2017年1月29日日曜日

ペテロの手紙第一4章7節~10節「信仰生活の基本(4)賜物~賜物の管理者として生きる~」


今日は信仰生活の基本をテーマとする礼拝説教の四回目。これまで礼拝、伝道、交わりを扱ってきましたが、今回のテーマは「賜物」です。

 今読んでいただいた聖書の個所にあるように、私たちイエス・キリストを信じた者は罪の赦し、永遠のいのちを与えられただけでなく、様々な賜物・恵みをも与えられたと言われています。

 

 410「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

 

 所有者と管理者は違います。賜物の所有者は神様。私たちは託された賜物を神様のみこころに従って管理活用する者です。神様のみこころとは何かと言えば、賜物を用いてお互いに仕え、助け合うことでした。

 ユダヤにあるガリラヤ湖は、山から流れる水を受け、それをヨルダン川に流して沿岸を潤しています。それ故に魚の種類も量も多く、生命あふれる湖です。それに対して、水を受け取るばかりで独り占め。他に水を流さない死海は魚も住めない湖、文字通り死せる海です。

 神様からの賜物を一人占めして、他の人を助けない死海になるなかれ。与えられた賜物を用いて他の人を潤し、助けるガリラヤ湖となれ。二つの対照的な湖は、自分が賜物をどう扱っているのか。ガリラヤ湖なのか死海なのか。私たちの生き方を問うています。

 ところで、聖書には「それぞれが賜物を受けている」とありますが、賜物と聞いて、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。自分が与えられた賜物は、どのようなものだと考えているでしょうか。

 管理者に求められる第一のことは、自分の賜物は何かを考えることです。その際、お勧めしたいことがあります。それは、賜物について広く考えることです。聖書において賜物と言う時、その一つの意味は能力や才能です。しかし、所謂能力や才能に限られない、広い意味がこれには含まれていました。

 随分昔のことになります。妻と交際を始めたばかりの頃、妻は私の大好きな野球について殆ど知りませんでした。スター選手の名前も、打ったバッターが一塁に走るのか、三塁方向に走るのかさえ知らなかったと言う記憶があります。

デートの時、私が夢中で野球の話をすると、退屈そうな顔をする。それでも終わらないと不機嫌になる。雰囲気が悪くなる。そんなこともあった気がします。神様は、野球への関心、野球への愛と言う賜物を、子どもの頃から今に至るまで、私には非常に豊かに与えて下さいました。但し、若い頃の私は、その賜物を相手に押し付けると言う未熟さに気がつくことができなかったようです。

 しかし、皆様の中には、そんな賜物が何の役に立つのかと思う方もおられるでしょう。しかし、日本人の男性、特に私ぐらいの年代の人には野球ファンが多く、そうした人々と関係を築く際、共通の話題が役立つことを経験してきました。野球に関心がない人、野球嫌いな人など、相手を間違わない様注意すれば、こんな賜物も福音を語れる関係に近づく助けになると思います。

 また、私には三人の子どもがいます。皆独立しましたが、長男長女の性格について、子どもの頃の思い出があります。ある日、家族全員で外出する時のことでした。私が「時間が来たから、そろそろ出かけるよ」と声をかけると、長男は何の準備もしていない。それを注意すると「分かっている。ちゃんと間に合うから」と答えました。

それに対し、長女は自分の準備は既に完了済み。準備の遅い兄や弟、それに私や妻についても「これこれは大丈夫か」と声をかけ、家族を仕切っていました。

 長女には皆を仕切り、一つの行動に向かわせてゆく監督の様な性格が備わっています。長男は普段はゆったりマイペースですが、自分がしたいことが見つかるととことんやると言う性格を持っています。この様な性格も、神様が与えた賜物と考えられます。

 作家の三浦綾子さんは病気がちで、入退院を繰り返しながら作家として活躍し、多くの作品を世に出しました。それは今でも、人々に愛読されています。この三浦綾子さんが、自ら病んで人の痛みを知るとして、「病気も神様からの賜物」と書いています。

 神様が与えて下さる賜物は本当に様々です。学びや仕事で獲得した知恵、心や体の病など痛みの経験、身に着けた能力、生まれつき備わった性格、心から好きと感じ、情熱を傾けられること、さらには健康な体、金銭や物質、自由に使える時間も賜物と言えるでしょう。

今教会で必要とされている奉仕は何なのか。地域社会で求められている働きは何なのか。それらに応えるため、神様が自分に与えて下さった賜物は何なのか。私たちは広い視野で、それを考える者、考え続ける者でありたいと思います。

 次に、管理者として私たちが心得るべきことは、神様が賜物と言う恵みせを与えて下さった目的です。先程のガリラヤ湖と死海の例の死海ではありませんが、神様から離れた人間は、賜物を用いて他の人を助け、仕えると言う本来の目的を忘れてしまいました。

 このことに関して、イエス様のされた譬え話が聖書に残っています。

 

 ルカ121521「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

 このお話に登場する農夫には、豊かな財産と言う賜物がありました。畑を豊作にしたと言うのですから、農夫として勤勉、有能と言う賜物もあったと考えられます。しかし、惜しむらくは、それらの賜物を人生の安心を確保するためにため込むばかり。びた一文、他の人を助け、仕えるため活用しようとは考えなかった。これが、「愚か者」とイエス様に言われた理由です。

