2016年4月24日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「教会~キリストによって、互いに結び合わされ~」


私たちの教会のビジョン、それは「神と人とを愛する教会」です。ビジョンは私たちの教会が目指す姿ですが、神と人に対する愛はどの様な形で表されるのでしょうか。

 私たちの神様に対する愛は礼拝を通して表されます。神様を知らない人々への愛は伝道によって表されます。そして、兄弟姉妹への愛は交わりにおいて表されるのです。礼拝、伝道、交わり。どれも教会が大切にすべきものですが、2016年度私たちが特に意識して大切にしたい事、それは交わりです。

 教会の交わりと言う時、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。共に礼拝すること、共に語り合うこと、共に祈ること、共に食事すること、共に語り合うこと、共に労苦すること、共に喜ぶこと、共に悲しむこと、共に支えあうこと。聖書には教会の交わりの様々な側面が教えられていますから、一人一人交わりについて抱くイメージが違ってくるかもしれません。

また、交わりに対する思いも異なるでしょう。交わりを好む人もいれば、苦手と感じているもいるかもしれません。同じ人の場合でも、交わりを喜びと思う時もあれば、交わりに苦しむ時があるでしょう。交わりから離れたいと感じる時もあるのではないでしょうか。

交わりを大切にする。神様は人間を交わりの中に生きる為創造してくださいました。イエス・キリストは私たちが愛し合う交わりを築くために、十字架で罪の贖いの死を遂げて下さいました。聖書は、父なる神もイエス様も交わりを大切に思い、そのために私たちを創造し、罪から救って下さったことを教えています。

それに応えて、この2016年度、私たちも交わりの意味を学び、考え、実践してゆきたいと思うのです。今年度の聖句として選びました、エペソ416節のことばをもう一度お読みします。

 

4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

先ず注目したいのは、キリストによってと言うことばです。一つ前の節でキリストは教会のかしらとも言われています。かしらには上に立つ者、支配者と言う意味があります。市長、県知事、総理大臣など、私たちの社会にもかしらが存在します。

しかし、かしらにはもう一つ「源」と言う意味もあります。つまり、キリストは私たちの霊的成長の源、キリストによって、私たちは霊的に成長し、大人になってゆくことができるのです。ことばを代えれば、かしらであるキリストにつながっていなければ、私たちは霊的に成長することはできない存在だということです。

私は10年前脳出血を経験しました。私たちの頭、かしらには脳があります。脳には体の各部分に指令を出す神経が集まっています。私の場合は右の脳が出血しましたから、体の左側にある顔の筋肉、手の筋肉の一部分が機能しなくなりました。幸い、私の場合は軽く済みましたが、今でも顔の左側の筋肉の一部は動きませんし、お風呂に入って頭を洗う時など右手は使わず、気がつかないうちに左手だけを使っています。損傷の深刻な方の場合には、半身不随などで苦しむことになります。

つまり、体の器官にとってかしらにある脳につながっているかどうかは死活問題なのです。そして、体の器官がかしらにつながっていないと正常に機能しないのと同じく、キリストがいのちと成長の源ですから、キリストにしっかりとつながっていなければ、私たちも健康的な信仰生活を送るのは難しいことになります。

それでは、キリストにつながるとはどういうことでしょうか。それは、神さまとの平和で安心できる関係にあることです。

 

ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

 

キリストは十字架で、私たちの罪のために身代わりの罰を受け死なれました。そのキリストを信じた時、私たちの罪はすべて赦され、神様に義と認められました。つまり、実際私たちがどれ程罪を持っていても、神様は私たちを義と認め、愛し、受け入れてくださる関係に入れられたのです。どれ程酷い状態にあっても、私たちは決して神様から責められたり、さばかれたりすることのない関係、心から安心できる神様との平和な関係の中に守られているのです。

恐らく、皆様はこのことを何度も聞き、理解し、信じておられるでしょう。しかし、自分でも気がつかない心の深いところでは、神様との平和な関係にあると言う信仰に立てていないことがあるのではないでしょうか。自分自身がキリストによって、神様に100%受け入れられているという恵みを信じ切ることができない状態が起こってくるということです。

