2016年8月21日日曜日

マタイの福音書6章5節~8節「山上の説教(22)~祈るときには~」


犬は走りたいから走り、鳥は歌いたいから歌う。生き物の行動はごく自然です。それに対して、何事においても人の眼、周りの眼を気にするのが私たち人間と言う生き物です。

私たちから見ると、余りにも女性に対して不公平で辛辣すぎると感じますが、ヘシオドスが書き残したギリシャ神話では、最初の女性パンドラは災いの基としてゼウスから人類に与えられたとされます。パンドラはあらゆる良い物を与えられながら、人の目を意識して殊更に美しい服を身に着ける虚栄心の塊として登場するのです。

しかし、虚栄心は女性の専売特許ではありません。男性も虚栄心を持っています。森鴎外と言えば、日本の歴史に残る文豪として有名です。鴎外は作家としてだけでなく、軍医としても有能で、陸軍の軍医としてトップの地位に昇りつめました。

それにもかかわらず、故郷津和野にある墓には、本名の森林太郎と彫られているのみ。戒名はもちろんのこと、所謂作家とか軍医とか、この世での地位や栄誉に関することばは一つも刻まれていません。一般的には、鴎外がこの世の地位や栄誉に関心がなかったことのしるしと考えられています。しかし、逆にその墓こそ、自分がいかに虚栄心のない者であるかを殊更に示すためのパフォーマンス。死後も人の目に自分がどう見えるかを気にした行動ではなかったかと評する人もいます。

勿論、事の真相は分かりませんし、そこまでうがった見方をしなくてもと、鴎外に同情したくもなりますが、私たち人間がどれほど人目を意識し、人の目に捕らわれて生きているものであるかを改めて感じさせるエピソードでもあります。やり方、方法は違っても、女性も男性も、小さな子どもも青年も老人も、誰もが持っている人の目に良い格好をしたいと言う思いを持っている。全ての人が逃れられない心の病。それが虚栄心と言えるかもしれません。

イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教を読み進めて今日は22回目。先回からマタイの福音書6章に入りました。山上の説教は6章から新しい段落となりますが、ここで5章の流れを振り返ってみます。

先ずイエス様は「~する人は幸いです」と言う共通のことばで始まる八つの教え、所謂八福の教えを語りました。そこにはイエス様を信じる者の姿が八つの側面から描かれています。

次いで、イエス様は私たちを地の塩、世の光と呼び、この世におけるクリスチャンの役割を教えられました。さらに、旧約聖書の律法、神様が定めたルールの真の意味を示し、兄弟を愛すること、配偶者を生涯愛し続けること、自分の敵をも愛することを教えられました。

律法の要である隣人愛こそ、天の御国の民にふさわしい義しい生き方であることを説き明かされたのです。

そして、6章。この6章のテーマの一つは、神様の目を意識して生きることと言われ、それは冒頭のことばによって示されています。

 

6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」

 

イエス様を信じる者、天の御国の民は人の目ではなく、神様の目を意識して生きよと勧めておられます。そのことを教える具体例として取り上げられるのが、イエス様の時代、人々が非常に重んじていた善行、施し、祈り、断食です。先回は施しについて考えましたから、今日は祈りとなります。

そして、前回同様、イエス様が触れているのは当時最も宗教的で義しい人として尊敬されていた律法学者パリサイ人の祈る姿でした。この実例を通して、私たちも自分の祈りが神様を意識してのものなのか、人の目を意識してのものなのかを問われることになります。

 

6:5、6 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 

その頃、ユダヤの人々が神様に祈りをささげる時間は朝九時、正午、午後三時の、一日三回と決まっていました。その時間が来たら人々はどこにいても祈ることが求められていたのです。しかし、中には祈りの時間になると、わざわざ人々が集まる会堂や通りの四つ角に足を運ぶ者たちがいました。彼らはそこで両手を天に上げ、頭を垂れて朗々とした声で祈り、周りの人々の注目と関心を集めていたらしいのです。

