでしょうか。先に確認しましたように、キリストの再臨まで、キリストの弟子たちはどのように過ごせば良いのか教える箇所。私たちは主イエスが来られるまで、忠実であるようにと教えられます。この場合の忠実さとは、神様が私に願っていることをよく理解すること。神様から預けられたものを、その意図に従って用いることです。

私たちはこれまで、どれだけ忠実に生きてきたでしょうか。

 

 聖書を通して、繰り返し教えられていること。私たち全ての者に願っておられることは、私たちが与えられている全てのもので、神様の素晴らしさをあらわし、隣人に仕え、世界を祝福することです。

 色々な箇所を挙げることが出来ますが、例えば山上の説教で教えられている言葉は次のようなものです。

 マタイ5章13節~16節

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 

 神様が私たちに願っておられること。地の塩、世の光として、隣人に仕え、世界を祝福し、父なる神があがめられるように生きること。何歳でも、どのような状況でも。学生でも、主婦でも、仕事をしていても、退職後の歩みでも、病や怪我の中でも、命のある限り、私たちはもてる全てのもので、神様を喜び、隣人を愛し、世界を良くすることに取り組むよう使命が与えられています。

この使命に従うかどうか。与えられた命を、どのように使うのか。預けられた賜物を、どのように用いるのか。神様の意図に沿うようにと勧められていること。キリストが来られるまで、私たちには忠実であることが求められていることを、今朝、確認しました。

 

 とはいえ、私たちはそれぞれ違いがあります。一人一人、与えられたものが違います。環境も、自分の状態も、情熱や能力も、それぞれの隣人も異なる。神様の素晴らしさをあらわし、隣人に仕え、世界を祝福すると言っても、具体的な生き方は違いがあります。そのため、良い忠実なしもべとして生きるとしても、具体的にどのように生きるのか。私たちは日々、祈りと御言葉のうちに、真剣に考えなければいけません。

 日曜日、礼拝に来る度に、神様が私に願っていることを真剣に考えたいと思います。一日をスタートさせる時、その日の自分が立てたスケジュールを走り出す前に、神様から与えられた使命がどのようなものだったのか、確認したいと思います。いつでも、良い忠実なしもべとして生きるとは、今どのようにすることなのか、祈り求めながら生きていきたいと思います。

 おそらく、このように決心しても、自力でそれを為すことは出来ないでしょう。神様に頼り、祈り願いつつ、また仲間と励まし合い、支え合いながら、私たち皆で、良い忠実なしもべとして生きていきたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