2016年8月28日日曜日

オバデア書1章12節~17節「一書説教 オバデア書~特別に扱われる~」


キリスト教信仰を持つ私たち。聖書は世界の創造主の言葉と知り、信じています。聖書を通して、神様の御心を知ることが出来る。自分がどのように生きるべきなのか知ることが出来ると信じています。毎日聖書を開き、聖書に従うことが最上と知っています。

 しかし、毎日聖書を開くことは、どれだけ難しいことでしょうか。聖書よりもテレビ、パソコン、スマートフォン。聖書よりも、家事、育児、学校、仕事、趣味。聖書が大事と頭で分かりつつも、実際には聖書以上に大切にしているものがある生き方となってしまう。聖書を読み、従うことの大切さを理解しながら、それでも継続して実行するのは難しいもの。さらに言うと、聖書を開くには開く、読むには読むことが出来たとして、その宝の宝たるゆえんを知りえているのか、心配になることもあります。

 この聖日、一堂に会して礼拝をささげる時。今一度、聖書を開き、聖書に従うことが、どれ程大切なことか、再確認したいと思います。聖書を読み、従う決意を新たにしたいと思います。聖書を読む時に、喜び、感動し、聖なる恐れを持ち、神様を賛美する思いを持つことが出来るように、皆で祈りたいと思います。

 

 私含め、愛する四日市キリスト教会が、聖書により親しむ者。聖書を大切にする教会として成長することを願いつつ、断続的に行ってきた一書説教。今日は三十一回目となり、旧約聖書第三十一の巻き、オバデヤ書を扱うことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進める恵みにあずかりたいと思います。

 

 オバデヤ書ですが、いくつか特徴を挙げることが出来ます。

大きな特徴の一つは、短さ。旧約聖書には三十九の書がありますが、最短、最小の書がオバデヤ書となります。旧約聖書という大海に浮かぶ小島。全一章の小著。読もうとすれば、あっという間に読める。試しに昨日時間を計って読んでみたところ、二分かかりませんでした。(蛇足ですが、新約聖書には一章だけの書が四つあります。ピレモン、Ⅱヨハネ、Ⅲヨハネ、ユダ。聖書全体で考えると、一章だけの書は五つです。)

 

 小さな書ですが、その内容は読みやすいものではなく、有名な聖句もなく、おそらく多くの人にとって馴染みのない書。なかなか親しみを持てない。馴染みにくいと感じる理由は大きく二つあると思うのですが、一つは預言者オバデヤがどのような人なのか分からないことです。

 一般的に、言葉は誰がどのような場面で使うのかによって意味が変わります。相手を侮辱しようとして「馬鹿!」と言うのか。自分の子どもが小さな失敗をし、あまりの可愛さに「馬鹿だなぁ」と言うのか。同じ「馬鹿」という言葉でも、誰がどのような場面で言ったのかによって、意味が正反対となることがあります。

 そのため預言書は、それを語った預言者がどのような人物で、どのような時代に、誰に向けて語ったのか。出来るだけ把握して読みたいところ。旧約聖書には、預言書は十七あり、その多くは、預言者のこと、その時代のことが分かります。ところが、今日扱うオバデヤ書は、預言者の情報はなく、時代を特定することも難しい。その書き出しは次のようなものです。

 オバデヤ1章1節

オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。『立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。』

 

 オバデヤとは、「主のしもべ」という意味。一般的な名前で、聖書の中に、十人以上のオバデヤが出てきます。しかし、この預言書を記したオバデヤが誰なのか。特定する情報が記されていません。名前がオバデヤというだけで、それ以上は分からない預言者。そのため、親しみが沸きづらいと言って良いでしょうか。

 

 もう一つ、オバデヤ書が馴染みづらい理由を挙げると、その預言の大半が、エドムについての預言となっていることです。聖書に記されている預言の多くは、南ユダか北イスラエルに語られているもの。神の民に対して、神様がどのようなお方なのか、神の民としてどのように生きるべきなのか。警告や叱責、慰めや励ましを与える言葉となります。近隣諸国に対する宣告が出てくる預言書もありますが、その場合も主な対象は南ユダか北イスラエル。まず神の民に語りかけ、加えて近隣諸国への預言となります。ところが、オバデヤ書の内容、その中心はエドムについての預言。エドムのことを知らないと、親しみが沸きづらいものとなる。

 オバデヤ書を読みましょうと勧める一書説教において、馴染みづらい、親しみづらい理由をいくつも挙げるのはどうかと思いつつ、しかしこれらのことがオバデヤ書の大きな特徴と言えます。

 

 それでは、オバデヤが主に語ったエドムとは、どのような国、どのような人たちでしょうか。エドム人の始祖にあたるのは、ヤコブの兄エサウです。エサウは、大事な長子の権利を、赤い煮物と交換してしまうという出来事に因み、「赤い」という別名がつけられましたが、この「赤」がエドムです。

 創世記25章29節~30節

さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。『どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。』それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。

 

 大事なものを食べ物と交換したという失敗談が名の由来となり、それが民族の名になるというのはひどいようにも思いますが、それはそれとして、そのエサウが力を持ち、民族がおこる。エサウとその子孫が、主な居住地としたのが、イスラエル地方からすると南に位置する場所。セイルとも呼ばれることもある山岳地帯です。豊かな土地であり、南北の交易の要所にして、自然の要害でもある。この地方、ここに住む人たちが、エドム、エドム人です。(エドムの領土に、テマンという有力都市があり、エドムを指してテマンと呼ぶこともあります。)

