2017年2月19日日曜日

ナホム書1章1節~6節「一書説教 ~神の怒りに任せる~」


キリスト教は恵みの宗教。神様の愛を得るのに、しなければならないことがあるのでもない。何が出来るのかで救われるのではない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。しかし、放縦の宗教かと言えば、そうでもありません。結局、キリストによる救いがあるのだからどのように生きても良いとは教えていません。キリスト者のあるべき生き方についても、聖書は多く記しています。

 「神様がして下さること」、「私たちがすべきこと」。どちらも大事ですが、より重要なのは順番です。神様が私を救って下さった。罪の中にいる者を、義と認め、神の子として、聖なる者へと変えて下さっている。だからこそ、私たちの取り組むべきことがありますし、また取り組むことが出来るのです。

 私たちの信仰のあり方として、神の民として自分は何をすべきなのかと考えることは大事なことですが、それよりもまず取り組むべきは、神様が私に何をして下さったのか思いめぐらすこと、受けとめること。この順番を間違えると、私たちの信仰生活はどこか歪んだものとなります。

 礼拝に集うこと。祈ること。聖書を読むこと。ささげること。奉仕をすること。伝道すること。あるいは、愛すること、赦すこと、和解すること、信頼すること。本来麗しいこれらのことが、自分のすべきことだからするとして取り組むとしたら、喜びのない信仰生活。良くて無味乾燥。悪ければ苦痛となります。あるいは、そのような信仰生活を送ることで、自分が立派であると主張したくなるか。これらのことも、恵みへの応答、神の民に加えられた喜びとともに取り組みたいと思うのです。

 皆様の信仰生活はいかがでしょうか。どこかバランスを欠いた信仰生活、あるいは順番を間違えた信仰生活となっていないでしょうか。この礼拝が自分の信仰生活を確認し、必要ならば見直す時間となりますように。

 

少し間が空きましたが、断続的に行ってきた一書説教、今日は三十四回目となります。聖書は全部で六十六巻ですので、一書説教はここから後半戦に入ることになります。開くのは旧約聖書第三十四の巻き、ナホム書。不条理な悪に圧迫され、多くの人がどのように生きたら良いのか分からず混乱した時代に遣わされた預言者ナホムの言葉を読むことになります。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。ただし、読まなければならないから読むのではなく、神様の恵みに応える者として読むことが出来ますように。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みを味わいたいと思います。

 

 ナホム書ですが、皆様はどのようなイメージを持っているでしょうか。特別に有名な聖句もなく、おそらく多くの人にとって印象の薄い書ではないかと思いますが(四日市キリスト教会の教会学校には、その名も「なほむ」君がいますので、その点で馴染みがありますが)、実際には大きな特徴があります。

 特筆すべき特徴の一つは、預言の対象がアッシリヤ(表記はアッシリヤの首都ニネベとなっていますが)であるということ。

 ナホム1章1節

ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。

 

 旧約聖書には多くの預言書がありますが、通常、預言の対象となるのは北イスラエルか南ユダ。つまり、神の民に向けて語られるものが主な内容です。いくつかの預言書で、神の民以外に預言が語られ、その内容が記録されていますが、それは中心ではなく余禄。一書全体で、神の民以外に向けて語られた預言を扱うのは、ナホム書とオバデヤ書の二つだけとなります。

 

 それでは、神の民にとってアッシリヤとは、どのような国でしょうか。もともと、神様が神の民に与えると約束していたカナンという土地は、大きな二つの文明に挟まれた地域。西にエジプト(エジプト文明)、東にアッシリヤ(メソポタミア文明)。聖書に記された神の民の歩みは、この両国に翻弄され続ける歩みとなります。歴代の王は、両国の力関係を見つつ、ある時はエジプトにへつらい、ある時はアッシリヤにおもねり、ぎりぎりの外交政策で国家としての生き残りをはかりました。(そのような王たちに対して、預言者は、どこかの国を信頼するのではなく神様を信頼するように訴えていましたが。)

 

 預言者ナホムが活躍する少し前、アッシリヤが力を増す状況で王に就いたアハズが、親アッシリヤ政策をとり、同盟というよりは自ら支配下に下る選択をした様が、歴史書に記されています。

 Ⅱ列王記16章10節~12節

アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。

 

