皆様、クリスマスおめでとうございます。今朝は救い主の誕生を記念し、その意味を考えるクリスマスの礼拝を皆様とともに迎えることができました。嬉しく思います。また、この礼拝で信仰告白や転入会を通して、六名の兄弟姉妹が私たちの教会に加えられることも感謝したいことです。
ところで、今年のアドベント、礼拝説教のテーマは「良き知らせ」。私たちは、神様から良き知らせ受け取ったザカリヤとその応答、同じく良き知らせを受けたイエス様の母マリヤとその応答を見てきました。そして、いよいよ今日は実現した良き知らせ、救い主イエス・キリストの誕生に目を向けてゆきたいと思います。
さて、ユダヤの人々が長い間待ち望んでいた救い主の誕生、世界全体に大きな影響を与える救い主の誕生と聞けば、さぞや人々の注目を浴びたことだろうと、私たちは考えます。今や、イエス様を救い主と信じる人々は世界中に広がり、イエス様の名前を知らない人はいないと思われます。ですから、昔も多くの人がその誕生を歓迎したことだろうと想像します。
しかし、意外なことに、実際は父ヨセフと母マリヤ以外の誰にも注目されず、誰からも歓迎されない状況で救い主は誕生したと、聖書は語っています。むしろ、その頃世界の人々の目が向いていた人物は、ローマ帝国初代の皇帝アウグストであったかもしれません。
2:1、2「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」
アウグストは政治家としても、軍人としても非常に有能な人物と評価されています。当時、人々は長い間繰り返された戦争や反乱に疲れ切っていました。しかし、アウグストの活躍により地中海世界には戦火が止み、平和がもたらされたのです。いわゆる、パックスロマーナ、ローマによる平和の到来でした。このためにアウグストはローマ帝国初代皇帝の栄誉を受けることになります。
尤も、この平和は軍事力、経済力など、ローマ帝国のもつ強大な力による平和であって、支配国ローマにとって都合のよい平和と言う面があることは否めません。そして、アウグストはその支配をさらに徹底すべく、帝国内のあらゆる国から税金を徴収するため、住民登録の勅令を出したのです。
これによって国はますます富み、栄え、アウグストの時代からおよそ100年後の最盛期には、様々な民族や国を含む帝国の領土は、世界の四分の一の面積を占めたと言われます。
今、世界の大国と言えば、アメリカ、中国、ロシアなどが思い浮かびますが、これよりも遥かに広大な領土と多くの民族を統一していた世界帝国。それがローマであり、その土台を築いたのが、このアウグストと言えるでしょうか。
しかし、支配者の政策は、時に民衆にとっては厄介なもの。特に、貧しいユダヤの人々にとって切り詰めた生活の中から、自分たちに恩恵があるとも思えない税金を払うことも、そのために先祖の町で登録を行わねばならないことも、重荷であったと思われます。
けれども、皇帝の勅令とあれば、従わないわけにはいかないのが庶民の辛いところ。ヨセフとマリヤも、ヨセフの先祖の町ベツレヘムへと旅立つことになります。
2:3~5「それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」
ヨセフたちが住んでいたのはガリラヤの町ナザレ。ナザレからユダヤのベツレヘムまでは、120キロ程ですから、健康な人でも徒歩で4日はかかります。若いとは言え、身重の妻を連れての旅は難儀であり、危険でもあったでしょう。一家の稼ぎ手はヨセフでしたから、普通であればヨセフ一人ベツレヘムに行き、住民登録を済ませれば、それで良かったと考えられます。それなのに、何故ヨセフはマリヤを連れて旅に出たのでしょうか。
ルカの福音書には、マリヤが親戚のエリサベツの家で三カ月過ごしたとあります。つまり、マリヤはすでに安定期に入っており、徐々にお腹が目立つ様になっていたと思われます。マリヤの妊娠に、周りの人が気がつく状況に入っていたということです。
正式な結婚関係にない女性が身篭る。性道徳が現代に比べ格段に厳しい当時のユダヤ社会では、マリヤに対する心ない噂、冷たい視線や態度が向けられることは避けられません。その苦しみからマリヤを守り、少しでも安心して出産できるように努める。これが、ベツレヘムへの旅にマリヤを連れて言ったヨセフの配慮であったと思われます。
事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフはマリヤとマリヤの胎に宿る子どもを守るよう、神様から使命を与えられていましたから、いかに神様のことばに信頼し、従っていたか。ヨセフの信仰が際立つところです。
果たして、私たちはどうでしょうか。自分の人生に或いは家庭に思いもかけないこと、とても良いとは思えない大きな問題が起こった時、ヨセフの様に、そこにも神様の計画があると信じ、みこころに従うと言う信仰に立つことができるでしょうか。
さて、ベツレヘムまで旅路を守られたヨセフとマリヤでしたが、無事町に到着すると、マリヤが産気づいたようです。思っていた出産の時期よりも早かったのでしょうか。急遽安心して出産できる部屋が必要となり、ふたりは、ベツレヘムの宿屋を捜し歩くことになります。
2:6、7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
当時のユダヤの宿屋は、狭い部屋がいくつか集まった長屋のような粗末なものでした。しかし、ここに宿屋と訳されていることばは、そんな粗末な宿屋ですらなく、普通の家の一間であったと言われています。その頃、普段使用している部屋を開けて、旅人のために一晩提供する人々がいたのです。そうした場合、宿を求める旅人をみな受け入れてゆきますから、旅人同士相部屋ということにもなるわけです。
