2016年4月24日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「教会~キリストによって、互いに結び合わされ~」


私たちの教会のビジョン、それは「神と人とを愛する教会」です。ビジョンは私たちの教会が目指す姿ですが、神と人に対する愛はどの様な形で表されるのでしょうか。

 私たちの神様に対する愛は礼拝を通して表されます。神様を知らない人々への愛は伝道によって表されます。そして、兄弟姉妹への愛は交わりにおいて表されるのです。礼拝、伝道、交わり。どれも教会が大切にすべきものですが、2016年度私たちが特に意識して大切にしたい事、それは交わりです。

 教会の交わりと言う時、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。共に礼拝すること、共に語り合うこと、共に祈ること、共に食事すること、共に語り合うこと、共に労苦すること、共に喜ぶこと、共に悲しむこと、共に支えあうこと。聖書には教会の交わりの様々な側面が教えられていますから、一人一人交わりについて抱くイメージが違ってくるかもしれません。

また、交わりに対する思いも異なるでしょう。交わりを好む人もいれば、苦手と感じているもいるかもしれません。同じ人の場合でも、交わりを喜びと思う時もあれば、交わりに苦しむ時があるでしょう。交わりから離れたいと感じる時もあるのではないでしょうか。

交わりを大切にする。神様は人間を交わりの中に生きる為創造してくださいました。イエス・キリストは私たちが愛し合う交わりを築くために、十字架で罪の贖いの死を遂げて下さいました。聖書は、父なる神もイエス様も交わりを大切に思い、そのために私たちを創造し、罪から救って下さったことを教えています。

それに応えて、この2016年度、私たちも交わりの意味を学び、考え、実践してゆきたいと思うのです。今年度の聖句として選びました、エペソ416節のことばをもう一度お読みします。

 

4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

先ず注目したいのは、キリストによってと言うことばです。一つ前の節でキリストは教会のかしらとも言われています。かしらには上に立つ者、支配者と言う意味があります。市長、県知事、総理大臣など、私たちの社会にもかしらが存在します。

しかし、かしらにはもう一つ「源」と言う意味もあります。つまり、キリストは私たちの霊的成長の源、キリストによって、私たちは霊的に成長し、大人になってゆくことができるのです。ことばを代えれば、かしらであるキリストにつながっていなければ、私たちは霊的に成長することはできない存在だということです。

私は10年前脳出血を経験しました。私たちの頭、かしらには脳があります。脳には体の各部分に指令を出す神経が集まっています。私の場合は右の脳が出血しましたから、体の左側にある顔の筋肉、手の筋肉の一部分が機能しなくなりました。幸い、私の場合は軽く済みましたが、今でも顔の左側の筋肉の一部は動きませんし、お風呂に入って頭を洗う時など右手は使わず、気がつかないうちに左手だけを使っています。損傷の深刻な方の場合には、半身不随などで苦しむことになります。

つまり、体の器官にとってかしらにある脳につながっているかどうかは死活問題なのです。そして、体の器官がかしらにつながっていないと正常に機能しないのと同じく、キリストがいのちと成長の源ですから、キリストにしっかりとつながっていなければ、私たちも健康的な信仰生活を送るのは難しいことになります。

それでは、キリストにつながるとはどういうことでしょうか。それは、神さまとの平和で安心できる関係にあることです。

 

ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

 

キリストは十字架で、私たちの罪のために身代わりの罰を受け死なれました。そのキリストを信じた時、私たちの罪はすべて赦され、神様に義と認められました。つまり、実際私たちがどれ程罪を持っていても、神様は私たちを義と認め、愛し、受け入れてくださる関係に入れられたのです。どれ程酷い状態にあっても、私たちは決して神様から責められたり、さばかれたりすることのない関係、心から安心できる神様との平和な関係の中に守られているのです。

恐らく、皆様はこのことを何度も聞き、理解し、信じておられるでしょう。しかし、自分でも気がつかない心の深いところでは、神様との平和な関係にあると言う信仰に立てていないことがあるのではないでしょうか。自分自身がキリストによって、神様に100%受け入れられているという恵みを信じ切ることができない状態が起こってくるということです。

たとえば、日々の生活の中でなかなか聖書が読めない、奉仕ができない、隣人を愛さなければと思いながら愛することができない、身近な人との問題に適切に対応できないなどと言うことを経験します。

それらのことについて、自分の言動を改め決心をし、新たな思いをもって歩み始めるとします。けれども、しばらくはそれで良いのですが、また同じあるいは別の問題に直面して悩み、悔い改め、新たな思いを持ってスタートするということを繰り返すことになります。気がつけばいつも同じ様なところをぐるぐる回っている。いつの間にかそれが慢性化して、罪悪感や半分あきらめの気持ちが生まれてくる。この様な経験はないでしょうか。

また、親しい友人や、兄弟姉妹、家族から誤解されたり、心ない言葉を浴びせられたりするとショックを受け、「信頼していたのに裏切られた」とか「あの他人から離れよう」と考えてしまう。それで終わらず、「クリスチャンなのに怒ってしまった」「赦さなければならないのに赦せない自分はダメなクリスチャン」と、感じる人もいるでしょう。

この様な時、神様との平和な関係にあるという信仰に立てないと、決めた通りのことができない自分に罪悪感を感じます。周りの人のことばや態度に動揺して、自分を責めたり、相手を怒り責め続けることにもなる。つまり、非常に苦しい状態です。

それでは、神様との平和な関係にあるという信仰に立つなら、どうなるのでしょうか。最初は「何故?」と思うかもしれません。しかし、心の深いところに、罪も弱さもあるまま神様に愛され、受け入れられている自分がいるという安心がありますから、何が起こったのかを冷静に受けとめ、神様のみこころに従って問題を解決してゆく方向に心を向けることができます。

