2016年10月30日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(26)~御国が来ますように~」


先週土曜日から、私たちの教会ではカウンセリング研修会が始まりました。昨年度に続いて講師を務めてくださる後藤先生が面白い話をして下さいましたので、ちょっと紹介したいと思います。

ある年の正月、先生は東京にある明治神宮に出かけました。毎年20万人とも30万人とも言われる参拝客で賑わう有名な神社の様子を見てみたかったのだそうです。そこで、初詣に来た何人かの人に「ここに祭られているのが誰か、知っていますか」と質問すると、皆が「知らない」と答えたそうです。さらに、「この神社に祭られているのは明治天皇ですが、あなたは明治天皇が願い事を実現することができると信じていますか」と尋ねると、人々は「分からない」「信じられない」と答えたと言うのです。

「鰯の頭も信心から」と言うことばもある様に、日本人は祈る相手が誰か、信じる神様がどのようなお方であるのかを余り気にしない。祈りの対象、信じる対象が誰であるかよりも、とにかく自分が熱心に祈ること、自分が心から信じることを大切にする宗教性を持っているのではないか。そういうお話でした。

日本人は「真心」とか「心を込めて」と言うことばが好きだと言われます。確かに「人の真心は天にも通じる」とか「心を込めて祈ればきっと願いは叶う」等と聞くと、何か説得力を感じたりもします。しかし、よく考えてみますと、私たちは良く知らない神に心からの祈りをささげることができるでしょうか。そのご性質やお働き、私たちのことをどう思っているのか分からない神を信頼したり、自分の深い思いや願いを語ることができるでしょうか。

今イエス様が弟子たちに教えた祈り、主の祈りを学んでいます。主の祈りによって、本来の祈りとは何かを私たちは教えられるのです。これまで教えられたのは、イエス様を救い主として信じる者には、この世界を創造した神様が祈りの相手として与えられること、神様に心からの信頼を込めて「天の父」と語りかけられること。私たちには、信頼して祈れる神様と神様との親しい関係という、二つの恵みが与えられたということです。

祈るべき神様がどのようなお方か知っている恵み。私たちの必要を知り、私たちを子として愛してくださる神様に祈り、神様と交わることのできる恵み。皆様はこの恵みをどれ程自覚しているでしょうか。

これを踏まえた上で、先回は、主の祈りの第一の祈願「御名があがめられますように」を考えました。祈りと言えば、自分の必要や願いから始めてそれで終わりがちな人間。神様が主ではなく、神様を自分の必要を満たし、自分の願いを叶えるしもべの様に考えてしまいやすいのが私たち人間です。イエス様はその様な私たちの性質を戒め、先ず私たちが御名、つまり神様のご性質やお働きを知ること、神様のすばらしさが、そのまま人々に認められ、敬われ、賛美されることから祈り始めよと命じられました。

しかし、今の世界において、神様の御名はあがめられてはいません。反対に無視され、汚されています。大自然の災害や耐えがたい不幸に直面すると、「神がいるなら、どうしてこのようなことが起こるのか」と不満の声をあげます。物事が上手くゆかないと「ジーザズクライスト、こんちくしょう」と叫んで、自分の問題は棚上げ、責任を神様に転嫁しようとします。神様の存在やそのお働きはあがめられるどころか侮られ、無視されていると言うのが、イエス様の昔も今も変わらない世界の現実です。

この様な世界で、神様があがめられることを真に願うのであれば、神の御国の実現を求めることが必要になる。こう考えたイエス様は、私たちを第二の祈願に導かれます。

 

6:9~13「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 

「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけの後に、六つの祈りが続きます。前半は御名、御国、みこころと神様のことを覚えての祈り。後半は日ごとの糧、負い目即ち罪の赦し、悪から救いと、私たちの必要のための祈りとなっています。

今日注目したいのは、第二の祈願「御国が来ますように」です。ここで御国と訳されていることばは、聖書の他の個所では神の国となっています。当時ユダヤ人は神様の名を直接口にすることを畏れた為神の国とは言わず、御国と呼ぶのが習慣だったようです。

この一語で、私たちは神様が王であること、神様はご自分が支配する国を持っておられることを告白しています。しかし、今世界地図のどこを探しても、神の国と言う国を見つけることはできません。それでは御国、神の国とはどこに存在するのでしょうか。イエス様はこの様に言われました。

 

ルカ1720,21「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 

神の国はあなた方の心の中にある。そうイエス様は明言しました。使徒パウロは同じことを別のことばで表現しています。

 

ガラテヤ220「…もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

 

子どもを愛する親は、子どもの存在が心から離れることはないでしょう。私たちは人を愛すれば愛するほど、その人の存在が常に心にあり、まるで心がその人に占領されてしまったように感じることがあるのではないでしょうか。「キリストが私の内に生きておられる」。そう言えるまでに、神様が私たちの心を占領し、支配している状態にある。ことばを代えれば、イエス様を信じる者が神の国の民、神の国はその心にあると言うことができます。

それでは、神の国の民である私たちは、どの様な恵みを受け取っているのでしょうか。

一つ目は、罪を認め、罪を悔い改めることができる恵みです。神の国の民は、自分の人生を聖なる神様の視点で見て、考えることができます。間違ったもので心満たそうとしている時、愛すべき人を愛することができずに対立する時、私たちはその背後に、神様のみ心を受けとめようとしない自分の罪があることを認め、罪を悲しみます。

