2016年9月25日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(24)~天にいます私たちの父~」


今私たちが礼拝で読み進めているのは、イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教です。マタイの福音書5章から7章にわたる山上の説教も6章に入りました。ここ二回は、祈りに関する教えを学んでいます。

人間は祈る動物と言われます。ある歴史家は、「世界中どの国、どの町に行っても見られるものは、祈る人と祈りの為の場所」と書いています。手紙に「ご多幸を祈ります」等と書き記すことは日常茶飯事です。普段「神など信じない」と豪語する無神論者も、窮地に陥れば「神様、助けてください」と祈ることがあります。現代では、ここで祈れば願いが叶うと評判のパワースポットと呼ばれる場所があり、有名な場所になると人が絶えないそうです。

しかし、それらは祈りの相手がはっきりしない、独り言の祈り。どんな神でもよいから、とにかく助けてほしいと願う、困った時の神頼み。自分の願いを叶える為の手段としての祈り。聖書が教える本来の祈りとは程遠い祈りばかりです。神様に背を向けた人間は祈りを歪め、本来の祈りを忘れてしまったと言えるかもしれません。

それに対して、イエス様が本来の祈りとは何かを教えてくださったのが、先回取り上げた個所6章5節から8節でした。祈りは人の目を意識して行うものではない。心をただ神様に向けて語ること。祈りは願い事を叶える手段というより、私たちのことを最も良く知っておられる神様との交わり。イエス様の教えをまとめれば、この二つと言えるでしょうか。

「仕事の最中でも、祈ることはできます。仕事は祈りを妨げないし、祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。ただほんの少しだけ心を神に向けるだけで良いのです。愛しています、お任せしています、信じています、神よ、私は今あなたが必要です。こんな感じでいいのです。これは素晴らしい祈りです」。マザー・テレサのことばです。

いつでも、どこにいても、心を神様に向け、自分の思いを自分の言葉で神様に語りかけるのが祈り。教会でなければとか、長く祈らねば、上手に祈らねば等と心配する必要は全くない。このことばは、イエス様が教えた飾らない祈り、神様を相手とする自由で親しい祈りを、私たちに確認させてくれる気がします。

しかし、祈りが神様に心を向け、語りかけることだとしたら、神様に向かって何と呼びかけたら良いのか。何を語りかけたら良いのか。そう考え、心配する弟子たちに、イエス様が教えられたのが主の祈りです。

 

6:9~13「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 

この祈りが三部構成であることは、一目瞭然です。第一部は「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけの言葉。第二部は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」とある様に、神様のことを覚えての祈り。第三部は「私たちの日ごとの糧をお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」として、私たちの必要のための祈りが教えられています。

わずか5節、日本語聖書でたったの10行。しかし、この短い祈りの中に、キリスト教の世界観,人生観、私たちのあるべき生き方が凝縮しているとも言われます。毎週の礼拝でも祈りますし、日々主の祈りを祈る方もおられると思います。私たちにとって非常に身近な祈りですが、うっかりすると、イエス様が注意された「同じ言葉を形式的に繰り返すこと」になってしまいがちな祈りでもあります。ですから、意味をよく理解し、心を込めて主の祈りを祈ることを目指し、皆で学んでゆけたらと願っています。

さて、今日取り上げるのは、祈りの第一部、神様に対する呼びかけのことば、「天にいます私たちの父よ」です。まず考えたいのは、「私たちの父よ」と言う呼びかけです。イエス様は神様に向かって、「私たちの父よ」と呼びかけてよいと言われました。しかし、これは元々私たちが神の子であるので、「父よ」と呼びかける資格があると言う意味ではありません。

むしろ、私たちはみな罪人、罪の中に生きていた者、神様の怒りの対象でした。

 

エペソ2:3「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

 

つまり、私たちには心を神様に向けることなく生きていた者、神様に近づく権利も、親しく語りかける資格も何一つない者であったのです。しかし、イエス様が私たちの罪を背負い、十字架に死なれたことで、私たちの罪は赦され、罪の力から救い出されました。イエス様を信じる者は、神の子と認められる恵みを受けることになったのです。

 

ガラテヤ4:46「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

 

イエス様が私たちを罪から贖うために十字架に死んでくださった。そのお蔭で、私たちは神の子とされ、神様に向かって「アバ、父」と呼びかけることができるようになったのです。

「アバ」は、イエス様の時代、小さな子どもが自分の父親を呼ぶ時のことば。日本語で言えば「お父さん、お父ちゃん」、英語なら「パパ、ダディ」に当たります。小さな子どもが大好きなお父さんに呼びかけることば。そのことばを使って、私たちがこの世界を創造した神様、聖なる神様に呼びかけることができる。神様を父親、自分を子どもと思い、親しく呼び、語りかけることができる。

私たちに与えられたこの恵み、この特権の陰に、十字架の死と言うイエス様の尊い犠牲があったこと、自ら進んで十字架の苦しみを負って下さったイエス様の愛があることを覚えながら、「アバ、お父さん」と呼びかける者でありたいと思います。

また、「私たちの父」と呼びかけるよう、イエス様が言われたことにも意味があります。勿論、神様は私たち一人一人にとって天の父です。「私の父、私のお父さん」と呼びかけることもできるお方です。しかし、主の祈りでは、同じ信仰にある兄弟姉妹の存在を心にかけて祈ることを大切にして欲しいと願い、イエス様は「私たちの父よ」と言う呼びかけを勧められました。