たとえば、日々の生活の中でなかなか聖書が読めない、奉仕ができない、隣人を愛さなければと思いながら愛することができない、身近な人との問題に適切に対応できないなどと言うことを経験します。

それらのことについて、自分の言動を改め決心をし、新たな思いをもって歩み始めるとします。けれども、しばらくはそれで良いのですが、また同じあるいは別の問題に直面して悩み、悔い改め、新たな思いを持ってスタートするということを繰り返すことになります。気がつけばいつも同じ様なところをぐるぐる回っている。いつの間にかそれが慢性化して、罪悪感や半分あきらめの気持ちが生まれてくる。この様な経験はないでしょうか。

また、親しい友人や、兄弟姉妹、家族から誤解されたり、心ない言葉を浴びせられたりするとショックを受け、「信頼していたのに裏切られた」とか「あの他人から離れよう」と考えてしまう。それで終わらず、「クリスチャンなのに怒ってしまった」「赦さなければならないのに赦せない自分はダメなクリスチャン」と、感じる人もいるでしょう。

この様な時、神様との平和な関係にあるという信仰に立てないと、決めた通りのことができない自分に罪悪感を感じます。周りの人のことばや態度に動揺して、自分を責めたり、相手を怒り責め続けることにもなる。つまり、非常に苦しい状態です。

それでは、神様との平和な関係にあるという信仰に立つなら、どうなるのでしょうか。最初は「何故?」と思うかもしれません。しかし、心の深いところに、罪も弱さもあるまま神様に愛され、受け入れられている自分がいるという安心がありますから、何が起こったのかを冷静に受けとめ、神様のみこころに従って問題を解決してゆく方向に心を向けることができます。

 私たちは、本当に神様に愛され受け入れられているという安心感がある時、自分の罪や弱さを直視し、それを修正することができるのです。キリストによって神様との平和で安心な関係の中に入れられ守られているという信仰に立つことが、私たちにとってどれ程重要なことか。改めて確認したいと思います。

 次に、覚えたいのは、ここで私たちは「体の一つ一つの部分」と呼ばれている点です。皆様は、自分がキリストの体である教会の一部分であることを自覚しているでしょうか。

 勿論、教会の礼拝に参加するだけでも、教会と言う体の一部、メンバーになるのですが、ここにはもう少し深い意味があります。

 それはまず、私たちがお互いに助け合い、支え合う関係にあることを意味しています。皆様もよくご存じのように、人間の体の各部分は互いに助け合い、支え合って存在し、機能しています。どの部分も自分一人頑張っても正しく働くことはできない、限界があるのです。

 顔の中では目が、内臓の中では心臓が重要な働きをしているように思えますが、目も心臓も脳とつながっているだけで機能することはできません。周りの器官に助けられ、守られて、初めて本来の正しい働きを為すことができるのです。

 このことが分かっていなかったのが、コリント教会にいた異言の賜物を語る人々でした。彼らは異言、他の人が語れない外国語を使って聖書の話をしたり、祈ったりできました。しかし、彼らのことばは、翻訳通訳する人の助けがあって、初めて周りの人の役に立つメッセージとなったのです。

 他の人の助け支えを認めず自らを誇る彼らを、聖書は霊的に未熟な人,霊的な子どもと呼んでいます。子どもは自分一人で何でもできると考えています。自分の限界、弱さを知らないのです。

しかし、大人は自分の限界、弱さを弁えています。自分が何かを行う場合、いかに多くの人が助け、支えてくださるかを知り、感謝することができ様になります。自分の賜物を他の人を助け支えるために用いたいと考えるようになります。これが霊的に成長すること、霊的な大人の姿です。

 さらに、教会の一部になるとは、私たちが教会の交わりの中で霊的に成長することを教えていました。ここに「体の一つの部分」である私たちは「しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長する」とある通りです。

