2016年11月27日日曜日

ルカの福音書1章5節~25節「アドベント(1)~ザカリヤの良き知らせ」


2016年もあと一か月で終わろうとしています。この一年を振り返って、皆様は良き知らせを耳にしたでしょうか。良き知らせと聞いて、何が思い浮かぶでしょうか。

 子どもの就職、結婚、出産。家族や友人の活躍など、身近な所から喜びの知らせを受け取った方もいるでしょう。他方、愛する者の病や死、友人の苦しみ等、悲しい知らせを受け取った方もおられるでしょう。あるいは、最初は悲しみとしか感じられなかったけれど、時間が経つにつれ良き知らせと感じられるようになったものもあるのではないでしょうか。

 また、社会に目を向けますと、リオ五輪での日本選手の活躍や、大隅教授のノーベル医学賞受賞は喜びの知らせでしたが、目を覆いたくなるような残酷な事件や、自然災害による被災者のニュースは、心痛む悲しみの知らせでした。

 さらに、世界からは、断続的に続くテロ事件、イギリスのEU離脱や先のアメリカ大統領選挙の結果など、人々が驚き、「これから世界はどうなるのか」と恐れや不安を覚える知らせが多かったように思います。

 今や世界は狭くなりました。私たちの元には、身近な所からも海の向こうからも、様々な知らせが届きます。人生は、私たちが様々な知らせを受けとめ、それが自分にとって、世界にとってどのような意味を持つものかを考え、応答する歩みと言えるかもしれません。

 ところで、聖書はすべての人が聞くべき大切な知らせ、それにどう応答するのかが、人生に大きな影響を与える知らせがあると教えています。それは、世界を創造した神様からの良き知らせ、救い主の到来を告げる良き知らせです。

 今日、ルカの福音書に登場するザカリヤは、今からおよそ二千年前、ユダヤをヘロデ王が治めていた時代、誰よりも先に、神様からの良き知らせを耳にした人でした。

 

1:5「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」

 

ユダヤの王ヘロデとありますが、ヘロデはユダヤ人ではなく外国人。しかも、ローマ政府と交渉し、金で王の地位を買った人物で、人々から嫌われていました。しかし、独立を失ったユダヤ人は、自分たちの王を選ぶことができない状態。政治的にも、宗教的にもローマ帝国に圧迫され、国としては衰退の極み。人々は苦しみに喘いでいました。

その頃、ザカリヤが属する祭司階級にはローマと手を結び、自分の立場と利益を守るため、神様と聖書の教えを軽んじる者も多かったと言われます。しかし、ザカリヤは妻とふたり、その様な風潮に流されず、信仰の道を歩んでいたようです。

 

1:6、7「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」

 

二人して神様を敬い、神様に信頼して生きるザカリヤとエリサベツ。貧しくても、年老いても仲の良いオシドリ夫婦。勝手な想像ですが、そんな二人の姿が目に浮かんできます。しかし、この夫婦には一つの悩みがありました。エリサベツが不妊の体質であるため、また二人とも既に高齢のため、子どもを持つと言う望みはもはや絶えた状態にあったことです。

これは、夫婦二人の個人的な悲しみにとどまりません。今では想像できない様な社会の風潮が彼らを苦しめていました。当時は、一般的に、難病や子どもができない等の理由で苦しむ人は、その人の隠れた罪に対する神からの罰を受けていると考えられていました。特に祭司と言う職業は、血筋や後継ぎが重んじられましたから、ザカリヤとエリサベツが、一際人々の心ない言葉や態度に苦しめられたことは容易に想像できます。

しかし、自分たちの願いがかなえられなくても、それゆえに世間から苦しめられても、ザカリヤとエリサベツは神様を信頼して歩んできたと、聖書は語っています。

願いが叶わず、目に見えるご利益がないと、神様に対する信頼が揺らいだりするところが無きにしもあらずの私たち。年を重ね、自分たちの願いはもはやかなえられないと受けとめつつ、神様の戒めと定めに従い続けたこの夫婦の歩みにならいたいと思います。

さて、そんなザカリヤに御使いが現れ、良き知らせを伝えることになります。それは、ザカリヤにとって一生に一度の晴れ舞台でのことでした。

 

1:8~12「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われた。」

 

当時、祭司の職にあった人は二万人以上とされ、それが二十四組に分けられていました。各組千人近い祭司がいて、年に二度一週間ずつ、当番で務めを果たすため、各々の家から都エルサレムの神殿に出かけてゆきます。

神殿では様々な奉仕があり、祭司が協力してことを進めてゆかねばなりません。しかし、神殿の奥にある聖所と言う場所で、罪のための供え物をし、供え物をのせた祭壇の上で香をたくという奉仕は、くじ引きで選ばれた祭司がただ一人、これを行うことができたのです。この奉仕こそ、祭司なら誰もが待ち望む聖なる奉仕であったとされます。

この時、神殿の奉仕を担当したのは、二十四組の内アビヤの組。そして、最も栄誉ある奉仕は、この組に属するザカリヤに与えられたのです。一度選ばれた者は二度と選ばれませんでしたから、ザカリヤにとって生涯に一度きりの奉仕です。

この奉仕を行っていた時、御使いが現れ、この様に語りました。

 

1:13~17「御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 

先ず御使いが告げたのは、妻エリサベツが男の子を産むことでした。これまでずっと祈り願ってきたのに与えられなかった子ども。もはや叶わないものとあきらめ、心の底に沈んでいた様なその願いを、神様が聞いてくださったとの知らせです。名前も「神は恵み深い」と言う意味の「ヨハネ」と定められていました。

