2016年8月7日日曜日

マタイの福音書6章1節~4節「山上の説教(21)~天からの報い~」


ある国に、新しい服が大好きでおしゃれな王様がいました。ある日、お城に一流の仕立て屋を名乗る二人の男がやって来ます。彼らは「バカの目には見えない不思議な服」を作る事ができると言う怪しげなことを触れ込みますが、王様は喜んで大金を支払い、彼らに新しい服を注文しました。

その後、職人たちの仕事ぶりを見にやってきたのが家来たち。彼らの目には仕立て屋が忙しく縫ったり切ったりしている動作は見えますが、肝心の服は見えません。しかし、「バカには見えない服」ですから見えないとは口にできず、仕事は順調ですと王様に報告しました。

やがて、仕立て屋が服の完成を告げたので、王様が家来たちとともに仕事場に乗り込みます。けれども、「バカには見えない服」は王様の目にもさっぱり見えない。王様は非常にうろたえますが、家来達が見えたと言う服が自分に見えないとは言えず、服の出来栄えを賞賛すると、家来たちも調子を合わせて「王様の服はすばらしい」と褒める。

完成を記念して行われたパレードでも、人々は自分がバカと思われるのを憚り、歓呼して服を誉めそやしました。その中で、沿道にいた一人の小さな子どもが「王様は裸だ。服なんか着ていない」と叫びますが、行進は続いてゆく。

ご存じ、アンデルセンの童話「裸の王様」です。王様や同僚の目を気にして「服が見えない」と口にできない家来たち。家来たちの目が気になって、真実を言えない王様。それに対して、人の目が気にならない天真爛漫な子どもだけは「王様は裸、新しい服等見えない」と言うことができた。

いかに、私たち人間が人の目を気にして行動する存在か。周りの人の目に影響されて考え、行動する生き物か。人間だけが持つ虚栄心と言う心の病気が描かれた有名なお話です。

皆様はあることを為す時、どれ程人の目を気にするでしょうか。人の目を気にするタイプでしょうか。それとも、余り気にならないタイプでしょうか。何をする時、人の目が気になるでしょうか。考え行動する時、人の目を意識することと神様の意識すること、どちらが多いでしょうか。

イエス・キリストが故郷のガリラヤの山で語られた説教。山上の説教を読み進めて今日は21回目。マタイの福音書5章を終えて6章に入ります。山上の説教は6章から新しい段落となりますが、ここで、簡単にこれまでの流れを振り返ってみます。

先ずイエス様は「~する人は幸いです」と言う共通のことばで始まる八つの教え、所謂八福の教えを語りました。そこには、イエス様を信じて天の御国の民となった者の姿が八つの側面から描かれています。

次いで、イエス様は私たちを地の塩、世の光と呼び、この世におけるクリスチャンの役割を教えられました。そして、旧約聖書の律法、神様が定めたルールの真の意味を示し、兄弟を愛すること、配偶者を生涯愛し続けること、自分の敵をも愛することを教えられました。

律法の要である隣人愛を説かれたのです。

そして、今日の6章。この6章のテーマの一つは、神様の目を意識して生きることと言われます。

6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」

 

私たちクリスチャン、天の御国の民とは人の目ではなく、神様の目を意識して生きる者と言うことになるでしょうか。勿論、日常生活において適度に人の目を意識することは必要なことです。人に対する配慮、心遣いとして、人目を意識することが必要な場合もあると思います。しかし、人の目を気にしすぎることは虚栄心と失望を繰り返す歩みを生みます。人の目が私たちの考えや行動を縛る人生。自分らしく考え、行動することのできない人生です。

けれども、人の目を意識すべき場合、人の目を意識すべきではない場合。この塩梅が非常に難しく、悩んでしまうと言うことが人生にはあるように思われます。人の目を意識して善い行いを為し、これが周りに認められたら自慢したくなる。認められなければ、落胆、失望。悪くすれば自分に報いてくれない人、認めてくれない周りを責め始める。

この様な生き方から解放されるためには、あなた方の天の父、神様からの報いに意識を向けて歩むこと、それがイエス様のメッセージでした。

先ずは、その具体例として施しが取り上げられます。

 

6:2「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

 

イエス様の時代、人々から最も重んじられていた善行は施し、祈り、断食でした。これらは、聖書の至る所で勧められている善行でもあります。一例をあげれば、旧約聖書にはこうあります。

 

申命記15:7、10「あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。…また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、【主】は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。」

 

神様が私たちの仕事を守り、経済的に祝福してくださるのは、貧しい兄弟に施しをするためと教えられています。人々が必要な時に助けの手を差し伸べ、金銭時間労働など、何であれ人々の助けになるものを与える施しを、どれ程神様が重んじているかが伝わってきます。

