私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めています。山上の説教の入口には「幸いです」で始まるイエス様の八つのことばが集められており、この部分は八福の教えとも呼ばれています。
心の貧しい人、自分の罪を悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、あわれみ深い人、平和をつくる人、義のために迫害されている人。ここにはイエス様を信じる者の姿が八つの面から描かれています。私たちは「神様の眼から見て幸いな人とは、こういう人たちだよ」と語るイエス様のみ声を一つ一つ確かめてきました。
次に語られたのは、イエス様を信じる者がこの世において期待されていることです。イエス様は私たちを「地の塩、世界の光」と呼びました。塩としてこの世の腐敗を防ぐように、光として輝き、神様を知らない人々に神様のすばらしさを示すようにと教えられたのです。
そして先回。私たちが幸いな人、地の塩、世界の光として生きようとする時、その基準となるものは何かが教えられました。それは、律法や預言者つまり旧約聖書であり、聖書にしるされた律法、神様の教えです。
「律法や預言者、旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言われたとおり、イエス様は私たち人類の罪を背負い、私たちの身代わりに十字架で死なれ、罪の罰を受けてくださいました。
また、生涯を通し聖書にしるされた律法、戒めを、心を尽くし、力を尽くして実行されたのです。父なる神の御心を行うことは喜びであり、心の糧であると言う程、イエス様は律法を大切にし、愛しておられたのです。ですから、「戒めを守り、また守るように教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれる」として、私たちにも律法を守るよう勧められたのは当然のこととも思えます。
以上、先回までの流れを確認してきましたが、今日のイエス様のことばは読む者をして驚かしめます。「この様なことを言われたら、とても自分など天国には入れない」。そう感じる人がいてもおかしくはないことばなのです。
5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」
ここで言われる義とは、律法を守ること、戒めに従うことです。神様の眼から見て義しい行いを指しています。そうしますと、ここでイエス様は、ご自分を信じる者の行いが律法学者やパリサイ人と言う当時の宗教指導者の行いよりも義しくなければ、天国に入れないと教えているのでしょうか。
聖書は至るところで、私たちは自分の行いによっては救われないこと、天国に入れないことを教えています。ただイエス・キリストを信じて救われ、天国に入れると教えていました。ですから、「私たちの行いが義しくなければ救われない、天国に入れない」と、イエス様が教えいるとは思えません。
むしろ、ここでイエス様はご自分を信じる者が受けとる恵みについて教えられていると考えられます。イエス様を信じて救われ天国の民となった私たちは、律法学者やパリサイ人よりも義しい行いを為す恵みを神様から受け取ることができると、約束しておられるのです。
イエス様は、当時の常識からすれば非常に自由に振舞うお方でした。身をきよめることに熱心なユダヤ人は市場から家に戻ると、念入りに体をきよめ、洗いました。しかし、イエス様も弟子たちも手を洗わずにパンを食べ、そればかりか全ての食物はきよいと教えました。
パリサイ人が重んじた断食も、それほど重視していない様に見えます。ご自身が断食をしなかったわけではありませんが、断食が神様に対して特別な徳となると言う考え方は持っていなかったようです。その態度に宗教指導者は不満であり、批判的でした。
当時パリサイ人、律法学者が特に重んじたのが、安息日の規定です。「安息日に働いてはならない」と言う十戒のことばを守るため、してはならない仕事のリストを作りました。火を炊く事、1.1キロ以上歩く事、畑に種をまく事収穫する事、物を運ぶ事、病人の手当てをする事等、微に入り細に入り禁止事項を作って人々の行動を規制しました。それ程几帳面な彼等ですから、平気で規定を破るイエス様の行動に我慢できず、怒りを向けたのです。
さらにその頃世間の人が忌み嫌った罪人や遊女、収税人たちとも食事をし、親しく交わり「収税人や遊女の友」と批判されました。人々の目から見れば、宗教の教師として余りにも自由奔放で破天荒。その生き方は神様の律法への無視、挑戦と映ったのです。けれども、律法を大切にし、全力で成就、実行したイエス様。神様の戒めを愛し、それを行うことを喜びとしていたイエス様から見れば、律法学者パリサイ人こそ律法の真の意味を誤解し、歪め、人々に教えている者たちだったのです。
それでは、イエス様が考える義、本当に義しい生き方とは、どのようなものなのでしょうか。参考にしたいのは、パリサイ人が登場するイエス様のたとえ話です。
ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
先ず登場するのはパリサイ人。パリサイ人はその頃の宗教指導者、人々の尊敬厚いエリートでした。この人はそれにふさわしい生活を送っているように見えます。人を強請る、不正を働く、姦淫等の悪には手を染めず、断食や献金など正しい行いには人並み以上に励んでいるからです。彼がこの様な人生に満足していることがそのことばから伺えます。
しかしイエス様は、パリサイ人は「神から義と認められなかった」と言われます。パリサイ人は自分の生き方を100点満点義しいと感じていましたが、神様の眼から見るなら全く義ではない、悲惨な状態にあったと言うことです。
人を脅かしたことはないけれど、この時隣にいた収税人を見て「この人のように酷い人間ではなくてよかった」と思い、裁判官のように人を見下す心の殺人。実際に姦淫を実行しなくとも、心に蠢いていたはずの情欲。人の眼、世間の評判を意識して行った断食や献金という行いの奥に潜む虚栄心。そして、何よりも聖なる神の前で自分の行いを良しとし、神様の赦しとあわれみが必要とは感じていない高慢。
心の殺人に姦淫。虚栄心に高慢。パリサイ人は心がこれ程悲惨な状態にある事に気がつかず、神の前に出ているのに自分の心を見つめようともしてはいません。これが、「この人は神から義と認められなかった」と言われた理由です。
