2017年3月19日日曜日

ハバクク書2章4節「一書説教 ハバクク書~信仰によって生きる~」


その人の本性は、「その人が何をもって幸せとするか」に表れると言われます。皆様は何をもって幸せとするでしょうか。どのような状況、状態が幸せでしょうか。どのような人になることを目指して生きているでしょうか。

 お金か、名誉か、地位か。ご馳走、豪邸か。見目麗しいこと、権力を持つことか。家内安全、商売繁盛、無病息災、願った進路に進むことか。これらのことは、どうでも良いことではありません。大事なこと。貧困、不健康、誰からも相手にされず、家族関係は悪く、仕事もうまくいかず、自分の願いは実現しない。そのような中で生きることは大変なこと。辛いことです。

しかし、幸せの中心を、衣食住や財産、健康や人間関係として生きるので良いのでしょうか。何が幸せなのか、どのような人になることが幸せなのか。

 聖書は何が幸せなのか、繰り返し教えていました。

 詩篇112篇1節

「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」

 

 神様に対する正しい恐れと、神の言葉を喜ぶこと。どのように生きるべきか、聖書に答えを見出すこと。これこそ「幸いである」との宣言。聖書に従って生きることが人間にとって最上の生き方であるというのは、聖書のあらゆるところで何度も告白され、教えられているメッセージです。

その通り。頭では分かります。この世界を創り支配されている神様の言葉が、他のあらゆるものよりも重要であること。その神様が私に願われている生き方をすることがどれ程幸いなのか。これは頭では分かります。

しかし、頭で理解するだけでなく、本当にそのように生きているかと問われると、自信がなくなります。神の言葉に対する自分の本音はどのようなものか。このような旧約の詩人の言葉とともに自分の生活を振り返ると、聖書の教える幸いな人の生き方をしているだろうか。いや、そもそも、御言葉に親しむことを願っているだろうかと考えさせられます。

 

私の説教の担当の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。私たち皆で聖書に親しむこと。四日市キリスト教会の皆で、少しずつでも聖書全体を掴む作業に取り組むことを願ってのことです。しかし、これは大上段に構えて、「聖書を読むことは大事。」「聖書を読みましょう。」と宣言したいわけではありません。私たちが取り組みたいのは、しなければならないこととして、聖書を読むのではなく、喜びと感動のうちに聖書を読むことです。

それでは、どのようにしたら、喜びと感動のうちに聖書を読むことが出来るでしょうか。自分を打ちたたいて、「喜べるように」とするのではありません。大事なのは、神様がどのようなお方なのか。救い主が私に何をして下さったのか考えることです。

神を神と思わず、聖書などどうでもよい、私には関係ないと思っていた罪の中から、私たちは救い出されました。キリストによって贖われたので、神の言葉にどれ程の価値があり、従うことがどれだけ幸いなことか分かる者とされたのです。神の言葉を喜び、従うことが出来るとしたら、それ自体が大きな恵みであるということです。

一書説教の際、皆様には扱われた書を実際に読んで頂きたいのですが、聖書を読む前に、まず神様が私に何をして下さったのか。キリストの救いが、自分が聖書を読む時にどのように関係しているのか、良く考えることが出来ますように。喜びと感動をもって聖書を読むことが出来るように、皆で励まし合い祈り合っていきたいと思います。

 

今日の一書説教は三十五回目。開くのは旧約聖書第三十五の巻き、ハバクク書。全三章の小さな預言書となります。

預言書というのは、多くの場合、神様から神の民に語られる言葉が記されます。「預言」とは、漢字の示す通り、神様からの言葉を預かること。預言者は神の言葉を預かり、それを神の民に伝える。預言書の多くは、預言者を通して神様から語られた言葉の記録です。

ところが、このハバクク書は、神様とハバククのやりとりが内容の中心となります。(これが、ハバクク書の大きな特徴の一つとなります。)祈りの人、信仰の人、正義を愛する人、優れた詩人、なにより凄い情熱を持って神様に向き合ったハバクク。今日は、この預言者ハバククと神様とのやりとりを読むことになります。

 

ハバクク書1章1節~4節

預言者ハバククが預言した宣告。主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。

 

 ハバククから神様への最初の問いかけの言葉。皆様は、この言葉をどのような問いかけと読むでしょうか。

 ハバククが活動したのは、バビロン捕囚直前の南ユダと考えられます。(ハバクク書の中には、ハバククがどのような人物なのか書いていなく、また年代も明確には記されていません。その内容から、神殿での奉仕に関わる人物であり、王でいえばエホヤキム王の時代に人々から認められた預言者であったと考えられます。)外国の脅威が増すにつれ、国内の混乱も増した時代。正しく生きるより、自分自信の保身と利益を追求された時代。聖書に対する思いは失われ、倫理道徳は無視された時代。この時代のエホヤキム王と言えば、預言者エレミヤの言葉が書かれた巻物を、小刀で切り、暖炉で焼いた人物です(エレミヤ36章)。

 ハバククは、神の民であるはずの南ユダが、あまりにひどい有り様となったことを嘆きます。自分自身も神様に助けを求め、暴虐が起っていると叫んでも、何も変わらない。世界の支配者、真の王である神様は、この状況をどのように見ておられるのか。無視しているのか。義であり聖である神様のご性質と、目の前にある現実の食い違いについて、どう考えたら良いのか。

 ハバククにとって「宗教は心の問題を扱うもの。この世の話とは別。」ではなかった。観念論的な態度をとるのでもない。分かったような顔をして、思考停止するのでもない。真剣に神様に向き合い、どうなっているのかと食い下がる預言者。このような真剣さが私たちのうちにあるのかと、考えさえられるハバククの姿です。

 

 このハバククの問いに対して、神様の答えが続きます。

 ハバクク1章5節~7節

異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行ない、威厳を現わす。

 