私たちが心を神様に向ける時、神様も私たちに心を向け、愛を注いでくださいます。神様の愛を受け取った私たちは、同じ神様の愛が兄弟姉妹にも注がれていることを思い、兄弟姉妹のことを心にかけるよう動かされるのです。

病に苦しむ兄弟のために祈る。試練の中にあって悩む姉妹のために祈る。奉仕に励む働き人、社会での責任を担う兄弟のために祈る。兄弟姉妹が受けた恵み、祝福を我がことのように覚え感謝の祈りをささげる。「父よ」と言う呼びかけに神様への愛を込めて祈る。「私たちの」ということばに兄弟姉妹への愛を込めて祈る。これが、イエス様の願いでした。

次は、「天にいます父」と言う呼びかけです。「天にいます」と言うことばから分かる様に、天は父なる神様がおられるところです。聖書の他の個所では、天の天とも言われ、イエス様の時代のユダヤ人が大空を指して使っていた天とは区別されていました。

 

ネヘミヤ9:6 「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」

 

ここには「天と、天の天」と言う二つのことばが出てきます。最初の天は、ユダヤの人々が大空として眺めていた天のこと。二番目の「天の天」は「最高の天」と言う意味で、神様がおられるところと考えられています。イエス様が「天にいます父」と言われた時の天は大空のことではなく、「天の天」に当たります。他にも、神様のおられる所、少し難しいことばを使えば、神様がご臨在する所について、パウロは第三の天と表現しています。イエス様はパラダイスと言われました。

それでは、この世界を創造した神様が何故天におられるのかと言うと、ご自分が創造したすべてのものを生かし、支えるためだったのです。夜空に輝く数えきれない星も、地上の生き物たちも、海の魚も、すべてを神様が治め、守り、支えておられるのです。

ですから、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけよと言われた時、イエス様は、父なる神様がこの世界のすべてのものを治め、守り、支えている王であることを心に刻み、信頼して祈るようにと私たちを励ましておられるのです。

祈りの相手が分からずに祈ること、すべてのものを治め、支えている神様ではなく、物言わぬ偶像に祈ることがいかに虚しいことか。私たちが父として愛し、信頼する神様がこの世界を治め、支える王であり、主であることを知って祈れることの恵みを覚えたいところです。

しかし、神様のご臨在は天に限られているわけではありません。聖書にはこうあります。

 

エレミヤ2324「天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」

「天にも地にも、わたしは満ちている」。聖書は、神様がこの世界のどこにでもご臨在しておられることをも教えていました。これは、ただ単に神様が世界中にいると言う意味ではありません。神様がこの世界のすべてのものに心を向け、心を注いでおられるお方であることを教えているものです。例えば、イエス様は空の鳥や野のゆりに心を注ぐ神様のことを、この様に語っていました。

 

マタイ6:2630「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」

 

イエス様は、天の父が空の鳥や野のゆりに心を注ぐお方、鳥を養い、ゆりを美しく装うお方と語っています。園芸の好きな人は、バラならバラ、菊なら菊の一本一本に心を向け、世話をし、美しい花を咲かせようと力を尽くすでしょう。たとえ、咲いている時期が短くても、手を抜かないと思います。天の父の野の花に対する思いも同じなのです。

私の知人に、犬を可愛がっている人がいます。私から見ると、ちょっと異常じゃないかと思うような愛し方です。彼の犬はただの雑種。その上、怪しい人が家に近づいても吠えず、食べたらすぐ居眠りをする食いつぶしで、役立たず。散歩に連れてゆくと、性格が喧嘩っ早いのか、他の犬にすぐに吠え掛かりますが、自分よりも強いと分かると逃げ回る意気地のない犬です。こんな犬と私には見えるのですが、こんな犬のために彼は仕事を早く切り上げて帰宅し散歩に連れて行ったり、散歩につき合う体力を強化するため、ランニングや筋トレまで行っています。まさに、彼は犬に心を注いでいるのです。天の父も同じ様に空の鳥に心を注いでいると、イエス様は教えています。

しかし、イエス様が最も伝えたいのは、空の鳥や野のゆりのためにこれ程心を注ぐ天の父が、まして私たち神の子らに心を注ぎ、良くしてくださらないはずがないがないという真理でした。

この世界を創造した神様が、天あるいは天の天にご臨在されるのは、この世界のすべてのものに心を注ぐため、特に、私たち神の子らに深く心を注ぎ、親しく交わるため。私たちを神の子にふさわしいものへと造り変えるため。そう教えられるところです。

こんなちっぽけな存在であり、罪人である私たちが、祈りの相手として、世界を創造した神様を与えられていると言う恵み。その神様を親しく私たちの父と呼ぶことのできる恵み。この世界のすべてのものに心を注ぎ、特に私たち神の子らの祈り、私たちとの交わりを心から喜んでくださる天の父がおられると言う恵み。この様な恵みを味わいながら、主の祈りを祈る者、祈り続ける者になれたらと思います。今日の聖句です。

 

ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」

2016年9月18日日曜日

敬老感謝礼拝コリント人への手紙第24章16節「老いて自分らしく生きる」


今日は敬老感謝礼拝です。聖書から老いの意味を学び、老いをどう生きればよいのかを考える礼拝です。老いを感じる人にとっては今現在の問題として、青年壮年世代の人にとっては近い将来の問題として、皆で考えることができればと願っています。

誰でも若い時にはまだ時間は沢山ある、老人になるまでには、気が遠くなるほどの歳月があると考えるもの。しかし、中年期を折り返し地点として、突然自分の人生はもう半分すぎてしまった時がついて、愕然とする人が多いと言われます。

まだ時間はあると感じる少年期青年期から、もう時間は残り少ないと感じる壮年期老年期へ。「まだ」から「もう」へ。中年期を境に、時間についての意識が変化すると言うのです。私にはわかる気がしますが、皆様はいかがでしょうか。

ご存じのように、日本人の平均寿命は世界のトップクラス。現在男性が82歳、女性は87歳。しかも、年々少しずつですが延びています。ところで大正10年、約100年前の日本人の平均寿命はと言うと男性42歳、女性43歳。この100年で日本人の平均寿命は、大変伸びました。100年前、40歳と言うと人々は死を身近に感じていたと想像すると驚きです。しかし、現在ではまだ40歳。まだ何かをする時間は十分あると感じている人の方が多いでしょう。

その一方で、40歳は人生の折り返し地点。青春時代に思い描いた夢と現実に成し遂げたことの落差を覚えたり、残された時間を意識し始める年齢でもあります。さらに、壮年期を過ぎて老年期に入ると、様々な点で老いを感じるようになります。日々の時間もますます速く飛び立ってゆくようにも思えます。

「しわがよる ほくろができる 腰曲がる 頭ははげる ひげ白うなる 手はふるう 足はひょろつく 歯はぬける 耳は聞こえず 目はうとうなる 身に合うは頭巾、襟巻、杖、眼鏡、湯たんぽ、しびん、孫の手 」。江戸時代の人、仙厓和尚が老人の特徴を読んだ歌の一部です。

心身の衰えや記憶力の衰え。なかなか回復しない病気。若い頃は「時間さえあればできる」と思っていたことが、時間があってもできなくなる等、老いと言う現実は私たちにとって辛く、哀しい一面があります。こうして点で人生を四季に譬え、老いは人生の冬と呼ばれることもあります。

最初に読んでいただいた聖書のことばにも、「外なる人は衰える」とありました。これは、健康や能力の衰え、辛い病と言う、老いの現実を示すことば。聖書が、私たちに老いの現実を受け入れるようにと勧めているところです。

ところで、人生には三通りの年齢があると言われます。ひとつは、生まれてから今までの暦の上の生活年齢、もう一つは、健康状態などに左右されることの多い生理年齢。三つ目は、その人の考え方、生き方次第で変わる心理年齢です。

私たちは誰でも否応なく年を取ります。健康の衰えや病気も、食事に注意することや運動を心がけることで時期を遅らせたり、改善する余地はありますが、それを止めることは誰にもできません。

そうだとすれば、「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」ということば。これは、私たちが自分の生活年齢や生理年齢を謙虚に受け入れるとともに、心理年齢は若々しく保ちながら、自分らしく生きることを勧めるものと考えてよいでしょう。「聖書の神様を信じる人は、たとえ外なる人が衰えても、心若々しく、自分らしく生きる。その様な生き方が出来るのですよ」と言う励まし、と受けとめてもよいと思います。

先が短いと言う現実は、今日と言う一日を大切にする思いへと私たちを導いてくれます。明日が来るのが当たり前と考えている若い時代よりも、丁寧に、大切に今日と言う時間を生きるようになるとすれば、これも老いの恵みの一つではないでしょうか。

今日と言う日は、母の胎から生まれてきた年から数えれば、私たちにとって一番年を取った日。しかし、今日よりもう若くなることはないとすれば、私たちにとって一番若い日とも考えられます。あって当たり前の一日ではなく、神様の賜物としての一日。神様から「大切に生きなさい」とプレゼントされた一日となるのです。

ここには、イエス様のことばも響いてきます。

 

マタイ6:34「だから、明日のためのための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 

明日を生きるのに必要な健康や食べ物は、神様が備えてくださる。だから、明日のことを心配しないで、今日なすべきことに全力を注ぎなさい。心を込めて、大切に、今日と言う一日を生きなさい。これが、イエス様のメッセージでした。

ヘルマン・ホイベルスと言うカトリックの神父が、友人からもらったものとして、「最上のわざ」と言う詩を紹介しています。

この世で最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、自分の十字架(仕事)をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物 古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとに行くために、自分をこの世につなぐくさりを少しずつはすしてゆくのは真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛する人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてをなしおえたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。来よ。わが友よ。「われ汝を見捨てじ」と。

この詩には、「老いの重荷は神の賜物」とあるように、老いを恵みとして受けとめる心があふれています。

人生の持ち時間も体力も確実に減ってゆくとすれば、青年のように多くのことに興味を示したり、行動したりする余裕はなくなります。しかし、だからこそ自分にとって本当に大切なことを考え、選んで行う時期になるのではないでしょうか。

