その人の本性は、「その人が何をもって幸せとするか」に表れると言われます。皆様は何をもって幸せとするでしょうか。どのような状況、状態が幸せでしょうか。どのような人になることを目指して生きているでしょうか。
お金か、名誉か、地位か。ご馳走、豪邸か。見目麗しいこと、権力を持つことか。家内安全、商売繁盛、無病息災、願った進路に進むことか。これらのことは、どうでも良いことではありません。大事なこと。貧困、不健康、誰からも相手にされず、家族関係は悪く、仕事もうまくいかず、自分の願いは実現しない。そのような中で生きることは大変なこと。辛いことです。
しかし、幸せの中心を、衣食住や財産、健康や人間関係として生きるので良いのでしょうか。何が幸せなのか、どのような人になることが幸せなのか。
聖書は何が幸せなのか、繰り返し教えていました。
詩篇112篇1節
「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」
神様に対する正しい恐れと、神の言葉を喜ぶこと。どのように生きるべきか、聖書に答えを見出すこと。これこそ「幸いである」との宣言。聖書に従って生きることが人間にとって最上の生き方であるというのは、聖書のあらゆるところで何度も告白され、教えられているメッセージです。
その通り。頭では分かります。この世界を創り支配されている神様の言葉が、他のあらゆるものよりも重要であること。その神様が私に願われている生き方をすることがどれ程幸いなのか。これは頭では分かります。
しかし、頭で理解するだけでなく、本当にそのように生きているかと問われると、自信がなくなります。神の言葉に対する自分の本音はどのようなものか。このような旧約の詩人の言葉とともに自分の生活を振り返ると、聖書の教える幸いな人の生き方をしているだろうか。いや、そもそも、御言葉に親しむことを願っているだろうかと考えさせられます。
私の説教の担当の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。私たち皆で聖書に親しむこと。四日市キリスト教会の皆で、少しずつでも聖書全体を掴む作業に取り組むことを願ってのことです。しかし、これは大上段に構えて、「聖書を読むことは大事。」「聖書を読みましょう。」と宣言したいわけではありません。私たちが取り組みたいのは、しなければならないこととして、聖書を読むのではなく、喜びと感動のうちに聖書を読むことです。
それでは、どのようにしたら、喜びと感動のうちに聖書を読むことが出来るでしょうか。自分を打ちたたいて、「喜べるように」とするのではありません。大事なのは、神様がどのようなお方なのか。救い主が私に何をして下さったのか考えることです。
神を神と思わず、聖書などどうでもよい、私には関係ないと思っていた罪の中から、私たちは救い出されました。キリストによって贖われたので、神の言葉にどれ程の価値があり、従うことがどれだけ幸いなことか分かる者とされたのです。神の言葉を喜び、従うことが出来るとしたら、それ自体が大きな恵みであるということです。
一書説教の際、皆様には扱われた書を実際に読んで頂きたいのですが、聖書を読む前に、まず神様が私に何をして下さったのか。キリストの救いが、自分が聖書を読む時にどのように関係しているのか、良く考えることが出来ますように。喜びと感動をもって聖書を読むことが出来るように、皆で励まし合い祈り合っていきたいと思います。
今日の一書説教は三十五回目。開くのは旧約聖書第三十五の巻き、ハバクク書。全三章の小さな預言書となります。
預言書というのは、多くの場合、神様から神の民に語られる言葉が記されます。「預言」とは、漢字の示す通り、神様からの言葉を預かること。預言者は神の言葉を預かり、それを神の民に伝える。預言書の多くは、預言者を通して神様から語られた言葉の記録です。
ところが、このハバクク書は、神様とハバククのやりとりが内容の中心となります。(これが、ハバクク書の大きな特徴の一つとなります。)祈りの人、信仰の人、正義を愛する人、優れた詩人、なにより凄い情熱を持って神様に向き合ったハバクク。今日は、この預言者ハバククと神様とのやりとりを読むことになります。
ハバクク書1章1節~4節
「預言者ハバククが預言した宣告。主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。」
ハバククから神様への最初の問いかけの言葉。皆様は、この言葉をどのような問いかけと読むでしょうか。
