2017年3月5日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(30)~試みに合わせないで~」


随分前のことになりますが、小学校の同窓会に出席した時のことです。それぞれが現在の仕事について紹介することになりました。私が「キリスト教会の牧師をしている」と言うと、やはり牧師と言うのは日本では珍しい仕事ですから、どんなことをしているのか質問されました。良い機会だと思い、神様を信じ牧師となる決意をするに至った経緯を話したのですが、その際一人の友人が「俊ちゃん。神様を信じると、苦しみがないと言うのか。苦しいことがあっても神様が守ってくれているので、心が迷わないと言う状態になれるんでしょ。俺もそんな心境になれたら良いよなあ」と呟いたのです。

私は何回か同じ様なことを言われたので、意外には感じなかったのですが、皆様はどうでしょうか。同じ様なことばを聞いたことがあるでしょうか。

どうも、日本人は神仏を信じることは、人生の苦しみ、悩みから解放されることにつながると言う考えがある様に思われます。神学校時代、東洋思想と言うクラスがありました。そこでこの四日市教会の初代牧師でもあった小畑先生が、「仏教は人間の苦しみを問題にするのに対し、キリスト教は苦しみの奥にある罪を問題にする。仏教は苦しみからの解放を教えるのに対し、キリスト教は罪からの救いを説く」と話してくれたことを覚えています。そうすると、私の友人の様な考えには仏教の教えが影響しているのかもしれません。

しかし、どうでしょうか。神様を信じてから、皆様の生活からは苦しみ、悩みがなくなったでしょうか。苦しみの中で、恐れや不安に心が揺れたり、迷うことはなくなったでしょうか。私自身もそうですが、恐らくここにおられる殆どの方が「そんなことはない」と思っていることでしょう。

聖書は、私たちが経験する苦しみを試練と呼んでいますが、それは何故なのか。神様を信じる前にも苦しみがあり、神様を信じてからも苦しみがあるのなら、神様を信じることに、どのような意味があるのか。今日学ぶ主の祈りの六番目の祈りは、その様なことを私たちに考えさせる祈りではないかと思います。

最初に少しおさらいをします。私たちが今学んでいるのは、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、イエス様の説教の中でも最も有名で、良く知られたことばがふんだんに登場する山上の説教です。

この山上の説教のほぼ真ん中にあるのが主の祈り。この世界を創造した神様に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて始まる祈りは全部で六つ。前半の三つが神様のことを覚えての祈り、後半の三つが私たちの必要の為の祈りであることは何度も確認してきました。

後半の祈りは、最初が日ごとの糧、食べ物を代表とする私たちが生きるのに必要な物を求める祈り。二番目が、私たちの罪の赦しと、他の人のことも赦せるようにと言う祈り。そして、最後が今日扱う「私たちを試み、苦しみに合わせないでください」と言う祈りとなっています。

ところで、今日の祈りにある「試み」と訳されていることばですが、聖書の他の所では「試練」とか「誘惑」と訳されています。試練と言うのは、神様がそれを通して私たちの信仰を強め、成長させるために与えてくださるものです。誘惑と言えば、私たちが神様に背き、罪を犯すよう誘われている状態です。試練は良い意味ですし、誘惑は悪い意味ですが、両方とも元は同じことばでした。ですから、キリスト教会では文脈によって、このことばを試練と訳したり、誘惑と訳したり、ふさわしいことばに訳し分けてきた訳です。

しかし、今日の祈りにある「試み」を試練と考えるのか、誘惑ととるのか。このことは、昔から議論されてきました。事実、ここを「誘惑に合わせないでください」とする聖書も多くあります。詳しい議論は割愛しますが、私としては、ここに試練と誘惑どちらの意味も含まれていると言う立場で話を進めてゆきたいと思っています。

さて、聖書全体を見ると、神様を信じる人々は昔から試練を受け、試練を通して神様への信頼を深めて言ったことが良く分かります。アブラハムはようやく与えられた我が子を神にささげよと命じられ、試練に直面します。ダビデは義父サウル王の理不尽な怒りに苦しめられ、国中を逃げ回ると言う試練を受けました。新約聖書に登場する初代教会の人々は、ユダヤ教やローマの町に住む他宗教の人々からの迫害と言う試練の中にあったことが記されています。聖書は、試練を通して神様への信頼を深め、霊的に成長していった人々の記録と言えるかもしれません。

 ですから、聖書は様々な所で、試練が私たちの成長に有益であること、試練を喜んで受け入れることを勧めていました。代表的なものを一つ取り上げたいと思います。

 

 ヤコブ1:24「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

 様々な試練と言われています。初代教会の人々が味わった試練の代表的なものは迫害でしたが、ヤコブの教会の人々が受けていた試練とは、教会に集う貧しい人々がその貧しさ故に金持ちの権力者たちに辱められ、苦しめられていたことと考えられます。聖書は、その様な苦しみであっても神様が与えたもう試練であり、忍耐を働かせることが信仰者にとって大切であることを教えています。

迫害はないにしても、今日の私たちにも試練はあります。病の苦しみ、人間関係の悩み、死を前にした痛みや不安も試練でしょう。自分が犯した罪や失敗の結果に苦しむと言う試練もあると思います。いずれにしても、信仰の成長のために様々な試練が必要不可欠であることは、昔も今も変わりがありません。

 けれども、神様が与えたもう試練には大切な意味があるとすれば、イエス様は何故神様に「試み、試練に会わせないでください」と祈るよう教えられたのか。そんな疑問が涌いてきます。神様が与える試練を、私たちが「願わない」と言ってよいものか。そんな気がします。

