2017年3月19日日曜日

ハバクク書2章4節「一書説教 ハバクク書~信仰によって生きる~」


その人の本性は、「その人が何をもって幸せとするか」に表れると言われます。皆様は何をもって幸せとするでしょうか。どのような状況、状態が幸せでしょうか。どのような人になることを目指して生きているでしょうか。

 お金か、名誉か、地位か。ご馳走、豪邸か。見目麗しいこと、権力を持つことか。家内安全、商売繁盛、無病息災、願った進路に進むことか。これらのことは、どうでも良いことではありません。大事なこと。貧困、不健康、誰からも相手にされず、家族関係は悪く、仕事もうまくいかず、自分の願いは実現しない。そのような中で生きることは大変なこと。辛いことです。

しかし、幸せの中心を、衣食住や財産、健康や人間関係として生きるので良いのでしょうか。何が幸せなのか、どのような人になることが幸せなのか。

 聖書は何が幸せなのか、繰り返し教えていました。

 詩篇112篇1節

「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」

 

 神様に対する正しい恐れと、神の言葉を喜ぶこと。どのように生きるべきか、聖書に答えを見出すこと。これこそ「幸いである」との宣言。聖書に従って生きることが人間にとって最上の生き方であるというのは、聖書のあらゆるところで何度も告白され、教えられているメッセージです。

その通り。頭では分かります。この世界を創り支配されている神様の言葉が、他のあらゆるものよりも重要であること。その神様が私に願われている生き方をすることがどれ程幸いなのか。これは頭では分かります。

しかし、頭で理解するだけでなく、本当にそのように生きているかと問われると、自信がなくなります。神の言葉に対する自分の本音はどのようなものか。このような旧約の詩人の言葉とともに自分の生活を振り返ると、聖書の教える幸いな人の生き方をしているだろうか。いや、そもそも、御言葉に親しむことを願っているだろうかと考えさせられます。

 

私の説教の担当の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。私たち皆で聖書に親しむこと。四日市キリスト教会の皆で、少しずつでも聖書全体を掴む作業に取り組むことを願ってのことです。しかし、これは大上段に構えて、「聖書を読むことは大事。」「聖書を読みましょう。」と宣言したいわけではありません。私たちが取り組みたいのは、しなければならないこととして、聖書を読むのではなく、喜びと感動のうちに聖書を読むことです。

それでは、どのようにしたら、喜びと感動のうちに聖書を読むことが出来るでしょうか。自分を打ちたたいて、「喜べるように」とするのではありません。大事なのは、神様がどのようなお方なのか。救い主が私に何をして下さったのか考えることです。

神を神と思わず、聖書などどうでもよい、私には関係ないと思っていた罪の中から、私たちは救い出されました。キリストによって贖われたので、神の言葉にどれ程の価値があり、従うことがどれだけ幸いなことか分かる者とされたのです。神の言葉を喜び、従うことが出来るとしたら、それ自体が大きな恵みであるということです。

一書説教の際、皆様には扱われた書を実際に読んで頂きたいのですが、聖書を読む前に、まず神様が私に何をして下さったのか。キリストの救いが、自分が聖書を読む時にどのように関係しているのか、良く考えることが出来ますように。喜びと感動をもって聖書を読むことが出来るように、皆で励まし合い祈り合っていきたいと思います。

 

今日の一書説教は三十五回目。開くのは旧約聖書第三十五の巻き、ハバクク書。全三章の小さな預言書となります。

預言書というのは、多くの場合、神様から神の民に語られる言葉が記されます。「預言」とは、漢字の示す通り、神様からの言葉を預かること。預言者は神の言葉を預かり、それを神の民に伝える。預言書の多くは、預言者を通して神様から語られた言葉の記録です。

ところが、このハバクク書は、神様とハバククのやりとりが内容の中心となります。(これが、ハバクク書の大きな特徴の一つとなります。)祈りの人、信仰の人、正義を愛する人、優れた詩人、なにより凄い情熱を持って神様に向き合ったハバクク。今日は、この預言者ハバククと神様とのやりとりを読むことになります。

 