しかし、その様な罪人がいつでも神様との正しい関係に帰れるようにと、キリストが尊い命をささげて成し遂げてくださった罪の贖いに頼ることができる。これもまた恵みです。

二つ目は、私たちを大切な子どもとして愛してくださる神様の愛に感謝し、神様のみこころに従いたいと言う思いが生まれ、成長してゆく恵みです。神様を悲しませる罪を避けたい、力の限り神様が喜ばれる道を歩みたいと言う強い願い、イエス様のことばを使えば、心が「義に飢え渇く」状態にある恵みです。皆様は、この様な恵みを自覚しているでしょうか。神の国の民とされたことを喜んでいるでしょうか。

けれども、この様な恵みを受けているとは言え、あらゆる点で私たちは不完全です。罪を悔い改めることにおいて、キリストの罪の贖いの恵みに信頼することにおいて、人生のあらゆる面で、神様のみこころに従って生きると言う点においても、さらにさらに成長の余地がある者です。ですから、「御国が来ますように」と言う祈願は、私たちの心に神様の支配がもっと広がるように、いつでも神様を王とし、従う者となれるようにと願うことなのです。

しかし、この祈願は、私たちの心における神の国の広がりを願うだけにとどまりません。この世界における神の国の広がりを願うものでもあります。これを祈る時、私たちは問いかけられます。「あなたは失われてゆく魂に重荷を感じているか」「神様の救いを知らない人々のために祈っているか、労しているか」と。

残念なことですが、日本人同胞の多くはキリスト教について断片的知識は持っていても、また、キリスト教文化に好意を抱いていても、福音を知りませんし、受け入れてもいません。1%の壁と言うことが言われてきましたが、実際のクリスチャン人口は全体の0.4%だろうとも言われます。

伝統的にキリスト教国と言われてきたヨーロッパでも、日曜日の礼拝時、教会には人影もまばらであったり、伝統的な教会は単なる観光名所と化していると言われます。世界で最も教会が活発な国と言われるアメリカでも、教会の社会に与える影響力の低下、教会の語る福音に関心を示さない世代が増加しているとも言われます。他方、イスラム教国やキリスト教弾圧のもとにある国々では、今もなお厳しい状況における、宣教師の方々の本当に犠牲的な働きが続けられています。

福音伝道を通して世界に神の国を広げてゆくために、何ができるのか。自分がささげられる賜物は何か。第二の祈願を祈る私たちが取り組むべき課題です。

また、福音伝道だけがこの世界に神の国を広げることではありません。飢餓や貧困、戦争から生まれる難民問題、繰り返し起こる自然災害と被害者の救済、高齢者や障害者の方々への対応、教育を受けられない子どもたちの存在、家族の崩壊、差別や社会的不正義など。聖書の視点からすれば、人間の罪を源とする様々な問題がこの世界には山積みです。

神様は、私たち人間にこの世界を正しく管理し、良いものとしてゆくために、各々にふさわしい仕事とそれを行う能力を与えて下さいました。しかし、神様に背いた人間は、仕事本来の目的を見失ってしまったのです。その結果、多くの人にとって仕事は生活を支えるための手段でしかなくなってしまいました。仕事の価値が収入の多さによって測られることも良く見られることです。

けれども、神の国の民は、この世界に仕え、この世界を神様のみこころにかなった場所とするため、ひとりひとりに与えられた賜物、それが本来の仕事であることを知っています。私たちにとって仕事とは、収入の有無に関係がありません。神様は、仕事の価値をその人の収入や社会的地位によって評価されないのです。

それが家事であれ、育児であれ、ボランティアであれ、教会の奉仕であれ、 収入をともなう職業であれ、この世界でともに暮らす人々に仕え、人々の幸せを願って行う仕事を尊いものと喜んでくださる王、それが神様なのです。

 

25:31~40「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。…

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

今は通信の発達により、世界で起こる出来事が身近なものとなりました。昔に比べれば、私たちが仕えるべき世界、隣人の範囲は確実に広がっていると思います。今自分が与えられた仕事を愛のわざとして行うこと。他に自分ができる仕事がないか、考えてみること。特に困窮する人々、苦しみの中にある人、寄る辺なき人をかえりみること。

私たちにとって身近な家庭、職場、地域にも、遠くに住む世界の隣人にも目を向け、心を向け、神の国の民として労すること。御国が来ますようにと祈る時、この様な意味での本来の仕事をなす思いと賜物を、神様に願い求める者でありたいと思います。

 但し、聖書は私たちの努力によってこの世界に神の国が完成すると言う、楽観主義を教えてはいません。罪よる世界の混乱は収束せず、むしろ増大することを教えているのです。

しかし、そうであっても、私たちは悲観も失望もしません。私たちが神の国の広がりのために労した後を、すべて託すことのできるお方を知っているからです。神の国を完成するために、もう一度イエス・キリストがこの世界に到来することを信じているからです。

神の国が完成する時、癒されぬ病も、死もないと言われています。この地上から争い、悲しみ、叫び、苦しみが消えうせ、誰もが愛され、祝福され、心満ち足りることのできる世界に変えられると約束されているのです。イエス・キリストの再臨によって完成する神の国を待ち望み「御国が来ますように」と祈り続けたいと思います。

 

マタイ633「だから、神の国とその義を先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

2016年10月23日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(25)~御名があがめられますように~」


