今私たちが礼拝で読み進めているのは、イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教です。マタイの福音書5章から7章にわたる山上の説教も6章に入りました。ここ二回は、祈りに関する教えを学んでいます。
人間は祈る動物と言われます。ある歴史家は、「世界中どの国、どの町に行っても見られるものは、祈る人と祈りの為の場所」と書いています。手紙に「ご多幸を祈ります」等と書き記すことは日常茶飯事です。普段「神など信じない」と豪語する無神論者も、窮地に陥れば「神様、助けてください」と祈ることがあります。現代では、ここで祈れば願いが叶うと評判のパワースポットと呼ばれる場所があり、有名な場所になると人が絶えないそうです。
しかし、それらは祈りの相手がはっきりしない、独り言の祈り。どんな神でもよいから、とにかく助けてほしいと願う、困った時の神頼み。自分の願いを叶える為の手段としての祈り。聖書が教える本来の祈りとは程遠い祈りばかりです。神様に背を向けた人間は祈りを歪め、本来の祈りを忘れてしまったと言えるかもしれません。
それに対して、イエス様が本来の祈りとは何かを教えてくださったのが、先回取り上げた個所6章5節から8節でした。祈りは人の目を意識して行うものではない。心をただ神様に向けて語ること。祈りは願い事を叶える手段というより、私たちのことを最も良く知っておられる神様との交わり。イエス様の教えをまとめれば、この二つと言えるでしょうか。
「仕事の最中でも、祈ることはできます。仕事は祈りを妨げないし、祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。ただほんの少しだけ心を神に向けるだけで良いのです。愛しています、お任せしています、信じています、神よ、私は今あなたが必要です。こんな感じでいいのです。これは素晴らしい祈りです」。マザー・テレサのことばです。
いつでも、どこにいても、心を神様に向け、自分の思いを自分の言葉で神様に語りかけるのが祈り。教会でなければとか、長く祈らねば、上手に祈らねば等と心配する必要は全くない。このことばは、イエス様が教えた飾らない祈り、神様を相手とする自由で親しい祈りを、私たちに確認させてくれる気がします。
しかし、祈りが神様に心を向け、語りかけることだとしたら、神様に向かって何と呼びかけたら良いのか。何を語りかけたら良いのか。そう考え、心配する弟子たちに、イエス様が教えられたのが主の祈りです。
6:9~13「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
この祈りが三部構成であることは、一目瞭然です。第一部は「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけの言葉。第二部は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」とある様に、神様のことを覚えての祈り。第三部は「私たちの日ごとの糧をお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」として、私たちの必要のための祈りが教えられています。
わずか5節、日本語聖書でたったの10行。しかし、この短い祈りの中に、キリスト教の世界観,人生観、私たちのあるべき生き方が凝縮しているとも言われます。毎週の礼拝でも祈りますし、日々主の祈りを祈る方もおられると思います。私たちにとって非常に身近な祈りですが、うっかりすると、イエス様が注意された「同じ言葉を形式的に繰り返すこと」になってしまいがちな祈りでもあります。ですから、意味をよく理解し、心を込めて主の祈りを祈ることを目指し、皆で学んでゆけたらと願っています。
さて、今日取り上げるのは、祈りの第一部、神様に対する呼びかけのことば、「天にいます私たちの父よ」です。まず考えたいのは、「私たちの父よ」と言う呼びかけです。イエス様は神様に向かって、「私たちの父よ」と呼びかけてよいと言われました。しかし、これは元々私たちが神の子であるので、「父よ」と呼びかける資格があると言う意味ではありません。
むしろ、私たちはみな罪人、罪の中に生きていた者、神様の怒りの対象でした。
エペソ2:3「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
つまり、私たちには心を神様に向けることなく生きていた者、神様に近づく権利も、親しく語りかける資格も何一つない者であったのです。しかし、イエス様が私たちの罪を背負い、十字架に死なれたことで、私たちの罪は赦され、罪の力から救い出されました。イエス様を信じる者は、神の子と認められる恵みを受けることになったのです。
ガラテヤ4:4~6「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
イエス様が私たちを罪から贖うために十字架に死んでくださった。そのお蔭で、私たちは神の子とされ、神様に向かって「アバ、父」と呼びかけることができるようになったのです。
「アバ」は、イエス様の時代、小さな子どもが自分の父親を呼ぶ時のことば。日本語で言えば「お父さん、お父ちゃん」、英語なら「パパ、ダディ」に当たります。小さな子どもが大好きなお父さんに呼びかけることば。そのことばを使って、私たちがこの世界を創造した神様、聖なる神様に呼びかけることができる。神様を父親、自分を子どもと思い、親しく呼び、語りかけることができる。
私たちに与えられたこの恵み、この特権の陰に、十字架の死と言うイエス様の尊い犠牲があったこと、自ら進んで十字架の苦しみを負って下さったイエス様の愛があることを覚えながら、「アバ、お父さん」と呼びかける者でありたいと思います。