また、男の子はあなた方夫婦にとって喜びとなるだけでなく、多くの人もその誕生を喜ぶと告げられています。つまり、彼らの子どもは、イスラエルの民全体の祝福に関わる特別な子どもだったのです。

さらに、ヨハネについて「ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされる」と告げられています。普通は大人になってから神のしもべとなるのに、ヨハネは母の胎内にある時から特別なしもべとして、神様に選ばれた者と言う意味でしょう。

それでは、ヨハネの働きは何かと言うと、イスラエルの人々の心を神様に立ち返らせること。ことばを代えれば、父親たちが子らに信仰を教えるよう指導し、神に逆らう者の心を正し、来るべき救い主のため人々の心を整えることと告げられています。

一言で言うなら、救い主が現れる前の先駆け。救い主到来を告げて、人々に心の準備をさせると言う非常に重要な働きが、ザカリヤから生まれる男の子に与えられたのです。

ザカリヤはこの知らせをどう受けとめたでしょうか。これを良き知らせとして受け入れたのでしょうか。どうも、そうではなかったようです。

 

1:18~20「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」

 

「私は何によってそれを知ることができましょうか」と答えた結果、ザカリヤは物が言えなくなります。神様は彼を口を開くことのできない状態に置かれました。彼のことばはそんなに不信仰だったのだろうかと思えないでもありません。しかし、良く見ますと、ザカリヤ神様のことばで十分とは考えず、「ことばの他にしるしはありませんか」と、目に見えるしるしを求めています。

年を重ねた自分たちに子どもなど与えられるはずがないと言う常識が、ブレーキをかけたのでしょうか。祈り続けてきたのに結局は叶えられなかったと言う諦めが心を支配していたのでしょうか。神様の前に決められた奉仕は行っていましたが、年を重ねるほどに自分の経験や知恵に頼り、それ以上のことは神様に期待しないと言う、小さく固まった信仰になっていたのでしょうか。

ザカリヤが神様のことばを信じ切ることができず、しるしを求めた理由は、必ずしも一つではないかもしれません。その心には様々な思いが重なり合っていたのでしょう。しかし、その応答に対し、神様は物を言えないと言う不自由な状態にザカリヤを置きました。

ただし、これは罰と言うより、ザカリヤのために神様が与えた恵み深い訓練と考えられます。もし、これが罰なら、ザカリヤは神殿での奉仕を続けられなかったでしょう。しかし、彼は務めの期間すべての奉仕を終えてから、家に帰っています。さらに、ザカリヤ夫婦から、子どもを授かる恵みは取り去られず、エリサベツは無事子を胎に宿すことができました。

ザカリヤは不自由な生活を強いられましたが、その間神様のことばが実現してゆく様子を妻エリサベツの姿に見ることができたのです。

 

1:21~25「人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

 

最初、御使いから神様のことばを聞いた時、ザカリヤは信じることができませんでした。しかし、共に暮らすエリサベツのお腹がどんどん大きくなってゆくのを見つめながら、神様のことばを思い巡らす時を持つことができたでしょう。

やがて男の子が成長し、人々の心を神様に向ける働きを為す姿を、人々の心が整えられた後現れる救い主の姿を思い描いたでしょう。これまで背き続けてきた神の民イスラエルを神様が顧みてくださり、民全体が神様の祝福にあずかる日を仰ぎ見ることができたはずです。

そればかりではありません。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」と言う妻のことばを聞いた時、自分たち夫婦の長年の苦しみに心を向け、それを取り除いてくれた神様を賛美したのではないでしょうか。

共に手を取り合って、神様を賛美するザカリヤとエリサベツ。その様に、長年苦楽を共にしてきた末、神様からご褒美を貰うことができた幸いな夫婦の姿を、私たち思い浮かべても良いのではないかと感じます。

最後に、一つのことを確認したいと思います。それは、神様が私たちに望んでおられるのは、私たちが神様のことばを良き知らせとして受け入れることです。神様のことばを良き知らせとして受け入れることが、私たちの人生も、この世界をも良いものにしてゆくと言うことです。

私たちの元に届く知らせには様々なものがあります。自分自身や身近な人の不運や不幸。天災や事件に苦しむ人々の姿。世界からは飢餓に悩む人々、戦争やテロ事件の知らせも届きます。それらの知らせは、神様が本当にわたしたち一人一人の苦しみに関心を持っておられるのだろうか。本当に神様がこの世界を支配し、正しいものにしようとしておられるのか。その様な思いへと私たちを誘います。

その様な現実の中で、救い主の到来を告げる神様のことばを良き知らせとして信じ、受け入れることは、しばしば難しいことではないでしょうか。ですから、ザカリヤがそう導かれたように、私たちも待降節の季節、救い主についての神様のことばをもう一度思いめぐらす時を持つ必要があると思います。繰り返し神様のことばに聞き、神様が私たち一人一人の小さな苦しみにも、この世界の苦しみにも心を注いでくださっていることを確認したいのです。

神様が、救い主イエス・キリストを通して、私達のような小さな存在にも、この世界全体にも、心を向けておられることを知り、その測り知れない愛を受け取りたいと思うのです。アドベント、待降節の季節、私たち皆が神様のことばを思いめぐらす時を持つことができたらと願います。神様からの良い知らせを受け取った者として、日々の歩みを進めることができるよう励みたいと思うのです。

 

コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」

2016年11月20日日曜日

「一書説教 ミカ書6章6節~8節 ミカ書~主の求めていること~」


聖書は繰り返し「神様を信頼する」ように教えています。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」とか「どんな時にも、神に信頼せよ。」と直接的に言葉で勧める箇所もあれば、出来事を通して主を信頼することがいかに大事なことか、あるいは神様を信頼しないことがいかに危険なことか教える箇所もあります。「神様を信頼する」というのは聖書の中心的テーマの一つ。

 しかし、自分が神様を信頼出来ているか、正しく判断することは意外と難しいことです。人に信頼を置かないように教えられていますが、これは誰とも信頼関係を築いてはいけないという教えではありません。本来、神様にのみおくべき信頼を、人間相手に持たないように。金銭に信頼を置かないように教えられていますが、金銭を一切持たない生活が勧められているわけではありません。金銭を正しく管理すること、金銭を第一としないように教えられているのです。神様を信頼するとは、自分は何もしないということでもありません。受験や仕事の成功を祈り、あとは何もしない。回復を願ったのだから、薬も飲まない、病院にも行かないということが、神様を信頼している証ではありません。

「神様を信頼する」とは、絶対的な信頼を、神様にのみ置くこと。そして自分のなすべきことをわきまえて、取り組むこと。言葉としては、このようにまとめることが出来ますが、実際にこのように神様を信頼出来ているのか、自分で判断することは難しいのです。

出エジプトの際、前に海、後ろにエジプト軍、絶体絶命のイスラエルの民に対して、モーセが言ったことは「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」でした。この時、神の民が取り組むべきは、黙ること。一方でダビデが巨人ゴリヤテと一騎打ちに臨む時、「この戦いは主の戦いだ。」と叫びましたが、武器を選別し、ダビデ自身がゴリヤテを倒しました。同じ主の戦いでも、なすべきことが異なるのです。

 このように考えますと、神様を信頼するとは具体的にどのような生き方なのか。今自分は、神様を信頼する歩みを送っているのか、よく考え、よく顧みる必要があることが分かります。

 

 断続的に行ってきた一書説教、今日は三十三回目。聖書は全部で六十六巻ですので、今日の一書説教で折り返し地点。ここまで四年半かかりましたが、皆様とともに一書説教の歩みが進められていることを大変嬉しく思います。

 開くのは旧約聖書第三十三の巻き、ミカ書。近隣列強が力を増し、国家存亡の危機を迎える時代。何に信頼を置いたら良いのか、多くの人が混乱していた時代。そこに、「信頼すべきは誰か」を訴える預言者ミカの言葉が響くことになります。かつて神の民に語られた言葉ですが、同時に今の私たちに語られている言葉として受け取ることが出来ますように。自分は何に信頼を置いて生きているのか。神様を信頼するとはどのようなことか、ミカ書を通して考えることが出来ますように。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それでは預言者ミカが活動したのは、具体的にはどのような時代だったでしょうか。

 ミカ書1章1節

ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。

 

 ミカが預言者活動をしたのは、三人の王、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代。(同時代、同じ南ユダで活躍したのがイザヤとなります。ミカとイザヤは相互に影響を与えたと考えられています。)

 ヨタム王の時代、前王ウジヤの影響もあり、南ユダはまだ繁栄の中にありました。ヨタム王自身も「主の目にかなうことを行い・・・勢力を増し加えた。彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたから。」(Ⅱ歴代誌二十七章)と言われる善王。しかし国際情勢は、強国アッシリヤが力をつけはじめ、緊張が高まり始めた時期でもあります。(北イスラエルのペカ王は、反アッシリヤ政策をとり、近隣諸国に反アッシリヤ同盟を持ちかけます。後に、反アッシリヤ同盟に加わらないアハズに対して、ペカは戦争を起こします。)このヨタム王、二十五歳で王となり、十六年間の治世。その父ウジヤの五十二年間の治世と比べて三分の一以下。四十一歳にして死にます。聖書には死因が記されていなく、若くして一体何があったのかと思うところ。

 

 続くアハズが大問題の王となります。二十歳という若さで王となり、十六年間の治世。宗教的な堕落。アッシリヤが力を増す中で、親アッシリヤ政策を採り、同盟というよりは自らその支配下に下る歩みを選択します。聖書の観点からは残念な歴史。アハズ王がアッシリヤにへつらう姿が、聖書に記録されていました。

 Ⅱ列王記16章10節~12節

アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。

 

 アッシリヤの支配下に下るというのは、貢物を納めるだけでなく、アッシリヤの宗教を取り入れる意味もあった。王自ら率先して、アッシリヤの祭壇作成を行います。

こうなると、前王ヨタムの若すぎる死が悔やまれるところ。二十歳で王となったアハズは、それまでどのような教育を受けたのか。周りにいる家臣は、どのような人たちだったのか。ある人は(サムエル・シュルツ)、エルサレムの親アッシリヤ派の人たちが、アハズが王となるようにしたと考えますが、十分あり得ることでしょう。この時代、信仰は衰退し、力ある者と仲良くなること、力を得ることが第一とされました。神の民の歴史として、実に残念なところ。国が残るために何をすべきなのか、繁栄するためには何が必要なのか、大混乱の時期。

 

 アハズに続くのが、ヒゼキヤ王。歴代の南ユダの王の中でも、信仰的な王、善王として名高い人物。アッシリヤに追従することを止め、神殿の宗教改革を行います。アッシリヤに歯向かったため、攻撃されることになるも、神様を信頼して奇跡的な大勝利を手にする王。よくぞ、この国家的存亡の危機になる中で、ヒゼキヤが王となったと思える人物。

 ところでヒゼキヤが、なぜこうも信仰的な歩みを送ることが出来たのか。そこには、ミカの働きを認めることが出来ます。

 エレミヤ26章18節~19節

「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」

 