それに対して、収税人は世間の嫌われ者。パリサイ人が言ったように人を脅す、不正を働く、姦淫等様々な悪を行ってきたことでしょう。しかし、この時彼は神様の前に出て、自分の心と行いとがいかに罪深いかを見つめています。
「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と言う行動自体が、自分に対する深い失望、罪への悲しみを表わしています。そして、彼が願ったのはただ一つ神様のあわれみでした。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」イエス様は「この人こそ神から義と認められた」、つまり神様から見て義しい人、義しい生き方をしていると言われたのです。
この譬えから教えられるのは、神様が最も関心を寄せているのは表に現れる行いではなく、心だということです。私たちが心に抱く思い、願い,想像や動機に神様の眼は向けられているのです。心にある汚れた思いや、自己中心の性質を認めない人、世間の評判や人の眼を意識した行い、自己満足のための善行を為す人を、神様は義とは認めないということです。
マタイ23:25,26「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」
ここに言われる杯の内側とは私たちの心を、杯の外側は行いを意味しています。パリサイ人は表に現れる行いが義しけ神に受け入れられ祝福される。そうでなければ、神に受け入れられないし祝福されることもないと考えていました。
もしかすると、私たちも同じ考えで信仰生活を送ってはいないでしょうか。礼拝出席や奉仕、献金など、自分はきちんと行っているから大丈夫、伝道にも努めているから信仰生活に問題なしと思ってはいないでしょうか。
私たちは行いによってではなく、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、神様に受け入れていただいたと信じています。これが聖書の正しい教えと理解しています。しかし、実際の生活において、行いによって自分の信仰を評価しているとすれば、それはパリサイ人の様な行いにより頼む信仰であることに注意したいと思います。
イエス様が勧めるのは、まず何よりも心をきよめることです。「心をきよめる」と言うと、私たちは心に汚れた思いや自己中心的な動機がない状態を思います。けれども、先の譬えからも分かるように、それは全く違います。
あの収税人のように自分の心を見つめ、そこにある汚れた思いや願い、自己中心的な動機、間違った行いを繰り返してしまう弱さを自分の問題として認めること、それに対して自分が無力であることを悲しみ、神様のあわれみと恵みを求めること。これこそ、イエス様が教える心のきよめです。その様な心から義しい行いが生まれてくると、イエス様は保証しておられるのです。
最後に皆様と確認したいのは、義しい生き方をするために、今日のイエス様のことばで言えば「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」を身に着けるために、神様がどのような助けを私たちに与えてくださったかということです。今日覚えたいのは三つの助けです。
一つ目は、神様の恵み、ことばを代えれば神様との安全な関係です。
ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
皆様は何度罪を犯しても、神様が自分をさばかず、心から大切に思い受け入れてくださるお方であることを信じているでしょうか。私たちが奉仕や献金や祈りができず、自分自身を責めても、神様は決して責めず、測り知れない愛のうちに私たちを守ってくださるお方であることを信じているでしょうか。
イエス様を信じる者はこの様な神様との安全な関係にあることを、このことばは教えています。この様な関係にある時、私たちは自分の罪や弱さとしっかりと向き合い、それを神様が望む義しいものに変えてゆきたいと、心から願うことができるのです。
二つ目は、律法です。律法、聖書の教えは、私たちのあるべき行い、生き方を示しています。私たちは律法を学び実行することを通して、いかに自分があるべき状態から離れているかを実感します。自分がどの様な点で成長する必要があるのか、また、成長のためにどれ程神様の恵みが必要であるかを教えられるのです。
私たちは山上の説教を通して律法、イエス様の教えを学んでいます。学んだことを実行しようとすると、これがいかに難しいかを嫌と言う程経験し、神様の恵みにより頼むことになるでしょう。しかし、それで良いのです。私たちを徹底的にへりくだらせ、神様の恵みに信頼する生き方へと導くもの、それが律法だからです。
最後は時間です。私たちの心と行いがきよめられてゆくには時間が必要です。聖書は、私たちが神様との安全な関係の中で、徐々に義しい者へ成長してゆくことを教えています。
皆様は、美しく高い山が目の前にある時、山頂に登る方法として、もしヘリコプターに乗ってゆくことと登山があるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。多くの人は一気に山頂に到着できるヘリコプターを選ぶでしょう。私もそう願います。
しかし、神様は一気に私たちを義しい生き方のできる者へと作り変えるのではなく、私たち自身が一歩一歩歩んでゆく登山を勧めておられ様に思います。イエス様が「日々、自分の十字架を負い、わたしに従ってきなさい」と言われたように、地上における一日一日の歩みが、正しい生き方を目指して進む、神様と私たちの共同作業なのです。
登山ですから、ゆっくりでよいと思います。人より先に行こうと焦ったり、人より遅れたらどうしようと心配する必要もありません。大切なのはいつもイエス様がともに歩んでくださるのを忘れないことではないでしょうか。
勿論、途中で転んでいたい思いをすることもあるでしょうし、道に迷って不安になることもあるでしょう。坂道の連続に苦しむこともあります。そんな時は、神様が必ず私たちを義しい者へと作り変えてくださる日が来るという約束を杖にして、歩みを進められたらと思うのです。今日の聖句です。
詩篇119:35「私にあなたの仰せの道をふみ行かせてください。私はその道を喜んでいますから。」
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