 つまりイスラエル民族からすると、エドム人は親戚筋。ところが、その歴史を見ますと、良い関係を持つことは出来ませんでした。出エジプトの際、エドムの領土を通過したいと願い出たイスラエルに対して、それを拒否したエドム。

 民数記20章14節、17節、18節

さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。『あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。・・・どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。』しかし、エドムはモーセに言った。『私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。』

 

 この出来事は両国に根深い溝を作り出すことになり、これ以降、敵対関係が続くことになります。サウル、ダビデの時代には争いが、ソロモンの時代にはイスラエルはエドムを支配します。その後も、敵対関係が続き、繰り返し争いが起こる。近くにいて、もとは兄弟でありながら、争いが続いた関係。残念な歴史。

 

 そのエドムに対して、オバデヤは何を語ったのでしょうか。中心は裁きの宣告。繰り返し、エドムは滅ぼされると告げられます。何故、エドムは滅ぼされなければならないのか。大きく二つの理由が述べられています。

 一つ目は高慢であるという理由。

 オバデヤ1章3節

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか。』と心のうちに言っている。

 

 悪には様々な種類があり、悪によっては周りにいる者が悲惨となるものがあります。殺人、姦淫、偽証など、悪を行うことで周りの人への被害が甚大となるものがあります。エドムの高慢という悪は、その住まいが自然の要害で、自分たちは安全であると考えたこと。この環境であれば、私たちは安全だと考えた。近隣諸国に対する悪ではなく、神様に対する高ぶりの問題です。

 聖書が与えられ、世界の創造主を知る神の民に対して、高慢の罪が糾弾されるのは分かります。しかし、これが神の民ではない、エドムに対する裁きの理由として出てくることに驚きます。

 この世界は神様が造られたもの。環境が人を生かすのではなく、創造主が世界を支え、人を守っている。その方を無視することは、大変な問題でした。とはいえ、神の民でない者たちは、そもそも、その神様を信じてないのです。神の民でない者たちの、神様に対する高ぶりの罪は、どれ程悪いものなのか。オバデヤ書によれば、それは国を滅ぼすほどの悪なのだと言われるのです。

 私たちの神様は、神抜きで大丈夫という高慢に対して、かくも厳しく対処されるお方。果たして私たちの神様に対する態度は大丈夫だろうかと考えさせられます。私たちが住む日本は大丈夫なのでしょうか。

 

 エドムが滅ぼされる理由。もう一つは、神の民に対する攻撃、あるいは神の民が攻撃された時、助けなかったことです。

 オバデヤ1章10節~11節

あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。

 

 エドムが神の民を攻撃したこと。あるいは、神の民が攻撃されていた時に、手助けをしなかったこと。それが裁きの原因として挙げられます。具体的にはどのような出来事が背景となっているのか。エルサレムが攻撃されたのは何度かあり、どの時かはっきりと確定させることは出来ませんが、エルサレムが攻撃されている最中、エドムが喜んだ姿は聖書の他の箇所に記されています。

 詩篇137篇7節

主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも。』と言ったエドムの子らを思い出してください。

 

 傍観しいるどころではない、エルサレムの滅亡を願い喜ぶ姿。このようなエドムの姿を理由に、裁きが宣告されます。これはつまり、神の民を攻撃することは甚だしい悪。いや攻撃だけでなく、神の民が困窮している時、助け出さないのも甚だしい悪。もし攻撃するなら、もし助け出さないなら、それは国が滅びる原因となるほどの悪だと言われるのです。

 私たちの神様は、神の民を特別に扱われる方。神の民を攻撃する、神の民を助け出さない時、かくも厳しく対処されるお方。そうだとすると、(私たち自身も神の民なのですが)私たちの神の民に対する態度は大丈夫でしょうか。与えられている教会の仲間を攻撃する、その苦難を喜ぶ、その困窮を見過ごす時、それは甚だしい悪と覚えるべきでした。

 

 オバデヤ書は、主に二つの原因。高慢の罪と、神の民に対する罪により、エドムに裁きがくだされると宣告することが中心。しかし後半に、それはエドムに限ることではない。全ての国に当てはまることであり、神様は悪に報いる方であること。しかし、神の民には、回復があるのだと宣言があり、閉じられていきます。

 以上のことを念頭に置きつつ、オバデヤ書の中心部分を読みたいと思います。

 

 オバデヤ1章12節~17節

あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、私の民の門に、はいるな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。

しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。

 

 以上、預言書の中でも一際異彩を放つ小著、オバデヤ書を確認してきました。最後に三つのことを確認して終わりにしたいと思います。聖書では、はっきりと、神様は神の民を特別に扱われると宣言されていました。

詩篇4篇3節

「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」

 

しかし、オバデヤ書の中心は、神の民ではない、エドムに対する宣告が中心でした。神様はご自分の民を特別に扱われる。それでは神の民以外はどうでも良いのかと言えば、決してそうではない。エドムの民にも、正しく生きることを願い、悪から離れるように、裁きに突き進む歩みをしないようにと預言者を遣わされている。聖書の中に、オバデヤ書があることを通して、まだ神の民に連なっていない者への神様の愛が示されていると受け取れます。この神様の愛によって、今や私たちのところにまで福音が届けられ、私たちも神の民に加えられたことを覚え、神様を賛美したいと思います。

 ところで、オバデヤの告げた主な対象はエドムの民ですが、これが聖書に記されているということは、この言葉はユダの人々も聞いていたことになります。ユダの人々にとって、オバデヤの言葉はどのように聞こえたでしょうか。自分たちを攻撃する者たち。あるいは自分たちが苦難の中にある時に、助け出さない者たちを、神様は見過ごさない。神様がその者たちを罰するという宣言。大きな励ましと、支えになる言葉として受けとめられる言葉。まさに、神の民は特別に扱われることを確認する宣言と読めます。