 私たちは、本当に神様に愛され受け入れられているという安心感がある時、自分の罪や弱さを直視し、それを修正することができるのです。キリストによって神様との平和で安心な関係の中に入れられ守られているという信仰に立つことが、私たちにとってどれ程重要なことか。改めて確認したいと思います。

 次に、覚えたいのは、ここで私たちは「体の一つ一つの部分」と呼ばれている点です。皆様は、自分がキリストの体である教会の一部分であることを自覚しているでしょうか。

 勿論、教会の礼拝に参加するだけでも、教会と言う体の一部、メンバーになるのですが、ここにはもう少し深い意味があります。

 それはまず、私たちがお互いに助け合い、支え合う関係にあることを意味しています。皆様もよくご存じのように、人間の体の各部分は互いに助け合い、支え合って存在し、機能しています。どの部分も自分一人頑張っても正しく働くことはできない、限界があるのです。

 顔の中では目が、内臓の中では心臓が重要な働きをしているように思えますが、目も心臓も脳とつながっているだけで機能することはできません。周りの器官に助けられ、守られて、初めて本来の正しい働きを為すことができるのです。

 このことが分かっていなかったのが、コリント教会にいた異言の賜物を語る人々でした。彼らは異言、他の人が語れない外国語を使って聖書の話をしたり、祈ったりできました。しかし、彼らのことばは、翻訳通訳する人の助けがあって、初めて周りの人の役に立つメッセージとなったのです。

 他の人の助け支えを認めず自らを誇る彼らを、聖書は霊的に未熟な人,霊的な子どもと呼んでいます。子どもは自分一人で何でもできると考えています。自分の限界、弱さを知らないのです。

しかし、大人は自分の限界、弱さを弁えています。自分が何かを行う場合、いかに多くの人が助け、支えてくださるかを知り、感謝することができ様になります。自分の賜物を他の人を助け支えるために用いたいと考えるようになります。これが霊的に成長すること、霊的な大人の姿です。

 さらに、教会の一部になるとは、私たちが教会の交わりの中で霊的に成長することを教えていました。ここに「体の一つの部分」である私たちは「しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長する」とある通りです。

 ここで「組み合わされる」と言うのは建築用語です。柱と梁がしっかりと組み合わされる時に使われたことばです。もし、柱の上に梁がのっているだけの状態であったらどうでしょう。地震が来たらその家はひとたまりもなく崩壊です。

 それでは、柱と梁とがしっかり組み合われるためには何が必要なのでしょうか。柱と梁の両方が削り取られ、そこでぴったりと組み合わされることです。私たちの場合も同じです。お互いに関わり合う関係の中で、私たちの中にある自己中心の性質がぶつかり合うことがあります。そうした自己中心の言動が削り取られて、私たちは組み合わされることができます。

 次に出てくる「結び合わされ」は医学用語で、骨と骨とが関節でしっかり結び合わされる状態を指しています。もし、骨が関節からずれてしまったらどうか。それが足の関節なら痛くて歩くことができません。踏ん張ることも無理でしょう。

 しかし、このずれを治してもう一度結び合わせれば、いくらでも歩くことができるようになります。私たちの交わりの中でも、行き違いに悩み、考え方の違い、ずれに苦しみことがあります。教会の一部になるということには、こうした一面もあるのです。

だからと言って、交わりから離れてしまうなら、私たちは自分の中にある自己中心の性質に気がつくこともなければ、人間関係の苦しみを味わうこともありません。しかし、それでは私たちは霊的に成長し、愛し合う交わりを築くことはできないと、聖書は教えているのです。

私たちの中にある自己中心の性質、それは神を中心としないと言う意味で罪です。それは余りにも私たちの一部になっているため、気がつきにくい性質でもあります。そのような時、それに気づかせてくれるのが教会の交わりではないでしょうか。

教会の中には生まれも、育った境遇も、性格も、生活のスタイルや価値観も異なった人が集まってきます。私たちがちょっと苦手と感じる人もいるかもしれません。しかし、その様な人たちと交わる中で、私たちの中にある自己中心の性質が明らかになります。

自分が心の深いところで神中心の考え方や行動をしてこなかったことに気がつき、神様の前に出て悔い改めることができるのです。教会の交わりには、一人だけでは気がつきにくい自分の罪や弱さに気づかせてくれる恵み、神様のみこころに従って、自分を変えてゆける恵みがあることを心に刻みたいと思います。

勿論、いつも助ける人と助けられる人が決まっているわけではありません。この手紙を書いたパウロは異邦人伝道に励み、各地に教会をたて上げた有名な使徒、即ち多くの人を助けた人ですが、同時に多くの人に助けられ、支えられてもいます。

教会の一部になること、それは私たちが皆人を助け支える喜びを味わうこと、同時に人から助けられ支えられる喜びを味わうことと言えるでしょうか。

そして、聖書は私たちが組み合わされ、結び合わされるために、備えられた結び目があると教えていました。この結び目が交わりの機会です。私たちの教会で言えば、世代別会や地域会、礼拝後の祈りの交わりや週日の様々な集会、奉仕を共にするグループがこれにあたります。教会に備えられた交わりの場,機会を用いて、交わりを実践してゆく歩みを、私たち皆で進んでゆきたいと思うのです。

最後に、具体的にお勧めしたいことがあります。もし、自分は礼拝には出席しているけれど、教会の一部になっていないのではないかと感じている人は、一つでも二つでも自分に合った交わりの場に参加してみることをお勧めします。

もし、自分には交わりの場があるという方は、自分から心を開くこと、特に生活の中で受けた神様の恵みを、どんな小さなことでも良いので話してみることをお勧めします。自分のことを話すには小さな勇気がいりますが、その一歩を踏み出すと、交わりが充実するのではないかと思います。