ハバクク書1章1節~4節

預言者ハバククが預言した宣告。主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。

 

 ハバククから神様への最初の問いかけの言葉。皆様は、この言葉をどのような問いかけと読むでしょうか。

 ハバククが活動したのは、バビロン捕囚直前の南ユダと考えられます。(ハバクク書の中には、ハバククがどのような人物なのか書いていなく、また年代も明確には記されていません。その内容から、神殿での奉仕に関わる人物であり、王でいえばエホヤキム王の時代に人々から認められた預言者であったと考えられます。)外国の脅威が増すにつれ、国内の混乱も増した時代。正しく生きるより、自分自信の保身と利益を追求された時代。聖書に対する思いは失われ、倫理道徳は無視された時代。この時代のエホヤキム王と言えば、預言者エレミヤの言葉が書かれた巻物を、小刀で切り、暖炉で焼いた人物です(エレミヤ36章)。

 ハバククは、神の民であるはずの南ユダが、あまりにひどい有り様となったことを嘆きます。自分自身も神様に助けを求め、暴虐が起っていると叫んでも、何も変わらない。世界の支配者、真の王である神様は、この状況をどのように見ておられるのか。無視しているのか。義であり聖である神様のご性質と、目の前にある現実の食い違いについて、どう考えたら良いのか。

 ハバククにとって「宗教は心の問題を扱うもの。この世の話とは別。」ではなかった。観念論的な態度をとるのでもない。分かったような顔をして、思考停止するのでもない。真剣に神様に向き合い、どうなっているのかと食い下がる預言者。このような真剣さが私たちのうちにあるのかと、考えさえられるハバククの姿です。

 

 このハバククの問いに対して、神様の答えが続きます。

 ハバクク1章5節~7節

異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行ない、威厳を現わす。

 

 神の民が我を忘れて暴虐を尽くしている。この状況を神様に訴えても何も変わらないではないですか、と訴えるハバクク。それに対して神様は、異邦の民カルデヤ人(バビロン)が南ユダに裁きを与える、バビロンを通して裁きを与えるという返答でした。

 「う~ん・・・」と唸りたくなる答え。皆様は、自分がハバククであったとしたら、この神様の返答をどのように受け止めるでしょうか。

 おそらく、ハバククの願っていたことは、悪人が栄え、聖書に従って生きようとする者が苦しむ現状が変わること。南ユダが霊的に刷新され、多くの人が聖書に従う時代が来ることだったと思います。それを願い、神様に訴え、救いを求めていた。ところが神様からの回答は、南ユダがバビロンに滅ぼされる、というもの。霊的刷新ではなく、徹底的に裁かれるというメッセージ。この答えをどのように受け止めたら良いのか。

 

 この神様の回答を受けて、ハバククは次の疑問にぶつかり、再度神様に訴えます。

 ハバクク1章12節~13節

主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。

 

 神の民が退廃した時、裁きがあるというのは分かる。とはいえ、その裁きを実行する者として神様がバビロンを選ばれているということに納得がいかない。神の民が悪いとしても、それよりもなおも悪いバビロンが南ユダを滅ぼすことをよしとされるのは何故なのか。「神様の目は、バビロンの悪が見えないのでしょうか。南ユダにいる正しい者たちの労苦が見えないのでしょうか。何故、そのような不条理を良しとされるのでしょうか。」という訴えです。

 凄い預言者。真剣で大胆。まるで神様を問い詰めるかのような質問をするハバクク。このようなハバククの姿が聖書に記されていることは、大きな励ましです。私たちの神様は、このようなハバククの問いを良しとされるお方。信仰者の真剣な体当たりを、しっかりと受け止めて下さるお方。一人の人間と、ここまで向き合って下さるお方として、神様を覚えたいと思います。

 

 それでは、この問いに対する神様の答えは、どのようなものだったのか。ここに、聖書の中でも極めて有名な言葉が出てくるのです。

 

 ハバクク2章4節

見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

 

 この後半部分。「正しい人はその信仰によって生きる」という言葉を、パウロはローマ書でもガラテヤ書でも引用して、信仰義認を主張します。ヘブル書でも引用されている非常に有名な言葉。