 神の民が我を忘れて暴虐を尽くしている。この状況を神様に訴えても何も変わらないではないですか、と訴えるハバクク。それに対して神様は、異邦の民カルデヤ人(バビロン)が南ユダに裁きを与える、バビロンを通して裁きを与えるという返答でした。

 「う~ん・・・」と唸りたくなる答え。皆様は、自分がハバククであったとしたら、この神様の返答をどのように受け止めるでしょうか。

 おそらく、ハバククの願っていたことは、悪人が栄え、聖書に従って生きようとする者が苦しむ現状が変わること。南ユダが霊的に刷新され、多くの人が聖書に従う時代が来ることだったと思います。それを願い、神様に訴え、救いを求めていた。ところが神様からの回答は、南ユダがバビロンに滅ぼされる、というもの。霊的刷新ではなく、徹底的に裁かれるというメッセージ。この答えをどのように受け止めたら良いのか。

 

 この神様の回答を受けて、ハバククは次の疑問にぶつかり、再度神様に訴えます。

 ハバクク1章12節~13節

主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。

 

 神の民が退廃した時、裁きがあるというのは分かる。とはいえ、その裁きを実行する者として神様がバビロンを選ばれているということに納得がいかない。神の民が悪いとしても、それよりもなおも悪いバビロンが南ユダを滅ぼすことをよしとされるのは何故なのか。「神様の目は、バビロンの悪が見えないのでしょうか。南ユダにいる正しい者たちの労苦が見えないのでしょうか。何故、そのような不条理を良しとされるのでしょうか。」という訴えです。

 凄い預言者。真剣で大胆。まるで神様を問い詰めるかのような質問をするハバクク。このようなハバククの姿が聖書に記されていることは、大きな励ましです。私たちの神様は、このようなハバククの問いを良しとされるお方。信仰者の真剣な体当たりを、しっかりと受け止めて下さるお方。一人の人間と、ここまで向き合って下さるお方として、神様を覚えたいと思います。

 

 それでは、この問いに対する神様の答えは、どのようなものだったのか。ここに、聖書の中でも極めて有名な言葉が出てくるのです。

 

 ハバクク2章4節

見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

 

 この後半部分。「正しい人はその信仰によって生きる」という言葉を、パウロはローマ書でもガラテヤ書でも引用して、信仰義認を主張します。ヘブル書でも引用されている非常に有名な言葉。

 とはいえ、ハバククの問いに対する神様の答えとして、この言葉を聞くとしたら、これは一体、どういう意味になるのでしょうか。「南ユダへの裁きが、なぜバビロンを通してなされるのか。」「バビロンという悪人が、少なくともバビロンよりは正しいユダを飲み込むことを、なぜ良しとされるのですか。」と問うたハバククに対して、神様はこの言葉で何を伝えようとされたのでしょうか。

 

 「高ぶりではなく信仰」という言葉は、ハバククにとって、どのような意味があるのでしょうか。

 考えてみますと、聖書の中にハバククと似たようなテーマで神様に訴え、神様から高ぶりではなく信仰へと導かれた人物がいます。義人ヨブです。ヨブの抱えたテーマは、正しい者が苦しむのは何故なのか、という問い。それに対する神様の答えは、様々な被造物を見せ、神が神であることを教えるというもの。神様がヨブに与えたのは、現実がどのようであろうとも、神が神であるから信じるという信仰でした。

 神様との対話を経て、最終的にヨブは次のように言っていました。

 ヨブ記42章1節~2節、6節

ヨブは主に答えて言った。あなたは、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。・・・それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

 

 自分の聖書理解、神理解では、この出来事はおかしい。納得がいかないという時。神の民は神様に問うことが出来、(今の私たちの場合であれば多くの場合聖書を通して)納得のいく回答が得られることもあります。しかし、時に神様は、納得や理解ではなく、神の民を「信仰」へと導かれることがある。聖書の教えと現実に違いがあると思われても、それでも「神を神とする信仰」へと導かれるのです。

ヨブがそうでしたし、ハバククも同様です。南ユダへの裁きに、より悪いバビロンが用いられる。何故、そのようなことを神様が許されるのか理解出来ないのですが、理解出来ないから神は間違っているという高慢に陥るのではなく、理解出来なくても、神を神とする信仰の道があるのだと教えられる。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」という言葉は、ハバククに対しては「神を神とする信仰」へと導かれた言葉として読みたいと思います。

 

 目に見える現実、自分の理解を拠り所とした信仰から、神様ご自身を拠り所とした信仰へ導かれたハバクク。それでは、これ以降何を語るのでしょうか。

現実には暴虐を振るうものがのさばり、正しい者が虐げられている。南ユダは、より悪いバビロンに破壊されると言われている。聖書的に生きること、正しく生きることが無意味に見える現実がある。しかし、それでも暴虐や高慢が、いかに悪いことか。暴虐や高慢な者たちに対する裁きの言葉を語ることになります。(二章の中盤から裁きの宣告となり、三章はハバククの祈りと記されていますが、その内容は概ね二章の中盤と同様、裁きの宣告となります。)

 二章の中盤以降のハバククの言葉は、詩的表現が多く難解です。南ユダで暴虐を尽くしている者たちへ裁きを語っているのか。南ユダを裁きに来るバビロンに対して、そのバビロンも滅ぼされると言っているのか。国は関係なく、全ての暴虐や高慢な者たちに対する言葉なのか。これらが入り混じっている印象があり、複雑です。

 とはいえ、ハバクク自身は吹っ切れている印象があり、どのような状況になろうとも神様を喜ぶ者として生きることが告白され、この書は閉じられます。

 

 ハバクク3章18節~19節a

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

 

 以上、簡単にですがハバクク書を確認しました。

読み終えて強く印象に残るのは、ハバククの神様に向き合う姿勢です。これ以上ない程真剣に、神様に向き合う預言者。神様と格闘する預言者。生半可ではなく、とことん神様に問いかけ、肉迫するハバクク。

