2017年1月1日日曜日

列王記6章15節~23節「目が開かれて」


新年明けましておめでとうございます。皆様とともに礼拝をもって新たな年を迎えることが出来ますこと、大変嬉しく思います。これから始まる私たち一人一人の歩み、四日市キリスト教会の歩み、日本長老教会の歩みが祝福されますよう皆で祈りたいと思います。

 

 一月一日は元旦と言います。初めの日。実際には日が一日進んだだけ。何かが新しくなったわけではないのですが、この日を機に私たちは新たな歩みを心がけます。日本語としても、初日の出、初稽古、初化粧、若水、若湯など、いつものことでもめでたく呼ぶことで、全てが新しくなったと見立てる知恵があります。元旦は、心機一転、これを良い機会として自分の歩みを整える日。

 皆様はこれから始まる一年、どのように生きたいのか、一年の計画は立てているでしょうか。「一年の計は元旦にあり」New year's day is the key of the year.」一般的な格言ですが、まさに今、一年の計画を立てるべしと教えるもの。

確かに、目標無しに何かに取り組むことは難しいこと。目標や計画があることで、充実した生き方となります。「今からマラソンをします。ヨーイドン。」と私がここで宣言したとして、ゴールがどこだか分からないと誰も走り出せません。ゴールを見据える、計画を立てて行動することは大切なこと。日々の忙しさで目を回している時ではなく、この初めの日、新たに目標を見据え、計画を立てる。自分の願いは何なのか考えることは良いことです。

 

聖書の中にも計画を立てることの大切さを示す言葉がありました。

 ルカ14章27節~32節

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。

 

 塔を立てる、戦争をするのに決意や覚悟、計画が必要なのは言うまでもない。当たり前のこと。決意や覚悟、計画無しに行動を起こせば、恥をかく、白旗を挙げて軍門に下らなければならなくなる。そうであれば、自分の十字架を負ってキリストについて行くこと、キリストの弟子となる「大工事」、「大戦争」においてはなおさらでした。主イエスに従うのは、塔を立てる、戦争をすること以上に決意と覚悟、計画が必要なのだと教えられる箇所です。

 主イエスを信じ、祈りと聖書の日々を送り、週に一度礼拝をささげる。それは本当に素晴らしいことですが、無意識、無計画に取り組むことのないように。どのように神様を愛するのか、どのように人を愛するのかを考えながら、キリスト者の歩みをしたいと思うのです。

 一年の初めの日。この一年、どのように神様を礼拝し、仕えるのか。どのように隣人を愛し、キリストを伝えていくのか、皆でよく考えたいと思うのですが、どのような心構えで一年の計画を立てたら良いのか。聖書から確認したいと思います。

さて、もう一度お聞きしますが、皆様は、このように生きたい。このようなことに取り組みたいという願いを持っているでしょうか。聖書によれば、神様は私たち一人一人に志を与えて下さいます。神様が下さる志。聖なる情熱。

 ピリピ2章13節

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 

 キリストを信じる者に神様が下さる恵みは多くありますが、そのうちの一つは志。自己中心の欲望、罪にまみれた情熱ではなく、正しい願望、聖なる願いです。私たち皆、それぞれの状況に応じて、小さなものから大きなものまで、神様が志を与えて下さる。

 聖書に記されている信仰者の姿を見る時、神様から与えられし志に従う時は、いかに困難な状況であろうともそれが最善の道であることが分かります。およそ人間にとって幸いな人生とは、神様が下さる志に従って生きることでしょう。

皆様は、今の自分に神様が与えて下さっている志が何か。考えたことがあるでしょうか。「神様が与えて下さった志は何ですか?」と聞かれた時に、「これだと思います。」と答えることは出来るでしょうか。

 

 神様が私に与えた志は何か。私のうちにある聖なる願いは何か。これを見極めることは意外と難しいこと。何しろ、私たちのうちにある願いは、神様が下さる志だけでなく、自己中心の欲望、罪にまみれた思いがあるからです。

 ヤコブ4章1節~2節

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

 

 キリストを信じる者。クリスチャン。私たちの中にも、どうしようもない欲望があると告白すべきでしょう。クリスチャンは罪赦された聖人ではない。罪赦された罪人。今は聖化の途上であって、私たちは、己の罪の性質と戦いながら生きているのです。

 一年の計画を立てる、目標を定めると言っても、私のうちにある願いが、罪から出たものなのか。神様が下さる志なのか。よくよく考える必要がある。よくよく見極める必要があるのです。 

明らかに聖書に反することを自分が願っている場合。その思い、その願いは捨てるので良い。問題なのは、自分でも判断がつかない時。一見、聖書的、教会的と思える願いの中にも、自己中心的な願い、自分の欲望を満たす願いが入り込むことがあります。よくよく気を付けないといけないところ。

