今年の夏休み、私は名古屋の長老教会、日進キリスト教会で奉仕している宣教師またその教会の兄弟姉妹と白山に登ってきました。岐阜、福井、石川三県の境に聳える白山は、その頂上に至るまで山特有の植物や動物の宝庫。その豊かさ美しさは圧倒的で、見晴らしも良く、天候にも恵まれ、交わりも楽しめたという、非常に充実した二日間でした。
ただ一つ玉に瑕なのは、下山途中うっかり浮石に足をのせ、足首をきれいに捻ってしまったこと。初めて登山で骨にひびが入り、ギブスで固定を強いられ、車の運転ができないと言う不自由さでしょうか。
しかし、夏の白山への登山。登山とは別に一つのことが心に残りました。それは人間と祈りの関係です。白山が信仰の山であることは本で読んで知っていましたが、実際は想像を超えていました。
頂上小屋のそばには、頂上小屋よりも遥かに立派な神社があり、神主が常駐しています。日の出を見る人々は朝四時に起き、頂上小屋から頂上を目指します。私たちも四時に起きて小屋の外に出ると、30人から40人ほどのグループが集まり、神主と一緒に頂上に向かって登り始めるところでした。白山祈願ツアーです。
彼らは頂上につくや否や、景色を眺めることより先に神主の長い祝詞に心を合わせ、山に宿ると信じる神に向かって大学合格、家族の健康回復、仕事の成功、結婚出産など、それぞれの願い事をささげます。これ程苦労して高い山に登ってきて祈るのだから、山の神も願いを叶えてくれるだろうと期待して、皆が力を込めて祈っているように感じました。
人間は祈る動物と言われます。祈りは人間と他の生き物を区別するしるしとも言われます。手紙の末尾に「ご多幸を祈ります」とか「健康回復をお祈り申し上げます」と書き記すことは日常茶飯事です。「神など信じない」と豪語している無神論者も、窮地に陥れば「神様、助けてください」と心で念じたり、思わず口にしたりすることもあります。現代では、ここで祈れば願いが叶うと評判のパワースポットと呼ばれる場所があり、有名な場所になると人が絶えないそうです。
しかし、それらは祈りの相手がはっきりしない、独り言の祈り。どんな神でもよいから、とにかく助けてほしいと願う、困った時の神頼み。自分の願いが叶うことを思う余り、祈る神を次々に変えてゆく自己中心の祈り。聖書が教える本来の祈りとは程遠い祈りばかりです。聖書が教える神様から心はなれて生きる人間は祈りを歪め、本当の祈りを忘れてしまったと言えるかもしれません。
その様な私たちのために、本来の祈りとは何であるのか。この世界を創造した神様相手の本来の祈りを私たちの生活の中に回復しようと、イエス様が教えられたのが今日の個所です。
私たちが読み進めてきたのは、イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教です。先先回からマタイの福音書6章に入りました。山上の説教は、この6章から新しい段落となりますが、ここで5章の流れを振り返ってみたいと思います。
先ずイエス様は、「幸いです」と言う共通のことばで始まる八つの教え、所謂八福の教えを語りました。そこにはイエス様を信じる人の姿が八つの側面から描かれています。次いで、イエス様は私たちを地の塩、世の光と呼び、この世におけるクリスチャンの役割を教えられました。さらに、旧約聖書の律法、神様が定めたルールの真の意味を示し、兄弟を愛すること、配偶者を生涯愛し続けること、自分の敵をも愛することを教えられました。
隣人愛こそ、天の御国の民にとって義しい生き方であることを説き明かされたのです。
そして、この6章。この6章のテーマの一つは、神様の目を意識して生きることと言われます。それは冒頭のことばに示されています。
6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」
イエス様を信じる者は人の目ではなく、神様の目を意識して生きよと勧めておられます。そのことを教える具体例として取り上げられるのが、この時代、非常に重んじられていた施し、祈り、断食と言う三つの善行です。今回は先回に続き祈りに関する教えを扱います。
6:5 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
会堂や通りの四つ角は人々が集まりやすい場所です。当時、祈りの時間は一日三回。午前9時、正午、午後3時と決められていました。その時間になると都に住む人は神殿に、地方に住む人は町の会堂に、神殿にも会堂にも行けない人は、自分がいる場所で祈っていたようです。
ここでイエス様が偽善者と呼ぶ人々は、祈りの時間たまたま会堂や四つ角に居合わせたと言うのではなく、わざわざ人々の集まるその様な場所に足を向け、祈っていた人々です。彼らは人に見られることが好きだったからとある通りです。
私たちは偽善者と言うとパリサイ人を思い浮かべます。確かにこの様な行動は当時のパリサイ人に典型的な行動の一つでした。しかし、イエス様はパリサイ人だけを批判しているわけではありません。イエス様を信じる者、イエス様の弟子や私たちの中にもパリサイ人と同じ思い、人に見られることを願って善い行いをする傾向があるからこそ、戒めているのです。
ここで偽善者が受け取る報いとは、人々に見られること、注目されること。それによって祈りの人として認められたり、賞賛されたりして満足することでした。そう考えますと、本来、ただ神様だけに向けてなされるべき祈りが、いつのまにか人々に見られることが目的となってしまうと言う、私たちの現実の姿が明らかになってきます。
しかし、イエス様は私たちの中にある偽善を戒めているだけではありません。人に見られるための祈りは、私たちの心が本来の祈りの相手である父なる神様に向くことを邪魔してしまうから戒めておられるのです。イエス様が求めているのは、私たちがただ父なる神様だけに心を向けて祈ることでした。このことは次の節でさらに強調されています。
6:6「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