 これは一つの例ですが、強国アッシリヤにおもねるというのは、貢物を納めるだけでなく、アッシリヤの宗教を取り入れることでもあった。王自ら率先してアッシリヤの祭壇を作成したと記録されますが、神の民にとって屈辱的なこと。決して正しい判断ではないですが、そうでもしないと立ちゆかないと王と祭司が思うほど、アッシリヤの脅威は凄かったということ。神の民にとってアッシリヤは好ましくない相手でした。

 

 また「アッシリヤへの預言」で思い出されるのは、預言者ヨナです。当時、弱体化したアッシリヤに神様はアッシリヤが悔い改めるように預言者を送りますが、それが例のヨナでした。敵国に行き、悔い改めを説くなどしたくない。もし悔い改めてしまい、神様が裁きを下すことを思いなおされたら、せっかく弱体化しているアッシリヤがまた力を戻すかもしれない。そのため、ヨナはその働きはしたくないと一度逃げ出しました。このようなヨナの姿からも、神の民にとってアッシリヤが好ましくない相手であったことが分かります。

 

 そして、このアッシリヤは南北に分かれた後の北王国、北イスラエルを滅ぼした国でもあります。

 ナホム書の特徴の一つは、その内容が、神の民以外を対象にした預言であり、それも友好国ではなく敵対国。これまで虐げを受けてきた相手、北王国を滅ぼした国。そのアッシリヤに対しての言葉がナホム書の中心であるということ。

 

 それではナホムは何を語ったのか。その主な内容はどのようなものでしょうか。その語られる中心的な内容が、他の預言書にはあまりないもの。ナホム書の特徴となります。

想像してみてください。もし皆様に敵対する相手がいたとします。繰り返し虐げられ、悪意ある攻撃をされてきました。自分のうちにその相手に対する、怒りや憎しみ、赦せない思いがあります。

神様はそのような私たちに何を語られるでしょうか。神様がいかに私たちを愛し、また赦してきたのか。その愛や赦しを受け取って、私たちもその相手を赦し、愛するようにと語られます。

深く傷つき、怒りや憎しみで覆われている時。神様の愛を受け取ること、そしてその相手を愛していくという教えに、私たちは更に苦しむこともあります。怒りや憎しみの最中にいる時は、神様が私を愛しているということすら、受け取ることが難しくなります。それでも、神様からの語りかけは変わりません。何故なら、怒りや憎しみを持ち続けることは、私たち自身にとって良いことではなく、愛すること、赦すことが私たち自身にとって祝福の道だからです。

 それでは、その相手に対して神様は何を語られるのか。神の民に対して、繰り返し攻撃し虐げてきた者たちに、何を語られるのか。(ヨナを通して)悔い改めが勧められることもありますが、ナホムを通して語られる内容であることもある。驚愕の、そして恐ろしい言葉となります。

 

 ナホム1章2節~6節

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる。バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる。山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。

 

 ねたみ、復讐、憤る、怒りを保つ。聖書の中でも、神様を修飾する言葉としてあまり見かけない言葉が続きます。海や川を干上がらせ、木々や草花を枯らし、山々を動かし、大地を覆す。全知全能、世界を支配する力を持つ方が、その憤りを火のように注ぎ、必ず罰すると言われる。凄まじい怒り、凄まじい宣言です。徹底して審判者であり報復者である神様の姿が示される。この憤りを受ける立場であれば、これ以上恐ろしいことはない宣言。

 

 この宣言はナホム書の冒頭だけかというとそうではなく、これがナホム書全体の中心的な内容となります。

それでは神様の裁きは、どのように実現するのか。二章から三章に、神様の裁きの具体的なあらわれとして、アッシリヤの首都ニネベが包囲され攻撃を受けることが預言されますが、その冒頭にアッシリヤに対する皮肉まじりのあざけりの言葉が出てきます。

 ナホム2章1節

散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。

 

 アッシリヤの首都ニネベは、歴代の王が防衛の町として拡大整備した都市。アッシリヤの人からすれば防衛に自信のある街。そのアッシリヤに対して、守れるならば守ってみよ、と挑発の言葉が語られます。預言者を通して語られる神の言葉に、アッシリヤに対する言葉とはいえ、あざけりの言葉、挑発の言葉があるというのに驚きます。神様が本当に怒っていることのあらわれということでしょうか。

 

 それに続く戦の描写は、非常に詳しく、絵画的。目撃者の報告のように生々しく、古代文学の傑作と言われる箇所でもあります。

 ナホム2章3節~4節、3章1節~3節

その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦車は整えられて鉄の火のようだ。槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。

ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

 