今日、エドムも、ユダを滅ぼしたバビロンも、残っていませんが、神の民は増え広がり続けていることを思うと、歴史を通してなされた、神の民に対する特別な恵みがあることを覚えて、神様を賛美したいと思います。

 もう一つ確認したいのは、このオバデヤの言葉を、今の私たちはどのように受け取るのか、ということです。高慢になることを避け、神様の前でへりくだること。自分自身、神の民とされ、特別な恵みの中で生かされていることを覚え、感謝すること。それと同時に、自分の周りにも多くの神の民がいることを覚えること。神様は、神の民を特別に扱われる。私たちの周りにいる人は、キリストがご自身の命を投げ出す程に愛している存在。その者たちに、私たちはどのように接するのか。真剣に考えたいと思います。

 是非とも、自分自身で聖書を開き、オバデヤ書を読み通すこと。神様がどのようなお方で、その方の前で、どのように生きるべきなのか、真剣に考えることが出来ますように。私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う歩みに取り組みたいと思います

2016年8月21日日曜日

マタイの福音書6章5節~8節「山上の説教(22)~祈るときには~」


犬は走りたいから走り、鳥は歌いたいから歌う。生き物の行動はごく自然です。それに対して、何事においても人の眼、周りの眼を気にするのが私たち人間と言う生き物です。

私たちから見ると、余りにも女性に対して不公平で辛辣すぎると感じますが、ヘシオドスが書き残したギリシャ神話では、最初の女性パンドラは災いの基としてゼウスから人類に与えられたとされます。パンドラはあらゆる良い物を与えられながら、人の目を意識して殊更に美しい服を身に着ける虚栄心の塊として登場するのです。

しかし、虚栄心は女性の専売特許ではありません。男性も虚栄心を持っています。森鴎外と言えば、日本の歴史に残る文豪として有名です。鴎外は作家としてだけでなく、軍医としても有能で、陸軍の軍医としてトップの地位に昇りつめました。

それにもかかわらず、故郷津和野にある墓には、本名の森林太郎と彫られているのみ。戒名はもちろんのこと、所謂作家とか軍医とか、この世での地位や栄誉に関することばは一つも刻まれていません。一般的には、鴎外がこの世の地位や栄誉に関心がなかったことのしるしと考えられています。しかし、逆にその墓こそ、自分がいかに虚栄心のない者であるかを殊更に示すためのパフォーマンス。死後も人の目に自分がどう見えるかを気にした行動ではなかったかと評する人もいます。

勿論、事の真相は分かりませんし、そこまでうがった見方をしなくてもと、鴎外に同情したくもなりますが、私たち人間がどれほど人目を意識し、人の目に捕らわれて生きているものであるかを改めて感じさせるエピソードでもあります。やり方、方法は違っても、女性も男性も、小さな子どもも青年も老人も、誰もが持っている人の目に良い格好をしたいと言う思いを持っている。全ての人が逃れられない心の病。それが虚栄心と言えるかもしれません。

イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教を読み進めて今日は22回目。先回からマタイの福音書6章に入りました。山上の説教は6章から新しい段落となりますが、ここで5章の流れを振り返ってみます。

先ずイエス様は「~する人は幸いです」と言う共通のことばで始まる八つの教え、所謂八福の教えを語りました。そこにはイエス様を信じる者の姿が八つの側面から描かれています。

次いで、イエス様は私たちを地の塩、世の光と呼び、この世におけるクリスチャンの役割を教えられました。さらに、旧約聖書の律法、神様が定めたルールの真の意味を示し、兄弟を愛すること、配偶者を生涯愛し続けること、自分の敵をも愛することを教えられました。

律法の要である隣人愛こそ、天の御国の民にふさわしい義しい生き方であることを説き明かされたのです。

そして、6章。この6章のテーマの一つは、神様の目を意識して生きることと言われ、それは冒頭のことばによって示されています。

 

6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」

 

イエス様を信じる者、天の御国の民は人の目ではなく、神様の目を意識して生きよと勧めておられます。そのことを教える具体例として取り上げられるのが、イエス様の時代、人々が非常に重んじていた善行、施し、祈り、断食です。先回は施しについて考えましたから、今日は祈りとなります。

そして、前回同様、イエス様が触れているのは当時最も宗教的で義しい人として尊敬されていた律法学者パリサイ人の祈る姿でした。この実例を通して、私たちも自分の祈りが神様を意識してのものなのか、人の目を意識してのものなのかを問われることになります。

 

6:5、6 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 

その頃、ユダヤの人々が神様に祈りをささげる時間は朝九時、正午、午後三時の、一日三回と決まっていました。その時間が来たら人々はどこにいても祈ることが求められていたのです。しかし、中には祈りの時間になると、わざわざ人々が集まる会堂や通りの四つ角に足を運ぶ者たちがいました。彼らはそこで両手を天に上げ、頭を垂れて朗々とした声で祈り、周りの人々の注目と関心を集めていたらしいのです。

それが、律法学者パリサイ人であり、彼らのことをイエス様は偽善者と呼び、厳しく批判しました。この様な人はすでに人々の注目と賞賛と言う報いを受け取っているので、神様からの報いは受けられないと戒めておられるのです。

それでは、私たちイエス様を信じる者、天の御国の民はどう祈るべきなのでしょうか。「自分の奥まった部屋に入り、隠れたところにおられる天の父に祈れ」と命じられています。奥まった部屋とは文字通りの部屋、個室でなくても良いでしょう。どこであろうと私たちが人の眼ではなく、神様の眼だけを意識できる場所と時間、神様と一対一になれる場所と時間を選ぶことを、イエス様は勧めておられます。