 死んでも尚有り余る程の財産を欲しがること。つまり、生きるのに必要以上のものを欲しがることを、イエス様は貪欲と呼び、これを戒めているのです。人がどん欲になる理由は様々です。この農夫の様に人生の安心を確保するためと言う場合もあるでしょう。あるいは、財産を使って他の人を自分の思い通りにしたい人、人の上に立つと言う名誉を得るために財産を貯める人もいるでしょう。そして、これは財産に限らず、他の賜物についても言えることではないでしょうか。

しかし、私たちがこの様な生き方から解放され、本来の賜物を使い方ができるように、イエス・キリストが罪を贖って下さったことを、聖書は教えています。

 以前ウィクリフ聖書翻訳協会の様子を見学に行った際、改めてこのことを感じました。ウィクリフは聖書翻訳宣教師の働きで知られていますが、そこには自らの賜物をささげる多くの人がいます。

元教員は現地で宣教師の子どもたちの教師として、大工さんは宣教師たちの住居建設や修理。ドライバーは運搬や移動。そうした賜物はなくとも、笑顔で人に接することができる人は事務所の受付に。さらに、そうしたことにも不向きな人は、印刷された聖書のページ合わせと言う必要不可欠な作業についています。しかも、これらの人々は定年になるか、仕事を子どもに譲って、年金生活に入ってからのボランティアでした。

まさに、神様の恵みの良い管理者として、互いに賜物を用い、仕えあっている麗しい姿がそこにはあったのです。

以上、賜物の管理者として、私たちが取り組むべきことを見てきました。自分の賜物が何かを広い視点で考える。賜物を神様のみこころに忠実に用いる。私たちひとりひとりが良い賜物の管理者として生きることが、教会をたて上げること、また、地域社会を良いものにしてゆくことにつながることを、この一年の始め、皆で心に刻みたいと思うのです。

 さて、もう一つ、今日の個所が教える大切なことに目を向けたいと思います。それは、心の管理です。良い管理者として歩み続けるために、私たちは自らの心を管理する必要があることを、ここに教えられるのです。

 

 4:79「 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

 

 ここで、私たちは「祈りのために心を整えなさい」と勧められています。これは「祈りによって心を整えなさい」とも訳すことができるとも言われます。どちらにしても、賜物を活用するにあたり、私たちが勧められているのは心を整えること、つまり、心を健やかにする、心の健康を守ることでした。

 それでは、心を整える、心の健康を守るとは、どういうことなのでしょうか。

 第一に、身を慎むことです。日本語で「身を慎む」と言うと、謹慎するなど消極的な生き方が思い浮かびます。しかし、元のことばでは、自分の限界をわきまえると言う意味になります。

私たちは、自分がしたいことをすべて出来る訳ではありません。すべきことをいつでもできる訳でもありません。能力においても、時間や健康の状態においても限界があります。それを自覚し、弁えておくことは非常に大切なことです。

 自分の能力を超えた奉仕、自由に使える時間内ではなしえない働きを引き受けて、心身ともに疲れ果てないようにする。与えられた能力、健康、時間を考え、奉仕を引き受けるかどうかを判断する。神様は私たちが背伸びをしたり、無理をしたりすることを望んではおられないおかたであることを覚えておくと良いと思います。

 第二に、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」とある様に、奉仕の動機が他の人に対する愛であることです。愛は、自ら進んで人に仕えることを望む心の姿勢です。もし、その奉仕を強いられたものと感じたり、周りの人の目に対する恐れがあるなら、それは心が健康ではないと言うサインです。

第三に、「つぶやかないで…」とある様に、奉仕の際、不平不満が出てくる心も良い状態とは言えないでしょう。特に、「こんなに仕えているのに、ちっとも感謝してくれない」とか「あの人のやり方はなっていない」など、人に対する批判的な思いや不平は、私たちを奉仕の喜びや感謝から遠ざけます。他の人との良い関係を妨げてしまいます。

これらの場合は、自分のことを認めてくれる人と交わる。神様と交わり、神様の愛に憩うことで、心を整える必要があるのではないかと思います。神様との交わり、安心できる人との交わりに助けられながら、私たちは教会においても、この世界においても、賜物を活用し、人に仕えてゆくことができるのです。

最後に、神に仕え、人に仕えたことで世界に知られるマザー・テレサの祈りを、ご紹介したいと思います。

主よ。今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日私のこの手をお使いください。

主よ。今日一日、友を求める小さな人を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日私のこの足をお使いください。

主よ。今日一日、優しいことばに飢えている人と語り合うために、私の声をお望みでしたら、今日私のこの声をお使いください。

主よ。今日一日、人と言うだけでどんな人をも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日私のこの心をお使いください。

今日の聖句を、ご一緒に読みたいと思います。

 

 410「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

2017年1月22日日曜日

エペソ人への手紙4章15節、16節「信仰生活の基本(3)交わり~交わりの恵み~」


先週の日曜日、四日市は22年ぶりの大雪。そのために教会の礼拝に来られなかったと言う方も沢山おられたのではないかと思います。

私は先週石川県にある辰口キリスト教会で奉仕でした。午後辰口を出発する時雪は止み、空は晴れていましたが、福井県に入ると雪が降り、特急しらさぎは米原から先運転できないと言うアナウンスがあり、新幹線に乗り換え名古屋に到着することができました。しかし、四日市が一面の積雪であることに驚きました。今回に限っては、石川県よりも四日市の方が雪の量が多かったのではないかと思います。

