キリスト教信仰を持つ私たち。聖書は世界の創造主の言葉と知り、信じています。聖書を通して、神様の御心を知ることが出来る。自分がどのように生きるべきなのか知ることが出来ると信じています。毎日聖書を開き、聖書に従うことが最上と知っています。
しかし、毎日聖書を開くことは、どれだけ難しいことでしょうか。聖書よりもテレビ、パソコン、スマートフォン。聖書よりも、家事、育児、学校、仕事、趣味。聖書が大事と頭で分かりつつも、実際には聖書以上に大切にしているものがある生き方となってしまう。聖書を読み、従うことの大切さを理解しながら、それでも継続して実行するのは難しいもの。さらに言うと、聖書を開くには開く、読むには読むことが出来たとして、その宝の宝たるゆえんを知りえているのか、心配になることもあります。
この聖日、一堂に会して礼拝をささげる時。今一度、聖書を開き、聖書に従うことが、どれ程大切なことか、再確認したいと思います。聖書を読み、従う決意を新たにしたいと思います。聖書を読む時に、喜び、感動し、聖なる恐れを持ち、神様を賛美する思いを持つことが出来るように、皆で祈りたいと思います。
私含め、愛する四日市キリスト教会が、聖書により親しむ者。聖書を大切にする教会として成長することを願いつつ、断続的に行ってきた一書説教。今日は三十一回目となり、旧約聖書第三十一の巻き、オバデヤ書を扱うことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進める恵みにあずかりたいと思います。
オバデヤ書ですが、いくつか特徴を挙げることが出来ます。
大きな特徴の一つは、短さ。旧約聖書には三十九の書がありますが、最短、最小の書がオバデヤ書となります。旧約聖書という大海に浮かぶ小島。全一章の小著。読もうとすれば、あっという間に読める。試しに昨日時間を計って読んでみたところ、二分かかりませんでした。(蛇足ですが、新約聖書には一章だけの書が四つあります。ピレモン、Ⅱヨハネ、Ⅲヨハネ、ユダ。聖書全体で考えると、一章だけの書は五つです。)
小さな書ですが、その内容は読みやすいものではなく、有名な聖句もなく、おそらく多くの人にとって馴染みのない書。なかなか親しみを持てない。馴染みにくいと感じる理由は大きく二つあると思うのですが、一つは預言者オバデヤがどのような人なのか分からないことです。
一般的に、言葉は誰がどのような場面で使うのかによって意味が変わります。相手を侮辱しようとして「馬鹿!」と言うのか。自分の子どもが小さな失敗をし、あまりの可愛さに「馬鹿だなぁ」と言うのか。同じ「馬鹿」という言葉でも、誰がどのような場面で言ったのかによって、意味が正反対となることがあります。
そのため預言書は、それを語った預言者がどのような人物で、どのような時代に、誰に向けて語ったのか。出来るだけ把握して読みたいところ。旧約聖書には、預言書は十七あり、その多くは、預言者のこと、その時代のことが分かります。ところが、今日扱うオバデヤ書は、預言者の情報はなく、時代を特定することも難しい。その書き出しは次のようなものです。
オバデヤ1章1節
「オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。『立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。』」
オバデヤとは、「主のしもべ」という意味。一般的な名前で、聖書の中に、十人以上のオバデヤが出てきます。しかし、この預言書を記したオバデヤが誰なのか。特定する情報が記されていません。名前がオバデヤというだけで、それ以上は分からない預言者。そのため、親しみが沸きづらいと言って良いでしょうか。
もう一つ、オバデヤ書が馴染みづらい理由を挙げると、その預言の大半が、エドムについての預言となっていることです。聖書に記されている預言の多くは、南ユダか北イスラエルに語られているもの。神の民に対して、神様がどのようなお方なのか、神の民としてどのように生きるべきなのか。警告や叱責、慰めや励ましを与える言葉となります。近隣諸国に対する宣告が出てくる預言書もありますが、その場合も主な対象は南ユダか北イスラエル。まず神の民に語りかけ、加えて近隣諸国への預言となります。ところが、オバデヤ書の内容、その中心はエドムについての預言。エドムのことを知らないと、親しみが沸きづらいものとなる。
オバデヤ書を読みましょうと勧める一書説教において、馴染みづらい、親しみづらい理由をいくつも挙げるのはどうかと思いつつ、しかしこれらのことがオバデヤ書の大きな特徴と言えます。
それでは、オバデヤが主に語ったエドムとは、どのような国、どのような人たちでしょうか。エドム人の始祖にあたるのは、ヤコブの兄エサウです。エサウは、大事な長子の権利を、赤い煮物と交換してしまうという出来事に因み、「赤い」という別名がつけられましたが、この「赤」がエドムです。