今私たちが礼拝で読み進めているのは、イエス・キリストが語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教です。礼拝で山上の説教を扱うのは一か月振りとなります。マタイの福音書の5章から7章、合わせて3章にわたる山上の説教も6章に入りました。ここ3回は、祈りについて学んでいます。

人間は祈る動物と言われます。ある歴史家は、「世界中どの国、どの町に行っても見られるものは、祈る人と祈りの為の場所」と書いています。日本人は、手紙に「ご多幸を祈ります」等と書き記すことは日常茶飯事ですし、普段「神など信じない」と豪語する無神論者も、窮地に陥れば「神様、助けてください」と祈ることがあります。つまり、人間は本能的に祈ることのできる者でした。

しかし、それらは祈りの相手がはっきりしない、独り言の祈り。どんな神様でもよいから、とにかく助けてほしいと願う、困った時の神頼み。聖書が教える本来の祈りとは程遠い祈りばかりです。神様に背を向けた人間は祈りを歪め、本来の祈りを忘れてしまったと言えるかもしれません。

イエス様の時代もそうでした。信仰深い人と認められたくて、わざわざ目立つ場所に立って祈るパリサイ人がいました。自分の願いを神に叶えてもらうため、同じ言葉を繰り返し祈る異邦人もいました。しかし、パリサイ人や異邦人の祈りは決して他人事ではありません。私たちの中にも、自分が認められるため、あるいは自分の願いを実現するために祈りを使うという性質があるのではないかと思います。

ですから、私たちは正しい祈りについて教えられる必要があります。本来の祈りを学ぶ必要がある者です。この様な私たちのために、イエス様が教えてくださったのが、有名な主の祈りです。先回は、私たちの祈りの相手として、この世界の造り主なる神様が与えられていること、私たちは神様を天の父と呼び、親しく語りかけることができる恵みを与えられていることを学びました。

今日、私たちが心に留めたいのは、「御名があがめられますように」という第一の願いです。

 

6:9~13「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 

「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけのことばの後に、六つの祈りがあります。それが三つずつ、二つのグループに分かれていることが分かります。前半は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」とある通り、神様のことを覚えての祈り。後半は「私たちの日ごとの糧をお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」として、私たちの必要のための祈りが教えられています。

注目したいのは、祈りの順序です。イエス様は、先ず神様のために祈り、次に私たち自身のために祈るよう教えています。ことばを代えれば、私たちの願いや必要のための祈りから始めないように。先ず神様のことから祈り始めよと言われたのです。

ところで、皆様は普段心の中で何について考えていることが多いでしょうか。どの様なことについて関心を抱いたり、心配したりすることが多いでしょうか。ある心理学者によれば、私たちは起きている時間の内95%は自分のことを考えているそうです。この数字は正確ではないかもしれません。しかし、95%とは言わずとも、かなり多くの時間を自分の必要や問題について考えていることに、皆様も思い当たるのではないでしょうか。

この様な私たちが神様に祈るとしたら、先ず自分の願いから祈り始めると言うことは、ごく自然なことと思われます。試験のため、仕事のため、就職や結婚のため、病気の癒し、家族の健康のため。自分の将来のため。自分の願い事に終始するうち、祈りはいつの間にか願い事実現の道具になってしまいかねません。

勿論、イエス様はそれ等のことを祈ってはいけないとは言われませんでした。ただ、祈り

りには順序があること、自分に関する必要や願いを祈る前に、神様の御名、神様の御国、神様のみこころのために祈ることを教えているのです。

自分の必要が満たされること、自分の願いが叶うことを目的として祈る時、神様と私たちの関係は歪んでゆく危険があると思います。「神様を知り、神様のみこころに従うために私がいる」。その様な関係から、「私の必要を満たし、願いを叶えるために神様が存在する」という関係に変わってしまう危険です。

誰の心にも潜んでいるこの様な自己中心の性質、罪を良く知っておられたイエス様は、だからこそ、祈りの順序を教えたのではないでしょうか。「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけで、私たちの関心を父なる神様へと引き上げたイエス様は、先ず神様のために祈る様に、その後で、私たちの必要や願いについて祈る様命じているのです。

まず、神様を知ること、神様のみこころを考え、みこころに従う信仰があり、その信仰によって心を吟味し、整理する時、自分の本当の必要、自分が本当に願うべきことが、私たちに見えてくるからです。それが逆になるなら、私たちは神様のみこころを無視した祈りをささげやすい者であることを自覚したいのです。

まず、神様がどのようなお方か、神様のみこころは何かをわきまえてから、私たち自身のことを祈る。イエス様が教えた祈りの順序を心に留めて、主の祈りを祈る者でありたいと思います。

それでは、私たちは最初に何を願うべきなのでしょうか。イエス様は、先ず私たちが願い祈るべきは「御名があがめられこと」と教えてくださいました。

私たちは、「御名を賛美します」とか「御名をあがめます」と言うことばを、祈りの中で使います。いわば祈りの決まり文句で、余りその意味を深く考えることなく口にすることが無きにしも非ずのことばではないかと思います。

日本語でも「名は体を表す」と言われる様に、御名は、聖書において示された神様のご性質、お働きのすべてを意味します。旧約聖書には、全能の神、聖なる主、永遠の神、すべてのものを支える神、良き物を備えてくださる主、あるいは牧者、羊飼いなど、人々の置かれた状況に応じた神様のお名前が示されています。人々はそれにより、神様のご性質や、お働きを知ることができました。神様はご自分について、私たち人間が知るべきことを御名を通して伝えてきたのです。