 おそらく聖書中、最も生々しい戦の描写の場面。鞭のうなり、戦車の車輪の響き、馬のいななきと蹄の音、騎兵隊の突撃の喚声、剣の斬撃、槍の刺突。あまりの死体の多さに、立つことが出来ない程になるという有り様。このナホムの預言の言葉を、アッシリヤの人たちはどのように聞いたのか。また、神の民はどのように聞いたのでしょうか。

実際の戦いにおいては、戦勝国のバビロニヤの年代記によれば、三か月に及ぶ包囲と戦闘によってニネベは陥落したそうですが、現代の私たちが想像することも難しい凄惨な状況だったと思われます。

 

 神様による復讐、裁きを宣言し、その具体的な内容を告げたナホムですが、その終わりも恐ろしい言葉で閉じられることになります。

 ナホム3章18節~19節

アッシリヤの王よ。あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は山々の上に散らされ、だれも集める者はいない。あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。

 

 ナホムの時代からは少し先になりますが、南ユダはバビロンに滅ぼされるも、その後で回復します。ところがアッシリヤについては、「傷はいやされない。」と告げられて預言が閉じられる。アッシリヤからすれば望み無し。これでナホム書は閉じられます。徹頭徹尾、神様の裁きがテーマとなっているのがナホムの預言でした。

 

 以上、簡潔にですがナホム書について確認してきました。ねたみ、復讐し、憤り、怒りを保つと言われる神様から、神の民に敵対する者たちに語られる激しい裁きの宣告。皆様は、このナホムを通して語られた神様の言葉を、どのように受け止めるでしょうか。現代の私たちは、この神の言葉から、神様がどのようなお方で、私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、どのように考えたら良いでしょうか。

 

 大事なこととして覚えておきたい一つのことは、神の民が虐げられ、攻撃されている時、神様はかくも怒っておられるということです。私たちが虐げられようが、さげすまれようが関係ない、痛くも痒くもないという方ではない。子どもがいじめにあった親のような姿と言えば良いでしょうか。

 もし私たちが誰かから攻撃され、怒りや憎しみで心が覆われた時。心が傷つき苦しくてしょうがない時。実は、神様も苦しみ、怒っておられるということを覚えたいと思います。(ただし、私たちは自分では不条理に攻撃されたと思っても、自分に原因があるということもあります。自分では正当な怒りだと思っても、そうでないこともあります。自分の怒りと、神様の怒りが全く同じであると思うことは危険なことです。)

私たちが、怒りや憎しみに覆われている時、神様は赦すことや愛することを教えます。それは、怒りや憎しみで命を使うことは不幸なこと、私たち自身にとって赦すことや愛することが幸せの道だからですが、実はもう一つ理由があり、復讐は神様のものだからです。神の民が傷つけられたら、その落とし前は神様がつけると言われる。それほど、私たちは大切にされていることを、ナホム書を通して覚えたいと思います。このような神様の姿を知って生きるのか、知らないで生きるのか、違いがあると思いますが、いかがでしょうか。怒りや憎しみに覆われている時、復讐はわたしのすることだと言われる神様を覚え、自分で怒ることを止め、神様の怒りに任せることが出来るようにと願います。

 ローマ12章19節

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』

 

 もう一つ覚えておきたいことは、神様にとってそれほど大切な存在が、私たちの周りには多くいるということ。神様は、神の民を特別に扱われる。私たちの周りにいる人は、キリストがご自身の命を投げ出す程に愛している存在。父なる神様が、主イエスがそれ程愛している人に対して、私はどのように接するのか。真剣に考えたいと思います。

 是非とも、自分自身で聖書を開き、ナホム書を読み通すこと。神様がどのようなお方で、その方の前で、どのように生きるべきなのか、真剣に考えることが出来ますように。私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う歩みに取り組みたいと思います。

2017年2月12日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(29)~罪をお許しください~」


「赦し」は、古今東西文学、演劇、映画などにおいて一大テーマでした。友を裏切ったことに苦しみ、自ら命を絶つ主人公が登場する物語があります。加害者が法的な罰を受けても、謝罪をしても、なお怒りが収まらず、人を赦せないことに苦しむ主人公が登場する物語もあります。赦しとは何か、人間は本当に人を赦せるのか。赦されざる罪はあるのかないのか。様々な作家が赦しをテーマとする作品を書いてきました。

