私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。受難週、イースターの礼拝があり間が空きましたが、今日は再び山上の説教に戻ります。
山上の説教を一つの建物に譬えれば、その入口にあたるのが幸福の使信です。「幸いです」で始まる八つのことばが集まっているため、八福の教えとも呼ばれています。
ここには、イエス様を信じる人の姿が八つの面から描かれています。即ち、心の貧しい人。自分の罪を悲しむ人。柔和な人。義に飢え渇く人。あわれみ深い人。平和をつくる人。義のために迫害されている人。この様な人こそ幸いであると言うキリスト教的幸福観。神様の眼から見て幸いな人の姿を、私たちは一つ一つ確かめてきました。
次に、イエス様が語られたのは、キリストを信じる者がこの世において期待されていることです。イエス様は私たちを「地の塩、世界の光」と呼びました。塩としてこの世の腐敗を防ぐように、光として輝き、神様を知らない人々に神様のすばらしさを示すようにと教えられたのです。
そして、今日の箇所は、幸いな人が地の塩、世界の光として生きようとする時、最も大切にすべきものは何か。それがイエス様の口から語られる所となっています。
5:17,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
律法や預言者とは、イエス様の時代の人々が旧約聖書を指す際用いていた一般的なことばです。イエス様は神の御子ですから、旧約聖書を大切にしておられたことは当然と思われます。それなのに、何故イエス様は「律法や預言者、旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言われたのでしょう。
イエス様は、当時のユダヤ人の常識からすれば驚くほど自由に振舞っておられます。身をきよめることに熱心なユダヤ人は市場から家に戻ると、念入りにきよめの洗いをしました。専用の樽も用意していた程です。しかし、イエス様も弟子たちも手を洗わずにパンを食べ、そればかりか全ての食物はきよいと教えました。
パリサイ人が重んじた断食も、それほど重視していない様に見えます。ご自身が断食をしなかったわけではありませんが、断食が神様に対して特別な徳となるといった考え方はなかったようです。その態度に宗教指導者は不満であり、批判的でした。
当時ユダヤ人が特に重んじたのが、安息日の規定です。「安息日に働いてはならない」と言う十戒のことばを守るため、してはならない仕事のリストを作りました。火を炊く事、1.1キロ以上歩く事、畑に種をまく事収穫する事、物を運ぶ事、病人の手当てをする事等、微に入り細に入り禁止事項を作って人々の行動を規制しました。それ程几帳面な彼等ですから、平気で規定を破るイエス様の行動に我慢できず、怒りを向けたのです。
さらにその頃世間の人が忌み嫌った罪人や遊女、収税人たちとも食事をし、親しく交わり「収税人や遊女の友」と批判されました。人々の常識的な目から見れば、宗教の教師として余りにも自由奔放で破天荒。その生き方は神様の律法への無視、挑戦と映ったわけです。
けれども、人々がその様に考えたのは、彼らの目が開かれていなかったためでした。イエス様ほど旧約聖書を重んじ、その真の意味を説き明かすことのできる人はいなかったのです。イエス様ほど律法を心に刻み、守り、実行することに力を尽くし、それを喜びとする人はいなかったのです。イエス様のその様な思い、旧約聖書に対する愛を、はこのことばから感じることができます。
5:17,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
それでは、律法と預言者つまり旧約聖書を、イエス様はどの様に成就されたのでしょうか。
旧約聖書の様々な箇所で、神様はご自分に背を向け自分の思いのまま生きる罪人に、救いの約束を与えています。神様と罪を犯した人間の間に立つ仲保者、救い主を送ることを何度も約束しているのです。これが預言でした。
イエス様がベツレヘムの町で処女から生まれることも、人々の病と患いを身に負い、癒しと回復を与えることも、人類の罪のために尊い命を捨てられたその生涯の全体が、旧約聖書の預言の成就なのです。
また、イエス様は律法としての旧約聖書をも実行、成就されました。私たち人間は律法の要求を満たすことはできません。神様を愛しなさいと言われても、神様以外のもので心満たそうとします。神ではない偶像に心を向けてしまうのです。隣人を愛しなさいと言われても、妬みや怒りで心が一杯となることもあるのです。そして、律法を守れない私たちは罪人とされ、神様の怒りの対象となってしまいました。ですから、イエス様が律法が要求する罪の刑罰、父なる神様にさばかれ、見捨てられる永遠の死とその苦しみを十字架で私たちに代わって受けられたのです。
さらに、イエス様は罪を犯すことなく、父なる神様のみ心を完全に実行し、みこころを行うことを生きがいとし喜びとされました。
ヨハネ4:34「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
こうして、律法は全て余すところなく、イエス様によって成就し、実行されたのです。
これ程律法の成就に全身全霊をささげ、律法を愛し、実行することを喜びとされたイエス様が、これを守ることを私たちに勧めるのは当然のことかもしれません。
5:19「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」
イエス様を信じた時、私たちは罪の赦しの恵みを頂きました。しかし、恵みはそれにとどまりません。イエス様を信じる者はこの世界を創造した神様を天の父として愛する恵みを与えられたのです。
ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」