先週の祈祷会でも、雪のため礼拝に出席できず自宅で個人的に礼拝した方、インターネットで礼拝した方の中から、教会に行き兄弟姉妹と顔を合わせ、ともに礼拝し、ともに交わることがどんなに恵みであるか。その様なことばをお聞きした次第です。

 2017年もあっという間に半月が過ぎました。年の初めは、私たちにとって仕事、学び、家族としての歩みなど、どの様にこの一年間を過ごしてゆくのかを考える良い時期です。信仰生活も同じではないでしょうか。

普段あまり意識することなく行っている礼拝、伝道、交わりなど信仰生活の基本についてもう一度その意味を考える。そして、この一年自分として取り組んでゆくことを決め、心に意識する。できれば具体的な目標を立てて、実行してゆく。その様なことを願い、ここ数年、年の初めに信仰生活の基本について学んでいます。

今年は第一回目が礼拝、二回目が伝道でした。今日は交わりについて考えてゆきたいと思います。

ところで、先程祈祷会で礼拝に出席できなかった方々からお聞きしたことをお話しましたが、同じことを困難な事情のため礼拝に出席できない兄弟姉妹からも良くお聞きします。勿論、個人的な礼拝にも恵みがあるのですが、私たちの中にはそれだけでは満たされないものがあります。兄弟姉妹と顔を合わせ、ともに礼拝し、ともに交わることを求める思いが、心の中に存在するのです。

聖書の中で、使徒のヨハネがこの様なことを書いています。

 

Ⅱヨハネ112「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」

 

自分の思いを手紙ではなく直接会って伝えたい。顔を合わせて語り会いたい。私たちの喜びが全きものとなるから。ヨハネも交わりとその喜びを求めていた事が分かります。

また、新約聖書を見ますと、「互いに愛し合いなさい」「互いにいたわり合いなさい」「互いにあいさつを交わしなさい」など、交わりを勧める「互いに」と言うことばが、繰り返し登場してきます。

神様は、私たちの信仰の歩みを助けるため様々な方法を用いられます。大自然の素晴らしさや、自然の営みを通して、私たちは神様の知恵と力の偉大さを知ることができます。個人的な礼拝や聖書を読むこと、祈ることを通して、神様の恵みを頂くこともできます。しかし、それらとともに、信仰の歩みを助ける大切な方法として、神様が教会の交わりを与えて下さったことを、今日のことばの中に確認することができるのです。

 

4:15,16「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

エペソ人への手紙では、教会がキリストの体と言われています。かしらがキリストで私たちは体の器官と言うイメージです。これを踏まえて4:15を見ますと、私たちの信仰の成長の最終ゴールは「かしらなるキリストに達すること」、つまり、イエス様の様に神様に従い、人を愛する者へと造り変えられことでした。そして4:16では、私たちの信仰の成長は、ひとりで成し遂げられるのではなく、教会の交わりの中で実現してゆくことが教えられています。

私たちが体の器官、一部に譬えられているのは何故でしょうか。ご存知の様に、目も手も心臓も、体の器官はどれひとつ自分一人で活動できません。全ての器官はお互いに助け合い、支え合いながら、全体が一つのいのちとして生きているのです。

私たちも同じです。自分が兄弟姉妹を助け、支えること、自分も兄弟姉妹から助けられ、支えられながら、ともに信仰の歩みを進めてゆくよう、神様に教会に集められた者でした。

皆様は、自分が神様から与えられた賜物で、他の兄弟姉妹を助け、支えることのできる存在であると考えているでしょうか。また、自分が兄弟姉妹から助けられ、支えられる必要がある者であることを自覚しているでしょうか。

自分は他の兄弟姉妹を助ける何の賜物もないと考えると、「自分などいても、いなくても」と感じて、交わりを避けたくなります。一方、自分が何でもしなければならないと考えると、交わりが重荷になるのではないかと思います。

自分ができることを通して兄弟姉妹を助け、支える喜び。自分ができないことは兄弟姉妹から助けられ、支えられると言う喜び。私たちはキリストの体の一部であることを自覚して、この様な交わりの喜びを味わってゆきたいと思います。

それでは、どの様な面で、私たちは助け合い、支え合うことができるでしょうか。神様は、どの様に助け合い、支え合うことを、私たちに命じているでしょうか。

第一は、慰め、励ましです。私たちの神様は慰め主です。そして、神様は私たちを通して、気落ちした人を慰め、励ますことが多いのです。使徒パウロも、弟子のテトスによって神様の慰めを受け取ることができたと書いています。

 

Ⅱコリント76「気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」

 

私たちは皆大なり小なり、人生において危機や葛藤に直面します。気落ちし、ストレスに悩み、肉体的な疲れがたまる時があります。しかし、その時期は各々異なります。ですから、一人が慰め、励ましを必要としている時、周りはその人に手を差し伸べることができます。

私たちは、誰かに赤ん坊が生まれた時には互いに助け合います。愛する家族が天に召された方がいる時には葬儀に集い、奉仕をし、慰めを伝えます。また、自分自身が疲れ果てたり、気落ちしている時、他の兄弟姉妹に助けを求めることができます。お互いが慰めや励ましを与える働きをなすうちに、教会はその深さにおいても幅においても成長してゆくことができる。そう聖書は語っています。

第二に、知恵です。私たちは生きてゆくうえで、様々な知恵を必要としています。聖書を理解してゆくため、夫婦・親子の関係を良いものにしてゆくため、精神的な病や肉体的な病に対応してゆくため、職業の選択や、正しくお金を使うため等、本当に様々な分野で知恵が必要です。