イエス様ご自身も、この様な祈りを非常に大切にしておられました。

 

マルコ1:35~37「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。」

 

「朝早く暗いうちに起きて、寂しい所に行き、祈られた」とあります。日が昇れば癒しを求めて人々が押し寄せてくることが分かっていますから、早朝と言う時間を選ぶ。親しい弟子たちからも離れて、一人天の父と交わることのできる場所に行く。こうした時間が、イエス様の活動にどれほど大きな影響を与えていたか。その魂をどれほど養ったことか。イエス様がこうした時間と場所を確保するために、いかに努めていたか。私たちも倣うべき祈りの姿勢がここにありました。

しかし、祈りに関する注意は律法学者パリサイ人の祈り方だけではなかったのです。異邦人つまり聖書の神様を知らない人々の祈り方についても、イエス様は戒めておられます。

 

6:7、8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈りに繰り返しがあること自体がいけないと言うのではありません。イエス様ご自身、ゲッセマネの園で同じ祈りを三度繰り返したとあります。また、長い祈りそれ自体がだめだと言うのでもないでしょう。イエス様ご自身が弟子を選ぶ時徹夜で祈られたとありますし、初代教会の兄弟姉妹も、捕らわれた同信の友の救出のため徹夜で祈ったことが聖書に記録されています。キリスト教の歴史に名を記される神の人たちは、人生の多くを祈りに費やしてきました。

イエス様が問題にしているのは繰り返し祈る動機、長く祈る動機です。同じ祈りを繰り返すことで、神様に願いを聞いてもらえるのではないか。長く祈れば祈るほどに、自分の思いは叶えられるのではないか。その様な動機による祈りをイエス様は戒めているのです。

これは私たちにも思い当たること、私たちの心の奥にも潜む動機ではないかと思います。この様な動機で祈る時、私たちは神様からの恵み、祝福、日本的な表現を使えばご利益を得る方法として祈りを使っていることになります。つまり、「これぐらい繰り返し祈ったのだから、これほど長く祈り続けたのだから、恵みをいただけるでしょうね」と考える者にとって、祈りは神様との取引の手段。その様な場合、私たちの関心は与えられる恵みのみ向き、恵みの与え手である神様ご自身には向いていないのです。

例えるなら、お父さんが働いて持ってくるお金には関心があっても、お父さんの労苦、どのような思いでお父さんが働いたのかには関心がない子供がいたとしたら、どうでしょう。お母さんが作ってくれるごはんやおやつには関心があっても、作り手であるお母さんに心を向けない子どもがいたとしたらどうでしょうか。お父さんお母さんに対して非常に失礼な子ども、恩知らずの子どもと言うことにならないでしょうか。

「あなたがたは神様の子どもであるのに、神様に対して失礼で、恩知らずの子ども様な祈りをしてはいませんか。」ここで、イエス様は私たちにそう問いかけているのです。果たして神様に祈る際、自分の心に潜む動機は何であったか。何であるのか。一人一人振り返りたいところです。

ですから、続くイエス様のことばは、神様を恵みの取引相手と考えるのではなく、あなた方を子として愛してやまない天の父と思って祈るようにと勧めています。

 

6:8「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈る際最も重要なのは、神様が私たちの父であることを自覚すること。これがイエス様のメッセージです。神様は私たちのことを何でも知っていてくださる。何かを求める前から、私たちに必要な物を知っておられる。人間の父親が子を見守り、世話をし、気を配っているように、神様はイエス・キリストを信じる全ての者を見守り、世話をし、配慮を尽くし、私たちの必要に最善のもので応えようと考えているておられる。この世界を創造し、世界の歴史を導く全能の神様が、私たちの父であり、私たち一人一人の幸いを心から願って、祈りに応えようとしておられる。果たして、このことをどれほど知り、どれ程自覚し、感謝して、私たちは祈りに臨んでいるでしょうか。

天の父としての神様の眼を意識して祈る者、いや祈りだけでなく、食べること、眠ること、仕事、学び、奉仕などすべてのことを、私たちを子として愛し、祝福し、報いようとしておられる神様の眼を意識して行う者でありたいと思います。

最後に、二つのことを確認しておきたいと思います。

ひとつは、祈りは私たちがそれを条件にして神様の恵みを受けるための功績ではないと言うことです。ことばを代えて言うなら、私たちが祈りを繰り返しても繰り返さなくとも、長く祈ろうとも短くとも、毎日祈る者にもそうでない者にも、神様の愛は変わりなく注がれていると言うことです。

私たちは祈りを重要なものと考えています。だから祈ります。少なくとも祈ろうと努めます。しかし、厄介なことに、私たちの中にある罪の性質は祈れば祈るほど、祈る自分を意識し、祈る自分を誇るようになるのです。愛する神様と交わることよりも、自分がどれほど祈ったのかに関心が向いてしまうのです。神様ご自身よりも、神様が与えて下さる恵みの方を慕い求める心に傾いてゆくのです。

イエス様はこの様な性質によくよく注意するよう勧めています。ですから、私たちは祈りの相手として神様がおられること、その神様が私たちのことをすべて知りたもう、天の父であることに感謝したいのです。神様を天の父と信頼して祈れること自体が恵みであることを覚え、祈りに親しみ、祈りの時を楽しむことを目指したいと思います。

二つ目は、祈るか祈らないかによって神様の愛は変わらないことを確認した上でですが、祈りは私たちの信仰の歩みに大きな影響を与えると言うことです。

イエス・キリストを信じた者は神様の子ども。私たちはイエス様を信じた時、神様と父と子の関係に入りました。しかし、神様と本当に親しい父と子の関係になれるかどうかは、私たちがどれほど祈りに取り組むかに関係があります。