果たして、自分はこれ程まで真剣に神様に向き合ったことがあるだろうかと考えさせられます。この一週間、この一か月、この一年で、苦しかったこと、辛かったことはどのようなことでしょうか。その問題について、どれだけ真剣に神様に訴えてきたでしょうか。神様に向き合うことをせず、他のものに解決を求める歩みとなっていなかったでしょうか。

 もう一つ強く印象に残るのは、神様がハバククに与えた信仰です。神様のご性質と、現実に起っていることに食い違いがあると思う時。神様が世界の統治者であると思えない時。それでも、「神を神とする信仰」です。

 多くの人が聖書と、聖書の神様を知らず生きている日本。聖書とは異なる原理で動いていると感じられる社会。現代の日本に住む神の民である私たちにこそ、このどのような状況であろうとも「神を神とする信仰」が必要だと思います。

ハバクク書を読むことを一つのきっかけとして、第一に向き合うべき方に向き合う。第一に訴えるべき方に訴える。第一に頼るべき方に頼る。そのような信仰の姿勢を持てるように。そして仮に、答えがない。理解出来ない、納得できないという時でも、「神を神とする信仰」を持って生きることが出来るように。皆で祈り求めていきたいと思います。

2017年3月5日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(30)~試みに合わせないで~」


随分前のことになりますが、小学校の同窓会に出席した時のことです。それぞれが現在の仕事について紹介することになりました。私が「キリスト教会の牧師をしている」と言うと、やはり牧師と言うのは日本では珍しい仕事ですから、どんなことをしているのか質問されました。良い機会だと思い、神様を信じ牧師となる決意をするに至った経緯を話したのですが、その際一人の友人が「俊ちゃん。神様を信じると、苦しみがないと言うのか。苦しいことがあっても神様が守ってくれているので、心が迷わないと言う状態になれるんでしょ。俺もそんな心境になれたら良いよなあ」と呟いたのです。

私は何回か同じ様なことを言われたので、意外には感じなかったのですが、皆様はどうでしょうか。同じ様なことばを聞いたことがあるでしょうか。

どうも、日本人は神仏を信じることは、人生の苦しみ、悩みから解放されることにつながると言う考えがある様に思われます。神学校時代、東洋思想と言うクラスがありました。そこでこの四日市教会の初代牧師でもあった小畑先生が、「仏教は人間の苦しみを問題にするのに対し、キリスト教は苦しみの奥にある罪を問題にする。仏教は苦しみからの解放を教えるのに対し、キリスト教は罪からの救いを説く」と話してくれたことを覚えています。そうすると、私の友人の様な考えには仏教の教えが影響しているのかもしれません。

しかし、どうでしょうか。神様を信じてから、皆様の生活からは苦しみ、悩みがなくなったでしょうか。苦しみの中で、恐れや不安に心が揺れたり、迷うことはなくなったでしょうか。私自身もそうですが、恐らくここにおられる殆どの方が「そんなことはない」と思っていることでしょう。

聖書は、私たちが経験する苦しみを試練と呼んでいますが、それは何故なのか。神様を信じる前にも苦しみがあり、神様を信じてからも苦しみがあるのなら、神様を信じることに、どのような意味があるのか。今日学ぶ主の祈りの六番目の祈りは、その様なことを私たちに考えさせる祈りではないかと思います。

最初に少しおさらいをします。私たちが今学んでいるのは、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、イエス様の説教の中でも最も有名で、良く知られたことばがふんだんに登場する山上の説教です。

この山上の説教のほぼ真ん中にあるのが主の祈り。この世界を創造した神様に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて始まる祈りは全部で六つ。前半の三つが神様のことを覚えての祈り、後半の三つが私たちの必要の為の祈りであることは何度も確認してきました。

後半の祈りは、最初が日ごとの糧、食べ物を代表とする私たちが生きるのに必要な物を求める祈り。二番目が、私たちの罪の赦しと、他の人のことも赦せるようにと言う祈り。そして、最後が今日扱う「私たちを試み、苦しみに合わせないでください」と言う祈りとなっています。

ところで、今日の祈りにある「試み」と訳されていることばですが、聖書の他の所では「試練」とか「誘惑」と訳されています。試練と言うのは、神様がそれを通して私たちの信仰を強め、成長させるために与えてくださるものです。誘惑と言えば、私たちが神様に背き、罪を犯すよう誘われている状態です。試練は良い意味ですし、誘惑は悪い意味ですが、両方とも元は同じことばでした。ですから、キリスト教会では文脈によって、このことばを試練と訳したり、誘惑と訳したり、ふさわしいことばに訳し分けてきた訳です。

しかし、今日の祈りにある「試み」を試練と考えるのか、誘惑ととるのか。このことは、昔から議論されてきました。事実、ここを「誘惑に合わせないでください」とする聖書も多くあります。詳しい議論は割愛しますが、私としては、ここに試練と誘惑どちらの意味も含まれていると言う立場で話を進めてゆきたいと思っています。

さて、聖書全体を見ると、神様を信じる人々は昔から試練を受け、試練を通して神様への信頼を深めて言ったことが良く分かります。アブラハムはようやく与えられた我が子を神にささげよと命じられ、試練に直面します。ダビデは義父サウル王の理不尽な怒りに苦しめられ、国中を逃げ回ると言う試練を受けました。新約聖書に登場する初代教会の人々は、ユダヤ教やローマの町に住む他宗教の人々からの迫害と言う試練の中にあったことが記されています。聖書は、試練を通して神様への信頼を深め、霊的に成長していった人々の記録と言えるかもしれません。

 ですから、聖書は様々な所で、試練が私たちの成長に有益であること、試練を喜んで受け入れることを勧めていました。代表的なものを一つ取り上げたいと思います。

 