ハバククが活動したのは、バビロン捕囚直前の南ユダと考えられます。(ハバクク書の中には、ハバククがどのような人物なのか書いていなく、また年代も明確には記されていません。その内容から、神殿での奉仕に関わる人物であり、王でいえばエホヤキム王の時代に人々から認められた預言者であったと考えられます。)外国の脅威が増すにつれ、国内の混乱も増した時代。正しく生きるより、自分自信の保身と利益を追求された時代。聖書に対する思いは失われ、倫理道徳は無視された時代。この時代のエホヤキム王と言えば、預言者エレミヤの言葉が書かれた巻物を、小刀で切り、暖炉で焼いた人物です(エレミヤ36章)。
ハバククは、神の民であるはずの南ユダが、あまりにひどい有り様となったことを嘆きます。自分自身も神様に助けを求め、暴虐が起っていると叫んでも、何も変わらない。世界の支配者、真の王である神様は、この状況をどのように見ておられるのか。無視しているのか。義であり聖である神様のご性質と、目の前にある現実の食い違いについて、どう考えたら良いのか。
ハバククにとって「宗教は心の問題を扱うもの。この世の話とは別。」ではなかった。観念論的な態度をとるのでもない。分かったような顔をして、思考停止するのでもない。真剣に神様に向き合い、どうなっているのかと食い下がる預言者。このような真剣さが私たちのうちにあるのかと、考えさえられるハバククの姿です。
このハバククの問いに対して、神様の答えが続きます。
ハバクク1章5節~7節
「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行ない、威厳を現わす。」
神の民が我を忘れて暴虐を尽くしている。この状況を神様に訴えても何も変わらないではないですか、と訴えるハバクク。それに対して神様は、異邦の民カルデヤ人(バビロン)が南ユダに裁きを与える、バビロンを通して裁きを与えるという返答でした。
「う~ん・・・」と唸りたくなる答え。皆様は、自分がハバククであったとしたら、この神様の返答をどのように受け止めるでしょうか。
おそらく、ハバククの願っていたことは、悪人が栄え、聖書に従って生きようとする者が苦しむ現状が変わること。南ユダが霊的に刷新され、多くの人が聖書に従う時代が来ることだったと思います。それを願い、神様に訴え、救いを求めていた。ところが神様からの回答は、南ユダがバビロンに滅ぼされる、というもの。霊的刷新ではなく、徹底的に裁かれるというメッセージ。この答えをどのように受け止めたら良いのか。
この神様の回答を受けて、ハバククは次の疑問にぶつかり、再度神様に訴えます。
ハバクク1章12節~13節
「主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」
神の民が退廃した時、裁きがあるというのは分かる。とはいえ、その裁きを実行する者として神様がバビロンを選ばれているということに納得がいかない。神の民が悪いとしても、それよりもなおも悪いバビロンが南ユダを滅ぼすことをよしとされるのは何故なのか。「神様の目は、バビロンの悪が見えないのでしょうか。南ユダにいる正しい者たちの労苦が見えないのでしょうか。何故、そのような不条理を良しとされるのでしょうか。」という訴えです。
凄い預言者。真剣で大胆。まるで神様を問い詰めるかのような質問をするハバクク。このようなハバククの姿が聖書に記されていることは、大きな励ましです。私たちの神様は、このようなハバククの問いを良しとされるお方。信仰者の真剣な体当たりを、しっかりと受け止めて下さるお方。一人の人間と、ここまで向き合って下さるお方として、神様を覚えたいと思います。
それでは、この問いに対する神様の答えは、どのようなものだったのか。ここに、聖書の中でも極めて有名な言葉が出てくるのです。
ハバクク2章4節
「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
この後半部分。「正しい人はその信仰によって生きる」という言葉を、パウロはローマ書でもガラテヤ書でも引用して、信仰義認を主張します。ヘブル書でも引用されている非常に有名な言葉。
とはいえ、ハバククの問いに対する神様の答えとして、この言葉を聞くとしたら、これは一体、どういう意味になるのでしょうか。「南ユダへの裁きが、なぜバビロンを通してなされるのか。」「バビロンという悪人が、少なくともバビロンよりは正しいユダを飲み込むことを、なぜ良しとされるのですか。」と問うたハバククに対して、神様はこの言葉で何を伝えようとされたのでしょうか。
「高ぶりではなく信仰」という言葉は、ハバククにとって、どのような意味があるのでしょうか。