 今日、新聞の人生案内、人生相談の欄にも、親を赦せない子どもの怒り、配偶者の仕打ちに心を閉ざす人の苦い思い、血を分けた兄弟に赦してもらえない人の苦しみ、隣人の言動に傷ついた人の嘆き、あるいはそうした人にどう対応すればよいのか分からないと言う人の悩み等が頻繁に見られます。

 聖書においても同様です。「兄弟を何度まで赦すべきでしょうか」と尋ねた弟子ペテロに対し、「七を七十倍するまで」と答えたイエス様のことばを筆頭に、新約聖書には赦しに関する例え話、出来事、勧めや命令が繰り返し登場してきます。教会の交わりにおいても、赦しは非常に大きな問題であったことが分かります。

 私自身、「家族なら、あるいはクリスチャンなら赦すべき」等と簡単に言うことのできない、大変な苦しみを経験してこられた方々と交わる中で、人を愛するという神様のみこころにおいて、最も難しいのがこの赦しではないかと感じています。

 ですから、今日の説教が皆様にとって、特に赦しの問題で苦しんでおられる方にとって重荷ではなく、イエス様からの慰めまた励ましとなることを願い、お話させて頂きたいと思うのです。

 さて、今日取り上げるのは第五番目の祈りです。主の祈りは全部で六つ。前半が「御名があがめられるように」「御国が来ますように」「みこころがなりますように」と、神様のための祈り。後半は一転して、私たちの必要のための祈りとなっています。

 先週は、第四番目の「日ごとの糧を今日もお与えください」を学び、私たちの肉体の必要を知り、日常生活に必要な物を備えてくださる天の父の存在を確かめることができました。それに対して第五の祈りは、私たちの霊的な必要のため罪の赦しを祈り求めるよう、イエス様が教えてくださったものです。

 

 6:12「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

 

 「負い目」と言うことばは借金を意味します。イエス様の時代、人々は罪を神様に対する借金と考えていました。ですから、負い目と罪と置き換えてよく、実際にルカの福音書の「主の祈り」では罪と言うことばが使われています。

しかし、敢えてイエス様が罪を負い目、借金と表現したことには意味がありました。それは、どの様な罪であれ、私たちの犯す罪は神様に対する罪であり、この世の借金と同じく、私たちの罪も神様の前に精算すべき時が来ることを伝えたかったのでしょう。神様による最終的な審判の時に返済し、精算すべき借金。それが人間の罪と言う考えです。

それでは、神様に対して返済すべき責任のある借金、私たちの罪はどれ程のものなのでしょうか。果たして、私たちは自分の罪の酷さ、深刻さを正しく理解しているでしょうか。自分は神様のさばきに耐ええない者、滅ぼされて当然の者と言う自覚はあるでしょうか。

聖書の教える罪は、神様のみこころに反することすべてを指します。私たちがそれを罪と感じるかどうかではなく、神様のみこころに反する人間の思いや行動はすべて罪であるとイエス様は教えられました。

 

5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 

たとえ法律上の殺人は犯したことがなくても、隣人に腹を立て、友を馬鹿にし、人を見下し、その失敗を責めるなら、私たちの罪は神のさばきに価すると、イエス様は語っています。これらが、十戒の第五戒「殺してはならない」に反する思い、行動だからです。

さらに、第五戒も含めて、十戒の内八つは「~してはならない」という戒めでした。それは、いかに私たちが日常的に罪を犯す者であるかを示していると言われます。私たちは日々神様以外のものを頼りにします。神の御名をみだりに口にします。

また、今まで私たちは心の中で何人の人を殺し、情欲をもって異性を見てきたでしょうか。自分を偽り、神のものを盗み、隣人のものをむさぼってきたでしょうか。どれ程、人を愛し、人に仕える熱心に欠けていたでしょうか。まさに、罪と言う借金で首が回らない状態に、私たちはありました。

しかし、神様は滅ぼされて当然の私たちを心からあわれんでくださいました。私たちの犯した罪の責任を私たちに負わせず、イエス様に負わせました。イエス様が身代わりとなり、十字架で罪のさばきを受けて死なれたので、私たちは罪の赦しの恵みを受けとることができるようになったのです。

 

ローマ4:2551「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

 

キリストを信じる者は神との平和を持っていると、聖書は語っています。神との平和とは、もはや私たちは神様からさばかれ滅ぼされることも、責められることもない、安全で安心できる神様との関係にあることを意味しています。