 ヤコブ1:24「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

 様々な試練と言われています。初代教会の人々が味わった試練の代表的なものは迫害でしたが、ヤコブの教会の人々が受けていた試練とは、教会に集う貧しい人々がその貧しさ故に金持ちの権力者たちに辱められ、苦しめられていたことと考えられます。聖書は、その様な苦しみであっても神様が与えたもう試練であり、忍耐を働かせることが信仰者にとって大切であることを教えています。

迫害はないにしても、今日の私たちにも試練はあります。病の苦しみ、人間関係の悩み、死を前にした痛みや不安も試練でしょう。自分が犯した罪や失敗の結果に苦しむと言う試練もあると思います。いずれにしても、信仰の成長のために様々な試練が必要不可欠であることは、昔も今も変わりがありません。

 けれども、神様が与えたもう試練には大切な意味があるとすれば、イエス様は何故神様に「試み、試練に会わせないでください」と祈るよう教えられたのか。そんな疑問が涌いてきます。神様が与える試練を、私たちが「願わない」と言ってよいものか。そんな気がします。

 ですから、これは私たちにとって有益な試練ではなく、私たちを神様に背かせ、罪に誘う誘惑のことではないかと考える人々がいましたし、今もいます。その様な人々は、ここを「私たちを誘惑に会わせないでください」と訳す方が良いとしています。

 私たちが経験する様々な苦しみや痛みは、それが起こることを許可された神様のみこころでは試み、試練です。神様はそれを用いて、私たちの信仰を強めてくださいます。神様ご自身とのさらに深い交わりへと導いてくださいます。

けれども、私たちは弱さのゆえに、苦しみや痛みに会うと不安に駆られ、神様への疑いを抱いたり、思い煩ったり、罪を犯してしまうことがあります。その場合には、神様が与えて下さる試練が、私たちにとっては誘惑として働いていることになります。そして、私たちには自分の受けている苦しみが試練なのか、誘惑なのかを区別することはできません。 

この様な私たちの弱さや限界を踏まえた上で、イエス様はこの祈りを教えてくださったのです。

 

へブル4:1516「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

イエス様は、多くの病気を患う人、世間から見下されていた人、家族からも見捨てられた人、貧しい人々と接してきました。その様な境遇にある人々が抱える苦しみ、罪へと誘惑される弱さをよく理解し、ご自分のことのように心を痛めてきたのです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と言うことばには、そのことが良く表れています。

私たちの苦しみや弱さに心から同情してくださるイエス様が教えてくださった祈りとしてこれを受けとめる時、この祈りがどれほど必要なものかが納得できます。「天の父よ。私たちはあなたが与えて下さる試練を避けたいとは思いません。しかし、それが私たちの信仰を押しつぶし、あなたに背くような行いに私たちを誘うとしたら、私たちの弱さをあわれんで、その様な試練には会わせないでください」。

前の「私たちの罪をお赦しください」と言う祈りが、私たちが罪を犯してしまった時の祈りだとすれば、この祈りは、試練の中にあって私たちが罪を犯さないための祈り、試練の中で神様に信頼する者として成長することを求める祈りと言えるでしょうか。

こうして、試練の中で罪から守られることを祈った後、私たちはもう一つの祈りへと導かれます。祈りの後半、「私たちを悪からお救いください」と言う祈りです。これも、私たちの心にある悪、この世界に存在する悪を良く知っておられるイエス様だからこそ、教えられた祈りでした。私たちの心の悪について、イエス様はこう戒めています。

 

マルコ7:2023「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 

イエス様は、悪の原因が私たちの内側にあること、すべての悪は人間の心の思いから始まることを指摘しています。そして、聖書が「今の悪の世界」と呼んでいるように、この世界は私たちを悪に誘うもので満ちています。

イエス様がこの祈りを教えて下さったのは、私たちが自分の中にある悪とこの世界にある悪を見つめるため、自分の思いや行動によく注意するためであったと思います。

私たちは自分の心にある悪を知っているでしょうか。物欲か金銭欲か、情欲か、名誉欲か。妬みか、高慢か、人を見下し、馬鹿にする心の殺人か。自分が誘われやすい悪が何であるのか、自覚しているでしょうか。どの様な場所、どの様な時間帯、どの様な心の状態になると、罪を犯しやすいかを知り、ブレーキをかけることができるでしょうか。「私たちを悪からお救いください」と日々祈りながら、自らの心を見張る者でありたいと思います。

 そして、イエス様が教えられたものかどうかははっきりしませんが、主の祈りの最後には、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのもの」と言う賛美が付け加えられていました。

 私たちの生活に必要な物に心を配り、備えてくださる神様。私たちが心から求める罪の赦しを与えてくれる神様。私たちを試練の中に置くとしても、罪への誘惑や悪に陥ることから守ってくださる神様。その神様に祈った後、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです」と賛美をささげることは、神様に信頼する者としてふさわしいと思えます。

 最後に、大切なことを二つ確認しておきたいと思います。

 一つは、この祈りの必要性です。私たちは周りの状況に左右されやすい者、誘惑に対して、悪と戦う力において、非常に弱い者です。自分の力では、神様に喜ばれる生き方をすることができない者です。

 しかし、だからこそ、イエス様はこの祈りをするように教えてくださいました。私たちが罪を避け、悪を離れることを願い、神様に従う歩みを願い求める時、天の父が実際に助けてくださることを経験してほしいと思い、教えてくださった祈りです。一瞬にしてではありませんが、真剣に祈り求める者のうちに徐々に、しかし確実に届けられる恵みがあります。私たちは、日々この祈りこの願いをもって神様に近づく者でありたいと思います。

 二つ目は、人生における苦しみ、痛みを、神様との関係で受けとめることです。山上の説教全体を通して、イエス・キリストを信じる者は、神様と天の父と子どもと言う親密な関係にあることが繰り返し教えられています。

特に主の祈りにおいては、神様のことを、ユダヤの小さな子どもが自分のお父さんに話しかけるように「天の父、天のお父さん」と話しかけてよいとイエス様は言われました。これは、それまで誰も使ったのことのない親しみを込めた呼び方です。