考えてみますと、聖書の中にハバククと似たようなテーマで神様に訴え、神様から高ぶりではなく信仰へと導かれた人物がいます。義人ヨブです。ヨブの抱えたテーマは、正しい者が苦しむのは何故なのか、という問い。それに対する神様の答えは、様々な被造物を見せ、神が神であることを教えるというもの。神様がヨブに与えたのは、現実がどのようであろうとも、神が神であるから信じるという信仰でした。
神様との対話を経て、最終的にヨブは次のように言っていました。
ヨブ記42章1節~2節、6節
「ヨブは主に答えて言った。あなたは、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。・・・それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
自分の聖書理解、神理解では、この出来事はおかしい。納得がいかないという時。神の民は神様に問うことが出来、(今の私たちの場合であれば多くの場合聖書を通して)納得のいく回答が得られることもあります。しかし、時に神様は、納得や理解ではなく、神の民を「信仰」へと導かれることがある。聖書の教えと現実に違いがあると思われても、それでも「神を神とする信仰」へと導かれるのです。
ヨブがそうでしたし、ハバククも同様です。南ユダへの裁きに、より悪いバビロンが用いられる。何故、そのようなことを神様が許されるのか理解出来ないのですが、理解出来ないから神は間違っているという高慢に陥るのではなく、理解出来なくても、神を神とする信仰の道があるのだと教えられる。「心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」という言葉は、ハバククに対しては「神を神とする信仰」へと導かれた言葉として読みたいと思います。
目に見える現実、自分の理解を拠り所とした信仰から、神様ご自身を拠り所とした信仰へ導かれたハバクク。それでは、これ以降何を語るのでしょうか。
現実には暴虐を振るうものがのさばり、正しい者が虐げられている。南ユダは、より悪いバビロンに破壊されると言われている。聖書的に生きること、正しく生きることが無意味に見える現実がある。しかし、それでも暴虐や高慢が、いかに悪いことか。暴虐や高慢な者たちに対する裁きの言葉を語ることになります。(二章の中盤から裁きの宣告となり、三章はハバククの祈りと記されていますが、その内容は概ね二章の中盤と同様、裁きの宣告となります。)
二章の中盤以降のハバククの言葉は、詩的表現が多く難解です。南ユダで暴虐を尽くしている者たちへ裁きを語っているのか。南ユダを裁きに来るバビロンに対して、そのバビロンも滅ぼされると言っているのか。国は関係なく、全ての暴虐や高慢な者たちに対する言葉なのか。これらが入り混じっている印象があり、複雑です。
とはいえ、ハバクク自身は吹っ切れている印象があり、どのような状況になろうとも神様を喜ぶ者として生きることが告白され、この書は閉じられます。
ハバクク3章18節~19節a
「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」
以上、簡単にですがハバクク書を確認しました。
読み終えて強く印象に残るのは、ハバククの神様に向き合う姿勢です。これ以上ない程真剣に、神様に向き合う預言者。神様と格闘する預言者。生半可ではなく、とことん神様に問いかけ、肉迫するハバクク。
果たして、自分はこれ程まで真剣に神様に向き合ったことがあるだろうかと考えさせられます。この一週間、この一か月、この一年で、苦しかったこと、辛かったことはどのようなことでしょうか。その問題について、どれだけ真剣に神様に訴えてきたでしょうか。神様に向き合うことをせず、他のものに解決を求める歩みとなっていなかったでしょうか。
もう一つ強く印象に残るのは、神様がハバククに与えた信仰です。神様のご性質と、現実に起っていることに食い違いがあると思う時。神様が世界の統治者であると思えない時。それでも、「神を神とする信仰」です。
多くの人が聖書と、聖書の神様を知らず生きている日本。聖書とは異なる原理で動いていると感じられる社会。現代の日本に住む神の民である私たちにこそ、このどのような状況であろうとも「神を神とする信仰」が必要だと思います。
ハバクク書を読むことを一つのきっかけとして、第一に向き合うべき方に向き合う。第一に訴えるべき方に訴える。第一に頼るべき方に頼る。そのような信仰の姿勢を持てるように。そして仮に、答えがない。理解出来ない、納得できないという時でも、「神を神とする信仰」を持って生きることが出来るように。皆で祈り求めていきたいと思います。
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