けれども、それならば何故イエス様は、罪の赦しを祈り求めるよう勧めているのでしょうか。それは、私たちの中になお罪が生きているからです。罪が私たちの考え方、行動に影響を及ぼしているからです。神様を信じていても、私たちは日々罪を犯します。誘惑に負け、失敗を繰り返す自分の弱さに落胆します。醜い自分が顔をのぞかせると失望します。

その様な私たちの現実を天の父は良く知っておられるので、天の父に罪を告白し、罪の赦しを祈り求めよと、イエス様は教えてくださいました。天の父に罪を告白することで、天の父のあわれみを知ります。天の父が私たちを待っておられ、私たちが犯した罪のために、確かな罪の赦しが備えられていることを知り、安心するのです。イエス様が命を懸けて与えて下さった罪の赦しの恵みを思い、感謝することで、落胆と失望から救われます。

まさに、これが私たちの日々の霊的必要のための祈りであることを確認できます。自分に失望、落胆し、天の父のあわれみを忘れ易い私たちのことを思い、イエス様が教えてくださった大切な祈りであることを覚え、「私たちの負い目をお赦しください」と、祈り続けたいと思うのです。

次は、祈りの後半「私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました。」です。ここで、「あれ?」と思う人がいることでしょう。私たちが礼拝の時唱える主の祈りでは、ここの部分が「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく」となっているからです。

私たちが慣れ親しんでいるこの訳を、今採用している聖書は少ないかもしれません。この表現が、「私たちが他の人の罪を赦すので、神様あなたも私たちの罪を赦してください」と、私たちが神様に条件を示しているような誤解を与えてしまうからと考えられます。

また、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました」と言う部分も、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と訳すことができるし、その方が良いとも言われます。

つまり、ここは「天の父よ。私たちの負い目、罪をお赦しください。そして、あなたが私たちの罪を赦してくださったように、私たちも私たちに負い目、罪のある人を赦しました。あるいは赦します。」と言う祈りでした。天の父のあわれみにより、すべての罪を赦された私たちは、他の人の罪を赦す恵みと責任を与えられたということです。

このことに関して、イエス様の例え話が残っています。

 

18:23~35「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

読んですぐに驚かされるのは、主人から借金を免除されたしもべの酷い行動、余りにもあわれみに欠けた自己中心的なふるまいです。しかし、イエス様は「このしもべの姿は、本当に他人事ですか」と、私たちに問うているように見えます。

ここで、神様は地上の王に、神様の審判は王が行う精算に譬えられています。そして、王の判断によれば、しもべが返済すべき負債は1万タラントありました。当時、1タラントは労働者の約15年分の賃金と言われます。その1万倍ですから、15万年分の賃金と言う途方もない借金です。

これは、私たちが神様に対して犯した罪は到底精算不可能、本来なら私たちは神様のさばきによって、滅ぶべき者であることを教える譬えでした。しかし、いかに努力しても返済できない負債に苦しむしもべを可哀想に思った王は、借金を免除つまり全額棒引きしたと言うのです。

しかし、それほどの恵みを受けたにもかかわらず、同じ仲間に対するしもべの振る舞いは、あわれみに欠けたもの、余りにも自己中心的な行動でした。このしもべは、主人から受けた恵みを余り自覚していないように見えます。

そして、私たちも天の父から受けた罪の赦しの恵みを良く味わわないなら、このしもべの様な他の人を赦そうとしない、あわれみのない生き方に陥ってしまう危険があります。だからこそ、イエス様はこの譬えを語られたのです。

私たちも対人関係を良く点検する必要があると思います。私にはまだ赦していない人はいないだろうか。心にとげの刺さった苦々しい思いを抱いている人はいないか。口をききたくない、顔を合わせたくないと感じる人はいないか。その人の行動や失敗を心で責め続けているような相手はいないだろうか。

もし、家族の中に、兄弟姉妹の中に、職場や地域にそのような人がいることに気がついたら、赦しに取り組みたいと思うのです。神様から与えられた罪の赦しの恵みがいかに限りないものかを味わい、感謝しつつ、その人の幸いを祈ることから始めてゆきたいと思います。

また、神様に、自分の心からその人に対する怒り、責める思いを取り去ってくださるよう祈ることが何度も必要になるかもしれません。その人の幸いのために、自分にできることは何か教えてくださいと神様に祈ることも必要になるでしょう。

そうして赦しに取り組む時、私たちは自分の赦しの不完全さに気がつくことでしょう。もう、その人を赦したはずなのに、事あるごとにその人が自分にしたこと、言ったことを思い起こし、心を乱されることがあります。その人を赦せない理由を考え、その人を責め続ける自分を正当化する頑固な自分に気がつくこともあるかと思います。

