2016年9月18日日曜日

敬老感謝礼拝コリント人への手紙第24章16節「老いて自分らしく生きる」


今日は敬老感謝礼拝です。聖書から老いの意味を学び、老いをどう生きればよいのかを考える礼拝です。老いを感じる人にとっては今現在の問題として、青年壮年世代の人にとっては近い将来の問題として、皆で考えることができればと願っています。

誰でも若い時にはまだ時間は沢山ある、老人になるまでには、気が遠くなるほどの歳月があると考えるもの。しかし、中年期を折り返し地点として、突然自分の人生はもう半分すぎてしまった時がついて、愕然とする人が多いと言われます。

まだ時間はあると感じる少年期青年期から、もう時間は残り少ないと感じる壮年期老年期へ。「まだ」から「もう」へ。中年期を境に、時間についての意識が変化すると言うのです。私にはわかる気がしますが、皆様はいかがでしょうか。

ご存じのように、日本人の平均寿命は世界のトップクラス。現在男性が82歳、女性は87歳。しかも、年々少しずつですが延びています。ところで大正10年、約100年前の日本人の平均寿命はと言うと男性42歳、女性43歳。この100年で日本人の平均寿命は、大変伸びました。100年前、40歳と言うと人々は死を身近に感じていたと想像すると驚きです。しかし、現在ではまだ40歳。まだ何かをする時間は十分あると感じている人の方が多いでしょう。

その一方で、40歳は人生の折り返し地点。青春時代に思い描いた夢と現実に成し遂げたことの落差を覚えたり、残された時間を意識し始める年齢でもあります。さらに、壮年期を過ぎて老年期に入ると、様々な点で老いを感じるようになります。日々の時間もますます速く飛び立ってゆくようにも思えます。

「しわがよる ほくろができる 腰曲がる 頭ははげる ひげ白うなる 手はふるう 足はひょろつく 歯はぬける 耳は聞こえず 目はうとうなる 身に合うは頭巾、襟巻、杖、眼鏡、湯たんぽ、しびん、孫の手 」。江戸時代の人、仙厓和尚が老人の特徴を読んだ歌の一部です。

心身の衰えや記憶力の衰え。なかなか回復しない病気。若い頃は「時間さえあればできる」と思っていたことが、時間があってもできなくなる等、老いと言う現実は私たちにとって辛く、哀しい一面があります。こうして点で人生を四季に譬え、老いは人生の冬と呼ばれることもあります。

最初に読んでいただいた聖書のことばにも、「外なる人は衰える」とありました。これは、健康や能力の衰え、辛い病と言う、老いの現実を示すことば。聖書が、私たちに老いの現実を受け入れるようにと勧めているところです。

ところで、人生には三通りの年齢があると言われます。ひとつは、生まれてから今までの暦の上の生活年齢、もう一つは、健康状態などに左右されることの多い生理年齢。三つ目は、その人の考え方、生き方次第で変わる心理年齢です。

私たちは誰でも否応なく年を取ります。健康の衰えや病気も、食事に注意することや運動を心がけることで時期を遅らせたり、改善する余地はありますが、それを止めることは誰にもできません。

そうだとすれば、「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」ということば。これは、私たちが自分の生活年齢や生理年齢を謙虚に受け入れるとともに、心理年齢は若々しく保ちながら、自分らしく生きることを勧めるものと考えてよいでしょう。「聖書の神様を信じる人は、たとえ外なる人が衰えても、心若々しく、自分らしく生きる。その様な生き方が出来るのですよ」と言う励まし、と受けとめてもよいと思います。

先が短いと言う現実は、今日と言う一日を大切にする思いへと私たちを導いてくれます。明日が来るのが当たり前と考えている若い時代よりも、丁寧に、大切に今日と言う時間を生きるようになるとすれば、これも老いの恵みの一つではないでしょうか。

今日と言う日は、母の胎から生まれてきた年から数えれば、私たちにとって一番年を取った日。しかし、今日よりもう若くなることはないとすれば、私たちにとって一番若い日とも考えられます。あって当たり前の一日ではなく、神様の賜物としての一日。神様から「大切に生きなさい」とプレゼントされた一日となるのです。

ここには、イエス様のことばも響いてきます。

 

マタイ6:34「だから、明日のためのための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 

明日を生きるのに必要な健康や食べ物は、神様が備えてくださる。だから、明日のことを心配しないで、今日なすべきことに全力を注ぎなさい。心を込めて、大切に、今日と言う一日を生きなさい。これが、イエス様のメッセージでした。