神様を天の父と信じる前の私たちにとって、律法は私たちを罪に定め、責めるもの、恐れの対象でした。しかし、神様を天の父として愛する私たちにとって、律法は自分を子として愛してくださる神様のことば、愛の対象へと変わったのです。
旧約聖書には十戒を中心として様々な律法、戒めがあります。新約聖書におけるイエス様の教えや使徒たちの教えは、新しく考え出されたものではありません。旧約聖書に定められた律法の真の意味の説明であり生活への適用です。
そして、その律法の中で最も大切な戒めは何か。扇の要は何かと言えば、このイエス様のことばに集約されていました。
マタイ22:37~40「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
しかし、もし、この二つの戒めしか聖書に記されていなかったとしたら、どうなるでしょうか。
私たちは愛するとはどういうことか、具体的に学ぶことができないでしょう。自分が置かれている状況で、人を愛するとはどういうことなのか。話をじっくり聞くことなのか。物を分け与えることなのか。荷物を運んであげることなのか。赦すことなのか。励ますことなのか。戒めることなのか。具体的に神様のみ心を考え、生活に適用、実行するための土台や具体例をもたないことになるでしょう。
また、私たちの中にある愛は自己中心的ですから、自分勝手な愛の押し売りで相手を傷つけたり、人を支配してしまうこともあると思います。ですから私たちの正しくされ、具体的に実践ができる為に、様々な律法、戒め、教えが与えられていることを覚えたいのです。
イエス・キリストを信じた私たちには、神様への愛と律法への愛が恵みとして与えられています。同時に、私たちがなすべきことも律法として与えられているのです。もし、神様の恵みに目を留めないなら、律法を学び実行することは私たちの人生に何の喜びももたらさないでしょう。逆に、もし、自分がすべきことを無視するなら、抽象的な愛、頭の中だけのキリスト教に終わってしまうのです。
ある夫婦のお話です。夫婦関係について説教を聞いたふたりが「きょうは良い説教を聞いた」と感じ帰宅しました。二人はお互いに礼拝の恵みを分かち合いますが、やがて口論となってしまいます。夫は「妻はキリストに仕えるように夫に仕えなさい」と説教で教えられたじゃないか」と妻を責める。妻は妻で「それなら、あなたもキリストが愛したように、私を愛してみなさいよ」と反論する。収拾がつかない大喧嘩に発展したそうです。
この夫婦は何を間違っているのでしょうか。聖書の律法は、相手を自分の願う通りに変えるためではなく、自分自身を変えるためのもの。相手にではなく自分に適用すべきものです。しかし、私たちはこの間違いに何としばしば陥ってしまうことでしょうか。その様な自分に気がつかないことが何と多いことでしょうか。
この場合、夫には妻が喜んで従いやすい夫になるためにはどうすれば良いかを学び、実践することが、妻は夫に愛されやすい妻になるにはどうすれば良いかを考え実行することが求められているのです。律法は、相手の幸いのために自分を変える。そのために与えられたものであることを心にとめたいと思います。
最後に、確認したいのは、神様との関係の中で律法を実践してゆくことの大切さです。先ほど、イエス・キリストを信じた私たちは神様と父と子の関係に入れられたことをお伝えしました。ということは、律法は私たちが神の子らしく生きるための神様からの贈り物と考えることができます。
もし、皆様が親として我が子におもちゃをプレゼントしたとします。ところが、子どもはおもちゃを使うのにおっかな,吃驚。お父さんがくれたおもちゃを壊してしまったら怒られると思い、こわごわ使っているとしたら、皆様はどう感じるでしょうか。
親が子どもにおもちゃを贈るのは、それを使って子どもが喜んで遊ぶ姿が見たいからでしょう。それなのに、親の思い子知らずで、子どもが壊さないことだけを願っておもちゃを使っているとしたら、子どものために悲しむのではないかと思います。
神様が私たちに律法を与えられたのも同様です。神様は、私たちがどんどん律法を学び、生活に適用し、失敗しても構わないから実践し続けて、神の子どもとしての喜びを味わって欲しいと願っておられるのです。
キリストを信じる私たちは、神様と父と子の関係にあります。それは、子である私たちが律法に背き、罪を犯しても、神様が決して責める事はない関係です。私たちが何度失敗しても「大丈夫、わたしはあなたを愛している」と言って下さる神様との安全で安心な関係です。
律法を守ろう、みこころに従おう言う思いがあっても、実行となると上手く行かないことが多くあります。願う姿に届かず失望することもあるでしょう。その様な自分を責める事もあるでしょう。しかし、失望や罪責感は私たちを無力な状態へと追い込んでゆきます。思い通りにならない相手を責める気持ちが湧いてくることもあります。ですから、悔い改めることがとても重要なのです。今日の聖句です。
Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
私たちが律法に従うことができず、罪を犯してしまった時、神様のみ心は何なのか。それがここに教えられている悔い改めです。悔い改めとは、自分に失望することでも、自分を責め続けることでもありません。自分が抱いた感情や口にしたことば、神様や人に対してとった態度を自分の罪と認め、神様に告白することです。
神様から罪の赦しの恵みを受け取り、神様との安心できる関係に帰ることです。神様との親しい関係の中で、私たちは自分への失望や自分を責め続けることから救われます。神様と律法への愛を回復し、力を尽くして神様に従う歩みを続けることができるのです。「戒めを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」。私たちは、神様と律法を愛する人生へと招いてくださる、このイエス様のことばに日々応答してゆきたいと思います。
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