 預言者の言葉を聞かない王が多い中、ヒゼキヤとその時代の民は、ミカの言葉で悔い改めたという貴重な記録です。それはそれとしまして、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと色が異なり、政策も正反対となる王が立ち並ぶ。アッシリヤの脅威が増し、実際に北イスラエルが滅びる中で、一体何に信頼を置いたら良いのか。王も人々も混乱した時代に預言者として立てられたのがミカでした。

 

 その預言の内容は、罪の指摘、裁きの宣告と、慰めや希望の言葉が一つの組み合わせとなり、大きく三つのメッセージが合わさり、ミカ書となっています。

(第一のメッセージが一章から二章。第二のメッセージが三章から五章。第三のメッセージが六章から七章です。)

 

 それでは、ミカが主に指摘した罪とは何でしょうか。(勿論、色々な罪を指摘しているのですが、大きくみますと)権力者、地位ある者に対する断罪が多く記録されています。(権力者、地位ある者たちに対する断罪が多いため、ミカは弱者に寄り添う預言者と評する人もいます。)

 ミカ2章1節~3節

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。』

 

 ミカが活躍した時代の中でも、特にアハズ王の悪行は聖書に記録されていますが、王だけが悪かったのではありません。王の悪影響が民に出たのか。民の悪が王に影響を与えたのか。その両方なのか。

力ある者が、さらに力を欲しがる。何を信頼したら良いのか多くの者が分からなくなった時代、ミカは権力を得れば安心という思想に楔を打ち込みます。悪人が寝床で悪巧みを計れば、主もまたその罰を計るという知らせ。より権力を得ようと躍起になる者たちへの断罪の言葉が響きます。どれ程力を得たところで、神様に敵対する事ほど、危険なことはないのです。

 

 また預言者に対する宣告も繰り返し出てきます。

 ミカ3章5節~7節

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、『平和があるように。』と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。

 

 自分に対する贈り物を持って来る者には平安を祈るが、何も持ってこない者には聖戦を布告したという。宗教を食い物にする預言者たち。唖然となる有り様。自分に与えられた使命を無視し、その立場を自分のためだけに使う悪。その結果、預言者自身が不幸になるだけでなく、神の民が神の言葉を聞くことが出来なくなる。混乱の時代に、ますます混乱が加わるのです。

 

 このような現実を前に、ミカは北イスラエル(サマリヤ)も、南ユダ(エルサレム)も滅びると宣言します。(北イスラエルの滅びは、ミカが生きている間に実現します。)

 ミカ1章6節、9節

わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。・・・まことに、その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。

 

 神の民が、神様を信頼することなく、自分の幸せのみを求める生き方となっている。そのため、神の民が滅びてしまう。世界を祝福する使命が与えられ、奴隷から助け出され土地が与えられ、ダビデの王位は続くと約束を受け、神様の宝の民と呼ばれた神の民が滅ぶ。絶望的な話。(エレミヤは、ユダの滅亡を預言する際、泣きながら預言しました。ミカも、その宣告を告げる際には、衣を脱ぎ捨て、裸足で歩いて、嘆き、泣き喚いたと記録されています。)

 

 それでは、ミカが告げた慰めや希望の言葉は、どのようなものでしょうか。

重要な内容の一つは王、支配者についての預言。ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと、それぞれの王の時代を生きたミカは、王が国にもたらす影響力の大きさを目の当たりにし、本当の慰め、回復には、真の王、真の支配者が必要であること。その支配者の誕生を予告します。

 ミカ5章2節

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

 

繰り返し堕落し、繰り返し神様以外のものに信頼を置く神の民。その神の民を助け出し、導くのに必要なのは、真の支配者、真の王。その王が生まれることの宣言です。それも永遠の昔からの定めであると言われ、人間の歴史がどのようなものであれ、神様の計画は微動だにしないと確認されます。

 

 このように、神の民が本来の使命に生きるためには、真の支配者が必要であることを確認するミカですが、それでは神の民自身は何も取り組まなくて良いのかと言えば、そうではない。神の民が取り組むべきことも語られていました。

 ミカ6章6節~8節

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

 

 何を頼りに生きれば良いのか分からない。混乱の時代にあって、今一度、神様を信頼する道を示すミカの言葉。神様は、どのようないけにえよりも(それも子どもをささげるというのは異教の風習であったもので、神様が喜ばれるわけがないのですが)、公義と誠実、謙遜と信仰を求めておられる。形式よりも、真実な歩みを求められている。ホセアが告げた「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」との言葉と共鳴します。私たちにとって最も大事なこと。最も優先すべきこととして、この言葉を覚えたいと思います。

 

 以上、簡単にですがミカ書を確認してきました。是非とも、ご自身でミカ書を読んで頂きたいと思います。

国際情勢が不安定になり、皆が我先にと自分の安全を手にしようとする状況。権力者、力ある者はますます力を手に入れ、弱き者はますます虐げられる。正しいこと、真実なことは後ろに下がり、利己的な生き方が前面となる。このように見ていきますと、ミカの生きた時代は、今の私たちの時代とかけ離れているどころか、似通っているように思います。果たしてこのような時代にあって、神の民はどのように生きたら良いのか。真に神様を信頼するとは、どのような生き方なのか。

何を信頼したら良いのか分からない。混乱が増す時代にあって、神様以外のものに信頼を置くことの危険性を必死に訴えたミカ。私たちもミカの言葉に心のうちを探られて、自分は何に信頼をおいていたのか、真剣に確認したいと思います。