創世記25章29節~30節
「さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。『どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。』それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。」
大事なものを食べ物と交換したという失敗談が名の由来となり、それが民族の名になるというのはひどいようにも思いますが、それはそれとして、そのエサウが力を持ち、民族がおこる。エサウとその子孫が、主な居住地としたのが、イスラエル地方からすると南に位置する場所。セイルとも呼ばれることもある山岳地帯です。豊かな土地であり、南北の交易の要所にして、自然の要害でもある。この地方、ここに住む人たちが、エドム、エドム人です。(エドムの領土に、テマンという有力都市があり、エドムを指してテマンと呼ぶこともあります。)
つまりイスラエル民族からすると、エドム人は親戚筋。ところが、その歴史を見ますと、良い関係を持つことは出来ませんでした。出エジプトの際、エドムの領土を通過したいと願い出たイスラエルに対して、それを拒否したエドム。
民数記20章14節、17節、18節
「さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。『あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。・・・どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。』しかし、エドムはモーセに言った。『私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。』」
この出来事は両国に根深い溝を作り出すことになり、これ以降、敵対関係が続くことになります。サウル、ダビデの時代には争いが、ソロモンの時代にはイスラエルはエドムを支配します。その後も、敵対関係が続き、繰り返し争いが起こる。近くにいて、もとは兄弟でありながら、争いが続いた関係。残念な歴史。
そのエドムに対して、オバデヤは何を語ったのでしょうか。中心は裁きの宣告。繰り返し、エドムは滅ぼされると告げられます。何故、エドムは滅ぼされなければならないのか。大きく二つの理由が述べられています。
一つ目は高慢であるという理由。
オバデヤ1章3節
「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか。』と心のうちに言っている。」
悪には様々な種類があり、悪によっては周りにいる者が悲惨となるものがあります。殺人、姦淫、偽証など、悪を行うことで周りの人への被害が甚大となるものがあります。エドムの高慢という悪は、その住まいが自然の要害で、自分たちは安全であると考えたこと。この環境であれば、私たちは安全だと考えた。近隣諸国に対する悪ではなく、神様に対する高ぶりの問題です。
聖書が与えられ、世界の創造主を知る神の民に対して、高慢の罪が糾弾されるのは分かります。しかし、これが神の民ではない、エドムに対する裁きの理由として出てくることに驚きます。
この世界は神様が造られたもの。環境が人を生かすのではなく、創造主が世界を支え、人を守っている。その方を無視することは、大変な問題でした。とはいえ、神の民でない者たちは、そもそも、その神様を信じてないのです。神の民でない者たちの、神様に対する高ぶりの罪は、どれ程悪いものなのか。オバデヤ書によれば、それは国を滅ぼすほどの悪なのだと言われるのです。
私たちの神様は、神抜きで大丈夫という高慢に対して、かくも厳しく対処されるお方。果たして私たちの神様に対する態度は大丈夫だろうかと考えさせられます。私たちが住む日本は大丈夫なのでしょうか。
エドムが滅ぼされる理由。もう一つは、神の民に対する攻撃、あるいは神の民が攻撃された時、助けなかったことです。
オバデヤ1章10節~11節
「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。」
エドムが神の民を攻撃したこと。あるいは、神の民が攻撃されていた時に、手助けをしなかったこと。それが裁きの原因として挙げられます。具体的にはどのような出来事が背景となっているのか。エルサレムが攻撃されたのは何度かあり、どの時かはっきりと確定させることは出来ませんが、エルサレムが攻撃されている最中、エドムが喜んだ姿は聖書の他の箇所に記されています。