 老いは、他の人と競ったり、比べたりすることから離れて、自分にとって本当に価値あることに力を注ぐ生き方、つまり、自分らしい生き方を選び、実行する最後のチャンスなのです。若い時はとかく世間に向きがちだった目を神様に向け、私たちのまことのふるさと、永遠の御国につながる生き方、愛の行いや愛の交わりを大切にして生きてゆきたいと願う様になるのも、老いの恵みと思われます。

 最後に、内なる人を日々新しくするために、ことばを代えれば、私たちの心を若々しく保つために、助けになることを二つ紹介したいと思います。

 

 Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 一つ目は、喜びの心、感謝の心を失わないこと、神様にも人にも喜びと感謝を表すことにつとめる生き方です。アメリカのテキサス州にあるキリスト教の病院のひとつでは、入院患者が治って退院するまでの日数が、ほかの病院と比べて際立って短いそうです。

その原因を調べた医師の報告によると、そこでは介護にあたる介護士たちの間に、毎日何かユーモラスな話題で患者を笑わせるか、患者や同僚が示してくれた配慮や親切に対して感謝を表すという暗黙のルールがあり、それが患者に良い影響を及ぼしているのではないかと言う結論でした。

 病院の廊下や病室に、いつも笑顔や笑い声、感謝のことばが溢れていると、患者やその家族も自然に明るくなる。これが患者の回復力につながり、退院も早くなると言う訳です。喜びや感謝が、人間の回復力を高めるのにいかに役立つかを示す見事な実例です。

 老いの現実は、時として私達の心を打ちのめします。失望、不安、恐れ、無力感等が涌いてくることもあるでしょう。しかし、それらの感情に心が占領されてしまわぬよう、私たちの心を若々しく保つために助けとなるのが、神様の恵みを喜ぶこと、神様の恵みに感謝することです。

 イエス・キリストを信じる私たちにとって、この命も健康も、日々の食べ物も、価値あることを為す力も、家族や友人の存在、信仰の兄弟姉妹との交わりも、全ては、それを受け取るに値しない罪人に対する神様の恵みです。私たちにとって、あって当たり前、受け取って当然のものではなく、感謝して受け取るべきものだということです。

さらに、イエス・キリストを信じる私たちは神様に愛される子とされ、永遠のいのちを受け取っています。他に何がなくても、これ以上の喜びがあるでしょうか。

 いつも喜ぶこと、すべてのことについて感謝すること。その喜びと感謝を神様と人に表すこと。それが、私たちにとって心の健康を保つ最上の方法なのです。

 二つ目は、心を通わせる話相手を持つことです。

 老いにおける苦しみの一つは孤独と言われます。孤独の寂しさを歌った句があります。

「一言もしゃべらぬ日あり 老い ひとり」(作者不詳)。

神様は、私達を心通わす交わりを通して生きる意味や喜びを覚えることのできる存在として創造されました。ですから、私たちはいくつになっても交わりを必要とし、求める気持ちを持っています。

 老いの時期、一般的に、男性は仕事を通じての人間関係が薄れてゆきます。女性も子育てなどを通して知り合った人々との関係が遠のいてゆきます。その点、私たちは教会において、心通わすことのできる友と、時には年代を超えて、出会うことができます。自分の殻から出て、相手に心を開き語ることで、交わりを作ることができるのです。

 さらに、聖書が「絶えず祈りなさい」と勧めているように、この世界を創造した神様は私たちの交わりの相手としてご自身を与えて下さいました。老いは、私たちが神様を信頼できる天の父として交わり、親しい友として語りあうことのできる時期であることを覚えたいのです。

 敬愛する敬老対象者の方々が、いつまでも心若々しく、自分らしく生きることができるよう心から願い、お勧めしたいと思います。

2016年9月11日日曜日

マタイの福音書6章5節~8節「山上の説教(23)~祈り、神様との交わりへの招き~」


今年の夏休み、私は名古屋の長老教会、日進キリスト教会で奉仕している宣教師またその教会の兄弟姉妹と白山に登ってきました。岐阜、福井、石川三県の境に聳える白山は、その頂上に至るまで山特有の植物や動物の宝庫。その豊かさ美しさは圧倒的で、見晴らしも良く、天候にも恵まれ、交わりも楽しめたという、非常に充実した二日間でした。

ただ一つ玉に瑕なのは、下山途中うっかり浮石に足をのせ、足首をきれいに捻ってしまったこと。初めて登山で骨にひびが入り、ギブスで固定を強いられ、車の運転ができないと言う不自由さでしょうか。

しかし、夏の白山への登山。登山とは別に一つのことが心に残りました。それは人間と祈りの関係です。白山が信仰の山であることは本で読んで知っていましたが、実際は想像を超えていました。

頂上小屋のそばには、頂上小屋よりも遥かに立派な神社があり、神主が常駐しています。日の出を見る人々は朝四時に起き、頂上小屋から頂上を目指します。私たちも四時に起きて小屋の外に出ると、30人から40人ほどのグループが集まり、神主と一緒に頂上に向かって登り始めるところでした。白山祈願ツアーです。

彼らは頂上につくや否や、景色を眺めることより先に神主の長い祝詞に心を合わせ、山に宿ると信じる神に向かって大学合格、家族の健康回復、仕事の成功、結婚出産など、それぞれの願い事をささげます。これ程苦労して高い山に登ってきて祈るのだから、山の神も願いを叶えてくれるだろうと期待して、皆が力を込めて祈っているように感じました。

