昔から、演劇、小説、映画などの格好のテーマとして取り上げられてきたものの一つに、復讐があります。例えば、アレクサンドル・デュマの「巌窟王」。無実の罪で投獄された主人公が脱獄して巨万の富を手にする。やがてモンテ・クリスト伯爵を名乗って自らを陥れた者たちの前に現れ、次々に復讐を果たしてゆく。子どもの頃、私も少年版「巌窟王」に夢中となり、主人公の活躍を手に汗握りながら応援していた。そんな思い出があります。
日本では、主君浅野内匠頭を苦しめた吉良上野介と吉良側に偏った判決を下した幕府に対し立ち上がった四十七士の仇討ち物語が、江戸時代から今に至るまで人々の共感を呼び、毎年年末になるとテレビに登場してきます。
不当な苦しみを受けた者が立ち上がり、悪者を倒してゆく。理不尽な仕打ちを受けた者が、仇を討つ。復讐物語の主人公たちが人気を博す理由は、正義が廃れ悪がはびこる、弱者が踏みつけにされ強者が奢る、そんな不公平極まりない世の中に対する不満解消。溜飲が下がる。平たく言えば心がスカッとすると言うことがあるように思われます。これはこれで理解できます。しかし、同時に、悪者に対して復讐心を抱くのは当然とされ、個人的な復讐が正当化されるとしたら、この世界は何と恐ろしい場所になる事かとも思われます。
復讐心と言えば大げさな気もしますが、兄弟喧嘩に親子喧嘩、夫婦喧嘩。地域、職場、学校における隣人、同僚、仲間との争い。子どもも大人も老人も、男も女も、言われたら言い返す、やられたらやり返す。自分はそうしたいし、そうする権利がある。小から大まで復讐心は至る所に見られ、あらゆる世代に共通する心の病と考えられます。
今日の個所で、イエス様が扱っているのは誰の心にも宿っている復讐心の問題でした。
イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて17回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、八福の教えで始まっています。ここには、イエス様を信じる者が受け取る八つの祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと。イエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。
続く段落では「あなたがたは地の塩、世の光」と語り、私たち天の御国の民は、この世の腐敗を防止する塩、神様のすばらしさを現す光として生きる使命があることを教えられます。
次に天の御国の民にふさわしい義、義しい生き方とは何かについて、イエス様は教え始めました。最初は「殺してはならない」と言う十戒の第六戒、二番目は「姦淫してはならない」と言う第七戒、先回は「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う第三戒に込められた神様のみこころを、説き明かされたのです。
そして、今日の個所では十戒と同じく旧約聖書に定められた律法、「目には目で、歯には歯で」に込められた神様のみこころを教えておられます。これまでの三つと同じく、この律法も律法学者やパリサイ人によって真の意味が歪められていたからです。今日は主に38節39節を取り上げ、私たち天の御国の民の生き方を考えてゆきたいと思います。
5:38,39「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
「目には目を、歯には歯を」という律法は、旧約聖書に三回登場します。それは、自分が受けた傷に対して、度を越した怒りを抱き、仕返しを行うと言う風潮がイスラエルの社会を覆っていたことに対し、みこころを痛めた神様が定めたものでした。つまり、神様に背いて生きる人間が生まれつき本能として持っている激しい怒り、仕返ししたいと言う復讐心を制限、抑制することを目的としたものだったのです。
また、この律法は元々裁判官の立場にある者が判決を下す際の基準でした。目が傷つけたなら目まで、歯を傷つけられたら歯までとし、罪と刑罰のバランスを重んじると言う公平の精神を主旨としていたのです。実際には、文字通り目や歯が取られることはなく、金銭による償いが代わりに行われていたと言われます。
しかし、イエス様の時代、人々から尊敬される律法学者、パリサイ人は、これを自分に対して危害を加えた隣人に対する個人的復讐の承認と考え、そう人々にも教えていたのです。