 ここで「組み合わされる」と言うのは建築用語です。柱と梁がしっかりと組み合わされる時に使われたことばです。もし、柱の上に梁がのっているだけの状態であったらどうでしょう。地震が来たらその家はひとたまりもなく崩壊です。

 それでは、柱と梁とがしっかり組み合われるためには何が必要なのでしょうか。柱と梁の両方が削り取られ、そこでぴったりと組み合わされることです。私たちの場合も同じです。お互いに関わり合う関係の中で、私たちの中にある自己中心の性質がぶつかり合うことがあります。そうした自己中心の言動が削り取られて、私たちは組み合わされることができます。

 次に出てくる「結び合わされ」は医学用語で、骨と骨とが関節でしっかり結び合わされる状態を指しています。もし、骨が関節からずれてしまったらどうか。それが足の関節なら痛くて歩くことができません。踏ん張ることも無理でしょう。

 しかし、このずれを治してもう一度結び合わせれば、いくらでも歩くことができるようになります。私たちの交わりの中でも、行き違いに悩み、考え方の違い、ずれに苦しみことがあります。教会の一部になるということには、こうした一面もあるのです。

だからと言って、交わりから離れてしまうなら、私たちは自分の中にある自己中心の性質に気がつくこともなければ、人間関係の苦しみを味わうこともありません。しかし、それでは私たちは霊的に成長し、愛し合う交わりを築くことはできないと、聖書は教えているのです。

私たちの中にある自己中心の性質、それは神を中心としないと言う意味で罪です。それは余りにも私たちの一部になっているため、気がつきにくい性質でもあります。そのような時、それに気づかせてくれるのが教会の交わりではないでしょうか。

教会の中には生まれも、育った境遇も、性格も、生活のスタイルや価値観も異なった人が集まってきます。私たちがちょっと苦手と感じる人もいるかもしれません。しかし、その様な人たちと交わる中で、私たちの中にある自己中心の性質が明らかになります。

自分が心の深いところで神中心の考え方や行動をしてこなかったことに気がつき、神様の前に出て悔い改めることができるのです。教会の交わりには、一人だけでは気がつきにくい自分の罪や弱さに気づかせてくれる恵み、神様のみこころに従って、自分を変えてゆける恵みがあることを心に刻みたいと思います。

勿論、いつも助ける人と助けられる人が決まっているわけではありません。この手紙を書いたパウロは異邦人伝道に励み、各地に教会をたて上げた有名な使徒、即ち多くの人を助けた人ですが、同時に多くの人に助けられ、支えられてもいます。

教会の一部になること、それは私たちが皆人を助け支える喜びを味わうこと、同時に人から助けられ支えられる喜びを味わうことと言えるでしょうか。

そして、聖書は私たちが組み合わされ、結び合わされるために、備えられた結び目があると教えていました。この結び目が交わりの機会です。私たちの教会で言えば、世代別会や地域会、礼拝後の祈りの交わりや週日の様々な集会、奉仕を共にするグループがこれにあたります。教会に備えられた交わりの場,機会を用いて、交わりを実践してゆく歩みを、私たち皆で進んでゆきたいと思うのです。

最後に、具体的にお勧めしたいことがあります。もし、自分は礼拝には出席しているけれど、教会の一部になっていないのではないかと感じている人は、一つでも二つでも自分に合った交わりの場に参加してみることをお勧めします。

もし、自分には交わりの場があるという方は、自分から心を開くこと、特に生活の中で受けた神様の恵みを、どんな小さなことでも良いので話してみることをお勧めします。自分のことを話すには小さな勇気がいりますが、その一歩を踏み出すと、交わりが充実するのではないかと思います。

もし、交わりに悩んでいると言う人は、そこで気づかされた自分の弱さや課題を話すことができる交わりを求めると良いと思います。私たちの愛は、お互いの弱さを分かち合うことができる交わりの中で育ってゆくものだからです。自分の弱さを打ち明け、お互いの重荷を負い合えるような深い交わりを目指してゆきたいと思うのです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

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