ですから、「御名があがめられますように」と祈る時、私たちは漠然と神様があがめられることではなく、私たちに示された神様のご性質やお働きのすばらしさがそのまま人々に認められ、尊敬され、賛美される様にと願っているのです。その御名が傷つけられたり、ゆがめられたりすることがありませんようにと願うのです。

私たちは、愛する者のすばらしさが人々に認められ、誉められることを願います。人々が妻の料理を誉めたなら、妻を愛する夫は喜ぶでしょう。人々がお父さんの仕事ぶりを認めてくれたら、お父さんを大好きな子どもは喜びを感じるでしょう。

同じ様に私たちは神様の御名があがめられることを願っているでしょうか。御名が世界中の人々に認められ、賛美されることは、私たちの中でどれ程大きな願いでしょうか。「御名があがめられるように」と願い祈ることは、私たちがどれ程神様を愛し、敬っているかを計ること、省みることでもあるのです。

しかし、「御名があがめられるように」と願う私たちは、自分自身が御名をあがめる者でなければなりません。十戒の第三戒は「あなたは、主の御名をみだりにとなえてはならない」でした。「みだりに唱える」とは、神様にふさわしい尊敬や畏れを抱くことなく、御名を軽々しく口にすることです。

昔、川上哲治と言う野球選手がいました。「ピッチャーの投げるボールが、自分には止まって見える」と言うことばを残したすばらしいバッターです。川上選手は「野球の神様」と呼ばれました。この間テレビを観ていましたら、脳の難しい手術を一年に何十件も成功させた外科医が、「神の手」をもつ医者と呼ばれていました。

もちろん、彼らの才能や努力は賞賛に値します。しかし、聖書の神様を知る者にとっては、優れた能力や業績を残した人間が神と呼ばれることは非常に残念です。神様の名前が軽々しく使われていることを悲しく思います。

同時に、聖書の神様を知る者である私たちが、普段の生活の中で、礼拝の中で、御名を軽々しく口にしてはいないか省みる必要があるでしょう。神様の御名を口にする時は、心を込めてと思わされるのです。聖なる主よと呼ぶ時は畏れを抱いて。天の父よと呼ぶ時は親しみを込めて。全能の神と呼ぶ時は全幅の信頼を寄せて。わが牧者と呼ぶ時は、一匹の羊になりきって。御名にふさわしい心を抱いて、神様を呼ぶ者、神様に近づく者でありたいと思います。

 

レビ記103『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』」

私の高校時代の友人は、野球部でショートを守る、強肩の内野手でした。しかし、ある試合で無理な体勢から送球して転倒、地面に強く肩をうちつけケガを負い、それ以来まともにボールを投げられない肩になってしまいました。

しかし、結婚して子どもができてから、子どもとキャッチボールをしたいと願う様になり、痛めた肩の回復とトレーニングに励むようになりました。二年ぐらい辛い思いも味わいましたが、固くなっていた肩や腕の筋肉が回復し、ほぼ全力で腕を振りボールを投げられるようになったそうです。そんなある日、息子とキャッチボールをしていた時「お父さんて、野球が凄く上手いんだね」と言われ、友人は喜びを感じました。その喜びは、仕事で成果をあげた時、上司に認められた時以上のものだったそうです。

神様も、子どもである私たちが心を込めて御名を呼び、賛美する時、それを心から喜んでくださるお方であることを、このことばによって確認したいと思います。

最後に、アブラハムの信仰から、どの様に御名があがめられたかを見てみましょう。

 

ローマ4:1821「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

 

神様がアブラハムに「あなたたち夫婦に、子どもが生まれる」と約束した時、アブラハムとサラ夫婦に子どもはいませんでした。その上、サラは不妊の女性でした。アブラハムが百歳になっても、まだ子どもは与えられませんでした。人間的に見れば、アブラハム、サラ夫婦に子どもが与えられることは不可能な状況だったのです。

しかし、それでもなおアブラハムは神様に信頼したのです。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた」。つまり信頼し続けたのです。神様を知り、神様を信頼する。それ以上に神様を喜ばせることはありません。それ以上に、神が第一とされる信仰もないでしょう。それゆえに、神の御名があがめられたのです。

私たちは、いつの間にか神様から目を離し、神様以外のものに信頼し、助けを求めてしまいやすい者です。しかし、アブラハムの様に、神様がはっきりと示された約束、みこころは必ず実現すると信頼すること。そこに神様の御名をあがめる生き方があるのです。

神様のみこころを知り、神様に信頼することは御名をあがめること。神様のみこころをわきまえず、神様に信頼しないことは、御名を汚すこと。アブラハムの歩みからこのことを教えられたいと思うのです。

「御名があがめられますように」。この祈りを日々真剣に祈るなら、私たちの生き方は変えられてゆくと思います。この祈りを祈る時、私たちは御名を汚すような思い、ことば、行動を悔い改めるようになります。何が神様の御名をあがめることになるのか、従うべき神様のみこころを求めるようになります。神様の御名をあがめるような生き方をするためには何が必要なのか。自分に本当に必要なものを願い求めるようになります。そして、私達の愛する人々が、また、世界中の人々が神様の御名をあがめるようになることを切に願う様になるのです。

今生かされているこの時この場所で、御名をあがめる者として何を語り、何をすべきなのか考えつつ、日々歩んでゆく。私たち皆で励まし合いながら、その様な生き方を目指したいと思います。

 

Ⅰコリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

2016年10月16日日曜日

マタイの福音書25章14節~30節「良い忠実なしもべとして」


「人が生きるのに必要なものとは何か?」という問いに、皆様は何と答えるでしょうか。色々な答えがあると思います。知恵、力、健康。財産、地位、人間関係。夢、希望、趣味。パソコン、スマートホンと答える人もいるでしょうか。あるいはもっと根源的なもの。地球、太陽、空気、水、食料、自然法則、身体、心という答えも考えられます。

人ひとり生きるのに必要なものは実に多くあります。私たちは、生きるのに必要なものを自分で用意しているわけではなく、そもそも命そのものも自分で手に入れたわけではない。私たちに命を与え、命を守るのに必要なものも与えて下さった神様を、どれだけ意識して生きているでしょうか。

 ところで「命を与えて下さった神様を意識する」というのは、今日も生かされて嬉しいというだけではありません。今日私に命があること、生きることに、神様はどのような願いをもたれているのか。今日、私を生かすのに、神様にはどのような意図があるのかを考えることでもあります。

 皆様は、朝起きて、神様は私にどのように生きるよう願っておられるのか。今日一日、どのように生きるよう導かれているのか、考えているでしょうか。夜寝る時に、神様が願われたような生き方が出来たのか、確認しているでしょうか。

 忙しい毎日を生きる私たち。朝起きた途端、一日のスケジュールが頭を駆け巡り、気づいたら夜になり疲れ切って寝ることを繰り返す。しっかりと、祈りと御言葉のうちに神様と交わる時間を、どれ位持つことが出来ているでしょうか。今一度、「神様が私に願われていることは何か」を考えることの重要性を、皆様と確認したく主イエスが語られた一つのたとえ話を見ることにいたします。

 

 十字架での死を間近にした時。都エルサレムでイエス様は多くの話をされていますが、マタイの二十四章には終末預言と呼ばれる説教が記録されています。イエス様が死に、復活し、天に昇られた後、どのようなことが起るのか。もう一度、イエス様は来られるという再臨の約束が語られます。

 イエス様が天に昇られ、もう一度来られる再臨までの間。(今の私たちはこの状態です。)キリストの弟子たちはどのように過ごせば良いのか。まとめとして、次のように語られていました。

 マタイ24章45節~46節

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 

 イエス様がもう一度来られる時まで、キリストの弟子たちはどのように過ごせば良いのか。「忠実な思慮深いしもべであれ」と言われます。私たちが目指すのは「忠実な思慮深いしもべ」としての生き方。

 このうち「思慮深い」ことについて、マタイの二十五章の最初、賢い花嫁のたとえで詳しく扱われています。そして「忠実」であることについては、続くタラントのたとえで扱われる。今日は、このタラントのたとえに焦点を当てます。

 

 マタイ25章14節~18節

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 

 福音書には多くのたとえ話が記されていますが、このタラントのたとえは分量も多く、有名な話。旅に出る主人が、三人のしもべに財産を預けたと始まります。それぞれ主人の見定めた能力に従って、五タラント、二タラント、一タラントを預けました。一タラントというのは、当時の一般的な給与から考えると六千日分。(現在の勤労日数で考えれば)年収で二十四年分。預けられた額が最も少ない者でも一タラント。多く預けられたしもべは、三万日分の給与という莫大な額。つまり、大資産家がしもべに対して絶大な信頼をおいて旅に出たという話です。

 主人が旅に出た後、二人のしもべはすぐに商売を開始し、儲けを出しました。ところが一人のしもべは地面に埋めて預かったお金を隠しました。しもべによって対応に違いがあったのです。

 

 皆様、想像してみてください。もし自分が、莫大な財産を預けられる立場だったとしたら。預かったお金をどうするでしょうか。その預かったお金を元手に、商売を開始するでしょうか。間違いがあってはいけないとして仕舞い込むでしょうか。結論から見ると、商売をして儲けたしもべが称賛されるのですが、自分がその立場だと商売を開始する勇気があるかどうかと悩みます。

 そもそも、真剣に自分がしもべの一人であったらと想像しますと、まず間違いなく、この預かったお金をどうしたら良いのか。どのように管理したら良いのか。主人に聞くと思います。主人に聞かずに、預かったお金に手をつけて商売を開始することが良いこととも思えないのです。

 そのように考え、このたとえを読みますと、不思議なことに、何故しもべたちに財産を預けたのか、主人の意図が語られていません。主人も語らないし、しもべたちも確認していない。大事な部分が隠されたまま、語られているたとえ話。

 

 さて、たとえ話の後半は、主人が帰って来て、預けた財産をしもべたちがどのように取り扱ったのか確認します。

 マタイ25章19節~30節

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 

 旅から帰ってきた主人は、しもべたちと清算の時を持ちます。商売をして、儲けを出した二人のしもべに対しては、激賞でした。

五タラント、二タラントという大金を、それぞれ倍にした。これは凄まじい業績です。普通に考えますと、第一に褒められるのは、その才能、努力、あるいは結果でしょう。「よくやった。あなたの手腕は素晴らしい。」とか、「よくやった。預けた財産が倍に増えた。素晴らしい結果だ。」とか。ところがこの主人が褒めたのは、「忠実さ」でした。しもべが忠実であったことを喜ぶ主人。