よく祈りは、神様との会話と言われます。法律上は親子であっても、親と会話しない子どもが親に親しみ、親の愛を感じることは難しいでしょう。同様に、私たちも祈らなければ、神様に親しみ、神様がともにいてくださる自覚も深まることはないと思います。

繰り返しますが、イエス様は今日の個所で祈ることを禁じているのではありません。パリサイ人の様な動機で祈ること、異邦人の様な祈り方を戒めているのです。ですから、私たちは祈りに取り組むべきです。祈りを通して神様を慕い求め、神様の目を意識した歩みを進めるべきなのです。

私たちが生きる現代は日常生活を離れ、神様と一対一になれる場所と時間を選ぶことが難しい時代かもしれません。深夜に及ぶ仕事、スケジュールに追われる生活、疲れ切った心や体。この様な状況で祈りの時間を確保することは誰にとっても難しいこと。祈れなくてもやむを得ない状況と思われます。

むしろ、考えるべきは仕事やスケジュール、睡眠など削れない時間ではなく、それ等以外の時間の使い方ではないかと思います。携帯電話、テレビ等にどれ程時間を取られているのか。私たちが日常生活から離れ、神様との一対一の交わりに入るのを妨げてる物は何なのか。よく考えたうえで、祈りの場所と時間を選び、確保することに皆で努めたいと思うのです。今日の聖句です。

 

Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

2016年8月14日日曜日

マタイの福音書16章21節~26節「命の使い方」


「世の中には二種類の人間がいる。〇〇な人間と、〇〇な人間だ。」という言い回しを聞いたことはあるでしょうか。「世の中には二種類の人間がいる。勇気のある人間と、勇気のない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。音楽の分かる人間と、分からない人間だ」など。特別なことでなくても、「世の中には二種類の人間がいる」という言葉で、続く言葉に注目させる言い回しです。

 今日の聖書箇所、「世の中には二種類の人間がいる」という表現は出て来ませんが、内容としては、人間はどちらかに分かれるのだと教えるもの。敢えてこの表現を使うならば、「世の中には二種類の人間がいる。いのちを救おうと思い失う者と、キリストのためにいのちを失いながらもそれを見いだす者」と言えるでしょうか。

 いのちを救おうとしてそれを失う者か、いのちを失いながらそれを救う者か。どちらかしかない。私たちは、そのどちらの者となるのか。どちらの生き方をしたいのか。決めないといけない。神様に与えられた命を、どのように使うのか。今日の箇所から、皆様とともに考えていきたいと思います。

 

マタイ16章25節

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

 

有名な言葉ですが、逆説的で難解。よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉。果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。

 

この言葉。マタイの福音書に沿って言えば、有名な場面で語られた言葉となっています。

 マタイ16章13節~16節

「さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』」

 

 イエス・キリストの公生涯、救い主としての歩みをされたのは約三年半。その救い主の歩みの中で、このピリポ・カイザリアの出来事は、重要な転換期の場面となります。

これまで様々な奇跡を行い、多くの説教をなしてきた。この頃には、主イエスに対する世間の反響を聞くに十分な下地が出来た。頃合いや良しと見て、イエス様は弟子たちに聞きます。「人々は私のことを誰だと言っているのか。」

 「イエスを誰とするのか。」これは非常に重要な問いです。人間はこの問いを前に、どのように答えるのかで、その人生が決まる。私たちも、「イエスとは誰か」との問いには、心して答えるべきでしょう。

 

それはそれとしまして、当時の群集はどのように思っていたのか。これまでの活動からすれば、優れた教師、偉大な説教家、病人を癒す名医、あるいはローマの支配から解放してくれる王などなど、色々な答えが出て来そうなところ。弟子たちも、あの人がこう言っていた、この人がこう言っていたと思い出しながら、バプテスマのヨハネという声があります。エリヤだという人もいました。エレミヤだという人も、預言者ではなかろうかとの噂もあります、と答えていきます。

 当時の群集は、イエスを普通の人ではないと思っていた。イエスのところに押し寄せ、耳を傾け、熱狂する。しかし、昔の預言者の再来か、殉教したバプテスマのヨハネの力があるのか、新たな預言者なのかはともかく、預言者という理解が精一杯。イエス様を指して約束の救い主とする声は聞こえていなかった。

 

 そこでもう一つの問いが発せられるのです。「では、あなたがたはわたしをだれだと言うのか。」「群集は良いとして、私とともに過ごしているあなたがたは、わたしを誰だと言うのですか。」弟子たちは何と言うのか、緊張の場面。

この問いに答えたのは、一番弟子とも言えるペテロで「あなたはキリストです。」と告白します。福音書の中には、主イエスの弟子として、ふがいなく見える姿がいくつも出てくるペテロですが、ここにこれ以上ない神聖な告白をします。あなたは預言者ではありません。約束の救い主、キリストです、との告白。

 イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたでしょうか。この告白を聞くために、救い主としての歩みをされてきたのです。これまでの経験を経て、ペテロを始め弟子たちはイエスを「キリスト」、約束の救い主であるということは理解した、信じるに至った。大変感謝なことでした。

 

 イエスが約束の救い主である、キリストであるという告白は素晴らしいもの。しかし、それでは約束の救い主とは何か。キリストとは何か。イエスがキリストであるとするならば、この後、どのような歩みを送ることになるのか。ここにきて、イエス様がはっきりと言われるのです。

 

 マタイ16章21節

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」

 