 ですから、これは私たちにとって有益な試練ではなく、私たちを神様に背かせ、罪に誘う誘惑のことではないかと考える人々がいましたし、今もいます。その様な人々は、ここを「私たちを誘惑に会わせないでください」と訳す方が良いとしています。

 私たちが経験する様々な苦しみや痛みは、それが起こることを許可された神様のみこころでは試み、試練です。神様はそれを用いて、私たちの信仰を強めてくださいます。神様ご自身とのさらに深い交わりへと導いてくださいます。

けれども、私たちは弱さのゆえに、苦しみや痛みに会うと不安に駆られ、神様への疑いを抱いたり、思い煩ったり、罪を犯してしまうことがあります。その場合には、神様が与えて下さる試練が、私たちにとっては誘惑として働いていることになります。そして、私たちには自分の受けている苦しみが試練なのか、誘惑なのかを区別することはできません。 

この様な私たちの弱さや限界を踏まえた上で、イエス様はこの祈りを教えてくださったのです。

 

へブル4:1516「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

イエス様は、多くの病気を患う人、世間から見下されていた人、家族からも見捨てられた人、貧しい人々と接してきました。その様な境遇にある人々が抱える苦しみ、罪へと誘惑される弱さをよく理解し、ご自分のことのように心を痛めてきたのです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と言うことばには、そのことが良く表れています。

私たちの苦しみや弱さに心から同情してくださるイエス様が教えてくださった祈りとしてこれを受けとめる時、この祈りがどれほど必要なものかが納得できます。「天の父よ。私たちはあなたが与えて下さる試練を避けたいとは思いません。しかし、それが私たちの信仰を押しつぶし、あなたに背くような行いに私たちを誘うとしたら、私たちの弱さをあわれんで、その様な試練には会わせないでください」。

前の「私たちの罪をお赦しください」と言う祈りが、私たちが罪を犯してしまった時の祈りだとすれば、この祈りは、試練の中にあって私たちが罪を犯さないための祈り、試練の中で神様に信頼する者として成長することを求める祈りと言えるでしょうか。

こうして、試練の中で罪から守られることを祈った後、私たちはもう一つの祈りへと導かれます。祈りの後半、「私たちを悪からお救いください」と言う祈りです。これも、私たちの心にある悪、この世界に存在する悪を良く知っておられるイエス様だからこそ、教えられた祈りでした。私たちの心の悪について、イエス様はこう戒めています。

 

マルコ7:2023「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 

イエス様は、悪の原因が私たちの内側にあること、すべての悪は人間の心の思いから始まることを指摘しています。そして、聖書が「今の悪の世界」と呼んでいるように、この世界は私たちを悪に誘うもので満ちています。

イエス様がこの祈りを教えて下さったのは、私たちが自分の中にある悪とこの世界にある悪を見つめるため、自分の思いや行動によく注意するためであったと思います。

私たちは自分の心にある悪を知っているでしょうか。物欲か金銭欲か、情欲か、名誉欲か。妬みか、高慢か、人を見下し、馬鹿にする心の殺人か。自分が誘われやすい悪が何であるのか、自覚しているでしょうか。どの様な場所、どの様な時間帯、どの様な心の状態になると、罪を犯しやすいかを知り、ブレーキをかけることができるでしょうか。「私たちを悪からお救いください」と日々祈りながら、自らの心を見張る者でありたいと思います。

 そして、イエス様が教えられたものかどうかははっきりしませんが、主の祈りの最後には、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのもの」と言う賛美が付け加えられていました。

 私たちの生活に必要な物に心を配り、備えてくださる神様。私たちが心から求める罪の赦しを与えてくれる神様。私たちを試練の中に置くとしても、罪への誘惑や悪に陥ることから守ってくださる神様。その神様に祈った後、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです」と賛美をささげることは、神様に信頼する者としてふさわしいと思えます。

 最後に、大切なことを二つ確認しておきたいと思います。

 一つは、この祈りの必要性です。私たちは周りの状況に左右されやすい者、誘惑に対して、悪と戦う力において、非常に弱い者です。自分の力では、神様に喜ばれる生き方をすることができない者です。

 しかし、だからこそ、イエス様はこの祈りをするように教えてくださいました。私たちが罪を避け、悪を離れることを願い、神様に従う歩みを願い求める時、天の父が実際に助けてくださることを経験してほしいと思い、教えてくださった祈りです。一瞬にしてではありませんが、真剣に祈り求める者のうちに徐々に、しかし確実に届けられる恵みがあります。私たちは、日々この祈りこの願いをもって神様に近づく者でありたいと思います。

 二つ目は、人生における苦しみ、痛みを、神様との関係で受けとめることです。山上の説教全体を通して、イエス・キリストを信じる者は、神様と天の父と子どもと言う親密な関係にあることが繰り返し教えられています。

特に主の祈りにおいては、神様のことを、ユダヤの小さな子どもが自分のお父さんに話しかけるように「天の父、天のお父さん」と話しかけてよいとイエス様は言われました。これは、それまで誰も使ったのことのない親しみを込めた呼び方です。

 主の祈りをささげる時、神様は天のお父さん、私たちは天のお父さんに愛されている子どもであることを心に覚えることができます。神様との親しく、安心できる関係の中で、私たちは人生の様々な苦しみを神様からの試練として受けとめることができるのです。そして、試練の背後に天の父の愛を見る時、私たちはよくそれを忍耐し、試練の中で成長する幸いを味わうことができるのです。

 主の祈りによって神様に近づき、神様と親しむ。主の祈りによって天の父に愛されている子どもであることを喜び、神様のみこころに従う歩みを進めてゆく。私たちひとりひとりその様な歩みを目指したいと思います。今日の聖句です。

 

 詩篇11971「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

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