人間は祈る動物と言われます。祈りは人間と他の生き物を区別するしるしとも言われます。手紙の末尾に「ご多幸を祈ります」とか「健康回復をお祈り申し上げます」と書き記すことは日常茶飯事です。「神など信じない」と豪語している無神論者も、窮地に陥れば「神様、助けてください」と心で念じたり、思わず口にしたりすることもあります。現代では、ここで祈れば願いが叶うと評判のパワースポットと呼ばれる場所があり、有名な場所になると人が絶えないそうです。

しかし、それらは祈りの相手がはっきりしない、独り言の祈り。どんな神でもよいから、とにかく助けてほしいと願う、困った時の神頼み。自分の願いが叶うことを思う余り、祈る神を次々に変えてゆく自己中心の祈り。聖書が教える本来の祈りとは程遠い祈りばかりです。聖書が教える神様から心はなれて生きる人間は祈りを歪め、本当の祈りを忘れてしまったと言えるかもしれません。

その様な私たちのために、本来の祈りとは何であるのか。この世界を創造した神様相手の本来の祈りを私たちの生活の中に回復しようと、イエス様が教えられたのが今日の個所です。

私たちが読み進めてきたのは、イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教です。先先回からマタイの福音書6章に入りました。山上の説教は、この6章から新しい段落となりますが、ここで5章の流れを振り返ってみたいと思います。

先ずイエス様は、「幸いです」と言う共通のことばで始まる八つの教え、所謂八福の教えを語りました。そこにはイエス様を信じる人の姿が八つの側面から描かれています。次いで、イエス様は私たちを地の塩、世の光と呼び、この世におけるクリスチャンの役割を教えられました。さらに、旧約聖書の律法、神様が定めたルールの真の意味を示し、兄弟を愛すること、配偶者を生涯愛し続けること、自分の敵をも愛することを教えられました。

隣人愛こそ、天の御国の民にとって義しい生き方であることを説き明かされたのです。

そして、この6章。この6章のテーマの一つは、神様の目を意識して生きることと言われます。それは冒頭のことばに示されています。

 

6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」

 

イエス様を信じる者は人の目ではなく、神様の目を意識して生きよと勧めておられます。そのことを教える具体例として取り上げられるのが、この時代、非常に重んじられていた施し、祈り、断食と言う三つの善行です。今回は先回に続き祈りに関する教えを扱います。

 

6:5 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

 

会堂や通りの四つ角は人々が集まりやすい場所です。当時、祈りの時間は一日三回。午前9時、正午、午後3時と決められていました。その時間になると都に住む人は神殿に、地方に住む人は町の会堂に、神殿にも会堂にも行けない人は、自分がいる場所で祈っていたようです。

ここでイエス様が偽善者と呼ぶ人々は、祈りの時間たまたま会堂や四つ角に居合わせたと言うのではなく、わざわざ人々の集まるその様な場所に足を向け、祈っていた人々です。彼らは人に見られることが好きだったからとある通りです。

私たちは偽善者と言うとパリサイ人を思い浮かべます。確かにこの様な行動は当時のパリサイ人に典型的な行動の一つでした。しかし、イエス様はパリサイ人だけを批判しているわけではありません。イエス様を信じる者、イエス様の弟子や私たちの中にもパリサイ人と同じ思い、人に見られることを願って善い行いをする傾向があるからこそ、戒めているのです。

ここで偽善者が受け取る報いとは、人々に見られること、注目されること。それによって祈りの人として認められたり、賞賛されたりして満足することでした。そう考えますと、本来、ただ神様だけに向けてなされるべき祈りが、いつのまにか人々に見られることが目的となってしまうと言う、私たちの現実の姿が明らかになってきます。

しかし、イエス様は私たちの中にある偽善を戒めているだけではありません。人に見られるための祈りは、私たちの心が本来の祈りの相手である父なる神様に向くことを邪魔してしまうから戒めておられるのです。イエス様が求めているのは、私たちがただ父なる神様だけに心を向けて祈ることでした。このことは次の節でさらに強調されています。

 

6:6「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 

奥まった部屋と言うのはその頃ユダヤ人の家にあった物を貯蔵するための部屋、貯蔵庫で、大抵の家ではその部屋が、鍵がかけられるただ一つの場所であったようです。まさに、祈る時には、神様と一対一で向かい合うように。神様に心を向け、神様だけに思いを集中して語りかけるようにと教えられています。勿論、奥まった部屋と言うのは私たちが神様と一対一で向き合うことを印象的に教えるための例でした。祈る時には、それが教会堂であろうと、家であろうと、奥まった部屋であろうと、四つ角であろうと、あなた方の心をただ父なる神様に向けて祈れ。これがイエス様のメッセージです。

それでは、神様に心を向けて祈る者への報いとは何でしょうか。「あなたの父が、あなたに報いてくださいます」と言われる報いとは何でしょうか。私たちが祈ることによって受け取る報いとは、父なる神様に出会うこと。父なる神様と語り合うこと。父なる神様と親しく交わること、神様の愛を受け取り、神様を愛することです。

普通祈りに対する報いと聞くと、私たちは自分の願いが叶うこと、実現することと考えます。聖書にも人々が神様に祈り、神様がそれに応えて物質的祝福や病の癒しなどを与えると言う出来事が記されています。同じことは、私たちも経験します。