 キリストとは何か。約束の救い主の歩みとは何か。多くの苦しみを受け、宗教的指導者から捨てられ、殺される。その後、三日後によみがえる。これがキリストの歩みであると明確に教えられた場面。「あなたがたの言う通り、わたしは神のキリストです。そのキリストであるわたしは、苦しめられ、捨てられ、殺されなければならない。」弟子たちが、この方こそキリストと理解したからこその説明でした。

(これ以降、十字架での死へと向かっていくという点で、このピリポ・カイザリアの出来事はイエス様の生涯の中でも転換期となるのです。)

 

 ところで何故、キリストは殺されなければならないのか。私たちの罪を身代わりに背負い、死なれるためです。「命の使い方」という視点で考えますと、主イエスの命の使い方は驚くべきものです。命を自分のために使わない。父なる神に与えられた使命のために。私たちを救うために命を使われる方。私たちは、イエス様のこの命の使い方の結果、救われたのです。

 ところが、このイエス様の「命の使い方」に「それはない」と言う者が現れます。驚くことに、つい先ほど、素晴らしい告白をしたペテロが主イエスをいさめたというのです。

 

 マタイ16章22節

「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」

 

 ペテロは、イエス様が約束の救い主であるという信仰は持っていました。しかし、その約束の救い主が苦しみの中で死ななければならないということは理解していなかった。「あなたはキリストでしょう。それが苦しめられるとか、捨てられるとか、そんな不吉なことを。しかも、殺されるなんて。めったなことを言うものではありませんよ」との発言。

目の前にいるのが約束の救い主であれば、その言葉がどのようなものであっても、受けとめるべきでした。しかし、それが出来なかった。直前に「あなたはキリストです」と告白しながら、その直後にキリストをいさめ始めた。ペテロらしいとも言えますが残念な姿です。

 ところで、この時のペテロは、信仰を失っていたわけではありません。むしろ、善意というか、熱意というか、イエス様を思ってこそ、「苦しみ、捨てられ、死ななければならない」との言葉に、「そんなことはない」と声を上げたのです。

 何故、ペテロはイエス様の思いが分からなかったのでしょうか。それは、主イエスの命の使い方。自分のために生きるのではない。人のために命を使う。その命の使い方は思いもしなかった。それこそ、救い主の生き方であると思えなかったのです。

 

 このペテロに対して、イエス様より痛烈な言葉が響くのです。

 マタイ16章23節

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

 

「下がれ、サタン」とこれ以上ない程、強烈な言葉。「あなたはキリストです。」と神聖な告白をしたペテロが、その直後に「下がれ、サタン」と言われる。ピリポ・カイザリアにおける大事件です。

 ペテロの思い、イエス様を思ってこその発言ということは、誰より主イエスがご存知だったはずです。それを「下がれ、サタン」と非常に強い叱責の言葉。何故イエス様は、これ程強い言葉で、ペテロを叱責したのでしょうか。

イエス様はここで、救い主である自分は死ぬと宣言されました。それはつまり、罪人の身代わりに死ぬことを意味しています。ペテロは、善意に基づいて発言したとしても、あなたのために死にますと宣言されたイエス様に対して、そんなことはないといさめたことになります。

 罪人の身代わりとして死ぬと宣言された救い主に対して、そんなことはないといさめた。仮にペテロの言う通り、キリストが死ぬことがなかったとしたら。ペテロ自身は自分の罪のために裁きを受ける存在となる。キリストが死ななければ、ペテロは永遠の苦しみを味わうことになるのです。つまり、自覚はなかったと思いますが、この時ペテロは、自分の滅びを願っていたことになります。

 そのペテロに対して「下がれ、サタン」と言われたイエス様。それはつまり、わたしはあなたのために死ななければならない。あなたのために死ぬ覚悟をしている。その邪魔をするな、という意味です。「下がれ、サタン」という強烈な叱責の言葉は、どうしてもあなたを救いたいのだという強烈な愛の言葉でもあったと読めます。

 

 ペテロの「あなたはキリストです。」との告白を受け、キリストとは罪人のために死ぬものだと話しを進め、本当にそのためにいのちを捨てようとされるイエス様。このようなやりとりの後に語られたのが、例の難解と思える言葉です。

 マタイ16章24節~26節

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」

 

 「いのちを救おうとする者はそれを失い」「いのちを失うものはそれを見いだす」。これは何も一般論、一般的な格言として語られたわけではありません。

(一般論として、この聖句と似た言葉を言ったとされる人で、ギリシャ人クセノフォンがいます。その意味は、戦において、何としてでも生きようとする者は大抵は死ぬことになり、ひたすら見事な最後を遂げようと志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれるというもの。決死の覚悟で戦に臨めという意味です。主イエスはこのような意味で、この言葉を語ったわけではありません。)

聖書は、いのちは尊いものであり、私たちも自分のいのちを守るように教えられています。いのちを危険に晒すことは避けるべきであり、心も体も健康であるように、自分の出来ることに取り組むのは聖書的です。自分のいのちを大切にするという意味で「いのちを救おう」とすることは、正しいこと。このイエス様の言葉をもって、自分のいのちを守る努力はすべきでないと考えるのは間違いでしょう。

 

それでは、このイエス様の言葉はどのような意味なのか。主イエスはまず、ご自身の歩まれる道を提示しました。それはまさに、自分のいのちを救う道ではなく、罪人を救うためにいのちを失う道。それが、救い主の歩む道でした。続けて、目の前の弟子たち、そして私たちキリストを信じる者の歩むべき道を示されました。