もし、交わりに悩んでいると言う人は、そこで気づかされた自分の弱さや課題を話すことができる交わりを求めると良いと思います。私たちの愛は、お互いの弱さを分かち合うことができる交わりの中で育ってゆくものだからです。自分の弱さを打ち明け、お互いの重荷を負い合えるような深い交わりを目指してゆきたいと思うのです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

2016年4月17日日曜日

ホセア書14章1節~7節「一書説教 ホセア書~それでも、なお~」


一般的に、言葉は誰が言うのかが大事と言われます。同じ言葉でも、発言者によって重み、重要性に違いが出ます。苦労した人の言葉は重みが増し、軽薄な生き方の人は言葉も軽くなることがあります。思春期には、親の言うことは聞きたくなく、同じ内容でも友人の言うことは聞き入れることがあります。言葉による影響力は、その言葉を使う人がどのような人なのか、その人と自分がどのような関係にあるのかによって変わるのです。

 説教についてはどうでしょうか。本来、説教はその内容が聖書に忠実であれば、誰が語ろうと、聞き従うべきもの。説教においては、誰が語ったのかということより、聖書が語られているのかが大事。その原則は見失わないようにと思いつつ、しかしやはり、聞く者にとっては、誰が語っているのかも重要な事柄になります。

神学校の説教学という授業で聞いた話。説教学の先生が、あるクラスで、かつて自分がした説教を神学生に披露し、批評するように伝えたところ、概ね素晴らしい説教だという意見しか出なかったそうです。その先生が別のクラスで、同じ説教を披露しつつ、これは問題を起こして辞任することになった牧師の説教として、批評するように伝えたところ、神学生の出した意見は概ね酷評だったとのこと。全く同じ説教でも、説教学の教師の説教として聞くのか、問題を起こして辞めた牧師の説教として聞くのか、大きな違いがあったという話です。知らない人の説教よりも、信頼関係のある人の説教の方が、受け入れやすいということがあります。

 

 聖書の中、一つの書を丸ごと扱う一書説教。断続的に行ってきましたが、今日は二十八回目。旧約聖書第二十八の巻き、ホセア書です。

預言者ホセアの言葉。それは、旧約の説教者ホセアの説教と読むことも出来ます。誰だか分からない人の話としてではなく、ホセアという人がどのような人で、どのような時代に、どのような人生を生きたのか。理解を深めつつ、そのホセアを通して語られた言葉として、重みを感じながら読み進めたいと願います。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それではホセアとはどのような人で、どのような時代に活動した預言者でしょうか。まずは時代から確認します。

 ホセア1章1節

ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。

 

 イスラエル王国が南北に分裂した後のこと。ホセアは、BC790年頃から、約六十年に渡って北王国で活動する預言者です。(南ユダの王がウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤとなれば、北イスラエルの王はヤロブアムからアッシリヤ捕囚に至るまでの時代となります。しかし不思議なことに、一章一節では北イスラエルの王はヤロブアムの名前しか記されていません。)

北がヤロブアム王、南がウジヤ王の時代は、イスラエル地方は政治的、経済的には安定しました。ところが、ヤロブアム王以降、北王国は低迷期となります。三十年の間に、六人の王が立ち、その内四人は暗殺されます。三人は治世が二年以内。大混乱期となり、ついには強国アッシリアに滅ぼされる歩みとなります。

 政治的、経済的に大繁栄した時代。とはいえ、それは信仰よりも政治や経済を優先させたものでした。何が真実か、何が正しいかよりも、富国強兵が良しとされた時代。物質的繁栄は道徳的腐敗に通じ、偶像崇拝、貧者圧迫も時代の特徴と言えます。しかもその結果、富国強兵の願いとは裏腹に、国は衰退し、混乱は増し、ついには大国に滅ぼされていく。ホセアが活動したのは、激動の時代でした。

(ちなみに同時代、同じ北王国で活動した預言者にアモスがいます。同じ時代、南王国で活躍したのはミカ、イザヤです。)

 

 それではホセアはどのような人でしょうか。預言者の中でも特異な経験の持ち主。私たちからすれば興味深い、本人からすれば大変な経験を神様から命じられた人物。

 ホセア1章2節~3節

主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。

 

 聖書の中には様々な預言者が登場しますが、ホセアは姦淫の女を娶るようにと命じられた人。「姦淫の女を娶れ」と言われ、ホセアはゴメルと結婚します。

姦淫の女と言われて、何故ゴメルだと思ったのか。ゴメルはその地方の名うての遊女であったのか、バアル宗教の神殿娼婦だったのでしょうか。分からないことが多いのですが、しかし、預言者として生きて行こうとするホセアにとって、「姦淫の女を娶れ」というのは、避けたい選択であったことは十分に理解出来ます。

「姦淫の女」という言葉が何を意味するにしろ、性的に問題のある女性と親しくなり結婚するとしたら、それによって預言者としての活動に支障が出るのではないかという恐れがあります。仮に私が未婚で、これから結婚するとして、その相手の女性が、聖書に従う思いはなく、性的にふしだらな人であったとしたら、皆様は私が牧師を続けられるかどうか疑問に思うのではないでしょうか。それでもホセアは、神様に命じられた通りにします。ホセアの信仰が見えるところ。

 

 困難が予想される状況で、それでも神様の言われる通りにしたホセア。主に従い、これからは祝福された結婚生活が待っているかと思いきや、ゴメルはホセアのもとを離れ、他の男のもとへ行ったといいます。ホセアの人生は大変な人生。

 自分のもとから離れ、著しく身を崩した妻。それでも迎えに行くようにと神様はホセアに命じます。

 ホセア3章1節~3節

主は私に仰せられた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。』そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』