 

 また願うもの、願う状況は正しいものでも、願い方が問題となることもあります。

例えば、教会で奉仕をすることを願う。その願い自体は良いもの。しかし、それを願う人が、奉仕をしなければ充実した人生を送れないと考えているとしたら。奉仕が最上の生きがいとなり、それ抜きではどのように生きたら良いか分からないとなっているとしたら。その願い方は大きな問題なのです。

あるいは、家族の平和を願う。その願いは素晴らしいこと。聖書的です。しかし、神様に従うこと以上に家族の平和を求めるとしたら、危機的状況と言えます。

 それ自体は良いものでも、神様より重要だと見なす。あるいは、神様からしか得られないものを、それから得ようとするならば、得られない方が良いということもあります。

 

 私の願いが神様から与えられた志なのか、それとも自分の欲望からのものなのかを判断する。あるいは、願い自体は良いものでも、願い方は間違っていないか判断する。どちらにしても、判断する力、見極める力、識別力が必要でした。

パウロの祈りが思い出されます。

 ピリピ1章9節~10節

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。

 

 ピリピの教会員のためのパウロの祈り。この祈りを私たちは自分のために、またお互いのために祈るべきでした。見極める力、霊的識別力を祈りながら、自分の願いは何か、一年の計画は何か、考えたいものです。

 識別力が与えられるように祈る。祈り合うことも大事。しかし、もう一つのパウロの勧めに今日は焦点を合わせたいと思います。

 

 ピリピ4章6節~7節

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

 ここで、あなたの願い事を神に知って頂きなさいと勧められます。面白い表現。祈りの中で、願いを知ってもらうとはどういうことでしょうか。

 元来、私たちが神様に願うのは、その願いを叶えてもらうため。叶えてもらいたく願うのです。ところがパウロは、叶えてもらいなさいというのではなく、知って頂きなさいと言います。それはつまり、その願いが正しいのかどうか、神様に相談しなさいということ。自分の願いを知って頂き、この願いをどうしたら良いか、神様に聞く。そのような親しい交わりを持つようにとの勧めです。

 祈りとは自分の願いを口にすることと考えている人にとっては、衝撃的な勧め。祈りとは、自分の願いが相応しいものか神様に聞くこと。自分の願いを整えること。

 この自分の願いを神様に知って頂き、神様に相談するということは、パウロ自身が経験したことです。

 

 Ⅱコリント12章7節~9節

「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 

 「一つのとげ」と言われていますが、パウロには病がありました。目の病気とか、てんかんと推測されています。パウロにとっては嫌なものであり、取り除かれることが願いでした。苦痛からの解放。あるいは、これがなければより伝道が進むと考えたでしょうか。しかしパウロは、その自分の願いに対する神様の考えも受け取り、願いの通りにならないことでも満足しています。自分の願いの通りにならなくても、満足する。これが、神様に願いを知って頂くということです。このような神様との親しい交わりが勧められているのです。果たして私たちは、これ程の神様との親しい交わりを、経験しているでしょうか。味わっているでしょうか。

 

 私たちの願いを知って頂いた後の神様からの応答。それは、天から直接声が聞こえて来てくるというものではありません。(絶対にそれが起こらないとは言えませんが、多くの場合は別な方法です。)聖書を読む中で、神様の思いを知ること。説教で教えられること。礼拝の交読文や賛美を通して。クリスチャンの交わりの中で。本を通して。あるいは出来事の意味を考える中で。私たちは神様からの応答をどれだけ味わっているでしょうか。新しい一年、より神様との親しい交わりを喜び、楽しむ歩みを送りたいと願います。

 

 以上、いくつかのことを確認しました。まとめて終わりにいたします。

 新たな年を迎えて、私たちは今一度、自分の願いは何か。どのように生きるのか考える時となりました。

しかし、私たちの願いは、聖なる志もあれば、罪からくる欲望もある。今、自分の持っている願い、計画は良いものなのか。正しいものなのか。見極める必要がありました。その見極める力はどのように身につけたら良いのか。見極める力を下さいと祈ること。そして、今の自分の願いを神様に知って頂くことです。

おそらく、今日は日本で一番多くの人が神社、寺に行き、自分の願いを口にする日でしょう。私たちは教会にて、自分の願いをどうするのか。神様に知って頂くのです。自分の願い通りになることが最上なのではなく、私の願いをどのようにするのが良いのか、神様に聞くのです。このような信仰の姿勢を持って、自分に与えられた志が何かを考えること。この一年の計画を立てることに取り組みたいと思います。
 皆様とともに、自分に与えられた志を確認し、その志に従う歩みをする。その時、どれ程

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