 主の祈りをささげる時、神様は天のお父さん、私たちは天のお父さんに愛されている子どもであることを心に覚えることができます。神様との親しく、安心できる関係の中で、私たちは人生の様々な苦しみを神様からの試練として受けとめることができるのです。そして、試練の背後に天の父の愛を見る時、私たちはよくそれを忍耐し、試練の中で成長する幸いを味わうことができるのです。

 主の祈りによって神様に近づき、神様と親しむ。主の祈りによって天の父に愛されている子どもであることを喜び、神様のみこころに従う歩みを進めてゆく。私たちひとりひとりその様な歩みを目指したいと思います。今日の聖句です。

 

 詩篇11971「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

2017年2月19日日曜日

ナホム書1章1節~6節「一書説教 ~神の怒りに任せる~」


キリスト教は恵みの宗教。神様の愛を得るのに、しなければならないことがあるのでもない。何が出来るのかで救われるのではない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。しかし、放縦の宗教かと言えば、そうでもありません。結局、キリストによる救いがあるのだからどのように生きても良いとは教えていません。キリスト者のあるべき生き方についても、聖書は多く記しています。

 「神様がして下さること」、「私たちがすべきこと」。どちらも大事ですが、より重要なのは順番です。神様が私を救って下さった。罪の中にいる者を、義と認め、神の子として、聖なる者へと変えて下さっている。だからこそ、私たちの取り組むべきことがありますし、また取り組むことが出来るのです。

 私たちの信仰のあり方として、神の民として自分は何をすべきなのかと考えることは大事なことですが、それよりもまず取り組むべきは、神様が私に何をして下さったのか思いめぐらすこと、受けとめること。この順番を間違えると、私たちの信仰生活はどこか歪んだものとなります。

 礼拝に集うこと。祈ること。聖書を読むこと。ささげること。奉仕をすること。伝道すること。あるいは、愛すること、赦すこと、和解すること、信頼すること。本来麗しいこれらのことが、自分のすべきことだからするとして取り組むとしたら、喜びのない信仰生活。良くて無味乾燥。悪ければ苦痛となります。あるいは、そのような信仰生活を送ることで、自分が立派であると主張したくなるか。これらのことも、恵みへの応答、神の民に加えられた喜びとともに取り組みたいと思うのです。

 皆様の信仰生活はいかがでしょうか。どこかバランスを欠いた信仰生活、あるいは順番を間違えた信仰生活となっていないでしょうか。この礼拝が自分の信仰生活を確認し、必要ならば見直す時間となりますように。

 

少し間が空きましたが、断続的に行ってきた一書説教、今日は三十四回目となります。聖書は全部で六十六巻ですので、一書説教はここから後半戦に入ることになります。開くのは旧約聖書第三十四の巻き、ナホム書。不条理な悪に圧迫され、多くの人がどのように生きたら良いのか分からず混乱した時代に遣わされた預言者ナホムの言葉を読むことになります。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。ただし、読まなければならないから読むのではなく、神様の恵みに応える者として読むことが出来ますように。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みを味わいたいと思います。

 

 ナホム書ですが、皆様はどのようなイメージを持っているでしょうか。特別に有名な聖句もなく、おそらく多くの人にとって印象の薄い書ではないかと思いますが(四日市キリスト教会の教会学校には、その名も「なほむ」君がいますので、その点で馴染みがありますが)、実際には大きな特徴があります。

 特筆すべき特徴の一つは、預言の対象がアッシリヤ(表記はアッシリヤの首都ニネベとなっていますが)であるということ。

 ナホム1章1節

ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。

 

 旧約聖書には多くの預言書がありますが、通常、預言の対象となるのは北イスラエルか南ユダ。つまり、神の民に向けて語られるものが主な内容です。いくつかの預言書で、神の民以外に預言が語られ、その内容が記録されていますが、それは中心ではなく余禄。一書全体で、神の民以外に向けて語られた預言を扱うのは、ナホム書とオバデヤ書の二つだけとなります。

 

 それでは、神の民にとってアッシリヤとは、どのような国でしょうか。もともと、神様が神の民に与えると約束していたカナンという土地は、大きな二つの文明に挟まれた地域。西にエジプト(エジプト文明)、東にアッシリヤ(メソポタミア文明)。聖書に記された神の民の歩みは、この両国に翻弄され続ける歩みとなります。歴代の王は、両国の力関係を見つつ、ある時はエジプトにへつらい、ある時はアッシリヤにおもねり、ぎりぎりの外交政策で国家としての生き残りをはかりました。(そのような王たちに対して、預言者は、どこかの国を信頼するのではなく神様を信頼するように訴えていましたが。)

 

 預言者ナホムが活躍する少し前、アッシリヤが力を増す状況で王に就いたアハズが、親アッシリヤ政策をとり、同盟というよりは自ら支配下に下る選択をした様が、歴史書に記されています。

 Ⅱ列王記16章10節~12節

アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。

 

 これは一つの例ですが、強国アッシリヤにおもねるというのは、貢物を納めるだけでなく、アッシリヤの宗教を取り入れることでもあった。王自ら率先してアッシリヤの祭壇を作成したと記録されますが、神の民にとって屈辱的なこと。決して正しい判断ではないですが、そうでもしないと立ちゆかないと王と祭司が思うほど、アッシリヤの脅威は凄かったということ。神の民にとってアッシリヤは好ましくない相手でした。

 

 また「アッシリヤへの預言」で思い出されるのは、預言者ヨナです。当時、弱体化したアッシリヤに神様はアッシリヤが悔い改めるように預言者を送りますが、それが例のヨナでした。敵国に行き、悔い改めを説くなどしたくない。もし悔い改めてしまい、神様が裁きを下すことを思いなおされたら、せっかく弱体化しているアッシリヤがまた力を戻すかもしれない。そのため、ヨナはその働きはしたくないと一度逃げ出しました。このようなヨナの姿からも、神の民にとってアッシリヤが好ましくない相手であったことが分かります。