 とはいえ、ハバククの問いに対する神様の答えとして、この言葉を聞くとしたら、これは一体、どういう意味になるのでしょうか。「南ユダへの裁きが、なぜバビロンを通してなされるのか。」「バビロンという悪人が、少なくともバビロンよりは正しいユダを飲み込むことを、なぜ良しとされるのですか。」と問うたハバククに対して、神様はこの言葉で何を伝えようとされたのでしょうか。

 

 「高ぶりではなく信仰」という言葉は、ハバククにとって、どのような意味があるのでしょうか。

 考えてみますと、聖書の中にハバククと似たようなテーマで神様に訴え、神様から高ぶりではなく信仰へと導かれた人物がいます。義人ヨブです。ヨブの抱えたテーマは、正しい者が苦しむのは何故なのか、という問い。それに対する神様の答えは、様々な被造物を見せ、神が神であることを教えるというもの。神様がヨブに与えたのは、現実がどのようであろうとも、神が神であるから信じるという信仰でした。

 神様との対話を経て、最終的にヨブは次のように言っていました。

 ヨブ記42章1節~2節、6節

ヨブは主に答えて言った。あなたは、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。・・・それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

 

 自分の聖書理解、神理解では、この出来事はおかしい。納得がいかないという時。神の民は神様に問うことが出来、(今の私たちの場合であれば多くの場合聖書を通して)納得のいく回答が得られることもあります。しかし、時に神様は、納得や理解ではなく、神の民を「信仰」へと導かれることがある。聖書の教えと現実に違いがあると思われても、それでも「神を神とする信仰」へと導かれるのです。

ヨブがそうでしたし、ハバククも同様です。南ユダへの裁きに、より悪いバビロンが用いられる。何故、そのようなことを神様が許されるのか理解出来ないのですが、理解出来ないから神は間違っているという高慢に陥るのではなく、理解出来なくても、神を神とする信仰の道があるのだと教えられる。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」という言葉は、ハバククに対しては「神を神とする信仰」へと導かれた言葉として読みたいと思います。

 

 目に見える現実、自分の理解を拠り所とした信仰から、神様ご自身を拠り所とした信仰へ導かれたハバクク。それでは、これ以降何を語るのでしょうか。

現実には暴虐を振るうものがのさばり、正しい者が虐げられている。南ユダは、より悪いバビロンに破壊されると言われている。聖書的に生きること、正しく生きることが無意味に見える現実がある。しかし、それでも暴虐や高慢が、いかに悪いことか。暴虐や高慢な者たちに対する裁きの言葉を語ることになります。(二章の中盤から裁きの宣告となり、三章はハバククの祈りと記されていますが、その内容は概ね二章の中盤と同様、裁きの宣告となります。)

 二章の中盤以降のハバククの言葉は、詩的表現が多く難解です。南ユダで暴虐を尽くしている者たちへ裁きを語っているのか。南ユダを裁きに来るバビロンに対して、そのバビロンも滅ぼされると言っているのか。国は関係なく、全ての暴虐や高慢な者たちに対する言葉なのか。これらが入り混じっている印象があり、複雑です。

 とはいえ、ハバクク自身は吹っ切れている印象があり、どのような状況になろうとも神様を喜ぶ者として生きることが告白され、この書は閉じられます。

 

 ハバクク3章18節~19節a

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

 

 以上、簡単にですがハバクク書を確認しました。

読み終えて強く印象に残るのは、ハバククの神様に向き合う姿勢です。これ以上ない程真剣に、神様に向き合う預言者。神様と格闘する預言者。生半可ではなく、とことん神様に問いかけ、肉迫するハバクク。

果たして、自分はこれ程まで真剣に神様に向き合ったことがあるだろうかと考えさせられます。この一週間、この一か月、この一年で、苦しかったこと、辛かったことはどのようなことでしょうか。その問題について、どれだけ真剣に神様に訴えてきたでしょうか。神様に向き合うことをせず、他のものに解決を求める歩みとなっていなかったでしょうか。