神様が私に求めていることは何か。主を信頼するとは、今の私にとってはどのような生き方なのか。皆で深く考え、実践することが出来るようにと願います。

2016年11月13日日曜日

コリント人への手紙第一6章19節、20節「命を感謝する」


十一月になり、この一週間の間に寒さがまし、冬が近づきました。私たちの国では、十月から十一月、様々な記念日があります。体育の日があり、文化の日があり、勤労感謝の日があります。(私たちにとっては、十月三十一日の宗教改革記念日も大事な日です。)一年のいつでも、体を動かし、文化に親しみ、勤労を尊ぶことは大事なこと。記念日だけ意識すれば良いというものではないのですが、記念日は思いを新たにする一つのきっかけとなります。

今日は、成長感謝礼拝の日です。一年のいつでも、神様から与えられたいのちを大切にし、成長を感謝することは大事なことですが、今日の礼拝が一つのきっかけとなりますように。神様との関係を再度考えること。今の時代、この場所でいのちが与えられていることの意味を再確認出来るようにと願っています。皆様とともに、「いのちを感謝する」とは、どのような生き方なのか、考えたいと思います。

 

 開きます聖書箇所はコリントの教会に宛てたパウロの言葉です。

Ⅰコリント6章19節~20節

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

 

 コリント人への手紙には有名な言葉、金言がいくつもありますが、中でも有名な言葉。今日は「いのちを感謝する」ことをテーマに、この言葉に注目します。

 

 新約聖書の中には、パウロが書いた手紙がいくつもあります。これまで自分が関わって建てあげられた教会に向けて書かれた手紙。まだ行ったことのない、これから行きたいと思っている教会に書かれた手紙。個人に宛てられた手紙。色々なものがありますが、コリント教会というのは、パウロが伝道してたてあげられた教会。

 パウロがコリントで伝道した詳しい様子は、使徒の働き十八章に詳しく記されています。この時の伝道旅行は、当初思い通りにいかなく苦難が続く中、次第に状況が好転しました。コリントで伝道した際には、アクラとプリスキラという有力な夫婦が仲間となります。さらにしばし別行動をしていたシラスとテモテも合流し(この時、マケドニアの教会からの献金を二人が持って来たため、パウロは自活を辞めて伝道に専念出来るようになりました。)、伝道活動に多くの実りが期待される状況が整います。

 

 実際に、この地での伝道はうまくいっていたと思われる記事があります。

 使徒18章5節~8節

そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。

 パウロは新しい場所で伝道する際、まずユダヤ人を相手にしました。この時も会堂でユダヤ人相手にイエス様のことを語っていましたが、そのパウロの主張に反抗する人たちがいた。するとパウロは着物を振り払い、あなたがたには言うべきことを言ったと宣言して、会堂を出て行きます。この地での伝道は失敗なのかと思えば、パウロが勢いよく会堂を飛び出した後に入ったのは、会堂の隣の人の家でした。さらには、会堂管理者も一家を挙げて主を信じた。ユダヤ人だけでない、コリント人もキリストを信じたと記録されています。

 

さらに、このコリントの町での伝道の際に、神様からパウロに対する励ましの言葉が語られます。

 使徒18章9節~11節

ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

 

 この地での教会形成は一年半。パウロの伝道旅行の中では、長い期間です。ここに、パウロの他、アクラとプリスキラ夫婦、シラスとテモテもいた。ユダヤ人の中心人物(会堂管理者や会堂隣の者)も信仰を持ち、コリント人も信仰を持った。更には神様から「この町には、わたしの民がたくさんいる。」という励ましの言葉。

 これだけ見ますと、さぞや立派な教会、麗しの教会が建て上げられたのではないかと想像するところ。

 

 パウロはこのコリントでの伝道の後、エルサレムに行き、(派遣元のアンテオケ教会に戻ってから)続いてもう一度伝道旅行を行います。この伝道旅行でもコリントへ行くのですが、その前にコリントの教会に宛てた手紙が、コリント人への手紙となります。

(つまり、第二次伝道旅行で建て上げられたコリントの教会に、第三次伝道旅行でもう一度訪れる前に書かれた手紙がコリント人への手紙です。)

 

さて、このコリント人への手紙ですが、読んでみますと、コリント教会の実態に驚くことになります。ともかく酷い。悲惨な教会。

 勿論、問題の無い教会はありません。教会は罪赦された罪人の集まり。どのような教会でも問題があります。しかし、それにしても、コリントの教会の有り様は酷いもの。コリント人への手紙を読めば分かりますが、分派、訴訟、不品行、結婚、供物、集会、賜物、復活の理解について問題がありました。不品行の問題などは、目を覆いたくなる程。「異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいる。」とまで言われています。ある人は(カルヴァン)、「神よりも、むしろ悪魔が支配しているとでも思われるほど、悪徳の充満していた人間の集団」とまで表現しています。

 聖書の中には麗しの教会、目標にしたい教会があります。その地の人々の好感を得たエルサレム教会。世界宣教に取り組んだアンテオケ教会。貧しい中でも献金をささげたピリピ教会。熱心に聖書を研究したベレヤ教会。その中にあって、コリントの教会は見倣いたくない、目標にならない教会。

 

 苦節一年半。あれだけの人たちが労したコリントの教会が、ひどい状態であった。残念であると同時に不思議です。何故、コリントの教会は悲惨な状態なのか。

一つには、教会が建っているコリントの町が、ひどい環境であったからと考えられます。現在の地図を見てみても、コリントが栄えやすい土地であることが分かります。ギリシャの南北結ぶ土地。交通の要所、貿易の要衝。大都市コリントです。