しかし、祈りに対する神様の答えは、私たちの祈りの相手として父なる神様ご自身が与えられていることと切り離すことはできません。私たちの祈りの相手としてこの世界を創造した神様が与えられていると言う報い、父なる神様が私たちに全身全霊心を向けてくださると言う報いに比べたら、それらはむしろ小さな報いと言えるかもしれません。

但し、祈る時には神様と一対一で向き合い、語り合うことは、私たちが兄弟姉妹と心を合わせて祈ることを否定しません。むしろ、イエス様はそれを勧めていました。

 

マタイ18:19「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 

たとえ二人三人と言う様な小さな集まりであっても、心ひとつにして祈る時、天の父の心は私たちに注がれている。イエス様もともにいてくださる。個人の祈り、兄弟姉妹が集う祈り。どちらにも等しく祝福があることを覚え、祈りに励みたいと思います。

さて、次にイエス様は異邦人、聖書の神様を知らない人々の祈りを例として、私たちの祈りの問題点を指摘します。

 

6:7、8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

   

「同じことばを、ただくり返してはいけません」という言葉は「意味のないことばを繰り返すな」と言う意味です。おまじないや空念仏のように、ただ同じ言葉や決まり文句を繰り返すことの禁止です。けれども、イエス様が次に教えてくださる主の祈りは、いわば決まり文句です。日々主の祈りを繰り返す人はいると思われますし、主の祈りの繰り返しには大切な意味があると思います。

ですから、イエス様が問題としているのは、同じ言葉とか決まり文句と言う祈りの形式ではありません。それを行う人の心の動機でした。イエス様は、異邦人が同じ言葉を繰り返す理由は、彼らが「ことば数が多ければきかれる」と考えているから、と言われました。

祈りの言葉を多くして、自分の真剣さを神に知ってもらいたい。祈りが答えられるのは、祈る者の姿勢や努力によると言う考え方です。

日本においても、祈祷やおまじないの繰り返し、あるいは白山で私が見たような特別な場所での祈りを通して、自分たちが神と呼ぶ存在を動かし、願いをかなえようとする人々がいます。その際、人々にとって大切なのは自分の願いのみ。祈る相手の神が本当に存在するのか、どのような神なのかは大切な問題ではないようです。

しかし、イエス様は聖書の神様を知らない人々だけでなく、聖書の神様を知っている私たちの中にも同じ考え方が潜んでいることを指摘しています。言葉数の多さが神様を動かす。長い祈りが神様に聞かれる。言葉巧みな祈りが神様には有効。断食の祈りとか聖地エルサレムでの祈りとか、立派な教会堂での祈りが神様を動かす。この様な考え方を誤りとし、この様な考え方に縛られてきた私たちの心を自由にされたのです。

いつであろうと、どこであろうと、私たちがイエス・キリストの御名によって父なる神様に心を向け,話しかける時、父なる神様も私たちに心を向け、耳を傾けてくださる。これが、祈りにおいて、私たちが与えられている自由でした。

さらに、私たちの信じる神様は、知れば知るほど、私たちを喜んで祈らずにはいられない思いへとかきたてるお方なのです。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるから」と教えられている通りです。

イエス様の教える祈りは、私たちのことを良く知らない神様に私たちの必要を伝えることではありません。私たちが必要とするものをなかなか与えてくださらない神様にお願いすることでもないのです。そもそも、私たちの願いも必要な物も良く知らず、私たちのことを心にかけていない様な神に祈ること自体が虚しいことではないでしょうか。

子どもが嬉しいことも悲しいことも、ことあるごとに両親に話しかけるのは、お父さんお母さんが自分のことを大切に思っていること、親として心を尽くしていることを実感として知っているからです。その様な子どもはお父さんお母さんの前では自由であり、お父さんお母さんと語り合うことが自然であり、喜びです。

同じ様に、イエス・キリストを信じる私たちにとって、神様は天の父です。誰よりも私たちのことを大切に思い、愛してくださるお方、私たちの必要も、弱さも、罪もすべて知ったうえで、ご自分の子としてくださった父なる神様です。

私たちには、神様にだけ心を向けようとしても、気が散ってしまう、集中力が続かないと言う弱さがあります。日々心の思いにおいても、言葉や行いにおいても罪を犯します。生活の中の小さな必要までもお願いして良いのだろうか、と言う恐れを感じることもあるでしょう。しかし、知れば知るほど、私たちがもっと祈りたい思いへとかりたてられる神様。それが、イエス様が「あなたがたの天の父」として教えてくださった神様であることを自覚したいのです。今日の聖句です。

 

ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」

2016年9月4日日曜日

ルカの福音書22章7節~20節「あなたがたのために」


 祈祷会では祈祷表に基づく聖書通読の箇所の学び(ショートメッセージ)をしていますが、先週、今週と詩篇の都上りの歌の箇所を扱っています。都上りの歌とは巡礼歌、礼拝賛歌。礼拝とは何か。礼拝にどのような思いで臨めば良いのか。礼拝の恵みとは何かが歌われる詩。そこに表された詩人の思い、告白を確認していると、果たして私自身はどれ程真剣に礼拝に出席していたのか。神の民とされ、仲間とともに礼拝をささげることが、どれ程大きな恵みであるのか。よくよく味わっていたか。考えさせられました。いかがでしょうか。皆様は礼拝に対して、どれ程の喜びと期待を持っているでしょうか。大事な習慣であると同時に、いつも新鮮な思いで礼拝に集えるように。神様の素晴らしさを覚え、罪を告白し清められ、今一度生きる力を頂く。そのような恵みを、確かに神様が用意して下さっているという期待を持ちつつ、礼拝をささげたいと思います。そして今日は聖餐式もあります。主イエスがどのような思いで聖餐式を定められたのか。私たちをどれ程愛して下さっているのか。御言葉から確認しつつ、実際に聖餐も味わう。今日の礼拝が私たち皆にとって祝福された時となるように心から願っています。

 

 イエス・キリストが十字架にかかる直前。AD三十年四月六日、木曜日の夕べと考えられています。最後の過越の食事にして最初の聖餐式が、イエス様によって執り行われました。過越の祭とも、種無しパンの祝いとも言われる時(二十二章一節)のため、多くの人が各地から都エルサレムに集まる状況でのこと。

過越の祭にしろ、種無しパンの祝いにしろ、その名の由来は出エジプトの出来事です。「過越」というのは、イスラエルの民を奴隷から解放しなかったエジプトに災いが下る際、神様の言われたように子羊の血を門柱と鴨居に塗った家は、その災いが「過越」したことに因みます。「種無しパン」というのは、エジプトを脱出する際、口にしたのが、種無しパンであったから。

 十字架にかかる直前、イエス様はこの祝いの食事をどうしても弟子たちと食べたかったのです。何故か。この食事が、ご自身が十字架にかかり死ぬことの意味を教えるのに最後にして絶好の機会であったから。もっと言えば、目の前にいる弟子たちだけでなく、この時よりキリストを信じる全ての者に、キリストの十字架の意味を思い出す大事な儀式(礼典)を定める時であったから。この食事かけるイエス様の並々ならぬ気迫を感じる箇所となります。

 

 ルカ22章7節~13節

さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。『わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。』彼らはイエスに言った。『どこに準備しましょうか。』イエスは言われた。『町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。』彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。

 

 過越の食事をする祝いの日に、イエス様はペテロとヨハネをつかまえて、食事の準備をするように言われました。二人から、「どこで準備したら良いですか?」と聞かれると、水がめを運ぶ男が目印で、その者の家が会場として用意されていると言います。ペテロとヨハネは、その場所で、過越の食事の準備をすれば良い。これはつまり、イエス様がそこまで手配していたということでしょう。(余談ですが、エルサレムで大きな家があり、イエス様に好意的な人と言えば、マルコが想像されます。この水がめの男はマルコで、この二階座敷はマルコの家ではないかと考える人もいます。)

家の人には、「弟子たちが行くので、準備が出来たら水がめを目印に持ち、待っているように。」という伝言が出されていたのでしょうか。夕暮れ時、二人の弟子は都に入り、目印の男を見かけ、イエス様の言われた通りと安堵しつつ、過越の食事の準備が出来ました。入念に準備されていたと読むと、イエス様のこの食事に対する並々ならぬ思いが確認されます。

 ところで、ペテロとヨハネですら、過越の食事をどこで行うのか知らなかったとすれば、イエス様は、会場を押さえる手配を秘密裡に行っていたと読めます。何故、主イエスはこの食事の場所を秘密のまま準備されたのか。

 

 その理由となることが、この少し前に記されていると思います。

ルカ22章4節~6節

「ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」

 

 裏切り者のユダは、祭司長、律法学者と話しを進め、いつイエスを彼らに引き渡すか算段していました。多くの人がエルサレムに集まるこの時。群衆が賑わう中で、イエスを取り押さえることは難しいと考え、群衆がいない状況を狙っていた。

 過越の祭の都エルサレムで、群衆のいない状況とはいつか。一つの候補が、この過越の食事の時となります。皆がそれぞれ家族ごとに過越の食事をし、イエス様も弟子たちと過越の食事をする。イスカリオテのユダからすれば、この食事はイエス様を引き渡すのに丁度良い機会。あらかじめ、過越の食事の場所をユダが知るとしたら、そこがイエス様の捕まる場所になる可能性がある。

 そのためイエス様は、この場所を秘密裡に用意していたのだと思います。この食事の時は誰にも邪魔されないように。どうしても、弟子たちと過越の食事の時を持ちたかったイエス様。

 

このように無事準備がなされ、邪魔が入る心配もなく、主イエスをして念願の、過越の食事が始まります。

 ルカ22章14節~18節

さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。』そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』

 

 イエス様と弟子たちは、これまで何回か、過越の食事をともにしてきました。ところが、この日のイエス様の様子は普通とは異なる。いつになく厳かな雰囲気だったと想像します。発せられた言葉も印象的。「苦しみを受ける前」とか、「二度と過越の食事をすることはない」とか、「もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはない」とか。この食事を心待ちにしていたというわりに、不吉な言葉が響くのです。

この時の弟子たちは、これらの言葉の重みをどれ位理解していたでしょうか。(何しろこの食事のすぐ後で、弟子たちは誰が一番偉いのかと議論を始めます。残念ながら、キリストの思いを理解しているとは思えない姿を晒すことになります。)

 