 もう一つ強く印象に残るのは、神様がハバククに与えた信仰です。神様のご性質と、現実に起っていることに食い違いがあると思う時。神様が世界の統治者であると思えない時。それでも、「神を神とする信仰」です。

 多くの人が聖書と、聖書の神様を知らず生きている日本。聖書とは異なる原理で動いていると感じられる社会。現代の日本に住む神の民である私たちにこそ、このどのような状況であろうとも「神を神とする信仰」が必要だと思います。

ハバクク書を読むことを一つのきっかけとして、第一に向き合うべき方に向き合う。第一に訴えるべき方に訴える。第一に頼るべき方に頼る。そのような信仰の姿勢を持てるように。そして仮に、答えがない。理解出来ない、納得できないという時でも、「神を神とする信仰」を持って生きることが出来るように。皆で祈り求めていきたいと思います。

2017年3月5日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(30)~試みに合わせないで~」


随分前のことになりますが、小学校の同窓会に出席した時のことです。それぞれが現在の仕事について紹介することになりました。私が「キリスト教会の牧師をしている」と言うと、やはり牧師と言うのは日本では珍しい仕事ですから、どんなことをしているのか質問されました。良い機会だと思い、神様を信じ牧師となる決意をするに至った経緯を話したのですが、その際一人の友人が「俊ちゃん。神様を信じると、苦しみがないと言うのか。苦しいことがあっても神様が守ってくれているので、心が迷わないと言う状態になれるんでしょ。俺もそんな心境になれたら良いよなあ」と呟いたのです。

私は何回か同じ様なことを言われたので、意外には感じなかったのですが、皆様はどうでしょうか。同じ様なことばを聞いたことがあるでしょうか。

どうも、日本人は神仏を信じることは、人生の苦しみ、悩みから解放されることにつながると言う考えがある様に思われます。神学校時代、東洋思想と言うクラスがありました。そこでこの四日市教会の初代牧師でもあった小畑先生が、「仏教は人間の苦しみを問題にするのに対し、キリスト教は苦しみの奥にある罪を問題にする。仏教は苦しみからの解放を教えるのに対し、キリスト教は罪からの救いを説く」と話してくれたことを覚えています。そうすると、私の友人の様な考えには仏教の教えが影響しているのかもしれません。

しかし、どうでしょうか。神様を信じてから、皆様の生活からは苦しみ、悩みがなくなったでしょうか。苦しみの中で、恐れや不安に心が揺れたり、迷うことはなくなったでしょうか。私自身もそうですが、恐らくここにおられる殆どの方が「そんなことはない」と思っていることでしょう。

聖書は、私たちが経験する苦しみを試練と呼んでいますが、それは何故なのか。神様を信じる前にも苦しみがあり、神様を信じてからも苦しみがあるのなら、神様を信じることに、どのような意味があるのか。今日学ぶ主の祈りの六番目の祈りは、その様なことを私たちに考えさせる祈りではないかと思います。

最初に少しおさらいをします。私たちが今学んでいるのは、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、イエス様の説教の中でも最も有名で、良く知られたことばがふんだんに登場する山上の説教です。

この山上の説教のほぼ真ん中にあるのが主の祈り。この世界を創造した神様に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて始まる祈りは全部で六つ。前半の三つが神様のことを覚えての祈り、後半の三つが私たちの必要の為の祈りであることは何度も確認してきました。

後半の祈りは、最初が日ごとの糧、食べ物を代表とする私たちが生きるのに必要な物を求める祈り。二番目が、私たちの罪の赦しと、他の人のことも赦せるようにと言う祈り。そして、最後が今日扱う「私たちを試み、苦しみに合わせないでください」と言う祈りとなっています。

ところで、今日の祈りにある「試み」と訳されていることばですが、聖書の他の所では「試練」とか「誘惑」と訳されています。試練と言うのは、神様がそれを通して私たちの信仰を強め、成長させるために与えてくださるものです。誘惑と言えば、私たちが神様に背き、罪を犯すよう誘われている状態です。試練は良い意味ですし、誘惑は悪い意味ですが、両方とも元は同じことばでした。ですから、キリスト教会では文脈によって、このことばを試練と訳したり、誘惑と訳したり、ふさわしいことばに訳し分けてきた訳です。