 交通の要所、貿易の要衝ということは、人々が入り乱れる場所。手紙が書かれた当時、港町にはつきものの売春宿が流行り、千を超える神殿娼婦がいたと言われ、「コリント人のように生きる」とは、不道徳、不品行な生き方の代名詞とされました。商人たちのそろばん、旅人の乱交、売春巫女の色気が充満した、まさに欲望が煮えたぎる都市、コリント。

 このように見ていきますと、よくぞこの町に教会が建てられたとも思います。このような町と知って、「この町には、わたしの民がたくさんいる。」という神様の言葉を覚えると、あの時パウロがどれ程励ましを受けたのか、分かる気がします。

ともかくこの地の教会は、コリントの風習、文化の影響を直に受けるわけで、大変な環境でした。人間は環境に左右される。良い環境にあれば良くなり、悪い環境にあれば悪に染まるということが確かにあります。

 

しかし、コリント教会が問題山積みだった理由を、環境のせいだけにするわけにはいかないでしょう。本来、キリストの贖いの業は、環境より大きな力をもって、人間を変えるものでしょう。

ではコリント教会の根本的な問題は何でしょうか。現れてきた問題は、多種多様ですが、根本的な問題は一体何なのか。これほど問題が膨らんだ原因は何なのか。それは、コリントの教会が、「教会とは何か」ということを理解していなかった。クリスチャンとはどのような者か、分かっていなかったということです。

 

 パウロはこのコリントの教会に手紙を書きます。手紙を通して、コリントにある様々な問題に解決を与えようとします。それはつまり、教会とは何か。教会とはどのようなところなのかを教えることでもあるのです。

 その思いは手紙の冒頭にも表れています。

 Ⅰコリント1章1節~3節

神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

 多くの問題を抱える教会。異邦人にも見ない不品行を行っている教会。しかし、それでもパウロは「神の教会」「聖徒として召された」「聖なるものとされた方々」と呼びかけます。あなたがたは、キリストによって救われた人たち。現状がどうであれ、教会とされた人たちとの呼びかけ。

 パウロは手紙の中で、あれやこれやの問題に解決を与えようとしますが、その都度、教会とは何か、キリストによって救われた者はどのように生きるのか、確認することになります。

 

 このようなコリント人への手紙で語られたパウロの言葉。教会とは何か。キリストを信じる者とは、どのような存在なのか。必死に訴えかけるパウロの言葉が、今日注目したい言葉です。

Ⅰコリント6章19節~20節

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

 

 コリントの教会は様々な問題を抱えていましたが、この六章の終わりでパウロが扱っているのは不品行の問題、それも遊女と交わるなと言っています。「あなたがたはキリストのからだの一部。遊女と交われば一つからだとなる。キリストのからだをとって遊女のからだとするなど、絶対に許されない。」とパウロは言いますが、それをしていた者たちが、コリント教会にはいたのです。それも相当数いたと考えられます。当時の遊女は神殿娼婦が多く、遊女と交わるというのは性的不品行とともに信仰面でも問題。目を覆いたくなる現状でした。

 

しかし、それだけがコリント教会の姿ではないと言います。「あなたがたのからだは、聖霊の宮です。」「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」「あなたがたは、神の栄光を現わすのに相応しい者とされたのです。」と、福音の告げるコリント教会の姿を語ります。

 つまり、コリントの教会は、片一方に大きな罪の現実を抱えながら、もう片一方でキリストのもたらす恵みを手にしているのです。救われながらも罪の中に沈んでいる者たち。キリストを信じながらも、どのように生きたら良いのか分からなくなっている者たちに、パウロは今一度、自分自身がどのような者なのか思い出すように促します。「あなたのために、主イエスが何をされたのか。あなたのために、どれ程の代価が払われたのか。今や、あなたは聖霊の宮であり、罪の思いで自由に生きて良いものではない。むしろ、救われた者として、神の栄光を現わす生き方をするように。」と。

 救われた命を無駄にしないように。神様が下さった永遠のいのちを、永遠のいのちとして用いるように。拳を握り、唾を飛ばしながらのパウロの必死な姿が見えるところ。そしてこのように聖書を書かしめる神様の必死な思いを感じる言葉です。

 

 今日のテーマは「いのちを感謝する」です。それも特にキリストに頂いた永遠のいのちを感謝するとは、どのような生き方か考えてきました。「いのちを感謝する」というのは、ただありがたいと思うことではありません。頂いた永遠のいのちがどのようなものなのか。その永遠のいのちを手にした者が、どのように生きるのか。それをよくよく考え、実行することが、いのちを感謝することです。

 

 この一週間の自分の歩みを振り返りますと、実に罪にまみれたもの。神の子らしくない、クリスチャンと言うには恥ずかしい歩みをしてきました。コリントの教会はひどい教会と言いましたが、自分の行動、自分の心の中を見ますと、コリントの教会と変わらない。問題だらけでした。

 しかし、それが私の全てではないのです。今朝、もう一度、自分が頂いたいのちがどのようなものだったのか、聖書から確認したいと思います。片一方で、罪にまみれた自分の姿を確認しつつ、もう片一方で福音の語る自分の姿を確認します。私のために、主イエスが何をされたのか。私のために、どれ程の代価が払われたのか。今や、私は聖霊の宮であり、罪の思いで自由に生きて良いものではない。むしろ、救われた者として、神の栄光を現わす生き方をすること決心したいと思います。