ですから、イエス様が禁じているのは施しそのものではありません。そこに入り込む偽善、虚栄心に注意せよと言われるのです。「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者」とは、律法学者パリサイ人を指します。「ラッパを吹く」とは、人々に自分の施しを言い触らしたり、示したりすることを絵画的に表現したものです。

繰り返しますが、施しは私たちクリスチャン、天の御国の民にとって励むべきわざです。しかし、人の目、人の評判を意識して施しを行うような間違った態度、間違った動機を、イエス様は戒めていました。この様な態度、動機で施しを重ねてゆくなら、私たちの生き方は人々の目に縛られ、神様からは離れ行くと警告しているのです。

それでは、正しい施しとはどのようなものか。イエス様はこう教えています。

 

6:3、4a「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。」

 

前の節で、人の目を意識した施しを禁じたイエス様が、ここでは「右の手のしていることを左の手に知られないように」、つまり、私たちが行う施しを私たち自身が意識せぬよう命じています。自分の善行を人々の目からも、自分の目からも隠すようにという勧めでした。

心の中はどうあれ、自分の施しを言い触らさないこと、人に知らせいないことはそれ程難しいことではないかもしれません。礼儀をわきまえている人なら自己宣伝を退け、その様な思いと行動を戒める心を持つ人も多いのではないでしょうか。

しかし、施しをする自分を意識しないこと、施しを宣伝しなかった自分を誇らないでいることは、非常に難しいのではないかと思います。もし、施しをし終えた時、「よし、やった。このことは誰にも知らせなかった」と満足するなら、それこそ、右の手がしていることを左の手に知らせることだからです。

何故、イエス様はこれ程、施しと言う善行を他人の目からも、自分自身の目からも隠す様に勧めているのでしょうか。それは、自分への関心が心の中心にある人生。それがいかに悲惨なものかを分かっておられたからです。

神様に背いた私たち人間の生活の中心にあるもの。それは自分です。自分の利益、自分の満足、自分の喜びを常に気にし、いつも求めることです。ある心理学者の説によると、私たちが一日考えていることの内、90%以上は自分のことだそうです。

施しの様な善行によって人々から注目され、評判を得ることは自己満足であり、喜び。しかし、それが得られなければ自己憐憫、自分への失望。どちらにしても、一番大切なのは常に自分と言うことです。

この様な生き方がいかに悲惨なものか、分るでしょうか。自分への関心が心の中心にある人生、人の目に縛られた人生と言うものが、いかに不自由で、思い煩いに満ちたものであるか。私たちは、まずこのことをイエス様に教えられたいと思うのです。

それでは、最後にこの様な生き方から解放される道を、イエス様が示されたことばから見ておきたいと思います。

 

6:4b「…そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 

私たちのことを我が子の様に愛し、大切に思って下さる神様。イエス・キリストをこの世に送り、十字架の木につけ、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さることで、その測り知れない愛を示してくださった神様。この天の父の目を意識して生きること、この神様の報いを信じ、常にそれを目指して善い行いに励むこと。これこそ、私たちを本当に人の目から解放してくれる道と、イエス様は語っておられるのです。

イエス様の勧めのとおり生きた人々が、どのような報いを受けるのか。マタイの福音書25章を見てみたいと思います。

 

25:31~40「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

 

空腹な者に食べ物を与え、渇く者に一杯の水を恵み、旅人に宿を貸し、裸の者に着物を与え、病人を見舞い,牢にいる者を尋ねる。

私たちが天の父の目を意識してなした施し。神様の報いを信じて励んだ善行。たとえそれがどれほど小さなものであっても、神様は忘れない。全てを記録し、全てに報いてくださる。私たちはいつも、何をしていても、この様な神様の目の前にいることを覚えたいのです。

私たちの信仰の先輩、プロテスタントの宗教改革者たちのスローガンは、「栄光は神に。失敗は我に」でした。もし、私たちが施しを為すことができたら、「神様、この様な善き行いを為す力を与えてくださり、感謝します」と、神様に心を向ける。もし、善き行いをなすことができなかったら、神様の前で自分の課題を考え、自分を変えてゆくように努める。善き行いができたら自分の力と自慢する。失敗すれば、神を責め、周りの人を責める。その様な自己中心の生き方とは全く違う天の御国の民、神様の子どもとしての人生観が、ここには示されています。

この地上で人々から受け取る報いにではなく、いつでも、何をしていても、天の父の報いに心を向け、意識する。「栄光は神に。失敗は我に」。私たち皆がこの様な生き方を目指したいと思います。今日の聖句です。

 

コロサイ3:2「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを求めなさい。」

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