 この場合の「忠実さ」とは何でしょうか。主人にはしもべにお金を預けた意図があり、その意図に従って、しもべが財産を扱ったということ。二人のしもべは勝手に商売を始めたのではなく、主人の意図を受け止め、その意図に従って預かった財産を扱ったということです。前半部分で、あえて隠されていた主人の願いを、二人のしもべは正しく理解していた。その忠実さが激賞されました。

 

 片や一タラントを地に埋めたしもべは、大変な悪評価を受けることになります。悪いなまけもの、役に立たぬしもべと言われ、預かっていた一タラントは取り上げられ、外の暗やみに追い出される。恐ろしい結果となります。

 なぜこれほどまでの悪評価だったのか。それは主人の意図を理解しなかったからでしょう。財産を埋める。これは明らかに、主人の意図と違うのは分かります。もし主人が財産を埋めたかったのであれば、そもそもしもべに預ける必要はなかった。自分で財産を埋めて旅に出れば良い。そして、財産を埋める位ならば、銀行に預ける方が良い。このしもべは、自分に預けた主人の意図を無視した。これが、これ程までの悪評価となったのです。

 

 以上、タラントのたとえでした。このたとえは、どのような場面で語られたでしょうか。先に確認しましたように、キリストの再臨まで、キリストの弟子たちはどのように過ごせば良いのか教える箇所。私たちは主イエスが来られるまで、忠実であるようにと教えられます。この場合の忠実さとは、神様が私に願っていることをよく理解すること。神様から預けられたものを、その意図に従って用いることです。

私たちはこれまで、どれだけ忠実に生きてきたでしょうか。

 

 聖書を通して、繰り返し教えられていること。私たち全ての者に願っておられることは、私たちが与えられている全てのもので、神様の素晴らしさをあらわし、隣人に仕え、世界を祝福することです。

 色々な箇所を挙げることが出来ますが、例えば山上の説教で教えられている言葉は次のようなものです。

 マタイ5章13節~16節

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 

 神様が私たちに願っておられること。地の塩、世の光として、隣人に仕え、世界を祝福し、父なる神があがめられるように生きること。何歳でも、どのような状況でも。学生でも、主婦でも、仕事をしていても、退職後の歩みでも、病や怪我の中でも、命のある限り、私たちはもてる全てのもので、神様を喜び、隣人を愛し、世界を良くすることに取り組むよう使命が与えられています。

この使命に従うかどうか。与えられた命を、どのように使うのか。預けられた賜物を、どのように用いるのか。神様の意図に沿うようにと勧められていること。キリストが来られるまで、私たちには忠実であることが求められていることを、今朝、確認しました。

 

 とはいえ、私たちはそれぞれ違いがあります。一人一人、与えられたものが違います。環境も、自分の状態も、情熱や能力も、それぞれの隣人も異なる。神様の素晴らしさをあらわし、隣人に仕え、世界を祝福すると言っても、具体的な生き方は違いがあります。そのため、良い忠実なしもべとして生きるとしても、具体的にどのように生きるのか。私たちは日々、祈りと御言葉のうちに、真剣に考えなければいけません。

 日曜日、礼拝に来る度に、神様が私に願っていることを真剣に考えたいと思います。一日をスタートさせる時、その日の自分が立てたスケジュールを走り出す前に、神様から与えられた使命がどのようなものだったのか、確認したいと思います。いつでも、良い忠実なしもべとして生きるとは、今どのようにすることなのか、祈り求めながら生きていきたいと思います。

 おそらく、このように決心しても、自力でそれを為すことは出来ないでしょう。神様に頼り、祈り願いつつ、また仲間と励まし合い、支え合いながら、私たち皆で、良い忠実なしもべとして生きていきたいと思います。

2016年10月9日日曜日

ウェルカム礼拝 詩篇131篇1節、2節「母という名の贈り物」


皆様は、ご自分の母親のことを何と呼んでいるでしょうか。何と呼んできたでしょうか。お母さん、母ちゃん、あるいはママでしょうか。年齢や家庭によって様々な呼び方があると思います。

日本人の男性の場合ですが、最も多いのはお母さん、次がおふくろ、その後に母ちゃん、おかんが続きます。関西ではおかんが圧倒的で、庶民的な母ちゃんを使う人も多いようです。ママは子どもの頃にはよく使っていたが、20歳を過ぎると照れくさいと感じる人が多いのか、順位は下になります。最近の傾向として、母親の名前に「ちゃん」や「さん」をつけて呼ぶ人、何も言わずに「ねぇ」とか「おい」で済ます人も増えているそうです。前者はともかく、後者はちょっと寂しい気がしますね。

日本はよく母性社会とか、母系制社会と言われます。これには良い面と、考えなければならない面の両方があるとも思われますが、流行歌の世界、文学の世界を見ると、父よりも母のことを歌った歌、母と子の関係を描いた文学が圧倒的に多いことが分かります。

母の日に歌いたい歌ベスト20と言うものがあります。母ということばが直接登場する歌だけでも「母賛歌」、「ママへ」、「東京だよおっかさん」、「マザー」、「母からの手紙」、「おふくろさん」。それに「アンマー」と言う曲もありました。アンマーは沖縄でお母さんのことを指すことばだそうです。

日本は母性社会と先ほど言いましたが、社会制度の方はまだまだ男性中心とも言われ、その問題も指摘されています。しかし、簡単に断定できませんが、私たち日本人の心に対する影響と言う点から見ると、父よりも母、お父さんよりもお母さんの影響の方が大きいのかもしれないと言う気がしました。