そして、教会の交わりは、私たちがこれらの知恵を得るために神様が備えられた最もすばらしい場所の一つなのです。自分が未熟な分野で、人生の先輩、信仰の仲間に相談をし、アドバイスをもらう。自分が相談をされたら、誠実に話を聞き、できる限りの助けの手を差し出す。この様な交わりも、私たちの信仰の成長につながるものであることを覚えたいのです。

第三に、関係の修復です。私たちは自らの未熟さのゆえに、兄弟姉妹を傷つけてしまうことがあります。逆に、兄弟姉妹から心を傷つけられることもあるでしょう。心が無傷のままで信仰生活を送れる人は、誰一人いないのではないかと思われます。

他の人からの愛を拒む。人の求めに対して「ノー」と言えない。人とどうかかわったら良いのか分からない。つい自分の基準で人をさばいてしまう、責めてしまう。自分の思い通りに周りが動かないとイライラする。

私たちは、霊的に未熟な部分を抱えています。自己中心と言う罪の問題が、私たちの深い所にはあるのです。余りにも自分の一部になっているので普段は気がつかない自己中心の性質に、私たちは教会の交わりの中で気づかされます。自分の罪を知ること、自己中心的で未熟な考え方やことば、態度に気がつくこと。それは、神様が交わりにおいて与えて下さる恵みのひとつです。

勿論、自分の罪や未熟さに気がつくだけで関係修復が終わるわけではありません。自分が人を傷つけた場合には、自分が間違っていた点を心から謝罪する必要があります。自分が傷つけられた場合には、相手を赦すことに取り組む必要があります。どちらも、簡単にできることではありませんし、時間がかかる作業です。

しかし、この様な関係修復に取り組むために、神様は教会の交わりを与えて下さいました。安心して話ができる兄弟姉妹に、自分がしたこと、自分が受けた傷について話すこと、信頼できる兄弟姉妹に祈ってもらうこと、アドバイスを貰うこと。この様な交わりの中で励まされ、知恵をもらい、私たちは関係修復に取り組んでゆくことができるのではないかと思います。

最後に、三つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。

一つ目は、神様との交わり、兄弟姉妹との交わりの時間を、意識して生活の中にも受けることです。今日は、教会の交わりについて考えてきましたが、私たちの信仰生活に神様との一対一の交わりが欠かせないことは言うまでもありません。聖書は神様との交わりも、兄弟姉妹との交わりも、どちらも大切なものと教えています。

果たして、普段私たちはどれ程意識して、神様との交わり、兄弟姉妹との交わりの時間を取っているでしょうか。仕事、食事、学び、家事に育児、趣味の時間。私たちの生活は多忙を極めます。時間やスケジュールに追われていると感じる人もいるでしょう。その様な中、神様との交わりや兄弟姉妹との交わりは緊急性がないと言いましょうか。それをしないからと言って、すぐに何か困るわけではないので、つい後回しになってしまいがちではないでしょうか。

しかし、私たちの人生には緊急性はないけれども、長い目で見れば本当に魂にとって大切なもの、欠かせないものがあります。それをするとしないとでは、人格や生き方が大きく変わってくるほどに大切なものがあります。その一つが、神様との交わり、兄弟姉妹との交わりです。

一日、一週間の時間の使い方を振り返り、定期的に神様との交わり、兄弟姉妹との交わりを組み込むようにしたいと思うのです。神様と交わる時間と場所を決める。ある人と、あるいはグループで定期的に個人的な交わりの時間を取る。地域会や世代別会に参加してみることも良いと思います。

二つ目は、一人一人が心を開いて、交わりの範囲を広げること、交わりを深めることです。顔は知っているけれど、今まで話しかけたことのない人に、機会をとらえて話しかけてみる。既に親しい交わりができている人の場合には、自分の心の深い所にある思いを話してみる。いずみサービスの奉仕や利用と言うのも良いかと思います。昨年8月に始まったいずみサービスですが、奉仕者も利用者もともに話してくださるのは、いずみサービスを通じて、親しい交わりが広がったと言う喜びの声です。

親しい交わり、深い交わりは、受身の姿勢でいてもなかなか実現しない気がします。自分から心を開く勇気、自分から一歩前に進む小さな勇気が必要かと思われます。

私たちは皆、一人で信仰の歩みを全うできるほど強い者ではありません。霊的に弱い部分、未熟な部分を抱えています。交わりを喜べる時もありますが、交わりを恐れたり、困難を覚えたりすることもあります。しかし、神様が教会の交わりの中に恵みを備えてくださっていることを信じ、交わりの中でキリストに似た者へと造り変えられてゆくことを信じて、交わりを大切にしてゆきたいと思います。

今までよりも、一歩でも良いから交わりを広め、深めてゆくことに取り組む。一人一人ができることから始めてゆき、私たち皆が交わりを求め、交わりから恵みを味わうことのできる一年にしたいと思うのです。今日の聖句です。

 

へブル10:25「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 

2017年1月15日日曜日

使徒の働き1章3節~9節「伝道~キリストの証人として~」


皆様は、働きを託されること、役割を与えられることは喜びでしょうか。嬉しいことでしょうか。

ガキ大将にあれを買って来いと、使い走りをやらされる。やりたくない家のお手伝いをさせられる。本来、自分の働きではない雑務を押し付けられるなど、働きや役割を託されることが嬉しくないことがあります。かたや、地位のある人に「あなただから任せます。」と働きが託される。非常に重要な役割を任せられることは、光栄なこと。嬉しいこと、感謝なことです。皆様はこれまでの人生で、働きを託されて光栄に感じたこと、喜びや感謝を感じたことはあるでしょうか。