しかし、今日の祈りにある「試み」を試練と考えるのか、誘惑ととるのか。このことは、昔から議論されてきました。事実、ここを「誘惑に合わせないでください」とする聖書も多くあります。詳しい議論は割愛しますが、私としては、ここに試練と誘惑どちらの意味も含まれていると言う立場で話を進めてゆきたいと思っています。

さて、聖書全体を見ると、神様を信じる人々は昔から試練を受け、試練を通して神様への信頼を深めて言ったことが良く分かります。アブラハムはようやく与えられた我が子を神にささげよと命じられ、試練に直面します。ダビデは義父サウル王の理不尽な怒りに苦しめられ、国中を逃げ回ると言う試練を受けました。新約聖書に登場する初代教会の人々は、ユダヤ教やローマの町に住む他宗教の人々からの迫害と言う試練の中にあったことが記されています。聖書は、試練を通して神様への信頼を深め、霊的に成長していった人々の記録と言えるかもしれません。

 ですから、聖書は様々な所で、試練が私たちの成長に有益であること、試練を喜んで受け入れることを勧めていました。代表的なものを一つ取り上げたいと思います。

 

 ヤコブ1:24「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

 様々な試練と言われています。初代教会の人々が味わった試練の代表的なものは迫害でしたが、ヤコブの教会の人々が受けていた試練とは、教会に集う貧しい人々がその貧しさ故に金持ちの権力者たちに辱められ、苦しめられていたことと考えられます。聖書は、その様な苦しみであっても神様が与えたもう試練であり、忍耐を働かせることが信仰者にとって大切であることを教えています。

迫害はないにしても、今日の私たちにも試練はあります。病の苦しみ、人間関係の悩み、死を前にした痛みや不安も試練でしょう。自分が犯した罪や失敗の結果に苦しむと言う試練もあると思います。いずれにしても、信仰の成長のために様々な試練が必要不可欠であることは、昔も今も変わりがありません。

 けれども、神様が与えたもう試練には大切な意味があるとすれば、イエス様は何故神様に「試み、試練に会わせないでください」と祈るよう教えられたのか。そんな疑問が涌いてきます。神様が与える試練を、私たちが「願わない」と言ってよいものか。そんな気がします。

 ですから、これは私たちにとって有益な試練ではなく、私たちを神様に背かせ、罪に誘う誘惑のことではないかと考える人々がいましたし、今もいます。その様な人々は、ここを「私たちを誘惑に会わせないでください」と訳す方が良いとしています。

 私たちが経験する様々な苦しみや痛みは、それが起こることを許可された神様のみこころでは試み、試練です。神様はそれを用いて、私たちの信仰を強めてくださいます。神様ご自身とのさらに深い交わりへと導いてくださいます。

けれども、私たちは弱さのゆえに、苦しみや痛みに会うと不安に駆られ、神様への疑いを抱いたり、思い煩ったり、罪を犯してしまうことがあります。その場合には、神様が与えて下さる試練が、私たちにとっては誘惑として働いていることになります。そして、私たちには自分の受けている苦しみが試練なのか、誘惑なのかを区別することはできません。 

この様な私たちの弱さや限界を踏まえた上で、イエス様はこの祈りを教えてくださったのです。

 

へブル4:1516「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

イエス様は、多くの病気を患う人、世間から見下されていた人、家族からも見捨てられた人、貧しい人々と接してきました。その様な境遇にある人々が抱える苦しみ、罪へと誘惑される弱さをよく理解し、ご自分のことのように心を痛めてきたのです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と言うことばには、そのことが良く表れています。

私たちの苦しみや弱さに心から同情してくださるイエス様が教えてくださった祈りとしてこれを受けとめる時、この祈りがどれほど必要なものかが納得できます。「天の父よ。私たちはあなたが与えて下さる試練を避けたいとは思いません。しかし、それが私たちの信仰を押しつぶし、あなたに背くような行いに私たちを誘うとしたら、私たちの弱さをあわれんで、その様な試練には会わせないでください」。