詩篇137篇7節
「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも。』と言ったエドムの子らを思い出してください。」
傍観しいるどころではない、エルサレムの滅亡を願い喜ぶ姿。このようなエドムの姿を理由に、裁きが宣告されます。これはつまり、神の民を攻撃することは甚だしい悪。いや攻撃だけでなく、神の民が困窮している時、助け出さないのも甚だしい悪。もし攻撃するなら、もし助け出さないなら、それは国が滅びる原因となるほどの悪だと言われるのです。
私たちの神様は、神の民を特別に扱われる方。神の民を攻撃する、神の民を助け出さない時、かくも厳しく対処されるお方。そうだとすると、(私たち自身も神の民なのですが)私たちの神の民に対する態度は大丈夫でしょうか。与えられている教会の仲間を攻撃する、その苦難を喜ぶ、その困窮を見過ごす時、それは甚だしい悪と覚えるべきでした。
オバデヤ書は、主に二つの原因。高慢の罪と、神の民に対する罪により、エドムに裁きがくだされると宣告することが中心。しかし後半に、それはエドムに限ることではない。全ての国に当てはまることであり、神様は悪に報いる方であること。しかし、神の民には、回復があるのだと宣言があり、閉じられていきます。
以上のことを念頭に置きつつ、オバデヤ書の中心部分を読みたいと思います。
オバデヤ1章12節~17節
「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、私の民の門に、はいるな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。
主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。
しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。」
以上、預言書の中でも一際異彩を放つ小著、オバデヤ書を確認してきました。最後に三つのことを確認して終わりにしたいと思います。聖書では、はっきりと、神様は神の民を特別に扱われると宣言されていました。
詩篇4篇3節
「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」
しかし、オバデヤ書の中心は、神の民ではない、エドムに対する宣告が中心でした。神様はご自分の民を特別に扱われる。それでは神の民以外はどうでも良いのかと言えば、決してそうではない。エドムの民にも、正しく生きることを願い、悪から離れるように、裁きに突き進む歩みをしないようにと預言者を遣わされている。聖書の中に、オバデヤ書があることを通して、まだ神の民に連なっていない者への神様の愛が示されていると受け取れます。この神様の愛によって、今や私たちのところにまで福音が届けられ、私たちも神の民に加えられたことを覚え、神様を賛美したいと思います。
ところで、オバデヤの告げた主な対象はエドムの民ですが、これが聖書に記されているということは、この言葉はユダの人々も聞いていたことになります。ユダの人々にとって、オバデヤの言葉はどのように聞こえたでしょうか。自分たちを攻撃する者たち。あるいは自分たちが苦難の中にある時に、助け出さない者たちを、神様は見過ごさない。神様がその者たちを罰するという宣言。大きな励ましと、支えになる言葉として受けとめられる言葉。まさに、神の民は特別に扱われることを確認する宣言と読めます。
今日、エドムも、ユダを滅ぼしたバビロンも、残っていませんが、神の民は増え広がり続けていることを思うと、歴史を通してなされた、神の民に対する特別な恵みがあることを覚えて、神様を賛美したいと思います。
もう一つ確認したいのは、このオバデヤの言葉を、今の私たちはどのように受け取るのか、ということです。高慢になることを避け、神様の前でへりくだること。自分自身、神の民とされ、特別な恵みの中で生かされていることを覚え、感謝すること。それと同時に、自分の周りにも多くの神の民がいることを覚えること。神様は、神の民を特別に扱われる。私たちの周りにいる人は、キリストがご自身の命を投げ出す程に愛している存在。その者たちに、私たちはどのように接するのか。真剣に考えたいと思います。
是非とも、自分自身で聖書を開き、オバデヤ書を読み通すこと。神様がどのようなお方で、その方の前で、どのように生きるべきなのか、真剣に考えることが出来ますように。私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う歩みに取り組みたいと思います。
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