 

 このような出来事は何を意味しているのでしょうか。

 一つには、預言者ホセアは、生き方で神の言葉を語る預言者として召されたということです。不貞、不忠実を繰り返す者を追いかけ、赦し、受け入れる。その生き方が、神様の神の民に対する向き合い方を示すものでした。ホセアの生き方を見て、そこまでするのかと思うとしたら、罪人に対する神様の姿にこそ、そこまでするのかと驚嘆すべきでした。また、生き方を通して、神の言葉を語ることがあることも覚えておきたいと思います。私たちの発する言葉だけでなく、私たちの生き方自体が、福音を示すものでありたいと思います。

 

 不貞の妻を追いかけ、赦し、受け入れる。このような出来事は何を意味しているのか。もう一つの意味は、この出来事は、ホセアを預言者として整えたということです。聖書の中で、神様と神の民の関係は婚姻関係にたとえられることがあります。そのため、神の民が他の神々を拝む時、偶像礼拝に走ることを、姦淫と表現されます。

ホセアの語る主なメッセージの一つは、神の民が宗教的姦淫にふけることへの糾弾、警告。(同時代、同じ北イスラエルで預言するアモスと比べると、特徴がよく分かります。アモスの主なメッセージは、罪への糾弾の中でも社会悪、不正に対するもの。対してホセアは罪の糾弾の中でも、宗教的姦淫が扱われます。)いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば

 ホセア4章12節~13節

わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。彼らは山々の頂でいけにえをささげ、丘の上、また、樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で香をたく。その木陰がここちよいからだ。それゆえ、あなたがたの娘は姦淫をし、あなたがたの嫁は姦通をする。

 

 妻が自分のもとを離れ姦淫を繰り返す痛み、苦しみを知るホセア。裏切られることの痛みを知り、それでも愛することの情熱を持つ預言者。他の者ではない、ホセアを通して、神の民の姦淫が糾弾されることに意味があります。ホセアにおいては、姦淫の女と結婚することが、預言者として相応しくないのではない。むしろ預言者として整えられるための出来事であると思うのです。

 私たちも、あのホセアを通して語られた言葉として、その重さを味わいつつ、読みたいと思います。

 

 それでは、ホセアの語った言葉はどのようなものでしょうか。概観することが難しいホセア書ですが、その語られている言葉は、大きく三つに分けることが出来ます。

 一つ目は罪の指摘のメッセージです。「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもない。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。」(四章一節から二節)のように、直接的、具体的に罪を指摘することもあれば、「まことにイスラエルはかたくなな雌牛のようにかたくなだ。」(四章十六節)とか「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(六章四節)のように、間接的、抽象的表現で罪を指摘することもあります。

 そして確認してきたように、主に扱われるのは、霊的姦淫の罪。偶像礼拝の罪。主なる神以外のものを神として生きること。真に頼るべきお方以外を頼りにすることが、大きな問題として指摘されるのです。

 

 二つ目は、罪に対する裁きの宣告です。「わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになる。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない。」(五章十四節)とか、「アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。」(十一章五節)など。義なる神様の罪に対する激しい言葉が繰り返し出てきます。

 

 三つ目は、赦しの宣言、救いの宣言です。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また包んで下さるからだ。」(六章一節)とか、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことが出来ようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(十一章八節)など。愛なる神様が、いかに神の民を愛しているのか、これも繰り返し出てきます。

 

 読み進める際に、罪の指摘がされる箇所では、自分にもその罪がないか真剣に考えたいと思います。裁きの宣告がなされる箇所では、罪をそのまま放置しておくことの危険を再確認したいと思います。神様が神の民をいかに愛しているのか語られる箇所では、その神様の愛を受け取るべく招きに応じたいと思います。かつての北イスラエルに語られた言葉としてだけではなく、今の私にも必要な言葉として読むことが出来るようにと願います。

 

 実際に読み進めてみますと、ところどころに聖書の中でも有名な箇所が出てくることに気づきます。それもホセア書の特徴の一つと言えるでしょうか。例えば、

 ホセア6章6節

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

 

 「主に立ち返ろう。主を知ることを切に求めよう。」との勧めに続く言葉。いけにえをささげる行為自体よりも、心を見られる神様。心のともなわない礼拝よりも、神を知ろうとする心自体を神様は喜ばれる。だからこそ、主を知ることを切に求めようというのです。

 そしてお気付きでしょうか。主イエスがマタイを弟子にした際。パリサイ人たちが文句を言ったことに対して、反論した場面でこの言葉を引用しています。イエス様はこのホセアの言葉を枕にして「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た。」と言われました。

 あるいはホセア書13章14節

わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。

 

 罪が蓄えられ、自分ではどうにもできない状況にあるものを、神様は助け出して下さるとの宣言。そしてお分かりになるでしょうか。後にパウロが、死からの復活を説く際に、このホセアの言葉をもって感激を表していました。

イエス様が、あの場面で引用された言葉。パウロがあの段落で引用した言葉と意識すると、ホセア書が身近に感じられるところです。

 

 以上、大雑把にですが、ホセア書を読む備えに取り組みました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。激動の時代、特別な経験をするように召された預言者ホセアの言葉。生活の全てを用いて、神の言葉を語ることに取り組んだ、信仰の大先輩の言葉を読みます。その重さ、真剣さを味わうことが出来ますように。ホセアの思いを意識しつつ、同時に自分はゴメルの立場であったこと、罪を指摘し糾弾される側であることも忘れずに読み進めることが出来ますようにと願います。

 

 最後に、ホセア書の終わりの言葉を確認して、終わりにしたいと思います。

 ホセア14章1節~7節

イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

 あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。』

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

 