 

 そして、このアッシリヤは南北に分かれた後の北王国、北イスラエルを滅ぼした国でもあります。

 ナホム書の特徴の一つは、その内容が、神の民以外を対象にした預言であり、それも友好国ではなく敵対国。これまで虐げを受けてきた相手、北王国を滅ぼした国。そのアッシリヤに対しての言葉がナホム書の中心であるということ。

 

 それではナホムは何を語ったのか。その主な内容はどのようなものでしょうか。その語られる中心的な内容が、他の預言書にはあまりないもの。ナホム書の特徴となります。

想像してみてください。もし皆様に敵対する相手がいたとします。繰り返し虐げられ、悪意ある攻撃をされてきました。自分のうちにその相手に対する、怒りや憎しみ、赦せない思いがあります。

神様はそのような私たちに何を語られるでしょうか。神様がいかに私たちを愛し、また赦してきたのか。その愛や赦しを受け取って、私たちもその相手を赦し、愛するようにと語られます。

深く傷つき、怒りや憎しみで覆われている時。神様の愛を受け取ること、そしてその相手を愛していくという教えに、私たちは更に苦しむこともあります。怒りや憎しみの最中にいる時は、神様が私を愛しているということすら、受け取ることが難しくなります。それでも、神様からの語りかけは変わりません。何故なら、怒りや憎しみを持ち続けることは、私たち自身にとって良いことではなく、愛すること、赦すことが私たち自身にとって祝福の道だからです。

 それでは、その相手に対して神様は何を語られるのか。神の民に対して、繰り返し攻撃し虐げてきた者たちに、何を語られるのか。(ヨナを通して)悔い改めが勧められることもありますが、ナホムを通して語られる内容であることもある。驚愕の、そして恐ろしい言葉となります。

 

 ナホム1章2節~6節

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる。バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる。山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。

 

 ねたみ、復讐、憤る、怒りを保つ。聖書の中でも、神様を修飾する言葉としてあまり見かけない言葉が続きます。海や川を干上がらせ、木々や草花を枯らし、山々を動かし、大地を覆す。全知全能、世界を支配する力を持つ方が、その憤りを火のように注ぎ、必ず罰すると言われる。凄まじい怒り、凄まじい宣言です。徹底して審判者であり報復者である神様の姿が示される。この憤りを受ける立場であれば、これ以上恐ろしいことはない宣言。

 

 この宣言はナホム書の冒頭だけかというとそうではなく、これがナホム書全体の中心的な内容となります。

それでは神様の裁きは、どのように実現するのか。二章から三章に、神様の裁きの具体的なあらわれとして、アッシリヤの首都ニネベが包囲され攻撃を受けることが預言されますが、その冒頭にアッシリヤに対する皮肉まじりのあざけりの言葉が出てきます。

 ナホム2章1節

散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。

 

 アッシリヤの首都ニネベは、歴代の王が防衛の町として拡大整備した都市。アッシリヤの人からすれば防衛に自信のある街。そのアッシリヤに対して、守れるならば守ってみよ、と挑発の言葉が語られます。預言者を通して語られる神の言葉に、アッシリヤに対する言葉とはいえ、あざけりの言葉、挑発の言葉があるというのに驚きます。神様が本当に怒っていることのあらわれということでしょうか。

 

 それに続く戦の描写は、非常に詳しく、絵画的。目撃者の報告のように生々しく、古代文学の傑作と言われる箇所でもあります。

 ナホム2章3節~4節、3章1節~3節

その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦車は整えられて鉄の火のようだ。槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。

ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

 

 おそらく聖書中、最も生々しい戦の描写の場面。鞭のうなり、戦車の車輪の響き、馬のいななきと蹄の音、騎兵隊の突撃の喚声、剣の斬撃、槍の刺突。あまりの死体の多さに、立つことが出来ない程になるという有り様。このナホムの預言の言葉を、アッシリヤの人たちはどのように聞いたのか。また、神の民はどのように聞いたのでしょうか。

実際の戦いにおいては、戦勝国のバビロニヤの年代記によれば、三か月に及ぶ包囲と戦闘によってニネベは陥落したそうですが、現代の私たちが想像することも難しい凄惨な状況だったと思われます。

 

 神様による復讐、裁きを宣言し、その具体的な内容を告げたナホムですが、その終わりも恐ろしい言葉で閉じられることになります。

 ナホム3章18節~19節

アッシリヤの王よ。あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は山々の上に散らされ、だれも集める者はいない。あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。

 

 ナホムの時代からは少し先になりますが、南ユダはバビロンに滅ぼされるも、その後で回復します。ところがアッシリヤについては、「傷はいやされない。」と告げられて預言が閉じられる。アッシリヤからすれば望み無し。これでナホム書は閉じられます。徹頭徹尾、神様の裁きがテーマとなっているのがナホムの預言でした。

 

 以上、簡潔にですがナホム書について確認してきました。ねたみ、復讐し、憤り、怒りを保つと言われる神様から、神の民に敵対する者たちに語られる激しい裁きの宣告。皆様は、このナホムを通して語られた神様の言葉を、どのように受け止めるでしょうか。現代の私たちは、この神の言葉から、神様がどのようなお方で、私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、どのように考えたら良いでしょうか。

 

 大事なこととして覚えておきたい一つのことは、神の民が虐げられ、攻撃されている時、神様はかくも怒っておられるということです。私たちが虐げられようが、さげすまれようが関係ない、痛くも痒くもないという方ではない。子どもがいじめにあった親のような姿と言えば良いでしょうか。