 皆様も是非、今日の聖書の言葉に真正面して下さい。あなたのために、主イエスは何をされたでしょうか。あなたのために、神様はどれほどの代価を払われたでしょうか。あなたは聖霊の宮で、神の栄光を現わす生き方へと召された者です。そうだとしたら、あなたは今日、どのように生きるでしょうか。この一週間、どのように生きるでしょうか。

 

 最後にもう一度、今日の聖書箇所を皆で読み説教を閉じます。

コリント人への手紙第一 6章19節~20節

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

 

 自分は何者であるのか。どのように生きるのか。神様が言われていることを受け取ることで、いのちを感謝する歩みを送りたいと思います。

 

 

2016年11月6日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(27)~みこころが行われますように~」

今礼拝で読み進めている山上の説教。ここ数回にわたり、私たちはイエス様が弟子たちに教えられた主の祈りを学んでいます。日本語聖書で僅か11行。「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけに続く六つの祈願。しかし、短くて、簡潔で、子どもでも容易に口ずさめる主の祈りには、キリスト教の世界観、人生観が凝縮されていると言われます。




 教会でも、毎週の礼拝で祈ります。日々主の祈りをささげる人も多いでしょう。しかし、果たして私たちはどれ程その意味を考えつつ祈っているでしょうか。




信仰生活に祈りは欠かせないと分かってはいても、祈りが苦手と言う人。何を祈ってよいのか分からないと言う人。忙しくて時間がないと言う人も、この短い祈りの意味をひとつひとつ味わうことで、祈りに親しみ、神様との交わりを充実させることができるのではないかと思います。




 主の祈りを祈って、より深く神様を知り、神様と親しむ。私たちがこの世界に生かされていることの意味を知る。神様の眼でこの世界を見るようになる。祈りと言えば、自分の必要が満たされ、自分の願いが叶うための手段としか思っていなかった者が、主の祈りを学び、祈る内に、聖書の世界観、人生観に心の目が開かれてゆく。この様な祈りの生活を目指して、今日も主の祈りを学びたいと思います。




 さて、主の祈りは六つの祈願があり、前半の三つは神様のための祈り、後半の三つが私たちの必要の為に祈りとなっていることは、これまでも確かめてきました。今日扱うのは三つ目の祈願の最後、「みこころが天で行われる様に、地でもおこなわれますように」となります。




 イエス様は、最初に御名があがめられるように祈ることを教えています。祈りの出発点が私たち自身ではなく、神の御名つまり神様ご自身であることを明らかにされました。自分自身の必要、願いへの関心から神様ご自身への関心へ。この変化が私たちの祈りを豊かなものとすることを、イエス様は示されたのです。




 次の祈りは「御国が来ますように」です。神の国が到来して、神様の支配が私たちの心に、また、世界中に広がるように祈れとの勧めです。これに続くのが「みこころが地でも行われますように」です。神の国がこの世界に広がるためには、みこころに従う者たちが起こされ、本当に神の国が来ていることを人々に証しする必要があるからでしょう。




 ところで、最初にみこころについて整理しておきたいと思います。普段あまり意識することはないかもしれませんが、聖書が教えるみこころには二つの意味があります。一つ目は「絶対的なみこころ」と呼ぶことのできるもので、聖書に明確に示された神様のご計画、神様の教えで、イエス様を信じる全ての人に実現するみこころ、全てのクリスチャンが信じ、従うべきみこころです。




 二つ目は「一般的なみこころ」と呼ばれ、聖書に明確に示されていない事柄について、私たちが考え、行うみこころです。その場合、私たちは絶対的なみこころを土台として考える訳ですが、その人の性格や賜物、置かれた状況などによって、みこころは異なることがあります。つまり、これがただ一つの絶対的なみこころと言うのではなく、人によって異なる場合があるもの、幅があるものと言えるでしょうか。




 聖書は、神様が私達の人生に対し、この世界に対して、絶対的なみこころ、決して変わることのないご計画を持っていると教えています。私たちの人生に対してなら、例えばこのようなみこころが示されています。







 Ⅰヨハネ3:2「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」









 また、この世界に対する神様の絶対的みこころ、ご計画も、様々なことばで示されていますが、これも一つの例をあげるにとどめたいと思います。









 Ⅱペテロ3:13「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」









 神の子とされたものの、未だ罪人の私たちがキリストに似た者となる。この世界が正義に満ちた新しい世界と変わる。すでに、このご計画が実現完成しているのなら、私たちは思い悩むことも、苦しむこともないでしょう。しかし、現実には日々心の思いにおいて、ことばや行動において私たちは罪を犯します。この世界には不義がますます横行し、正義は廃れつつあります。悪人が栄え、義人が苦しむことも珍しくありません。




 何故、神様は直接手を伸ばして私たちの心をきよめ、この世界を正し、改良されないのでしょうか。神様は私たちを、この世界を見放したのでしょうか。聖書は、それは違うと語っています。神様は、ご自分の計画を私たちとともに実現しようとしておられると教えているのです。




 神様は、ひとりひとりがみこころと信じること、それを行うことを通して、私たちをキリストに似た者へと造り変え、この世界に神の国を広げようと計画しておられる。つまり、神様がひとりひとりの人生を、この世界を良いものとするために選んだ大切なパートナー。それが、私たちキリストを信じる者、神の国の民なのです。




 皆様は、私たちに対するこの神様の恵み、神様の期待をどれほど感じているでしょうか。この恵み、この期待を覚えて、主の祈りを祈る者でありたいと思います。




そして、聖書において示された私たちの生き方についてのみこころの中心にあるもの。それが、神様への愛と隣人に対する愛でした。聖書の中で最も大切な戒め、教え、みこころは何かと尋ねられたイエス様はこう答えています。