 政治的、経済的に安定と引き換えに、偶像礼拝がはびこり、道徳的、倫理的に腐敗した時代。姦淫の女を妻とし、結婚後も妻を追いかける特異な経験をするホセア。自分の生活全てで神の言葉を語る預言者。しかし、神の民は聞き入れません。次第に国際情勢も不安定になり、王は次々に代わり、国が滅んでしまうと思われる状況。絶体絶命。もう終わり。もう助かりようがないと思える、あの北イスラエルの終焉の時代に、それでもホセアはこの言葉を告げていました。「主に立ち返れ。わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」と。悔い改めるのに、遅いということはない。神の民に絶体絶命などない。不信仰、不貞、不忠実を繰り返しても、それでも、悔い改めの道が用意されている。福音が、このホセア書にも記されていることを確認して、私たちも「主に立ち返れ」という招きに応じたいと思います。

2016年4月10日日曜日

マタイの福音書5章17節~20節「山上の説教(11)~本当に義しい生き方~」


私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めています。山上の説教の入口には「幸いです」で始まるイエス様の八つのことばが集められており、この部分は八福の教えとも呼ばれています。

心の貧しい人、自分の罪を悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、あわれみ深い人、平和をつくる人、義のために迫害されている人。ここにはイエス様を信じる者の姿が八つの面から描かれています。私たちは「神様の眼から見て幸いな人とは、こういう人たちだよ」と語るイエス様のみ声を一つ一つ確かめてきました。

次に語られたのは、イエス様を信じる者がこの世において期待されていることです。イエス様は私たちを「地の塩、世界の光」と呼びました。塩としてこの世の腐敗を防ぐように、光として輝き、神様を知らない人々に神様のすばらしさを示すようにと教えられたのです。

そして先回。私たちが幸いな人、地の塩、世界の光として生きようとする時、その基準となるものは何かが教えられました。それは、律法や預言者つまり旧約聖書であり、聖書にしるされた律法、神様の教えです。

「律法や預言者、旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言われたとおり、イエス様は私たち人類の罪を背負い、私たちの身代わりに十字架で死なれ、罪の罰を受けてくださいました。

また、生涯を通し聖書にしるされた律法、戒めを、心を尽くし、力を尽くして実行されたのです。父なる神の御心を行うことは喜びであり、心の糧であると言う程、イエス様は律法を大切にし、愛しておられたのです。ですから、「戒めを守り、また守るように教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれる」として、私たちにも律法を守るよう勧められたのは当然のこととも思えます。

以上、先回までの流れを確認してきましたが、今日のイエス様のことばは読む者をして驚かしめます。「この様なことを言われたら、とても自分など天国には入れない」。そう感じる人がいてもおかしくはないことばなのです。

 

5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」

 

ここで言われる義とは、律法を守ること、戒めに従うことです。神様の眼から見て義しい行いを指しています。そうしますと、ここでイエス様は、ご自分を信じる者の行いが律法学者やパリサイ人と言う当時の宗教指導者の行いよりも義しくなければ、天国に入れないと教えているのでしょうか。

聖書は至るところで、私たちは自分の行いによっては救われないこと、天国に入れないことを教えています。ただイエス・キリストを信じて救われ、天国に入れると教えていました。ですから、「私たちの行いが義しくなければ救われない、天国に入れない」と、イエス様が教えいるとは思えません。

むしろ、ここでイエス様はご自分を信じる者が受けとる恵みについて教えられていると考えられます。イエス様を信じて救われ天国の民となった私たちは、律法学者やパリサイ人よりも義しい行いを為す恵みを神様から受け取ることができると、約束しておられるのです。

イエス様は、当時の常識からすれば非常に自由に振舞うお方でした。身をきよめることに熱心なユダヤ人は市場から家に戻ると、念入りに体をきよめ、洗いました。しかし、イエス様も弟子たちも手を洗わずにパンを食べ、そればかりか全ての食物はきよいと教えました。

パリサイ人が重んじた断食も、それほど重視していない様に見えます。ご自身が断食をしなかったわけではありませんが、断食が神様に対して特別な徳となると言う考え方は持っていなかったようです。その態度に宗教指導者は不満であり、批判的でした。

当時パリサイ人、律法学者が特に重んじたのが、安息日の規定です。「安息日に働いてはならない」と言う十戒のことばを守るため、してはならない仕事のリストを作りました。火を炊く事、1.1キロ以上歩く事、畑に種をまく事収穫する事、物を運ぶ事、病人の手当てをする事等、微に入り細に入り禁止事項を作って人々の行動を規制しました。それ程几帳面な彼等ですから、平気で規定を破るイエス様の行動に我慢できず、怒りを向けたのです。

さらにその頃世間の人が忌み嫌った罪人や遊女、収税人たちとも食事をし、親しく交わり「収税人や遊女の友」と批判されました。人々の目から見れば、宗教の教師として余りにも自由奔放で破天荒。その生き方は神様の律法への無視、挑戦と映ったのです。けれども、律法を大切にし、全力で成就、実行したイエス様。神様の戒めを愛し、それを行うことを喜びとしていたイエス様から見れば、律法学者パリサイ人こそ律法の真の意味を誤解し、歪め、人々に教えている者たちだったのです。

それでは、イエス様が考える義、本当に義しい生き方とは、どのようなものなのでしょうか。参考にしたいのは、パリサイ人が登場するイエス様のたとえ話です。

 

ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

先ず登場するのはパリサイ人。パリサイ人はその頃の宗教指導者、人々の尊敬厚いエリートでした。この人はそれにふさわしい生活を送っているように見えます。人を強請る、不正を働く、姦淫等の悪には手を染めず、断食や献金など正しい行いには人並み以上に励んでいるからです。彼がこの様な人生に満足していることがそのことばから伺えます。