また、「私たちの父」と呼びかけるよう、イエス様が言われたことにも意味があります。勿論、神様は私たち一人一人にとって天の父です。「私の父、私のお父さん」と呼びかけることもできるお方です。しかし、主の祈りでは、同じ信仰にある兄弟姉妹の存在を心にかけて祈ることを大切にして欲しいと願い、イエス様は「私たちの父よ」と言う呼びかけを勧められました。
私たちが心を神様に向ける時、神様も私たちに心を向け、愛を注いでくださいます。神様の愛を受け取った私たちは、同じ神様の愛が兄弟姉妹にも注がれていることを思い、兄弟姉妹のことを心にかけるよう動かされるのです。
病に苦しむ兄弟のために祈る。試練の中にあって悩む姉妹のために祈る。奉仕に励む働き人、社会での責任を担う兄弟のために祈る。兄弟姉妹が受けた恵み、祝福を我がことのように覚え感謝の祈りをささげる。「父よ」と言う呼びかけに神様への愛を込めて祈る。「私たちの」ということばに兄弟姉妹への愛を込めて祈る。これが、イエス様の願いでした。
次は、「天にいます父」と言う呼びかけです。「天にいます」と言うことばから分かる様に、天は父なる神様がおられるところです。聖書の他の個所では、天の天とも言われ、イエス様の時代のユダヤ人が大空を指して使っていた天とは区別されていました。
ネヘミヤ9:6 「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」
ここには「天と、天の天」と言う二つのことばが出てきます。最初の天は、ユダヤの人々が大空として眺めていた天のこと。二番目の「天の天」は「最高の天」と言う意味で、神様がおられるところと考えられています。イエス様が「天にいます父」と言われた時の天は大空のことではなく、「天の天」に当たります。他にも、神様のおられる所、少し難しいことばを使えば、神様がご臨在する所について、パウロは第三の天と表現しています。イエス様はパラダイスと言われました。
それでは、この世界を創造した神様が何故天におられるのかと言うと、ご自分が創造したすべてのものを生かし、支えるためだったのです。夜空に輝く数えきれない星も、地上の生き物たちも、海の魚も、すべてを神様が治め、守り、支えておられるのです。
ですから、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけよと言われた時、イエス様は、父なる神様がこの世界のすべてのものを治め、守り、支えている王であることを心に刻み、信頼して祈るようにと私たちを励ましておられるのです。
祈りの相手が分からずに祈ること、すべてのものを治め、支えている神様ではなく、物言わぬ偶像に祈ることがいかに虚しいことか。私たちが父として愛し、信頼する神様がこの世界を治め、支える王であり、主であることを知って祈れることの恵みを覚えたいところです。
しかし、神様のご臨在は天に限られているわけではありません。聖書にはこうあります。
エレミヤ23:24「天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」
「天にも地にも、わたしは満ちている」。聖書は、神様がこの世界のどこにでもご臨在しておられることをも教えていました。これは、ただ単に神様が世界中にいると言う意味ではありません。神様がこの世界のすべてのものに心を向け、心を注いでおられるお方であることを教えているものです。例えば、イエス様は空の鳥や野のゆりに心を注ぐ神様のことを、この様に語っていました。
マタイ6:26~30「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
イエス様は、天の父が空の鳥や野のゆりに心を注ぐお方、鳥を養い、ゆりを美しく装うお方と語っています。園芸の好きな人は、バラならバラ、菊なら菊の一本一本に心を向け、世話をし、美しい花を咲かせようと力を尽くすでしょう。たとえ、咲いている時期が短くても、手を抜かないと思います。天の父の野の花に対する思いも同じなのです。
私の知人に、犬を可愛がっている人がいます。私から見ると、ちょっと異常じゃないかと思うような愛し方です。彼の犬はただの雑種。その上、怪しい人が家に近づいても吠えず、食べたらすぐ居眠りをする食いつぶしで、役立たず。散歩に連れてゆくと、性格が喧嘩っ早いのか、他の犬にすぐに吠え掛かりますが、自分よりも強いと分かると逃げ回る意気地のない犬です。こんな犬と私には見えるのですが、こんな犬のために彼は仕事を早く切り上げて帰宅し散歩に連れて行ったり、散歩につき合う体力を強化するため、ランニングや筋トレまで行っています。まさに、彼は犬に心を注いでいるのです。天の父も同じ様に空の鳥に心を注いでいると、イエス様は教えています。
しかし、イエス様が最も伝えたいのは、空の鳥や野のゆりのためにこれ程心を注ぐ天の父が、まして私たち神の子らに心を注ぎ、良くしてくださらないはずがないがないという真理でした。
この世界を創造した神様が、天あるいは天の天にご臨在されるのは、この世界のすべてのものに心を注ぐため、特に、私たち神の子らに深く心を注ぎ、親しく交わるため。私たちを神の子にふさわしいものへと造り変えるため。そう教えられるところです。
こんなちっぽけな存在であり、罪人である私たちが、祈りの相手として、世界を創造した神様を与えられていると言う恵み。その神様を親しく私たちの父と呼ぶことのできる恵み。この世界のすべてのものに心を注ぎ、特に私たち神の子らの祈り、私たちとの交わりを心から喜んでくださる天の父がおられると言う恵み。この様な恵みを味わいながら、主の祈りを祈る者、祈り続ける者になれたらと思います。今日の聖句です。
ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
0 件のコメント:
コメントを投稿