 聖書では、私たちの神様、世界の造り主であり、王の王である方が、私たち神の民に重要な働きを託していると教えています。地位が高いといって、これ以上高い位はないというお方が、「あなたに任せたい働きがあります。」「あなただから任せるのです。」と、私たち一人一人に使命を与えていると言うのです。この聖書の教えを真剣に受け止め、毎日を生きることが出来る信仰者は幸いです。

 

 それでは神様から、私たち神の民に託される使命とはどのようなものでしょうか。

人が神様を無視した結果、人間も世界も悲惨な状態になりました。神を無視して生きる人間が増え広がり、ますます悪が広がる世界。この世界を良くするために神様がとられる基本的な方針は、神の民を通して世界を祝福するというものでした。

 どのように生きたら良いのか分からなくなった人間に対して、毎朝九時になると「今日はどのように生きるべきなのか」天から神様の声が聞こえて来るとか、人が悪に走ろうとする度に、「やめよ」と天より神様からの語りかけがあるとか。私たちの神様は全知全能のお方ですから、そのようにして、世界を良くしていくことも出来ます。しかし、基本的にはそのようなことはされないのです。

神様を信じる神の民を通して、どのように生きたら良いのか分からない人間に、本来の生き方を示す。悪が広まる世界に「やめよ」と声を出すのは、神の民が取り組むこと。神の民は、言葉と行動をもって、神様を、救い主を宣べ伝えていく働きが託されているのです。

(世界を祝福する働きは、神様、救い主を宣べ伝える働きだけではありませんが、今日は伝道がテーマなので、主にこの部分に焦点を当てて考えていきます。)

 

 ところで、神の民を通して世界を祝福するという神様の方針について、皆様はどのように思うでしょうか。

神様のお考えについて、私たちがとやかく言うのは、これ以上ない不遜であることは重々分かるのですが、自分の不甲斐なさを思うと、果たしてこの方針で良いのだろうかと首を傾げたくなります。特に新約の時代。復活されたイエス様が天に昇るのではなく、地上に残って伝道された方が、神の民がその働きをするより上手くいくはず。私が説教するのではなく、イエス様が説教された方が良いに決まっている。神の民が、言葉と行動をもって、神様と救い主を宣べ伝えていくのではなく、神様ご自身がそれをされた方が良いのではないかと思うのです。

 

 しかし、この点について、イエス様はこれ以上ない程明確に答えを出しておられました。

ヨハネ16章7節

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 

 復活の主イエスが地上に残り、一人で伝道活動をするのが良いのではない。むしろ、去っていくことが神の民にとって良いこと。キリストは天に昇り、助け主と呼ばれる聖霊なる神様が遣わされ、神の民が伝道することが、神の民にとって益なのだと言うのです。復活のイエス様が地上に残る。約二千年間、地上での歩みを送り、今も直接会うことが出来るお方がいることの方が、より伝道がうまくいくであろうと思うのですが、そうではないとイエス様は言われるのです。

 神の民を通して世界を祝福するというのは、(表現が人間的で不適切ですが)神様がよく考えての方針。神の民である私たちにとっても、その方が良いと言われること。このように考えていきますと、改めて、キリストの証人として生きる使命が与えられていることの重要性が分かります。

 

 ところで、私たちは「本当に」キリストの証人としての使命を与えられているのでしょうか。聖書のどの箇所から確認出来るでしょうか。

実に色々な箇所から確認することが出来ますが、今日は使徒の働きの冒頭に焦点を当てます。確かに「私」はキリストの証人という使命が与えられていることを皆で確認出来るようにと願っています。

 

使徒1章3節~7節

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』」

 

 十字架での死と復活を経た主イエスは四十日の間、弟子たちに現れました。その具体的な場面は福音書にいくつも記されています。

ところで、福音書に記された復活したイエス様が弟子たちに会う場面。日時が記されているものは、全て日曜日ということをご存知でしょうか。起こった出来事が全て記されているわけではないですし、日時が記されていない場面もあるのですが、福音書全体からは、日曜日毎に弟子たちに現れた印象があります。そのため、イエス様は六週間に渡って、日曜日だけ弟子たちに現れたと考える人もいます。(そうだとすれば、六週目でイエス様の昇天、七週目で聖霊降臨となります。ただし、この考え方は、使徒の働き一章にある四十日を概数と受け取る必要があります。)

 四十日の間、毎日のように弟子たちに現れたのか。日曜日毎だったのか。どちらにしろ、その時間は貴重なものでした。いよいよ弟子たちのもとを去り、天に昇られるイエス様から、直接教えを受ける最後の機会。おそらく多くの事が語られ、教えられたと思うのですが、使徒の働きではごく簡単にまとめられ、イエス様が弟子たちに命じたことは主に二つ。エルサレムから離れないように。聖霊を遣わす(聖霊のバプテスマ)という父の約束を待つようにとのこと。この二つです。

 