しかしイエス様は、パリサイ人は「神から義と認められなかった」と言われます。パリサイ人は自分の生き方を100点満点義しいと感じていましたが、神様の眼から見るなら全く義ではない、悲惨な状態にあったと言うことです。

人を脅かしたことはないけれど、この時隣にいた収税人を見て「この人のように酷い人間ではなくてよかった」と思い、裁判官のように人を見下す心の殺人。実際に姦淫を実行しなくとも、心に蠢いていたはずの情欲。人の眼、世間の評判を意識して行った断食や献金という行いの奥に潜む虚栄心。そして、何よりも聖なる神の前で自分の行いを良しとし、神様の赦しとあわれみが必要とは感じていない高慢。

心の殺人に姦淫。虚栄心に高慢。パリサイ人は心がこれ程悲惨な状態にある事に気がつかず、神の前に出ているのに自分の心を見つめようともしてはいません。これが、「この人は神から義と認められなかった」と言われた理由です。

それに対して、収税人は世間の嫌われ者。パリサイ人が言ったように人を脅す、不正を働く、姦淫等様々な悪を行ってきたことでしょう。しかし、この時彼は神様の前に出て、自分の心と行いとがいかに罪深いかを見つめています。

「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と言う行動自体が、自分に対する深い失望、罪への悲しみを表わしています。そして、彼が願ったのはただ一つ神様のあわれみでした。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」イエス様は「この人こそ神から義と認められた」、つまり神様から見て義しい人、義しい生き方をしていると言われたのです。

この譬えから教えられるのは、神様が最も関心を寄せているのは表に現れる行いではなく、心だということです。私たちが心に抱く思い、願い,想像や動機に神様の眼は向けられているのです。心にある汚れた思いや、自己中心の性質を認めない人、世間の評判や人の眼を意識した行い、自己満足のための善行を為す人を、神様は義とは認めないということです。

 

マタイ23:25,26「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」

 

ここに言われる杯の内側とは私たちの心を、杯の外側は行いを意味しています。パリサイ人は表に現れる行いが義しけ神に受け入れられ祝福される。そうでなければ、神に受け入れられないし祝福されることもないと考えていました。

もしかすると、私たちも同じ考えで信仰生活を送ってはいないでしょうか。礼拝出席や奉仕、献金など、自分はきちんと行っているから大丈夫、伝道にも努めているから信仰生活に問題なしと思ってはいないでしょうか。

私たちは行いによってではなく、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、神様に受け入れていただいたと信じています。これが聖書の正しい教えと理解しています。しかし、実際の生活において、行いによって自分の信仰を評価しているとすれば、それはパリサイ人の様な行いにより頼む信仰であることに注意したいと思います。

イエス様が勧めるのは、まず何よりも心をきよめることです。「心をきよめる」と言うと、私たちは心に汚れた思いや自己中心的な動機がない状態を思います。けれども、先の譬えからも分かるように、それは全く違います。

あの収税人のように自分の心を見つめ、そこにある汚れた思いや願い、自己中心的な動機、間違った行いを繰り返してしまう弱さを自分の問題として認めること、それに対して自分が無力であることを悲しみ、神様のあわれみと恵みを求めること。これこそ、イエス様が教える心のきよめです。その様な心から義しい行いが生まれてくると、イエス様は保証しておられるのです。

 最後に皆様と確認したいのは、義しい生き方をするために、今日のイエス様のことばで言えば「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」を身に着けるために、神様がどのような助けを私たちに与えてくださったかということです。今日覚えたいのは三つの助けです。

 一つ目は、神様の恵み、ことばを代えれば神様との安全な関係です。

 

 ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

 

 皆様は何度罪を犯しても、神様が自分をさばかず、心から大切に思い受け入れてくださるお方であることを信じているでしょうか。私たちが奉仕や献金や祈りができず、自分自身を責めても、神様は決して責めず、測り知れない愛のうちに私たちを守ってくださるお方であることを信じているでしょうか。

 イエス様を信じる者はこの様な神様との安全な関係にあることを、このことばは教えています。この様な関係にある時、私たちは自分の罪や弱さとしっかりと向き合い、それを神様が望む義しいものに変えてゆきたいと、心から願うことができるのです。

 二つ目は、律法です。律法、聖書の教えは、私たちのあるべき行い、生き方を示しています。私たちは律法を学び実行することを通して、いかに自分があるべき状態から離れているかを実感します。自分がどの様な点で成長する必要があるのか、また、成長のためにどれ程神様の恵みが必要であるかを教えられるのです。

 私たちは山上の説教を通して律法、イエス様の教えを学んでいます。学んだことを実行しようとすると、これがいかに難しいかを嫌と言う程経験し、神様の恵みにより頼むことになるでしょう。しかし、それで良いのです。私たちを徹底的にへりくだらせ、神様の恵みに信頼する生き方へと導くもの、それが律法だからです。

 最後は時間です。私たちの心と行いがきよめられてゆくには時間が必要です。聖書は、私たちが神様との安全な関係の中で、徐々に義しい者へ成長してゆくことを教えています。

 皆様は、美しく高い山が目の前にある時、山頂に登る方法として、もしヘリコプターに乗ってゆくことと登山があるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。多くの人は一気に山頂に到着できるヘリコプターを選ぶでしょう。私もそう願います。

 しかし、神様は一気に私たちを義しい生き方のできる者へと作り変えるのではなく、私たち自身が一歩一歩歩んでゆく登山を勧めておられ様に思います。イエス様が「日々、自分の十字架を負い、わたしに従ってきなさい」と言われたように、地上における一日一日の歩みが、正しい生き方を目指して進む、神様と私たちの共同作業なのです。