ですから、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と言うのは、部屋はあったけれどもどこも相部屋状態で、人目を気にせず彼らが出産できる場所は、家畜小屋しかなかったと言う状況を示していると思われます。
それにしても、人々が待ち望んできた救い主がロクな宿屋もない様な寂しい町で生まれたこと、しかも、普通の人の家の、それもまともな部屋ですらなく、家畜小屋の飼葉おけの中で産声をあげたことは、何とも意外なことと思われます。もっと救い主にふさわしい町、ふさわしい場所が他にあっただろうにと考えてしまいます。
しかし、救い主がベツレヘムに生まれたことにも、家畜小屋の飼葉おけで産声をあげたことにも、非常に大切な意味があることを、聖書は私たちに伝えているのです。
先ずは、ベツレヘムでの誕生の意味から見てゆきたいと思います。最初にお話した通り、当時の世界における最高の支配者は皇帝アウグストでした。やがて世界の面積の四分の一を領土とし、多くの民族や国を含む、歴史上例を見ない大帝国の支配者です。
事実、アウグストの勅令で世界中が動きました。アウグストは、ローマの支配をさらに確立するため勅令を出します。シリアの総督はアウグストに従い、それをユダヤの人々に伝えます。ヨセフはマリヤを人々の冷たい視線から守るため、やむを得ず旅に出ることにしました。それぞれに理由があり、事情があって行動したわけです。
しかし、こうして救い主がベツレヘムで生まれたことは偶然ではありませんでした。アウグスト、総督、ヨセフ。人間たちひとりひとりの思い、計画、行動の背後に、この世界を真に支配し導いている神様、全能の神様がおられると聖書は教えているのです。イエス様誕生から800年以上前の昔、預言者を通して神様はこう語っていました。
5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
ベツレヘムは旧約聖書の昔、イスラエルの12部族のうち最も弱小な部族、ベニヤミン部族の町でした。しかし、その最も小さな部族から救い主が出ることを、神様は昔から定めており、それがイエス様の誕生において実現したのです。この世において力なき者に心を注ぎ、小さき者をあわれむ神様の愛が、ベツレヘムにおけるイエス様の誕生において表されました。そのために皇帝アウグストの勅令も、シリア総督の行動も、ヨセフとマリヤの旅も、神様に用いられたと、ルカの福音書は私たちに語っているのです。
世界の歴史を支配する神様がおられること、その神様が本当にこの世界に来られたこと、それもこの世において最も力なき者、最も小さき者のところに生まれてくださったこと。ここに、私たちは力なき者、小さき者に対する神様の愛を見ることが出来ると思います。
この世の厳しい現実の中で、私たちは自分の力のなさに失望することがあります。涙する時もあるでしょう。神様の前で、自分がいかにちっぽけな存在であるか、痛感させられる時もあると思います。しかし、その様な私たちの存在を心から大切に思い、救い主を与えて下さった神様の愛を受け取り、味わいたいと思うのです。
次に、救い主のイエス様が貧しい場所に生まれた意味を確認したいと思います。
世界の歴史を支配する神様なら、救い主を誕生させるのに多くの人の注目を引くような方法や場所を選ぶことができたはずです。それなのに、何故神様は名もなき庶民の家の、しかも人間が使う部屋ですらない、ただ家畜小屋に転がされていただけの、汚れた飼葉おけと言う、貧しい場所を選ばれたのでしょうか。
第一に、神様がこの様な場所を選ばれたのは、イエス様がこの世で無名の人、貧しい者、弱い立場に置かれた者の友となるため、この世界に来られた救い主であるからです。事実、イエス様の弟子は全員が肩書なし、無名の人でした。一緒に食卓を囲む仲間と言えば、収税人ややもめ、遊女など世間から除け者扱いされていた人々で、宗教の指導者やエリートは皆無でした。イエス様が親しく接したのは、こう言う人々だったのです。
第二に、貧しい場所で生まれたことは、やがてイエス様が受ける十字架の苦しみを予告していました。今日の聖句です。
Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
ここでイエス様について言われている「貧しさ」は、経済的な貧しさのことではありません。それは、人々のしもべとなって仕えた、イエス様の生き方を表すことばです。
イエス様の時代、皇帝アウグストは、その軍事力、政治力、経済力によって世界を支配していました。勅令を出し、税金を徴収することでさらにその力を高めようと考えていたでしょう。イエス様は神の御子ですから、アウグストのような力をもとうと思えばいくらでも持つことができたはずです。しかし、それらを一切持とうとはされませんでした。むしろ、進んで無名の人、貧しき者、弱い立場に置かれて苦しむ人々の仲間となり、しもべとなって仕えることで、彼らの人生を豊かものにしたのです。
自分を豊かにすること、自分が高い所に上ることよりも、自分を低くして人を愛し、人に仕え、人を豊かにすることに関心を持ち、行動する生き方。それがイエス様の示された貧しさであり、その最終的な形が十字架の苦しみであることを、心に刻みたいと思います。
このクリスマス、イエス・キリストの十字架の苦しみによって豊かないのちを与えられたことを感謝したいと思います。それと同時に、私たち皆がイエス様のように、自ら貧しくなり、人を豊かにする歩みを進めてゆきたいと思うのです。
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