それが、律法学者パリサイ人であり、彼らのことをイエス様は偽善者と呼び、厳しく批判しました。この様な人はすでに人々の注目と賞賛と言う報いを受け取っているので、神様からの報いは受けられないと戒めておられるのです。

それでは、私たちイエス様を信じる者、天の御国の民はどう祈るべきなのでしょうか。「自分の奥まった部屋に入り、隠れたところにおられる天の父に祈れ」と命じられています。奥まった部屋とは文字通りの部屋、個室でなくても良いでしょう。どこであろうと私たちが人の眼ではなく、神様の眼だけを意識できる場所と時間、神様と一対一になれる場所と時間を選ぶことを、イエス様は勧めておられます。

イエス様ご自身も、この様な祈りを非常に大切にしておられました。

 

マルコ1:35~37「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。」

 

「朝早く暗いうちに起きて、寂しい所に行き、祈られた」とあります。日が昇れば癒しを求めて人々が押し寄せてくることが分かっていますから、早朝と言う時間を選ぶ。親しい弟子たちからも離れて、一人天の父と交わることのできる場所に行く。こうした時間が、イエス様の活動にどれほど大きな影響を与えていたか。その魂をどれほど養ったことか。イエス様がこうした時間と場所を確保するために、いかに努めていたか。私たちも倣うべき祈りの姿勢がここにありました。

しかし、祈りに関する注意は律法学者パリサイ人の祈り方だけではなかったのです。異邦人つまり聖書の神様を知らない人々の祈り方についても、イエス様は戒めておられます。

 

6:7、8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈りに繰り返しがあること自体がいけないと言うのではありません。イエス様ご自身、ゲッセマネの園で同じ祈りを三度繰り返したとあります。また、長い祈りそれ自体がだめだと言うのでもないでしょう。イエス様ご自身が弟子を選ぶ時徹夜で祈られたとありますし、初代教会の兄弟姉妹も、捕らわれた同信の友の救出のため徹夜で祈ったことが聖書に記録されています。キリスト教の歴史に名を記される神の人たちは、人生の多くを祈りに費やしてきました。

イエス様が問題にしているのは繰り返し祈る動機、長く祈る動機です。同じ祈りを繰り返すことで、神様に願いを聞いてもらえるのではないか。長く祈れば祈るほどに、自分の思いは叶えられるのではないか。その様な動機による祈りをイエス様は戒めているのです。

これは私たちにも思い当たること、私たちの心の奥にも潜む動機ではないかと思います。この様な動機で祈る時、私たちは神様からの恵み、祝福、日本的な表現を使えばご利益を得る方法として祈りを使っていることになります。つまり、「これぐらい繰り返し祈ったのだから、これほど長く祈り続けたのだから、恵みをいただけるでしょうね」と考える者にとって、祈りは神様との取引の手段。その様な場合、私たちの関心は与えられる恵みのみ向き、恵みの与え手である神様ご自身には向いていないのです。

例えるなら、お父さんが働いて持ってくるお金には関心があっても、お父さんの労苦、どのような思いでお父さんが働いたのかには関心がない子供がいたとしたら、どうでしょう。お母さんが作ってくれるごはんやおやつには関心があっても、作り手であるお母さんに心を向けない子どもがいたとしたらどうでしょうか。お父さんお母さんに対して非常に失礼な子ども、恩知らずの子どもと言うことにならないでしょうか。

「あなたがたは神様の子どもであるのに、神様に対して失礼で、恩知らずの子ども様な祈りをしてはいませんか。」ここで、イエス様は私たちにそう問いかけているのです。果たして神様に祈る際、自分の心に潜む動機は何であったか。何であるのか。一人一人振り返りたいところです。

ですから、続くイエス様のことばは、神様を恵みの取引相手と考えるのではなく、あなた方を子として愛してやまない天の父と思って祈るようにと勧めています。

 