それでは聖書は母についてどう描き、どう教えているでしょうか。聖書には様々なタイプの母が登場します。母親とはこうあるべきという、まとまった形での教えも見当たりません。ですから、今日私がお話するのは、聖書を読んで私個人が心に残った母の姿、母親像であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

さて、最初にお話したいのは、母とは子どもに安心感を与える存在だと言うことです。

 

 詩篇131:2「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように、御前におります。」

 

 このことばを書いた人は、様々な悩み、苦しみの中にあったようです。しかし、神様の存在を身近に感じた時、心落ち着き、安心を覚えたと語っています。それを、乳離れした子、泣きじゃくっていたかもしれない3歳ぐらいの幼子が、お母さんに抱っこでもしてもらったのか、それだけで気持ちが落ち着き、心安らぐ姿に重ねています。

 ここで、教えられているのは、子どもに深い安心感を与える母性愛です。母親の子育ては生まれる前から始まっています。父親も生まれてくる子を心待ちにしますが、栄養も睡眠も呼吸も共有しながら子どもの命を育む。そんな母子の一体感は、父親には到底及ばないものがあると思います。

 仏教には、どんな邪悪な女性でも、地獄の鬼にへその緒を見せれば良いことをしたと認められ、許してもらえると言うお話が残っています。それほど出産は尊い仕事、母性愛が子どもに与える影響は大きいと言えるでしょうか。

 母性愛の特徴は、包み込むような温かい愛、抱きしめる愛とも言われます。3歳ともなれば、子どもは悪戯もするし、悪さもします。叱らなければならない場面も増えてきます。しかし、悪いことは叱るとしても、子どもを抱きしめながら叱るなら、「お母さんはあなたのしたことは嫌いだけれど、あなたのことは大好きだよ」という愛情が伝わるのではないでしょうか。

 母親は、子どもにとって自分が自分でいられる場所、世界で一番安心できる安全基地です。失敗をしても、悪いことをしても、そこで本来の自分を取り戻し、また外に出てゆくことのできる安全基地のような存在ではないかと思います。

これは何も小さな子どもの時代に限ったことではありません。私はある姉妹から三浦綾子さんの書いた「母」と言う小説を勧められました。「母」はプロレタリア運動に取り組んだため、戦時中特高警察に逮捕され、拷問の末殺されたと言われる作家小林多喜二とその母の関係を描いたものです。

それを読みますと、多喜二と母がいかに愛し合っていたか。生活は貧しくとも明るく楽しい家庭であったかが伝わってきます。とりわけ印象的なのは、多喜二が非道ともいえる厳しい尋問に耐え、仲間の名前を漏らさない為に戦う姿と、彼の戦いが母の愛に支えられていたことです。

多喜二亡き後、母はわが子の運命を呪い、神を呪います。しかし、最後は多喜二が親しんでいたキリスト教信仰に入り、洗礼を受けました。多喜二の戦いを母の愛が支え、我が子を失った母の悲しみを神様が救ったと言うことになるでしょうか。

また、私の高校時代の友人は、当時流行ったロックバンドのメンバーでした。ギターを弾く友人はバンドのリーダーでしたが、母一人子ども四人の母子家庭、お母さんが市場で働いて稼ぐお金だけが頼りの、貧しい生活でしたから、自分のギターを買うことができない。やむに已まれず、学校が禁じるアルバイトとお昼代節約を行って、ギターのお金を貯めようと頑張っていました。

そんな生活が半年ほど続いたある日、彼の部屋に古ぼけた新聞紙に包んだ中古のエレキギターが置いてありました。それが苦しい生活の中から買ってくれた母親の贈り物であることを、友人はすぐに気がついたそうです。それからと言うもの、塗りのはがれた古ぼけたギターを手に、友人は颯爽とステージに立つ様になりました。

ある年の同窓会、今は音楽関係の雑誌で働く友人は、「もう忙しくてバンドをやる時間はない」と言いながら、「あのギターを取り出して時々おふくろに相談することがあるんだ」と言っていました。ギターを手にしながら「お袋から、励まされたり、しっかりしろと叱られたり」すると言うのです。

たとえ、母親がいなくても、温かな母性で育ったと言う記憶があれば、その記憶を通して、私たちは母性を感じることができる。そこで、人生における戦いの羽を休め、本来の自分を取り戻すことができる。このことを、私は友人から教えられた気がします。

父性の特徴のひとつは、子どもを戦いに向けて励まし、成果を求め、それを評価することと言われます。この様な父性も必要です。しかし、この様な父性だけでは私たちは息が詰まってしまう。だからこそ、神様は私たちがあるがまま受け入れられ、許され、安心できる母、母性と言う贈り物を与えて下さったのではないかと思われます。

次は、母とは子どもに大切なことを教える存在だということです。

 

箴言1:8「わが子よ。…あなたの母の教えを捨ててはならない。」

 

 皆様は、子どもにこれを大切なこととして教えている事柄があるでしょうか。子どもとして母親から、これを教えられたと思うことはあるでしょうか。

 イスラエルの国を混迷から救う預言者サムエルを育てた母アンナ。初代教会の牧師の一人テモテに信仰を教えた母ユニケ。かと思えば、息子アハブ王の助言者として立ちながら、息子に悪の道を教え、国を滅ぼした母アタルヤ。良きにつけ、悪しきにつけ、母の教えから影響を受けた人々が聖書にも登場してきます。

 カトリック作家の遠藤周作さんも、母親から信仰を教えられた人です。しかし、最初はそれが嫌だった様で、信仰を自分のものとできるようになったのは大人になってからでした。