 ところで聖霊が遣わされるのは、イエス様が去って行かれてからと教えられていました。ここでイエス様は聖霊を遣わすという父の約束の実現を待つようにと命じておられますが、それはつまり、自分はもう去っていくのだと言っていることになります。(弟子たちの応答を見ると、イエス様が語られた内容を理解していないように思いますが)自分はあなたがたのもとから去る。しかし、約束通り、助け主なる聖霊をあなたがたに遣わす。その実現をエルサレムで待つようにと命じられたのです。

 ところでエルサレムというのは、弟子たちにとってどのような場所でしょうか。つい先ごろ、挫折した場所。皆が皆、イエス様を裏切った失敗の場所。しかも、主イエスを殺そうと企てた者たち、十字架につけろと叫んだ者たちがいる所。出来ればそこにいたくない。しばらくは近寄りたくないところ。何故、エルサレムに留まらなければならないのでしょうか。

 

 十字架にかかる前、イエス様は聖霊なる神様が弟子にして下さることとして、次のように教えておられました。

ヨハネ14章26節

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

 イエス様が弟子たちのもとを去ってから与えられる聖霊は、聖書のこと、イエス様のことを思い起こさせてくださる。たしかにこれも、聖霊なる神様が私たちに下さる大きな恵みの一つです。

聖書のこと、主イエスのことがよく分かる。これは非常に大事なこと。しかし、それだけであれば、弟子たちはエルサレムに留まっている必要はなかったと思います。どこで待つのでも良かったはずです。それでは何故、弟子たちはエルサレムに留まって、聖霊が遣わされるという約束が実現するのを待つ必要があったのか。

 

 それに対する答えと、イエス様ご自身の約束として、もう一度聖霊が与えられることが告げられることになります。

 使徒1章8節~9節

「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 

 聖霊が遣わされると何が起るのか。(先に確認したように、イエス様のこと、聖書のことがよく分かるという恵みもあるのですが、それと同時に)力を受け、キリストの証人となる。イエス様のことを宣べ伝える力を得ることになる。そして、その働きはエルサレムから始まり、全世界へ広がって行くという約束です。まずはエルサレムから。そのため、弟子たちはエルサレムに留まるように命じられていたのです。

 こうして、イエス様は天に昇られて、去って行かれた。後は約束の実現を待つのみとなります。それでは、このイエス様の約束はいつ実現したでしょうか。この時、弟子たちはどれ位の期間、エルサレムで待っていたのでしょうか。

 

 この約束が実現した様子は、使徒の二章に記録されます。

 使徒の働き2章1節~4節

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

 

 イエス様が十字架につけられたのは、過越しの祭の時。あの過越しの祭から五十日後の祭りが、この五旬節の日です。(つまり、弟子たちは約束の実現を待つのに長くても十日。イエス様が弟子たちに現れたのが日曜日毎と考えると待っていた期間は一週間となります。)

 過越しの祭も、五旬節の祭も、ユダヤ人の三大祭に数えられます。イエス様が十字架につけられた時、エルサレムは多くの人が集まっていたと思いますが、その時から直近で、最も多くエルサレムに人が集まる時。まさにこの時というタイミングで聖霊が遣わされるという約束が実現します。

 弟子たちに聖霊が遣わされる。この最初の時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。

 そのために、神様が用意して下さったのは、風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば、「言葉」だと思いますが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。(神様は必要に応じて奇跡を行われますが、これは最初の時で、弟子たちにはこのような奇跡が必要だったと考えられます。)

 

 聖霊が遣わされ、弟子たちはキリストの証人として力を得て、具体的に何をしたのか。この日、ペテロは説教をし、その結果、三千人ものクリスチャンが生み出されることになります。大事件と言える伝道の成果。そのペテロの説教も使徒の働き二章に収録されています。さらに多くの苦難の中で、それでも弟子たちがキリストの証人として歩んでいく様が、使徒の働き全体の内容となり、是非とも読んで頂ければと思います。

それはそれとしまして、今日はこの聖霊が遣わされた日にペテロが語った説教の最後の言葉に注目して、説教をまとめていきたいと思います。

 

使徒2章38節~39節

「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」

 

 聖霊が遣わされるという約束が実現した日。ペテロはその説教の最後の最後で、非常に重要なことを語ります。聖霊が遣わされる、キリストの証人という使命とその力が与えられるのは一体誰なのか。二千年前、イエス様と直接会った弟子たちだけに対する約束なのか。いや、そうではないというのが、この時のペテロの主張です。

 聖霊が遣わされるのは私たちだけではない。悔い改め、キリストを救い主と認め、洗礼を受ける者。神の民となる者には、同じように聖霊が与えられる。この約束は、その場にいてペテロの説教を聞いている人たちだけでなく、その説教を直接聞くことが出来ない人たちでも、遠くにいる人たちでも、ともかく神の民になる全ての者に対する約束なのだと宣言されるのです。

 主イエスを救い主と信じる者は、神の民とされ、聖霊が与えられ、キリストの証人としての使命と、その力が与えられる。この聖書の教えを受け取ることが出来るでしょうか。

 

 以上、今一度、私たちはキリストの証人という使命とそれを果たす力を頂いていることを、聖書から確認してきました。

 過ぎし一年、皆様はキリストを宣べ伝えることについて、どのように取り組んできたでしょうか。また、新たなこの一年、どのように取り組みたいと思うでしょうか。

 出来るならば両極端を避けたいと思うのです。伝道すること、キリストの証人として生きることを、自分の力ですべきこととして、肩に力を入れて必死に取り組む姿勢。反対に、私がすることではなく聖霊なる神様がすることだから、特に何も考えない、なるようにしかならないという姿勢。