奥まった部屋と言うのはその頃ユダヤ人の家にあった物を貯蔵するための部屋、貯蔵庫で、大抵の家ではその部屋が、鍵がかけられるただ一つの場所であったようです。まさに、祈る時には、神様と一対一で向かい合うように。神様に心を向け、神様だけに思いを集中して語りかけるようにと教えられています。勿論、奥まった部屋と言うのは私たちが神様と一対一で向き合うことを印象的に教えるための例でした。祈る時には、それが教会堂であろうと、家であろうと、奥まった部屋であろうと、四つ角であろうと、あなた方の心をただ父なる神様に向けて祈れ。これがイエス様のメッセージです。
それでは、神様に心を向けて祈る者への報いとは何でしょうか。「あなたの父が、あなたに報いてくださいます」と言われる報いとは何でしょうか。私たちが祈ることによって受け取る報いとは、父なる神様に出会うこと。父なる神様と語り合うこと。父なる神様と親しく交わること、神様の愛を受け取り、神様を愛することです。
普通祈りに対する報いと聞くと、私たちは自分の願いが叶うこと、実現することと考えます。聖書にも人々が神様に祈り、神様がそれに応えて物質的祝福や病の癒しなどを与えると言う出来事が記されています。同じことは、私たちも経験します。
しかし、祈りに対する神様の答えは、私たちの祈りの相手として父なる神様ご自身が与えられていることと切り離すことはできません。私たちの祈りの相手としてこの世界を創造した神様が与えられていると言う報い、父なる神様が私たちに全身全霊心を向けてくださると言う報いに比べたら、それらはむしろ小さな報いと言えるかもしれません。
但し、祈る時には神様と一対一で向き合い、語り合うことは、私たちが兄弟姉妹と心を合わせて祈ることを否定しません。むしろ、イエス様はそれを勧めていました。
マタイ18:19「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
たとえ二人三人と言う様な小さな集まりであっても、心ひとつにして祈る時、天の父の心は私たちに注がれている。イエス様もともにいてくださる。個人の祈り、兄弟姉妹が集う祈り。どちらにも等しく祝福があることを覚え、祈りに励みたいと思います。
さて、次にイエス様は異邦人、聖書の神様を知らない人々の祈りを例として、私たちの祈りの問題点を指摘します。
6:7、8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
「同じことばを、ただくり返してはいけません」という言葉は「意味のないことばを繰り返すな」と言う意味です。おまじないや空念仏のように、ただ同じ言葉や決まり文句を繰り返すことの禁止です。けれども、イエス様が次に教えてくださる主の祈りは、いわば決まり文句です。日々主の祈りを繰り返す人はいると思われますし、主の祈りの繰り返しには大切な意味があると思います。
ですから、イエス様が問題としているのは、同じ言葉とか決まり文句と言う祈りの形式ではありません。それを行う人の心の動機でした。イエス様は、異邦人が同じ言葉を繰り返す理由は、彼らが「ことば数が多ければきかれる」と考えているから、と言われました。
祈りの言葉を多くして、自分の真剣さを神に知ってもらいたい。祈りが答えられるのは、祈る者の姿勢や努力によると言う考え方です。
日本においても、祈祷やおまじないの繰り返し、あるいは白山で私が見たような特別な場所での祈りを通して、自分たちが神と呼ぶ存在を動かし、願いをかなえようとする人々がいます。その際、人々にとって大切なのは自分の願いのみ。祈る相手の神が本当に存在するのか、どのような神なのかは大切な問題ではないようです。
しかし、イエス様は聖書の神様を知らない人々だけでなく、聖書の神様を知っている私たちの中にも同じ考え方が潜んでいることを指摘しています。言葉数の多さが神様を動かす。長い祈りが神様に聞かれる。言葉巧みな祈りが神様には有効。断食の祈りとか聖地エルサレムでの祈りとか、立派な教会堂での祈りが神様を動かす。この様な考え方を誤りとし、この様な考え方に縛られてきた私たちの心を自由にされたのです。
いつであろうと、どこであろうと、私たちがイエス・キリストの御名によって父なる神様に心を向け,話しかける時、父なる神様も私たちに心を向け、耳を傾けてくださる。これが、祈りにおいて、私たちが与えられている自由でした。
さらに、私たちの信じる神様は、知れば知るほど、私たちを喜んで祈らずにはいられない思いへとかきたてるお方なのです。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるから」と教えられている通りです。
イエス様の教える祈りは、私たちのことを良く知らない神様に私たちの必要を伝えることではありません。私たちが必要とするものをなかなか与えてくださらない神様にお願いすることでもないのです。そもそも、私たちの願いも必要な物も良く知らず、私たちのことを心にかけていない様な神に祈ること自体が虚しいことではないでしょうか。
子どもが嬉しいことも悲しいことも、ことあるごとに両親に話しかけるのは、お父さんお母さんが自分のことを大切に思っていること、親として心を尽くしていることを実感として知っているからです。その様な子どもはお父さんお母さんの前では自由であり、お父さんお母さんと語り合うことが自然であり、喜びです。
同じ様に、イエス・キリストを信じる私たちにとって、神様は天の父です。誰よりも私たちのことを大切に思い、愛してくださるお方、私たちの必要も、弱さも、罪もすべて知ったうえで、ご自分の子としてくださった父なる神様です。
私たちには、神様にだけ心を向けようとしても、気が散ってしまう、集中力が続かないと言う弱さがあります。日々心の思いにおいても、言葉や行いにおいても罪を犯します。生活の中の小さな必要までもお願いして良いのだろうか、と言う恐れを感じることもあるでしょう。しかし、知れば知るほど、私たちがもっと祈りたい思いへとかりたてられる神様。それが、イエス様が「あなたがたの天の父」として教えてくださった神様であることを自覚したいのです。今日の聖句です。
ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
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