「四十歳の男」と言う作品の中で、自分と母の信仰のことを、この様に語っています。

「私は子どもの時、自分の意思ではなく母の意志で洗礼を受け、毎週教会に連れてゆかれた。だから長い間、形式と習慣で教会に通ったまでです。しかし、あの日、私は母が着せた信仰と言う服を捨てられないことをはっきりと知ったのです。長い歳月の間にその服が自分の一部となり、それを捨ててしまえば、他に体も心もまるまる何ももっていないことが分かりました」。

母が着せただぶだぶの洋服を、自分の背丈にあった服に整える。母から受け継いだ信仰を捨ててしまわず、大人になってから、自分なりのものにして生かしてゆく。これも母の教えの生かし方ではないかと思います。

 私も今年83歳になる母から何を教えられてきたか振り返ってみました。私の母はどちらかと言うと教育熱心だった気がします。しかし、その教え方は細かいことを、くどくどと繰り返すお説教型。悪気はないのですが押しつけがましい。その上、感情の波が激しく、突然の嵐の様にお説教が始まるので、本当に厄介でした。特に、思春期の私は反発反抗を繰り返していましたから、ことばとして母の教えを覚えていることは殆どない気がします。

 しかし、今でも心に残り、まだまだ母には敵わないなあと思うことが一つあります。それは「悪いことをしたと思ったら、相手にきちんと謝る」ということです。母はそれを常々口にし、口にするだけでなく実行してきました。小さな子どもの私にも、思春期の生意気な私にも、大人になった私にも、母は悪いことをしたら謝るのです。

 「悪いことをしたと思ったら謝る」と言うことは、親なら誰でもが教えることかもしれません。しかし、配偶者や子どもに対してそれを本気で実行する人は案外少ないのではないかと思います。私も子どもたちにそれを教えましたが、ある日小学生の長女に言われました。「パパは、自分が間違ったら謝れと言うけれど、ママにも子どもにも本当にそうしているの」と。その時、私の心に蘇ってきたのは、母のことばと行動です。母の教えを捨ててはいけない。大切にしなければと思わされた瞬間でした。

 子どもは、親の背中を見て育つと言われます。母としてどう語り、どう行動しているか。子どもとして母のことばや行動から何を教えられてきたか、一人一人振りかえってみたいと思います。

最後に考えたいのは、子どもとしての母に対する態度です。

出エジプト20:2「あなたの父と母を敬え。…」

 

聖書にはここだけでなく、同じ意味の教えが繰り返し登場します。特に「年老いた母をさげすんではならない」として、敬老の心も教えられています。しかし、今回準備しながら、私には子育てのストレスに悩むお母さん、自分に母親の資格があるのかと苦しむ方、自分の母を愛することができず、その様な自分を恥じたりする人々のことが思い浮かんできました。

「母」で、小林多喜二と母の愛を描いた三浦綾子さんも、「裁きの家」と言う作品では、職場の上司と不倫関係にある母を赦せない女性を登場させ、この様に語らせています。

「先生、先生のお母様が、もし私の母の様でしたら、尊敬できますか。私は憎みます。母が私の母であることを深く恥じます。私が洗礼を前にして悩んだのは実にこのことでした。でも、今では、私が自分の母をさえ愛せない、罪深い者だからこそ、私は救われねばならないと思う様になりました。私の母がもし貞潔で、知性があって、人々に敬愛されるような母なら、尊敬するのは当り前ですわね。聖書には「立派な父と母なら尊敬せよ」とは書いてありません。そこには何の修飾語もなく「あなたの父と母を敬え」とあるだけです。私は神様の目からではなく、倫理的に母を見ようとしていたのかもしれません。そこに自分の罪があると思います。私には本当に神の愛と言う助けが必要です。」

聖書は、完全な母性愛を持った母も、自分の母を完全に愛することのできる子どももいないことを教えています。

しかし、そんな不完全な存在であっても、母と言う贈り物を通して、神様は私たちに様々な恵みを与えて下さること、不完全な子である者も、神様の愛を受け取ることで母を敬うことができるようになれると教えているのです。

 

中学校で体育の時間に跳び箱を教えていて、首から下が動かないと言う障害をおった星野富弘さんは、リハビリの先生の指導を受けながら「星野君は、肩もみが上手いね。お母さんにもしてあげることがあるの」と聞かれ、母の肩をもんだことも、叩いたこともなかったことを思い出したそうです。

そして、入院中自分のベッドの横の固い床に寝泊まりしながら肩こりに苦しむ母の姿を目の当たりにしながら、もしこの腕が動くようになったら、母のためにしてあげたいことを考えながら書いたのがぺんぺん草の詩でした。「神様がこの腕をたった一度だけ動かしてくださるとしたら、母の肩を叩かせてもらおう。風邪揺れるぺんぺん草の実をみていたら、そんな日が本当にくるような気がした。」

今日は「母と言う名の贈り物」と言うテーマで、お話をさせて頂きました。ぜひ、私たち一人一人、神様からの母と言う贈り物を通して、どの様な恵みを受けてきたのか。母の教えや生き方が自分の人生にどう影響しているのか。また、星野さんの肩もみではないですが、自分が母を愛し、敬うために何ができるのかを考えてみたいと思います。皆様の母としての歩み、子どもとして母を敬う歩みが、神様に祝福されることを願いつつ、今日のお話を終わらせていただきます。