神様のみこころは、人間の中にある「やられたらやり返す」と言う本能や態度を抑制することにありました。それなのに、人々はやられたらやり返す、傷つけられたら傷つけ返す権利があると考え、復讐心とそれに伴う自分の態度や行動を当然のこととしたのです。神様の願いとは正反対の方向にこの律法を捻じ曲げてしまったわけです。
それに対しイエス様は、「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません」と説いています。このことばも誤解されてきました。
この教えを社会制度にまで広げ、自分の領地で実行しようとしたのがロシアの文豪トルストイです。トルストイは、国が持っている軍隊、警察、裁判所など悪を行う者を懲らしめ、罰する制度を廃止し、理想社会を実現しようと考えました。
しかし、聖書はこの社会が罪人からなると言う現実を無視していません。国家や為政者の存在を認め、彼らには社会の秩序を保ち、弱い者、正しい者を悪から守る責任があると教えています。
イエス様が文字通り頬を打たれた場面が、聖書に登場します。十字架につく前、大祭司から尋問を受けた際、大祭司に尋ねたことが反抗的な態度とみなされ、役人に平手打ちにあいました。それに対して、イエス様は「もしわたしの言ったこと(質問)が悪いのなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか」と言って、抗議しています(ヨハネ18:23)。
また、使徒パウロも自分に鞭を当てようとしたローマ人の百人隊長に向かい、「ローマ市民である者を、裁判にもかけず、鞭打ってよいのですか」と訴え、堂々と抵抗しました(使徒22:25)。イエス様もパウロも正義のために抵抗し、戦っていたのです。
ですから、ここでイエス様が問題にされているのは、国家や社会制度のことではありません。人から侮辱的なことを言われたり、されたりした場合、私たちが示す態度や行いはどのようなものか。その心にあるものは何かでした。「あなたの右の頬を打つ様な者には…」「あなたを告訴して下着をとろうとする者には…」「あなたに一ミリオン行けと強いる様な者には…」。あなたの、あなたを、あなたに、と天の御国の民、キリストの弟子が、個人としてとるべき態度を、当時の人々に身近な例を用い教えておられるのです。
それでは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とは、何を意味するのでしょうか。当時、ユダヤ人の社会では、手の甲で人の頬を打つことは侮辱の中でも最大の侮辱とみなされていました。その様なことをした者には、重い罰金が科されたと言う記録もあります。ですから、人々はその様な侮辱を受けたら、自分には重い罰金を請求する当然の権利がある、と考えていたでしょう。
しかし、イエス様は人々が常識と考えていた権利を放棄するようにと語るのです。怒りや復讐心に駆られて行動することは天の御国の民にはふさわしくないと言われるのです。私たちにふさわしいのは、侮辱的な言動をなした人に愛をもって応答することと教えています。
イギリスにビリー・ブレイと言う有名な伝道者がいました。ブレイはイエス様を信じる前は怒りっぽく乱暴な人で喧嘩太郎と呼ばれていたそうです。ブレイのことを怖がり憎んでいた一人の男がブレイが改心したことを知り、仕返しをするチャンスと考え、彼のもとにやってきました。ある日、仕事場で男は何の理由もないのに、ブレイを殴りつけたのです。
ブレイにとっては、男を地面にたたきのめすぐらいはほんの朝飯前のこと。しかし、彼はそうする代わりに、相手を見つめ「私があなたを赦すように、神様があなたを赦してくださるように」と答え、その場を去っていったのです。
この出来事が、男の人生を変えました。男は、ブレイがしようと思えば何ができるかを知っていました。以前のブレイだったら、苦も無く自分を叩きのめすことができたのに何もせず、そればかりか、自分を赦し自分のために祈ってくれたブレイの行動の奥に、神様がいることを感じたのです。
皆様はどうでしょうか。反抗的な子どもの態度に腹を立て、大声で怒鳴ってしまったことはないでしょうか。配偶者の無責任な行動に怒る余り、これからは一切自分から愛情を示すことはすまいと決心し、心を閉ざしたことはないでしょうか。身勝手な隣人の振る舞いに堪忍袋の緒が切れて、その行動を責め立て、対立関係に陥ってしまったことはないでしょうか。そして、その様な場合、非は相手にあるのだから自分の怒りや態度に問題なし、と考えてはこなかったでしょうか。