 登山ですから、ゆっくりでよいと思います。人より先に行こうと焦ったり、人より遅れたらどうしようと心配する必要もありません。大切なのはいつもイエス様がともに歩んでくださるのを忘れないことではないでしょうか。

勿論、途中で転んでいたい思いをすることもあるでしょうし、道に迷って不安になることもあるでしょう。坂道の連続に苦しむこともあります。そんな時は、神様が必ず私たちを義しい者へと作り変えてくださる日が来るという約束を杖にして、歩みを進められたらと思うのです。今日の聖句です。

 

詩篇119:35「私にあなたの仰せの道をふみ行かせてください。私はその道を喜んでいますから。」

   

2016年4月3日日曜日

マタイの福音書5章17節~19節「山上の説教(10)~律法を愛する人生への招き~」


私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。受難週、イースターの礼拝があり間が空きましたが、今日は再び山上の説教に戻ります。

山上の説教を一つの建物に譬えれば、その入口にあたるのが幸福の使信です。「幸いです」で始まる八つのことばが集まっているため、八福の教えとも呼ばれています。

ここには、イエス様を信じる人の姿が八つの面から描かれています。即ち、心の貧しい人。自分の罪を悲しむ人。柔和な人。義に飢え渇く人。あわれみ深い人。平和をつくる人。義のために迫害されている人。この様な人こそ幸いであると言うキリスト教的幸福観。神様の眼から見て幸いな人の姿を、私たちは一つ一つ確かめてきました。

次に、イエス様が語られたのは、キリストを信じる者がこの世において期待されていることです。イエス様は私たちを「地の塩、世界の光」と呼びました。塩としてこの世の腐敗を防ぐように、光として輝き、神様を知らない人々に神様のすばらしさを示すようにと教えられたのです。

そして、今日の箇所は、幸いな人が地の塩、世界の光として生きようとする時、最も大切にすべきものは何か。それがイエス様の口から語られる所となっています。

 

5:17,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 

律法や預言者とは、イエス様の時代の人々が旧約聖書を指す際用いていた一般的なことばです。イエス様は神の御子ですから、旧約聖書を大切にしておられたことは当然と思われます。それなのに、何故イエス様は「律法や預言者、旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言われたのでしょう。

イエス様は、当時のユダヤ人の常識からすれば驚くほど自由に振舞っておられます。身をきよめることに熱心なユダヤ人は市場から家に戻ると、念入りにきよめの洗いをしました。専用の樽も用意していた程です。しかし、イエス様も弟子たちも手を洗わずにパンを食べ、そればかりか全ての食物はきよいと教えました。

パリサイ人が重んじた断食も、それほど重視していない様に見えます。ご自身が断食をしなかったわけではありませんが、断食が神様に対して特別な徳となるといった考え方はなかったようです。その態度に宗教指導者は不満であり、批判的でした。

当時ユダヤ人が特に重んじたのが、安息日の規定です。「安息日に働いてはならない」と言う十戒のことばを守るため、してはならない仕事のリストを作りました。火を炊く事、1.1キロ以上歩く事、畑に種をまく事収穫する事、物を運ぶ事、病人の手当てをする事等、微に入り細に入り禁止事項を作って人々の行動を規制しました。それ程几帳面な彼等ですから、平気で規定を破るイエス様の行動に我慢できず、怒りを向けたのです。

さらにその頃世間の人が忌み嫌った罪人や遊女、収税人たちとも食事をし、親しく交わり「収税人や遊女の友」と批判されました。人々の常識的な目から見れば、宗教の教師として余りにも自由奔放で破天荒。その生き方は神様の律法への無視、挑戦と映ったわけです。

けれども、人々がその様に考えたのは、彼らの目が開かれていなかったためでした。イエス様ほど旧約聖書を重んじ、その真の意味を説き明かすことのできる人はいなかったのです。イエス様ほど律法を心に刻み、守り、実行することに力を尽くし、それを喜びとする人はいなかったのです。イエス様のその様な思い、旧約聖書に対する愛を、はこのことばから感じることができます。

 

5:17,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 

 それでは、律法と預言者つまり旧約聖書を、イエス様はどの様に成就されたのでしょうか。

旧約聖書の様々な箇所で、神様はご自分に背を向け自分の思いのまま生きる罪人に、救いの約束を与えています。神様と罪を犯した人間の間に立つ仲保者、救い主を送ることを何度も約束しているのです。これが預言でした。

 イエス様がベツレヘムの町で処女から生まれることも、人々の病と患いを身に負い、癒しと回復を与えることも、人類の罪のために尊い命を捨てられたその生涯の全体が、旧約聖書の預言の成就なのです。

 また、イエス様は律法としての旧約聖書をも実行、成就されました。私たち人間は律法の要求を満たすことはできません。神様を愛しなさいと言われても、神様以外のもので心満たそうとします。神ではない偶像に心を向けてしまうのです。隣人を愛しなさいと言われても、妬みや怒りで心が一杯となることもあるのです。そして、律法を守れない私たちは罪人とされ、神様の怒りの対象となってしまいました。ですから、イエス様が律法が要求する罪の刑罰、父なる神様にさばかれ、見捨てられる永遠の死とその苦しみを十字架で私たちに代わって受けられたのです。

さらに、イエス様は罪を犯すことなく、父なる神様のみ心を完全に実行し、みこころを行うことを生きがいとし喜びとされました。

 

ヨハネ4:34「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

 

 こうして、律法は全て余すところなく、イエス様によって成就し、実行されたのです。

  これ程律法の成就に全身全霊をささげ、律法を愛し、実行することを喜びとされたイエス様が、これを守ることを私たちに勧めるのは当然のことかもしれません。

 

 5:19「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」

 