6:8「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈る際最も重要なのは、神様が私たちの父であることを自覚すること。これがイエス様のメッセージです。神様は私たちのことを何でも知っていてくださる。何かを求める前から、私たちに必要な物を知っておられる。人間の父親が子を見守り、世話をし、気を配っているように、神様はイエス・キリストを信じる全ての者を見守り、世話をし、配慮を尽くし、私たちの必要に最善のもので応えようと考えているておられる。この世界を創造し、世界の歴史を導く全能の神様が、私たちの父であり、私たち一人一人の幸いを心から願って、祈りに応えようとしておられる。果たして、このことをどれほど知り、どれ程自覚し、感謝して、私たちは祈りに臨んでいるでしょうか。

天の父としての神様の眼を意識して祈る者、いや祈りだけでなく、食べること、眠ること、仕事、学び、奉仕などすべてのことを、私たちを子として愛し、祝福し、報いようとしておられる神様の眼を意識して行う者でありたいと思います。

最後に、二つのことを確認しておきたいと思います。

ひとつは、祈りは私たちがそれを条件にして神様の恵みを受けるための功績ではないと言うことです。ことばを代えて言うなら、私たちが祈りを繰り返しても繰り返さなくとも、長く祈ろうとも短くとも、毎日祈る者にもそうでない者にも、神様の愛は変わりなく注がれていると言うことです。

私たちは祈りを重要なものと考えています。だから祈ります。少なくとも祈ろうと努めます。しかし、厄介なことに、私たちの中にある罪の性質は祈れば祈るほど、祈る自分を意識し、祈る自分を誇るようになるのです。愛する神様と交わることよりも、自分がどれほど祈ったのかに関心が向いてしまうのです。神様ご自身よりも、神様が与えて下さる恵みの方を慕い求める心に傾いてゆくのです。

イエス様はこの様な性質によくよく注意するよう勧めています。ですから、私たちは祈りの相手として神様がおられること、その神様が私たちのことをすべて知りたもう、天の父であることに感謝したいのです。神様を天の父と信頼して祈れること自体が恵みであることを覚え、祈りに親しみ、祈りの時を楽しむことを目指したいと思います。

二つ目は、祈るか祈らないかによって神様の愛は変わらないことを確認した上でですが、祈りは私たちの信仰の歩みに大きな影響を与えると言うことです。

イエス・キリストを信じた者は神様の子ども。私たちはイエス様を信じた時、神様と父と子の関係に入りました。しかし、神様と本当に親しい父と子の関係になれるかどうかは、私たちがどれほど祈りに取り組むかに関係があります。

よく祈りは、神様との会話と言われます。法律上は親子であっても、親と会話しない子どもが親に親しみ、親の愛を感じることは難しいでしょう。同様に、私たちも祈らなければ、神様に親しみ、神様がともにいてくださる自覚も深まることはないと思います。

繰り返しますが、イエス様は今日の個所で祈ることを禁じているのではありません。パリサイ人の様な動機で祈ること、異邦人の様な祈り方を戒めているのです。ですから、私たちは祈りに取り組むべきです。祈りを通して神様を慕い求め、神様の目を意識した歩みを進めるべきなのです。

私たちが生きる現代は日常生活を離れ、神様と一対一になれる場所と時間を選ぶことが難しい時代かもしれません。深夜に及ぶ仕事、スケジュールに追われる生活、疲れ切った心や体。この様な状況で祈りの時間を確保することは誰にとっても難しいこと。祈れなくてもやむを得ない状況と思われます。

むしろ、考えるべきは仕事やスケジュール、睡眠など削れない時間ではなく、それ等以外の時間の使い方ではないかと思います。携帯電話、テレビ等にどれ程時間を取られているのか。私たちが日常生活から離れ、神様との一対一の交わりに入るのを妨げてる物は何なのか。よく考えたうえで、祈りの場所と時間を選び、確保することに皆で努めたいと思うのです。今日の聖句です。

 

Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

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