「わたしは約束の救い主として、罪人のために、あなたがたのためにいのちを捨てます。しかし、それはわたしだけの生き方ではない。わたしに従いたいと願う者。私に従うあなたがたも、同じ様に生きるのですよ。自分のいのちは、自分のものではないこと。その所有権は神様にあること。自分のために命を使うのではなく、わたしのために、福音のためにいのちを用いるように。」との勧めです。

このイエス様の願い、勧めに私たちはどのように応えるでしょうか。

 

 本来、神様を愛し、隣人に仕えるために与えられた命。ところが私たちは私たちの創造主を無視して生きることを選び、その結果、与えられた命を自分のために使うようになりました。罪の中での命の使い方、それは自分のために命を使うというもの。罪の悲惨の一つのあらわれ方は、命の使い方が分からなくなるというものです。

 そのような私たちに、キリストは命の使い方を教えて下さいました。それも、ご自身がお手本となって、あるべき命の使い方を示して下さいました。しかし、イエス様の罪人のために自分の命を使うという生き方は、ただお手本というだけでなく、私たちが正しく命を使うことが出来るように、私たちを救い出す働きでもありました。イエス様は私たちの教師というだけでなく救い主なのです。

 

 今朝、この礼拝の中で、今一度自分の命の使い方について、真剣に考えたいと思います。これまでどのように命を使ってきたのか。これから、どのように命を使うつもりなのか。

 あるべき命の使い方を、キリストが教えて下さいました。自分のために生きるのではない。神様のために、隣人のために生きること。しかし、それでは具体的に、自分はどのように生きるのか。今日を、明日を、この一週間、具体的にどのように生きるのか、真剣に考えたいと思います。

 同時に、そもそも自分自身には、正しい命の使い方は出来ないことを認めること。イエス様の救いの御業によって、罪から解放されることによって、本当の意味で正しく命を使えるようになることも覚えることが出来ますように。イエス・キリストに対する信頼と、私たち自身の決意と、神様が祝福して下さいまして、この一週間、私たち皆であるべき命の使い方に取り組むことが出来るように祈りつつ礼拝を続けていきます。

2016年8月7日日曜日

マタイの福音書6章1節~4節「山上の説教(21)~天からの報い~」


ある国に、新しい服が大好きでおしゃれな王様がいました。ある日、お城に一流の仕立て屋を名乗る二人の男がやって来ます。彼らは「バカの目には見えない不思議な服」を作る事ができると言う怪しげなことを触れ込みますが、王様は喜んで大金を支払い、彼らに新しい服を注文しました。

その後、職人たちの仕事ぶりを見にやってきたのが家来たち。彼らの目には仕立て屋が忙しく縫ったり切ったりしている動作は見えますが、肝心の服は見えません。しかし、「バカには見えない服」ですから見えないとは口にできず、仕事は順調ですと王様に報告しました。

やがて、仕立て屋が服の完成を告げたので、王様が家来たちとともに仕事場に乗り込みます。けれども、「バカには見えない服」は王様の目にもさっぱり見えない。王様は非常にうろたえますが、家来達が見えたと言う服が自分に見えないとは言えず、服の出来栄えを賞賛すると、家来たちも調子を合わせて「王様の服はすばらしい」と褒める。

完成を記念して行われたパレードでも、人々は自分がバカと思われるのを憚り、歓呼して服を誉めそやしました。その中で、沿道にいた一人の小さな子どもが「王様は裸だ。服なんか着ていない」と叫びますが、行進は続いてゆく。

ご存じ、アンデルセンの童話「裸の王様」です。王様や同僚の目を気にして「服が見えない」と口にできない家来たち。家来たちの目が気になって、真実を言えない王様。それに対して、人の目が気にならない天真爛漫な子どもだけは「王様は裸、新しい服等見えない」と言うことができた。

いかに、私たち人間が人の目を気にして行動する存在か。周りの人の目に影響されて考え、行動する生き物か。人間だけが持つ虚栄心と言う心の病気が描かれた有名なお話です。

皆様はあることを為す時、どれ程人の目を気にするでしょうか。人の目を気にするタイプでしょうか。それとも、余り気にならないタイプでしょうか。何をする時、人の目が気になるでしょうか。考え行動する時、人の目を意識することと神様の意識すること、どちらが多いでしょうか。

イエス・キリストが故郷のガリラヤの山で語られた説教。山上の説教を読み進めて今日は21回目。マタイの福音書5章を終えて6章に入ります。山上の説教は6章から新しい段落となりますが、ここで、簡単にこれまでの流れを振り返ってみます。

先ずイエス様は「~する人は幸いです」と言う共通のことばで始まる八つの教え、所謂八福の教えを語りました。そこには、イエス様を信じて天の御国の民となった者の姿が八つの側面から描かれています。

次いで、イエス様は私たちを地の塩、世の光と呼び、この世におけるクリスチャンの役割を教えられました。そして、旧約聖書の律法、神様が定めたルールの真の意味を示し、兄弟を愛すること、配偶者を生涯愛し続けること、自分の敵をも愛することを教えられました。

律法の要である隣人愛を説かれたのです。

そして、今日の6章。この6章のテーマの一つは、神様の目を意識して生きることと言われます。

6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」

 

私たちクリスチャン、天の御国の民とは人の目ではなく、神様の目を意識して生きる者と言うことになるでしょうか。勿論、日常生活において適度に人の目を意識することは必要なことです。人に対する配慮、心遣いとして、人目を意識することが必要な場合もあると思います。しかし、人の目を気にしすぎることは虚栄心と失望を繰り返す歩みを生みます。人の目が私たちの考えや行動を縛る人生。自分らしく考え、行動することのできない人生です。