大声で怒鳴る。心を閉ざす。相手を無視する、感情的に責める。どれも、怒りに駆られて私たちが行う復讐、報復です。しかし、特に相手に問題がある場合、自分の怒りや態度を正当化しがちです。向こうが無責任なのだから、こちらも無責任になって何が悪いと考えるのです。そんな相手を忍耐し、愛する責任は自分にはないと考えたくなるのです。
しかし、イエス様は違う見方をなさいます。右の頬を打つ様な者には、左の頬を向けよ。つまり、たとえ問題を引き起こしたのが相手であろうとも、あなたの方から愛をもって応答せよと言われるのです。
私たちにとって、このことばは非常にハードルが高いと感じられます。しかし、イエス様はその十字架の死によって私たちにそれを為す力、自由を与えて下さったと聖書は教えています。今日の聖句です。
ガラテヤ5:13、15「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。…もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」
右の頬を打たれるような侮辱的なこと、嫌なことをされたり、言われたりする時、私たちの中には傷つけられたと言う思い、悔しさや怒りが涌いてきます。それを相手にぶつけて一言言わねば気が済まないとか、責めるとか、心を閉ざすと言う態度や行い。それは、一見自分を守ることのように見えます。しかし、実はその様な時、私たちは悔しさや怒りに支配されており、愛する自由を失っている。怒りと復讐心の奴隷と言う悲惨な状態にあるのです。聖書はそれを肉の働きつまり罪の働きと呼んでいました。
もし、私たちが悔しさや怒りに支配されたまま行動するなら、聖書はこれを「互いに噛み合ったり、食い合ったりしているなら」と表現していますが、夫婦関係も親子関係も隣人関係も、教会の交わりも滅びてしまう、破壊されてしまうと警告されています。
しかし、イエス様は十字架で罪を贖い、私たちを悔しさや怒りの支配から解放し、愛をもって人に仕える自由を与えて下さいました。天の御国の民としての自由、神の子としての自由です。
皆様は、神様がイエス・キリストによって、私たちにこの様な自由を与えて下さったことを信じ、受け入れているでしょうか。この自由を、実際の生活の中で味わうことができているでしょうか。
最後に、天の御国の民としての自由、神の子としての自由を味わう歩みを進めるために、二つのことをお勧めしたいと思います。
ひとつ目は、自分が抱えている悔しさや怒りについて話すことのできる信仰の友と交わることです。一般的に、怒りのパワーは内側にため込んでいると増大し、信頼できる人に話をすることで半減すると言われます。
自分を認め、受け入れてくれる人に話をすることで、私たちの心は整理されてゆきます。あれ程怒ったのは何に傷ついたからなのか。相手の言動について誤解や思い込みはないか。そもそも自分は相手に何を求め、何を伝えたかったのか。冷静に振り返ることができます。
自分のために祈ってもらったり、アドバイスを求めたりすることも良いと思います。悔しさや怒りを自分一人で抱え込まないこと。信仰の友に助けを求めることをお勧めします。
二つ目は、神様の愛を受け取り、安らう時間を取ることです。悔しさや怒りを感じる相手から、私たちは安心を受け取ることはできません。しかし、苦しみと葛藤の中で神様に向かい、神様の愛を受け取る時、自分がどれほど大切な存在であるかを知り、安心できるのです。
神様から頂く愛と安心は私たちの力の源です。難しい相手に対して愛をもって応答するにはどうしたら良いかを考え、それを実践する歩みへと私たちを導き、励ましてくれます。その際、農夫の心で自由と言う種を育ててゆくことをお勧めしたいと思います。悔しさや怒りから解放され、愛をもって応答する自由は、徐々にゆっくりと私たちの内に育ってゆきます。すぐに芽が出る訳でも,実がなる訳でもないのです。
農夫は種を撒いたからと言って、すぐに芽が出る実がなるとは思っていません。自分の力だけで作物を育てることができないことを知っています。しかし、芽が出る時、実がなる時が来ることを知っています。その時まで根気よく日々育てる仕事を続けてゆくのです。
私たちも自分の力だけで与えられた自由を育てることはできません。神様に信頼し、信仰の友と交わり、日々神さまのみこころは何かを考え、取り組んでゆくのです。神様が寛容、忍耐、親切などの芽をだし、実を結ばせてくださる時を待つのです。一度や二度やってみて上手くゆかなくとも失望しない。急がず、焦らず、日々神様に信頼し、自分の最善を尽くす。
私たちがみな、イエス様が血を持て贖い、与えて下さった尊い自由を味わうことができるように、愛をもって互いに応答する教会となれるように、日々の歩みを進めてゆきたく思います。