 もし私たちが誰かから攻撃され、怒りや憎しみで心が覆われた時。心が傷つき苦しくてしょうがない時。実は、神様も苦しみ、怒っておられるということを覚えたいと思います。(ただし、私たちは自分では不条理に攻撃されたと思っても、自分に原因があるということもあります。自分では正当な怒りだと思っても、そうでないこともあります。自分の怒りと、神様の怒りが全く同じであると思うことは危険なことです。)

私たちが、怒りや憎しみに覆われている時、神様は赦すことや愛することを教えます。それは、怒りや憎しみで命を使うことは不幸なこと、私たち自身にとって赦すことや愛することが幸せの道だからですが、実はもう一つ理由があり、復讐は神様のものだからです。神の民が傷つけられたら、その落とし前は神様がつけると言われる。それほど、私たちは大切にされていることを、ナホム書を通して覚えたいと思います。このような神様の姿を知って生きるのか、知らないで生きるのか、違いがあると思いますが、いかがでしょうか。怒りや憎しみに覆われている時、復讐はわたしのすることだと言われる神様を覚え、自分で怒ることを止め、神様の怒りに任せることが出来るようにと願います。

 ローマ12章19節

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』

 

 もう一つ覚えておきたいことは、神様にとってそれほど大切な存在が、私たちの周りには多くいるということ。神様は、神の民を特別に扱われる。私たちの周りにいる人は、キリストがご自身の命を投げ出す程に愛している存在。父なる神様が、主イエスがそれ程愛している人に対して、私はどのように接するのか。真剣に考えたいと思います。

 是非とも、自分自身で聖書を開き、ナホム書を読み通すこと。神様がどのようなお方で、その方の前で、どのように生きるべきなのか、真剣に考えることが出来ますように。私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う歩みに取り組みたいと思います。

2017年2月12日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(29)~罪をお許しください~」


「赦し」は、古今東西文学、演劇、映画などにおいて一大テーマでした。友を裏切ったことに苦しみ、自ら命を絶つ主人公が登場する物語があります。加害者が法的な罰を受けても、謝罪をしても、なお怒りが収まらず、人を赦せないことに苦しむ主人公が登場する物語もあります。赦しとは何か、人間は本当に人を赦せるのか。赦されざる罪はあるのかないのか。様々な作家が赦しをテーマとする作品を書いてきました。

 今日、新聞の人生案内、人生相談の欄にも、親を赦せない子どもの怒り、配偶者の仕打ちに心を閉ざす人の苦い思い、血を分けた兄弟に赦してもらえない人の苦しみ、隣人の言動に傷ついた人の嘆き、あるいはそうした人にどう対応すればよいのか分からないと言う人の悩み等が頻繁に見られます。

 聖書においても同様です。「兄弟を何度まで赦すべきでしょうか」と尋ねた弟子ペテロに対し、「七を七十倍するまで」と答えたイエス様のことばを筆頭に、新約聖書には赦しに関する例え話、出来事、勧めや命令が繰り返し登場してきます。教会の交わりにおいても、赦しは非常に大きな問題であったことが分かります。

 私自身、「家族なら、あるいはクリスチャンなら赦すべき」等と簡単に言うことのできない、大変な苦しみを経験してこられた方々と交わる中で、人を愛するという神様のみこころにおいて、最も難しいのがこの赦しではないかと感じています。

 ですから、今日の説教が皆様にとって、特に赦しの問題で苦しんでおられる方にとって重荷ではなく、イエス様からの慰めまた励ましとなることを願い、お話させて頂きたいと思うのです。

 さて、今日取り上げるのは第五番目の祈りです。主の祈りは全部で六つ。前半が「御名があがめられるように」「御国が来ますように」「みこころがなりますように」と、神様のための祈り。後半は一転して、私たちの必要のための祈りとなっています。

 先週は、第四番目の「日ごとの糧を今日もお与えください」を学び、私たちの肉体の必要を知り、日常生活に必要な物を備えてくださる天の父の存在を確かめることができました。それに対して第五の祈りは、私たちの霊的な必要のため罪の赦しを祈り求めるよう、イエス様が教えてくださったものです。

 

 6:12「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

 

 「負い目」と言うことばは借金を意味します。イエス様の時代、人々は罪を神様に対する借金と考えていました。ですから、負い目と罪と置き換えてよく、実際にルカの福音書の「主の祈り」では罪と言うことばが使われています。

しかし、敢えてイエス様が罪を負い目、借金と表現したことには意味がありました。それは、どの様な罪であれ、私たちの犯す罪は神様に対する罪であり、この世の借金と同じく、私たちの罪も神様の前に精算すべき時が来ることを伝えたかったのでしょう。神様による最終的な審判の時に返済し、精算すべき借金。それが人間の罪と言う考えです。

それでは、神様に対して返済すべき責任のある借金、私たちの罪はどれ程のものなのでしょうか。果たして、私たちは自分の罪の酷さ、深刻さを正しく理解しているでしょうか。自分は神様のさばきに耐ええない者、滅ぼされて当然の者と言う自覚はあるでしょうか。

聖書の教える罪は、神様のみこころに反することすべてを指します。私たちがそれを罪と感じるかどうかではなく、神様のみこころに反する人間の思いや行動はすべて罪であるとイエス様は教えられました。

 

5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 

たとえ法律上の殺人は犯したことがなくても、隣人に腹を立て、友を馬鹿にし、人を見下し、その失敗を責めるなら、私たちの罪は神のさばきに価すると、イエス様は語っています。これらが、十戒の第五戒「殺してはならない」に反する思い、行動だからです。

さらに、第五戒も含めて、十戒の内八つは「~してはならない」という戒めでした。それは、いかに私たちが日常的に罪を犯す者であるかを示していると言われます。私たちは日々神様以外のものを頼りにします。神の御名をみだりに口にします。

また、今まで私たちは心の中で何人の人を殺し、情欲をもって異性を見てきたでしょうか。自分を偽り、神のものを盗み、隣人のものをむさぼってきたでしょうか。どれ程、人を愛し、人に仕える熱心に欠けていたでしょうか。まさに、罪と言う借金で首が回らない状態に、私たちはありました。