 イエス様を信じた時、私たちは罪の赦しの恵みを頂きました。しかし、恵みはそれにとどまりません。イエス様を信じる者はこの世界を創造した神様を天の父として愛する恵みを与えられたのです。

 

 ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」

 

 神様を天の父と信じる前の私たちにとって、律法は私たちを罪に定め、責めるもの、恐れの対象でした。しかし、神様を天の父として愛する私たちにとって、律法は自分を子として愛してくださる神様のことば、愛の対象へと変わったのです。

 旧約聖書には十戒を中心として様々な律法、戒めがあります。新約聖書におけるイエス様の教えや使徒たちの教えは、新しく考え出されたものではありません。旧約聖書に定められた律法の真の意味の説明であり生活への適用です。

そして、その律法の中で最も大切な戒めは何か。扇の要は何かと言えば、このイエス様のことばに集約されていました。

 

マタイ22:37~40「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

しかし、もし、この二つの戒めしか聖書に記されていなかったとしたら、どうなるでしょうか。

私たちは愛するとはどういうことか、具体的に学ぶことができないでしょう。自分が置かれている状況で、人を愛するとはどういうことなのか。話をじっくり聞くことなのか。物を分け与えることなのか。荷物を運んであげることなのか。赦すことなのか。励ますことなのか。戒めることなのか。具体的に神様のみ心を考え、生活に適用、実行するための土台や具体例をもたないことになるでしょう。

また、私たちの中にある愛は自己中心的ですから、自分勝手な愛の押し売りで相手を傷つけたり、人を支配してしまうこともあると思います。ですから私たちの正しくされ、具体的に実践ができる為に、様々な律法、戒め、教えが与えられていることを覚えたいのです。

イエス・キリストを信じた私たちには、神様への愛と律法への愛が恵みとして与えられています。同時に、私たちがなすべきことも律法として与えられているのです。もし、神様の恵みに目を留めないなら、律法を学び実行することは私たちの人生に何の喜びももたらさないでしょう。逆に、もし、自分がすべきことを無視するなら、抽象的な愛、頭の中だけのキリスト教に終わってしまうのです。

ある夫婦のお話です。夫婦関係について説教を聞いたふたりが「きょうは良い説教を聞いた」と感じ帰宅しました。二人はお互いに礼拝の恵みを分かち合いますが、やがて口論となってしまいます。夫は「妻はキリストに仕えるように夫に仕えなさい」と説教で教えられたじゃないか」と妻を責める。妻は妻で「それなら、あなたもキリストが愛したように、私を愛してみなさいよ」と反論する。収拾がつかない大喧嘩に発展したそうです。

この夫婦は何を間違っているのでしょうか。聖書の律法は、相手を自分の願う通りに変えるためではなく、自分自身を変えるためのもの。相手にではなく自分に適用すべきものです。しかし、私たちはこの間違いに何としばしば陥ってしまうことでしょうか。その様な自分に気がつかないことが何と多いことでしょうか。

この場合、夫には妻が喜んで従いやすい夫になるためにはどうすれば良いかを学び、実践することが、妻は夫に愛されやすい妻になるにはどうすれば良いかを考え実行することが求められているのです。律法は、相手の幸いのために自分を変える。そのために与えられたものであることを心にとめたいと思います。

最後に、確認したいのは、神様との関係の中で律法を実践してゆくことの大切さです。先ほど、イエス・キリストを信じた私たちは神様と父と子の関係に入れられたことをお伝えしました。ということは、律法は私たちが神の子らしく生きるための神様からの贈り物と考えることができます。

もし、皆様が親として我が子におもちゃをプレゼントしたとします。ところが、子どもはおもちゃを使うのにおっかな,吃驚。お父さんがくれたおもちゃを壊してしまったら怒られると思い、こわごわ使っているとしたら、皆様はどう感じるでしょうか。

親が子どもにおもちゃを贈るのは、それを使って子どもが喜んで遊ぶ姿が見たいからでしょう。それなのに、親の思い子知らずで、子どもが壊さないことだけを願っておもちゃを使っているとしたら、子どものために悲しむのではないかと思います。

神様が私たちに律法を与えられたのも同様です。神様は、私たちがどんどん律法を学び、生活に適用し、失敗しても構わないから実践し続けて、神の子どもとしての喜びを味わって欲しいと願っておられるのです。

キリストを信じる私たちは、神様と父と子の関係にあります。それは、子である私たちが律法に背き、罪を犯しても、神様が決して責める事はない関係です。私たちが何度失敗しても「大丈夫、わたしはあなたを愛している」と言って下さる神様との安全で安心な関係です。

律法を守ろう、みこころに従おう言う思いがあっても、実行となると上手く行かないことが多くあります。願う姿に届かず失望することもあるでしょう。その様な自分を責める事もあるでしょう。しかし、失望や罪責感は私たちを無力な状態へと追い込んでゆきます。思い通りにならない相手を責める気持ちが湧いてくることもあります。ですから、悔い改めることがとても重要なのです。今日の聖句です。

 

Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

私たちが律法に従うことができず、罪を犯してしまった時、神様のみ心は何なのか。それがここに教えられている悔い改めです。悔い改めとは、自分に失望することでも、自分を責め続けることでもありません。自分が抱いた感情や口にしたことば、神様や人に対してとった態度を自分の罪と認め、神様に告白することです。

神様から罪の赦しの恵みを受け取り、神様との安心できる関係に帰ることです。神様との親しい関係の中で、私たちは自分への失望や自分を責め続けることから救われます。神様と律法への愛を回復し、力を尽くして神様に従う歩みを続けることができるのです。「戒めを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」。私たちは、神様と律法を愛する人生へと招いてくださる、このイエス様のことばに日々応答してゆきたいと思います。