 そのような両極端ではなく、キリストを信じる者には、キリストの証人となる使命と力が与えられる約束を信じること。本来の私にはキリストを宣べ伝える力などないけれども、聖霊なる神様がそのような私も用いて下さること。そのため、今生きている場所、遣わされている場所で、どのようにキリストを宣べ伝えるのか真剣に考えることに取り組みたいと思います。

私たち皆で、世界を祝福する者として、キリストの証人として生きる幸いを味わいたいと思います。

2017年1月8日日曜日

詩篇95篇1節~11節「信仰生活の基本(1)礼拝~もし御声を聞くなら~」


今日は、2017年二回目の主の日の礼拝です。今年も50数回主の日の礼拝を私たちはささげてゆくことになりますが、毎週の礼拝をいかに充実させてゆくか。その為には、何をすればよいのか。皆様はその様なことを考えたことがあるでしょうか。

 ところで年末年始、野球好きな私は「球辞苑」と言う番組を楽しみにしていました。野球には多くのプレーがありますが、球辞苑はそうしたプレーの一つ一つについて、その意味、方法、極意と言ったものについて、名選手、個性的な選手のプレーを見ながら、楽しく語り合うと言う番組です。それも、ホームランとか三振など良く知られたものではなく、ピッチャーのクイックモーションやランナーの走塁のリードと言ったかなりマニアックなプレーを扱っていました。野球好きにはたまらなく面白い番組だと思います。

 また、山崎が野球の話かと思われる方がいるかもしれませんが、私はこの番組から一つのことを学んだ気がします。それは、プロの選手、それも一流と言われる選手であればある程、どんな小さなプレーについてもその意味をよく考え、自分のベストのプレーができるように、心も体も準備しておくと言うことです。毎試合そうした準備を繰り返すことで、プレーが良いものになってゆくと選手たちは語っていました。

 礼拝についても、同じことが言えるのではないでしょうか。毎週ささげる礼拝であるからこそ、繰り返しその意味を考え、心も体も礼拝用に準備して臨む。これが私たちの礼拝の充実、信仰生活の充実につながるのではないかと思うのです。

 今読んでいただきました詩篇95篇は、昔から多くの教会が礼拝の始めに読んできたものです。それは、この詩篇が私たちを礼拝へと招いているからです。今でも、礼拝の始めにこの詩篇を朗読する教会があり、人々を礼拝へと招く招詞、招きのことばとなっています。

 しかし、これは礼拝への招きで終わっている詩篇ではありません。旧約の昔の信仰者、私たちの先人が、礼拝することをどう考えていたのか。どの様な心の態度で礼拝に望んでいたのか。それを教えてくれる詩篇でもあります。

 先ず、聞こえてくるのは、喜びあふれる礼拝への招きのことばです。

 

95:1「さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」

 

最初に「さあ」とあるのは、元のことばでは「行け」という力強い命令のことば。その後で、この詩篇は「喜び歌おう。喜び叫ぼう」「感謝の歌をもって」「賛美の歌をもって」神様に近づこうと、私たちに呼びかけているのです。神様に近づくことのできる喜びにあふれた人は賛美をささげます。今日の礼拝でも、招きのことばが読まれた後で、すぐ賛美が歌われます。

続くは感謝の祈りです。ここでは神様が「救いの岩」と呼ばれ、どっしりとした岩に譬えられています。昔、イスラエルの人にとって大きな岩は安心して身を隠せる場所でした。岩の陰に身を隠して、夏の日照りから守られ、冬の寒さから守られる。野の獣から守られ、休むことのできる場所でもありました。私たちも一週間の歩みで、神様から健康を守られ、経済を守られ、孤独や罪の誘惑から守られたことを思い起こし、感謝の祈りをささげるのです。

それでは、何故賛美と祈りで神様に近づくのか。それは神様が偉大だからでした。

 

95:3~5「【主】は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」

 

主が大いなる神であるとして、その偉大さはどれ程か。この詩篇は、地の深みも山山の頂も、海も陸地も神の創造したもの、神様が世界の所有者であると歌っています。

今から約60年前、ニュージーランド人のエドモンド・ヒラリーが、それまで前人未到であった世界の最高峰、9000メートルに迫る山々、エベレスト登頂に成功しました。しかし、今もエベレストは多くの人を寄せつけない圧倒的な高さを誇っています。

このそれに対して、日本海で最も深い日本海溝の深さは9440メートル。想像するだけでも引き込まれそうな海の底に立った人はいまだ存在しません。これからも不可能とも言われています。

しかし、その未だに人を寄せつけないエベレストの頂きも、これからも到達不可能と言われる日本海溝の底も神様のもの。どこまでも広がる海も陸も、そこに群がる多くの生き物も神様の作品。改めて、神様の創造の雄大さに圧倒される思いがします。

そして、もう一度、私たちは礼拝へと招かれます。

 

95:6「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、【主】の御前に、ひざまずこう。」

 

最初の招きとの違いに注意したいと思います。二度めは、どう招かれているのでしょうか。最初の様に賛美や感謝をもってではありません。今度は「伏し拝み」「ひれ伏し」「ひざまづこう」、その様に招かれています。

伏し拝む、ひれ伏す、ひざまづく。いずれも、神様の前に自分を低くすること、へりくだること。二度めは神様の前に自分を低くするよう、私たちは招かれているのです。最初は喜びもって神様に近づく。感謝の祈りと賛美で神様に近づく。しかし、神様の偉大さを知って、今度は伏し拝み、ひざまづいて神様を畏れ、敬うことになるのです。