しかし、神様は滅ぼされて当然の私たちを心からあわれんでくださいました。私たちの犯した罪の責任を私たちに負わせず、イエス様に負わせました。イエス様が身代わりとなり、十字架で罪のさばきを受けて死なれたので、私たちは罪の赦しの恵みを受けとることができるようになったのです。

 

ローマ4:2551「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

 

キリストを信じる者は神との平和を持っていると、聖書は語っています。神との平和とは、もはや私たちは神様からさばかれ滅ぼされることも、責められることもない、安全で安心できる神様との関係にあることを意味しています。

けれども、それならば何故イエス様は、罪の赦しを祈り求めるよう勧めているのでしょうか。それは、私たちの中になお罪が生きているからです。罪が私たちの考え方、行動に影響を及ぼしているからです。神様を信じていても、私たちは日々罪を犯します。誘惑に負け、失敗を繰り返す自分の弱さに落胆します。醜い自分が顔をのぞかせると失望します。

その様な私たちの現実を天の父は良く知っておられるので、天の父に罪を告白し、罪の赦しを祈り求めよと、イエス様は教えてくださいました。天の父に罪を告白することで、天の父のあわれみを知ります。天の父が私たちを待っておられ、私たちが犯した罪のために、確かな罪の赦しが備えられていることを知り、安心するのです。イエス様が命を懸けて与えて下さった罪の赦しの恵みを思い、感謝することで、落胆と失望から救われます。

まさに、これが私たちの日々の霊的必要のための祈りであることを確認できます。自分に失望、落胆し、天の父のあわれみを忘れ易い私たちのことを思い、イエス様が教えてくださった大切な祈りであることを覚え、「私たちの負い目をお赦しください」と、祈り続けたいと思うのです。

次は、祈りの後半「私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました。」です。ここで、「あれ?」と思う人がいることでしょう。私たちが礼拝の時唱える主の祈りでは、ここの部分が「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく」となっているからです。

私たちが慣れ親しんでいるこの訳を、今採用している聖書は少ないかもしれません。この表現が、「私たちが他の人の罪を赦すので、神様あなたも私たちの罪を赦してください」と、私たちが神様に条件を示しているような誤解を与えてしまうからと考えられます。

また、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました」と言う部分も、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と訳すことができるし、その方が良いとも言われます。

つまり、ここは「天の父よ。私たちの負い目、罪をお赦しください。そして、あなたが私たちの罪を赦してくださったように、私たちも私たちに負い目、罪のある人を赦しました。あるいは赦します。」と言う祈りでした。天の父のあわれみにより、すべての罪を赦された私たちは、他の人の罪を赦す恵みと責任を与えられたということです。

このことに関して、イエス様の例え話が残っています。

 

18:23~35「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

読んですぐに驚かされるのは、主人から借金を免除されたしもべの酷い行動、余りにもあわれみに欠けた自己中心的なふるまいです。しかし、イエス様は「このしもべの姿は、本当に他人事ですか」と、私たちに問うているように見えます。

ここで、神様は地上の王に、神様の審判は王が行う精算に譬えられています。そして、王の判断によれば、しもべが返済すべき負債は1万タラントありました。当時、1タラントは労働者の約15年分の賃金と言われます。その1万倍ですから、15万年分の賃金と言う途方もない借金です。

これは、私たちが神様に対して犯した罪は到底精算不可能、本来なら私たちは神様のさばきによって、滅ぶべき者であることを教える譬えでした。しかし、いかに努力しても返済できない負債に苦しむしもべを可哀想に思った王は、借金を免除つまり全額棒引きしたと言うのです。

しかし、それほどの恵みを受けたにもかかわらず、同じ仲間に対するしもべの振る舞いは、あわれみに欠けたもの、余りにも自己中心的な行動でした。このしもべは、主人から受けた恵みを余り自覚していないように見えます。

そして、私たちも天の父から受けた罪の赦しの恵みを良く味わわないなら、このしもべの様な他の人を赦そうとしない、あわれみのない生き方に陥ってしまう危険があります。だからこそ、イエス様はこの譬えを語られたのです。

私たちも対人関係を良く点検する必要があると思います。私にはまだ赦していない人はいないだろうか。心にとげの刺さった苦々しい思いを抱いている人はいないか。口をききたくない、顔を合わせたくないと感じる人はいないか。その人の行動や失敗を心で責め続けているような相手はいないだろうか。

もし、家族の中に、兄弟姉妹の中に、職場や地域にそのような人がいることに気がついたら、赦しに取り組みたいと思うのです。神様から与えられた罪の赦しの恵みがいかに限りないものかを味わい、感謝しつつ、その人の幸いを祈ることから始めてゆきたいと思います。

また、神様に、自分の心からその人に対する怒り、責める思いを取り去ってくださるよう祈ることが何度も必要になるかもしれません。その人の幸いのために、自分にできることは何か教えてくださいと神様に祈ることも必要になるでしょう。

そうして赦しに取り組む時、私たちは自分の赦しの不完全さに気がつくことでしょう。もう、その人を赦したはずなのに、事あるごとにその人が自分にしたこと、言ったことを思い起こし、心を乱されることがあります。その人を赦せない理由を考え、その人を責め続ける自分を正当化する頑固な自分に気がつくこともあるかと思います。

その様な時は、人を心から赦せない私の罪をお赦し下さいと、天の父の胸に飛び込んでゆけばよいのです。そこで、天の父に受け止めてもらい、罪の赦しの恵みを味わう。「私も私に負い目のある人を赦します」と告白して、もう一度赦しに取り組む。私たち皆が主の祈りの第五の祈願を祈りつつ、罪の赦しの恵み、人を赦し、人と和解する恵みを受け取る歩みを進めてゆきたいと思います。

 

エペソ432「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」