ヘルマン・ホイベルスと言うカトリックの神父が、友人からもらったものとして、「最上のわざ」と言う詩を紹介しています。

この世で最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、自分の十字架(仕事)をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物 古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとに行くために、自分をこの世につなぐくさりを少しずつはすしてゆくのは真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛する人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてをなしおえたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。来よ。わが友よ。「われ汝を見捨てじ」と。

この詩には、「老いの重荷は神の賜物」とあるように、老いを恵みとして受けとめる心があふれています。

人生の持ち時間も体力も確実に減ってゆくとすれば、青年のように多くのことに興味を示したり、行動したりする余裕はなくなります。しかし、だからこそ自分にとって本当に大切なことを考え、選んで行う時期になるのではないでしょうか。

 老いは、他の人と競ったり、比べたりすることから離れて、自分にとって本当に価値あることに力を注ぐ生き方、つまり、自分らしい生き方を選び、実行する最後のチャンスなのです。若い時はとかく世間に向きがちだった目を神様に向け、私たちのまことのふるさと、永遠の御国につながる生き方、愛の行いや愛の交わりを大切にして生きてゆきたいと願う様になるのも、老いの恵みと思われます。

 最後に、内なる人を日々新しくするために、ことばを代えれば、私たちの心を若々しく保つために、助けになることを二つ紹介したいと思います。

 

 Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 一つ目は、喜びの心、感謝の心を失わないこと、神様にも人にも喜びと感謝を表すことにつとめる生き方です。アメリカのテキサス州にあるキリスト教の病院のひとつでは、入院患者が治って退院するまでの日数が、ほかの病院と比べて際立って短いそうです。

その原因を調べた医師の報告によると、そこでは介護にあたる介護士たちの間に、毎日何かユーモラスな話題で患者を笑わせるか、患者や同僚が示してくれた配慮や親切に対して感謝を表すという暗黙のルールがあり、それが患者に良い影響を及ぼしているのではないかと言う結論でした。

 病院の廊下や病室に、いつも笑顔や笑い声、感謝のことばが溢れていると、患者やその家族も自然に明るくなる。これが患者の回復力につながり、退院も早くなると言う訳です。喜びや感謝が、人間の回復力を高めるのにいかに役立つかを示す見事な実例です。

 老いの現実は、時として私達の心を打ちのめします。失望、不安、恐れ、無力感等が涌いてくることもあるでしょう。しかし、それらの感情に心が占領されてしまわぬよう、私たちの心を若々しく保つために助けとなるのが、神様の恵みを喜ぶこと、神様の恵みに感謝することです。

 イエス・キリストを信じる私たちにとって、この命も健康も、日々の食べ物も、価値あることを為す力も、家族や友人の存在、信仰の兄弟姉妹との交わりも、全ては、それを受け取るに値しない罪人に対する神様の恵みです。私たちにとって、あって当たり前、受け取って当然のものではなく、感謝して受け取るべきものだということです。

さらに、イエス・キリストを信じる私たちは神様に愛される子とされ、永遠のいのちを受け取っています。他に何がなくても、これ以上の喜びがあるでしょうか。

 いつも喜ぶこと、すべてのことについて感謝すること。その喜びと感謝を神様と人に表すこと。それが、私たちにとって心の健康を保つ最上の方法なのです。

 二つ目は、心を通わせる話相手を持つことです。

 老いにおける苦しみの一つは孤独と言われます。孤独の寂しさを歌った句があります。

「一言もしゃべらぬ日あり 老い ひとり」(作者不詳)。

神様は、私達を心通わす交わりを通して生きる意味や喜びを覚えることのできる存在として創造されました。ですから、私たちはいくつになっても交わりを必要とし、求める気持ちを持っています。

 老いの時期、一般的に、男性は仕事を通じての人間関係が薄れてゆきます。女性も子育てなどを通して知り合った人々との関係が遠のいてゆきます。その点、私たちは教会において、心通わすことのできる友と、時には年代を超えて、出会うことができます。自分の殻から出て、相手に心を開き語ることで、交わりを作ることができるのです。

 さらに、聖書が「絶えず祈りなさい」と勧めているように、この世界を創造した神様は私たちの交わりの相手としてご自身を与えて下さいました。老いは、私たちが神様を信頼できる天の父として交わり、親しい友として語りあうことのできる時期であることを覚えたいのです。

 敬愛する敬老対象者の方々が、いつまでも心若々しく、自分らしく生きることができるよう心から願い、お勧めしたいと思います。

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