マタイ22:37~40「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。




律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」









 私たちがなす決断や行動は、それが小さなことであれ、大きなことであれ、すべて神様への愛と隣人への愛に基づくものであれ。これがイエス様のメッセージ、私たちに示された絶対的なみこころでした。




 しかし、このみこころを現実の生活の中で実行しようとすると、私たちは、置かれた状況で、自分に対する神様のみこころを考える必要があります。今、ここで、愛すべき隣人は誰か。どのような方法で助けたら良いのか。自分が使うことのできる賜物はなにか。時間はどれぐらいあるのか。相手の思いや必要をよく理解する必要もあるでしょう。自分が行おうと考えていることをどう思うのか。信仰の仲間に相談して、アドバイスをもらうことが良い場合もあると思います。




 この様に、生活の具体的な場面で、神様の自分に対するみこころを考え、何ができて何ができないかを判断し、自分のなしうる最善を尽くすことの大切さを教える。そのために語られたイエス様の例え話があります。









 10:30~37「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。




ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』




この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」









 このお話を読んで、皆様は自分の生き方が誰に重なるでしょうか。自分の安全を守るため人の厄介ごとには巻き込まれたくないとばかり、傷ついた旅人を無視し、道の反対側を通り過ぎて行った祭司やレビ人か。それとも、自分に対するみこころを考え決断し、なしうる限りの最善を行って旅人を助け、立ち去ったサマリヤ人でしょうか。




 「あなたも行って同じ様にしなさい」と言うイエス様のことばを聞いて、皆様ならこの教えをどう現実に適用するでしょうか。病んでいる兄弟姉妹を病院にお見舞いに行こうとする人がいるかもしれません。仕事で疲れ、心傷ついた友の話に耳を傾ける時間を取ろうと考える人もいるかもしれません。あるいは、人々を支える医療の仕事をしようと思う人、人々が安全に暮らせるよう治安を守る仕事に就きたいと考える人もいるでしょう。ナイチンゲールが戦場で戦い傷ついた兵士たちのため、敵味方の区別なく収容する病院、赤十字病院を作ろうと考えた時、心にあったのはこの物語とも言われます。




または、自分の家を心傷ついた人々の休みの場として提供する人もいるかもしれません。勿論、その様な人のために祈る、手紙を書くと言うのも良いことだと思います。自分が行ったことのない国に住む隣人、飢餓と貧困に苦しむ人々のために献金すると言うのも良いでしょう。




 いずれにせよ、私たちにとって身近な人々のことも、この世界のことも、神様の愛の眼でみること。今、ここで、何をすべきか。何を持って人を助けることができるのか。自分に対する神様のみこころは何なのか。私たちはそれを考え、みこころと信じるところを実行する者となりたいと思うのです。









 ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」









 このことばは、神様のみこころを考え、知る時、私たちは心の一新によって自分を変える必要があると教えています。ですから、もしイエス様の例え話を読んで、自己中心の祭司やレビ人を批判することで終わるなら、私たちは神様のみこころに従っていない事になります。




 私たちにとって、みこころに従っていないように見える配偶者や隣人を批判するのは簡単なことです。福祉対策に熱心でないように見える政府を批判するのも同様です。変わるべきは周りの人々や政府であって、自分自身ではないと考えている傍観者、評論家に、私たちはなりやすい者です。




しかし、神様が求めているのは、今、家庭で、地域で、教会で、広くこの世界で、自分に対する神様のみこころは何かを具体的に考えること、つまりどこまでも自己中心でいつづけようとする私たち自身を変えることなのです。




 私たちは罪人です。病気になったり、ストレスを抱えると、人のことを思いやる心の余裕をすぐに失ってしまいます。為すべきと思うことをできない言い訳を沢山考えます。誘惑に屈して自分の無力を感じ、心落ち込むこともあるでしょう。子どもを怒鳴ってしまったり、大切な人を傷つけたり、数えきれいない程間違った選択をしてきた者です。




神様を信じているからと言って、自分が道徳的に優れているなどと主張することはできません。むしろ、どうしようもなくなり、神様のところに行き、絶えず助けを求めなければならない存在ではないでしょうか。




その様な時こそ第三の祈願に帰りたいと思うのです。「神様。こんな罪人の私もあなたに救われ、神の国の民の一員として頂きました。今、ここで私がなすべきみこころを教えてください。それを行う思いと力とを恵んでください」。




ただ漠然とみこころがなりますようにと願うのではなく、現実の生活の中で自分に対するみこころを考え、行うこと。失敗したら神様のもとに行き、赦しと助けを受け取ること。そこで、自分のどこを変えればよいのかを考え、改めること。自分の人生に、広くこの世界に、神様のみこころが実現することを何より願う者として、日々歩みたいと思います。




 先月長老研修会が行われました。そこで講師の児玉先生が言われたことが今も心に残っています。何故、初代教会に対してローマ帝国の人々は心引きつけられたのか。人々を引き付けたのは建物でもプログラムでもない。その頃誰も行おうとしなかった貧者救済、病気の人に仕えること、物や機械の如く扱われていた奴隷たちを、神様に愛されている人間として接すること等、教会が教会としてなすべきみこころに徹したから。今の長老教会はどうだろうか。愛のわざによる地域社会への影響力はいかにと言う、心刺される締めくくりでした。




 最後に、食べ物のことを心配する弟子たちに向かい、イエス様が語ったことばを、今日の聖句ととして読みたいと思います。









 ヨハネ4:34「…「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」