けれども、人の目を意識すべき場合、人の目を意識すべきではない場合。この塩梅が非常に難しく、悩んでしまうと言うことが人生にはあるように思われます。人の目を意識して善い行いを為し、これが周りに認められたら自慢したくなる。認められなければ、落胆、失望。悪くすれば自分に報いてくれない人、認めてくれない周りを責め始める。

この様な生き方から解放されるためには、あなた方の天の父、神様からの報いに意識を向けて歩むこと、それがイエス様のメッセージでした。

先ずは、その具体例として施しが取り上げられます。

 

6:2「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

 

イエス様の時代、人々から最も重んじられていた善行は施し、祈り、断食でした。これらは、聖書の至る所で勧められている善行でもあります。一例をあげれば、旧約聖書にはこうあります。

 

申命記15:7、10「あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。…また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、【主】は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。」

 

神様が私たちの仕事を守り、経済的に祝福してくださるのは、貧しい兄弟に施しをするためと教えられています。人々が必要な時に助けの手を差し伸べ、金銭時間労働など、何であれ人々の助けになるものを与える施しを、どれ程神様が重んじているかが伝わってきます。

ですから、イエス様が禁じているのは施しそのものではありません。そこに入り込む偽善、虚栄心に注意せよと言われるのです。「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者」とは、律法学者パリサイ人を指します。「ラッパを吹く」とは、人々に自分の施しを言い触らしたり、示したりすることを絵画的に表現したものです。

繰り返しますが、施しは私たちクリスチャン、天の御国の民にとって励むべきわざです。しかし、人の目、人の評判を意識して施しを行うような間違った態度、間違った動機を、イエス様は戒めていました。この様な態度、動機で施しを重ねてゆくなら、私たちの生き方は人々の目に縛られ、神様からは離れ行くと警告しているのです。

それでは、正しい施しとはどのようなものか。イエス様はこう教えています。

 

6:3、4a「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。」

 

前の節で、人の目を意識した施しを禁じたイエス様が、ここでは「右の手のしていることを左の手に知られないように」、つまり、私たちが行う施しを私たち自身が意識せぬよう命じています。自分の善行を人々の目からも、自分の目からも隠すようにという勧めでした。

心の中はどうあれ、自分の施しを言い触らさないこと、人に知らせいないことはそれ程難しいことではないかもしれません。礼儀をわきまえている人なら自己宣伝を退け、その様な思いと行動を戒める心を持つ人も多いのではないでしょうか。

しかし、施しをする自分を意識しないこと、施しを宣伝しなかった自分を誇らないでいることは、非常に難しいのではないかと思います。もし、施しをし終えた時、「よし、やった。このことは誰にも知らせなかった」と満足するなら、それこそ、右の手がしていることを左の手に知らせることだからです。

何故、イエス様はこれ程、施しと言う善行を他人の目からも、自分自身の目からも隠す様に勧めているのでしょうか。それは、自分への関心が心の中心にある人生。それがいかに悲惨なものかを分かっておられたからです。

神様に背いた私たち人間の生活の中心にあるもの。それは自分です。自分の利益、自分の満足、自分の喜びを常に気にし、いつも求めることです。ある心理学者の説によると、私たちが一日考えていることの内、90%以上は自分のことだそうです。

施しの様な善行によって人々から注目され、評判を得ることは自己満足であり、喜び。しかし、それが得られなければ自己憐憫、自分への失望。どちらにしても、一番大切なのは常に自分と言うことです。

この様な生き方がいかに悲惨なものか、分るでしょうか。自分への関心が心の中心にある人生、人の目に縛られた人生と言うものが、いかに不自由で、思い煩いに満ちたものであるか。私たちは、まずこのことをイエス様に教えられたいと思うのです。

それでは、最後にこの様な生き方から解放される道を、イエス様が示されたことばから見ておきたいと思います。

 

6:4b「…そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 

私たちのことを我が子の様に愛し、大切に思って下さる神様。イエス・キリストをこの世に送り、十字架の木につけ、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さることで、その測り知れない愛を示してくださった神様。この天の父の目を意識して生きること、この神様の報いを信じ、常にそれを目指して善い行いに励むこと。これこそ、私たちを本当に人の目から解放してくれる道と、イエス様は語っておられるのです。

イエス様の勧めのとおり生きた人々が、どのような報いを受けるのか。マタイの福音書25章を見てみたいと思います。

 

25:31~40「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

 

空腹な者に食べ物を与え、渇く者に一杯の水を恵み、旅人に宿を貸し、裸の者に着物を与え、病人を見舞い,牢にいる者を尋ねる。

私たちが天の父の目を意識してなした施し。神様の報いを信じて励んだ善行。たとえそれがどれほど小さなものであっても、神様は忘れない。全てを記録し、全てに報いてくださる。私たちはいつも、何をしていても、この様な神様の目の前にいることを覚えたいのです。

私たちの信仰の先輩、プロテスタントの宗教改革者たちのスローガンは、「栄光は神に。失敗は我に」でした。もし、私たちが施しを為すことができたら、「神様、この様な善き行いを為す力を与えてくださり、感謝します」と、神様に心を向ける。もし、善き行いをなすことができなかったら、神様の前で自分の課題を考え、自分を変えてゆくように努める。善き行いができたら自分の力と自慢する。失敗すれば、神を責め、周りの人を責める。その様な自己中心の生き方とは全く違う天の御国の民、神様の子どもとしての人生観が、ここには示されています。

この地上で人々から受け取る報いにではなく、いつでも、何をしていても、天の父の報いに心を向け、意識する。「栄光は神に。失敗は我に」。私たち皆がこの様な生き方を目指したいと思います。今日の聖句です。

 

コロサイ3:2「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを求めなさい。」