これまで千年以上続けられてきた過越の食事は、この時で役目を終えます。何しろ、過越は(かつて神の民に与えられた恵みを覚えると同時に、)やがてくる救い主の働きを指し示す意味がありました。キリストの十字架、その贖いの御業をもって、その役割を終える。出エジプトの際、子羊を殺し、その血を門柱と鴨居に塗った家は災いが過越ましたが、あの子羊と同じ役目を、もうすぐイエス様ご自身が担われる。そのいけにえとしての死、罪の罰を身代わりに受ける死が目前に迫っている。「二度と過越の食事をすることはない。」それどころか「もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはない。」とまで言われる程、間近に迫っている死。

 キリストの死によって過越の食事は役目を終える。そのキリストの死が差し迫っている。そのため、これが最後の過越の食事となる。このような緊迫した状況の中で、イエス様は新たな食事を定めます。

 

ルカ22章19節~20節

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』

 

 イエス様は裂いたパンを指し、これはわたしのからだと言い、ぶどう酒の入った杯を指し、これはわたしの血と言われました。「わたしのからだ、わたしの血。」

 これは、木曜日の夜のこと。これから弟子の裏切りに合い、不正な裁判を味わい、翌日の金曜日の午前九時には十字架につけられる。キリストの肉が割かれ、キリストの血が流される。主イエスは十字架での死の覚悟を持って、「これはわたしのからだです。」「これはわたしの血です。」と言われていた。この迫力。

 

 キリストのからだも、キリストの血も、「あなたがたのため」のものだと言われます。罪の罰を身代わりに受けること。あらゆる罪の呪いを引き受けること。それは、このパンと杯を口にする、あなたがたのためにすることだと言われる。

 神を神と思わず、人を人とも思わない。自分の好き勝手に生き、それでいて苦しくて仕方がない。良くありたい、正しいことを行いたいと願いながら、悪に染まる。愛を示したい、応援したいと思いながら、傷つけ、痛めつけてしまう。怒り、憎しみに心が覆われ、不平、不満を吐き出し続ける。何のために生きているのか分からない。私が幸せであればそれで良い。

 そのような、人間が神様を離れてから味わうことになった、ありとあらゆる罪の呪いと、その罰を一身に引き受けて十字架で死なれるイエス。そのイエス様が、この死は、「あなたのため」と言われる。

 

 また、わたしのために割かれるからだを食べ、わたしのために流される血を飲むようにと言われます。キリストのからだと血を食するとは、キリストのいのちを頂くこと、キリストと一体となることを意味します。

特にユダヤ人は、旧約聖書で「血はいのち」であり、そのため「血は飲んではいけない」と教えられていました。血はいのちであり、他のいのちを取り入れてはならない。そのように教えられてきた弟子たちにとって、これはわたしの血であるとの宣言の後に、だからこれを飲むようにというのは、衝撃的な宣言。わたしのいのちを受け取るようにと迫るキリストです。

私はあなたの罪を背負い、身代わりに十字架で死にます。あなたが罪の呪いから助け出されたいと願う時、私のもとに来なさい。生きる気力が失われたとき。絶望にうずくまるとき。怒りや憎しみで何も見えなくなった時。あらゆる罪の呪いをわたしが背負ったことを思い出しなさい。あなたは私を信じるように。あなたは、わたしのいのちを受け取るように。あなたは、わたしとともに生きるように。わたしと一体となった者として、その歩みを全うするように。そのようなキリストの勧めを、私たちは、パンと杯に見るのです。

 

 十字架直前、イエス様が定められた、過越の食事に代わる新しい食事。聖餐式は、キリストの再臨まで、教会は行い続けるように命じられたものです。そのため、約二千年の間、全世界で聖餐式が執り行われてきました。

 イエス様にとって、十字架にかかるのはたいしたことではない。当たり前のこと。当然のことだったでしょうか。そうではありません。この過越の食事の後、「悲しみのあまり死ぬほど」と言われ、父なる神にささげられたのは「できますならば、この杯をわたしから過ぎさらせてください。」と祈られました。イエス様にとって、罪人の身代わりとなることが、どれ程のことなのか。十字架での死、父なる神に裁かれることは、どれほど避けたいものなのか。

 十字架での死、罪の裁きを前にして、苦しみの最中にいる。そのイエス様が、「これはわたしのからだです。」「これはわたしの血です」と言われたのです。私たちをどれ程愛してのことだったかと、今朝改めて確認したいと思います。

 

 私たちは、聖餐式に臨む時は、このイエス様の思いを覚えながら、食し飲むべきです。十字架での死を前に、本当に悲しみ、恐れ、避けたいと思われながらも、それでも、私たちがいのちを得ることが出来るようにと定められた。今日、この場で聖餐式に臨めるということが、どれ程の愛を受けた結果なのか。よくよく味わいたいと思います。

私はあなたの罪を背負い、身代わりに十字架での死を味わいます。あなたは私を信じるように。あなたは、わたしのいのちを受け取るように。あなたは、わたしとともに生きるように。わたしにつながるように。わたしと一つになるように。わたしと一体となるように。このイエス様からの勧めを、私たち皆で真正面して、存分にイエス・キリストを味わいたいと思います。

 今日の聖句を皆様とともにお読みして終わりにいたします。

ヨハネの福音書6章53節~54節

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』」