何故、この詩篇は私たちにひれ伏し、ひざまずくよう招いているのでしょうか。それは、神様の偉大さを畏れ、敬い、自分を低く、小さくすることが、私たちの人生にとって非常に大切なことだからです。

神様に近づき、前に出る時、私たちは一週間の生活の中で、いかに自分中心に物事を考え、行動してきたかを覚えます。いつしか神様のことはそっちのけ。周りの人が思い通りに行動しないとイライラし、周りの状況が願い通りにならないと不平不満をつぶやく。まるで神の様に周りの人を支配し、状況を支配しようとしていた自分の姿に気がつくのです。時には、神様にまで文句をつける自分がいます。

神様は小さく、自分は大きく。これが往々にして私たちの生活ではないでしょうか。ですから、礼拝において神様の前にひざまずき、本来の自分をわきまえ、神様の偉大さ、栄光を認めることが求められているのです。

勿論、私たちは神様を信じていないわけではありません。しかし、振り返ってみると、自分と自分の問題しか見えていないと言う時はなかったでしょうか。神様が見えていない時はなかったでしょうか。

私たちは神様の前にひざまづくことで、大きくなりすぎていた自分を、もう一度本来の自分に戻すことができる。この詩篇はそう私たちに教えています。そして、この様な招きの後に、再度神様を礼拝する理由が語られていました。

 

95:7「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。…」

 

これを読むと、「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません」と言う、あの詩篇23篇を誰もが思い出すでしょう。今度は、神様が偉大であるから礼拝するのではありません。勿論、神様は偉大なお方ですが、同時に私たちの羊飼いであられるゆえに、礼拝するのです。

神様と私たちは羊飼いと羊の親密な関係になぞらえられています。羊飼いが一匹一匹の羊のことを知っている様に、神様が私たちを親しく知っていておられること。神様が私たちのあらゆる必要を満たすために働き続けてくださること。必要とあらば命を懸けても羊を守る羊飼いが私たちの神様であるからこそ、私たちはひざまづくのです。

神様は本当に偉大だけれども、恐ろしくて近寄りがたいお方でありません。むしろ、神様の方から弱き羊に近づき、ひとりひとりを導き養って下さる程に親しいお方なので、私たちは礼拝するのです。

さて、こうして礼拝への招きのことばが終了します。教会の礼拝では、ここまでを朗読するのが普通です。この後が読まれないのは、ここで詩篇の調子が一変。非常に厳しい調子に変わっているからかもしれません。

しかし、ここには礼拝に欠かすことのできない要素が含まれているのです。これ以降語られるのは、エジプトでの苦しみから助け出されたイスラエルの民が、神様の恵みに守られながらも、荒野で滅ぼされてしまったと言う残念な歴史でした。

 

95:8~11「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。」

 

イスラエルの民は、神様の恵みを受けながらも、荒野の旅の途中メリバやマサで神様に背き続け、神様のことばを心に留めることはありませんでした。その結果、荒野をさまよった挙句、安息つまり約束の地に入ることができなかったのです。

この残念な出来事が、敢えて礼拝への招きの詩篇に記録されたのは、何故でしょうか。それは、礼拝の中心が神様の御声を聞くことにあるからです。礼拝の中心にあるもの、それは、私たちが心を頑なにしないで、神様が語りかけるみことばに心を集中すること、心に留めること。その様に、信仰の先輩たちは礼拝を考え、礼拝をささげてきた。この様な姿勢で、礼拝をささげてきた信仰者たちの姿を、今日私たちの心に刻みたいと思うのです。

最後に、二つのことを確認しておきます。

一つ目は、礼拝において、神様に向かう私たちの思い、態度は決して一様ではないと言うことです。神様に向かって喜び賛美することと、神様の前に静かにひれ伏すこと。神様を畏れ、敬うことと、神様に親しむこと。

賛美と沈黙。歌声と静けさ。尊敬と親しみ。今、自分は神様に対して、どのような思い、どの様な態度で応答すべきなのか。このことを意識しながら、礼拝をささげる者でありたいと思います。

二つ目は、神様の御声を聞くことの意味です。このことを教えている聖書のことばをともに読んでみたいと思います。

 

ローマ12:12「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 

神様のみ声を聞くとは、礼拝において語られたみことばを通して、自分に対する神様のみこころは何かを考え、生活に適用することです。神様との関係、隣人との関係に置いて具体的に何をすることがみこころなのかをよく考え、実行すること。それが霊的な礼拝だと教えられるところです。

その際大切なのは、「心の一新によって自分を変えなさい」と命じられているように、変えるべく取り組むのは自分自身です。家族に対する自分のことばや態度、ついつい顔をのぞかせる自分中心の考え方や行動、自分の中に残っている弱点や悪しき習慣。

礼拝において語られたみことばから教えられたことは何か、決心したことは何か。それを分かち合う仲間を持つことも、私たちの助けになります。その様な交わりの中で、もう一度み言葉を振り返り、考えを整理したり、新たな決意を抱くこともできるのではないかと思います。決心したことを書き留め、実行できたら神様に感謝することも、良いことでしょう。

この一年、私たちは礼拝の意味を考え、確認し、礼拝に臨む態度を整えてゆきたいと思います。神様の御声を聞き、みこころを実行する礼拝者として歩み続けることを目指したいと思うのです。