前の「私たちの罪をお赦しください」と言う祈りが、私たちが罪を犯してしまった時の祈りだとすれば、この祈りは、試練の中にあって私たちが罪を犯さないための祈り、試練の中で神様に信頼する者として成長することを求める祈りと言えるでしょうか。

こうして、試練の中で罪から守られることを祈った後、私たちはもう一つの祈りへと導かれます。祈りの後半、「私たちを悪からお救いください」と言う祈りです。これも、私たちの心にある悪、この世界に存在する悪を良く知っておられるイエス様だからこそ、教えられた祈りでした。私たちの心の悪について、イエス様はこう戒めています。

 

マルコ7:2023「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 

イエス様は、悪の原因が私たちの内側にあること、すべての悪は人間の心の思いから始まることを指摘しています。そして、聖書が「今の悪の世界」と呼んでいるように、この世界は私たちを悪に誘うもので満ちています。

イエス様がこの祈りを教えて下さったのは、私たちが自分の中にある悪とこの世界にある悪を見つめるため、自分の思いや行動によく注意するためであったと思います。

私たちは自分の心にある悪を知っているでしょうか。物欲か金銭欲か、情欲か、名誉欲か。妬みか、高慢か、人を見下し、馬鹿にする心の殺人か。自分が誘われやすい悪が何であるのか、自覚しているでしょうか。どの様な場所、どの様な時間帯、どの様な心の状態になると、罪を犯しやすいかを知り、ブレーキをかけることができるでしょうか。「私たちを悪からお救いください」と日々祈りながら、自らの心を見張る者でありたいと思います。

 そして、イエス様が教えられたものかどうかははっきりしませんが、主の祈りの最後には、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのもの」と言う賛美が付け加えられていました。

 私たちの生活に必要な物に心を配り、備えてくださる神様。私たちが心から求める罪の赦しを与えてくれる神様。私たちを試練の中に置くとしても、罪への誘惑や悪に陥ることから守ってくださる神様。その神様に祈った後、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです」と賛美をささげることは、神様に信頼する者としてふさわしいと思えます。

 最後に、大切なことを二つ確認しておきたいと思います。

 一つは、この祈りの必要性です。私たちは周りの状況に左右されやすい者、誘惑に対して、悪と戦う力において、非常に弱い者です。自分の力では、神様に喜ばれる生き方をすることができない者です。

 しかし、だからこそ、イエス様はこの祈りをするように教えてくださいました。私たちが罪を避け、悪を離れることを願い、神様に従う歩みを願い求める時、天の父が実際に助けてくださることを経験してほしいと思い、教えてくださった祈りです。一瞬にしてではありませんが、真剣に祈り求める者のうちに徐々に、しかし確実に届けられる恵みがあります。私たちは、日々この祈りこの願いをもって神様に近づく者でありたいと思います。

 二つ目は、人生における苦しみ、痛みを、神様との関係で受けとめることです。山上の説教全体を通して、イエス・キリストを信じる者は、神様と天の父と子どもと言う親密な関係にあることが繰り返し教えられています。

特に主の祈りにおいては、神様のことを、ユダヤの小さな子どもが自分のお父さんに話しかけるように「天の父、天のお父さん」と話しかけてよいとイエス様は言われました。これは、それまで誰も使ったのことのない親しみを込めた呼び方です。

 主の祈りをささげる時、神様は天のお父さん、私たちは天のお父さんに愛されている子どもであることを心に覚えることができます。神様との親しく、安心できる関係の中で、私たちは人生の様々な苦しみを神様からの試練として受けとめることができるのです。そして、試練の背後に天の父の愛を見る時、私たちはよくそれを忍耐し、試練の中で成長する幸いを味わうことができるのです。

 主の祈りによって神様に近づき、神様と親しむ。主の祈りによって天の父に愛されている子どもであることを喜び、神様のみこころに従う歩みを進めてゆく。私たちひとりひとりその様な歩みを目指したいと思います。今日の聖句です。

 

 詩篇11971「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」