その様な時は、人を心から赦せない私の罪をお赦し下さいと、天の父の胸に飛び込んでゆけばよいのです。そこで、天の父に受け止めてもらい、罪の赦しの恵みを味わう。「私も私に負い目のある人を赦します」と告白して、もう一度赦しに取り組む。私たち皆が主の祈りの第五の祈願を祈りつつ、罪の赦しの恵み、人を赦し、人と和解する恵みを受け取る歩みを進めてゆきたいと思います。

 

エペソ432「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2017年2月5日日曜日

マタイの福音書6章11節「山上の説教(28)~日ごとの糧を~」


今日の説教は、イエス様が語られた説教の内最も知られた山上の説教の中にある「主の祈り」です。去年11月第一週の礼拝以降、待降節、クリスマスと続き、今年に入ってからは信仰の生活の基本について扱ってきましたので、久しぶりの山上の説教、主の祈りとなります。

日本語聖書で僅か11行。「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけに続く六つの祈願。この短くて、簡潔で、子どもでも容易に口ずさめる主の祈りには、キリスト教の世界観、人生観が凝縮されていると言われます。教会でも礼拝で祈ります。日々主の祈りをささげる人も多いでしょう。しかし、果たして私たちはどれ程その意味を考え祈っているでしょうか。

信仰生活に祈りは欠かせないと分かってはいても、祈りが苦手と言う人。何を祈ってよいのか分からないと言う人。忙しくて時間がないと言う人も、この短い祈りの意味をひとつひとつ味わうことで、祈りに親しみ、神様との交わりを充実させることができるのではないかと思います。

 主の祈りを祈ることで、神様に近づき、神様と親しむ。私たちがこの世界に生かされていることの意味を知る。神様の眼でこの世界を見るようになる。祈りと言えば、自分の願いが叶うための手段としか思っていなかった者が、主の祈りを学び、祈る内に、聖書の世界観、人生観に心の目が開かれ、神様の子どもとして成長してゆく。この様な祈りの生活を目指して、再び主の祈りを取り組みたいと思います。

 さて、主の祈りは「天にいます。私たちの父よ」と言う呼びかけで始まります。ここに、私たちの祈りの相手が世界の造り主であり、この神様を親しく天の父と呼び、話しかけることのできる幸いを確認できます。

また、前半の三つの祈りは「御名、御国、みこころ」と神様のための祈りでした。神様があがめられるように。神様の支配が実現しますように。神様のみこころがなりますように。イエス様が教えられたのは、神中心の祈りです。そして、今日からは主の祈りの後半。後半の三つは私たちの必要の為の祈りで、その最初が先程読んでいただいたことばです。

 

6:11「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」

 

「日ごとの糧」と言うことばは、「明日のための糧」とも言い換えることができます。当時、労働者や兵士に、翌日の分の食料として与えられたものを指すことばとも言われます。天の父なる神様に対し「明日のために必要な一日分の糧を、今日私たちに与えて下さい」と祈るよう、イエス様が明確に教えたことになります。

何故、「明日のために必要な分の糧」と限定されたのでしょうか。昔も今も、私たちは明日何が起こるかわからない不安定な世界に生きています。仕事、経済、健康等様々な面で、人間には明日のことが分かりません。ですから、私たちは先のことまで考え、できるかぎり糧を確保したいと願います。将来の安定を確保したいと言う思いを、誰もが抱いています。

勿論、将来に備えて保険に入ること、貯蓄することを、聖書は否定していません。むしろ、備えるべきことに備えるのは知恵ある生き方として勧められています。しかし、それも行き過ぎると、非常に危険な状態になることを、イエス様は警告してもいるのです。

 

マタイ631,32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 

「心配する」と言うことばには「その人の心を独占する、支配する」と言う意味があります。将来の生活についての様々な心配で私たちの心が独占され、もっと大切なことが考えられなくなってしまう状態です。そして、イエス様が言うもっと大切なこととは、私たちの生活の必要を、今も将来も知っておられ、そのために最善の配慮をして下さっている天の父に信頼しないことでした。

イエス様が戒めた通り、私たちは神様を信頼していると思っていても、実際の生活の中で、将来への心配に心が支配されてしまう危険があります。私たちを子として愛してくださり、私たちの生活の必要を良く知り、配慮してくださる天の父の存在が消えてしまう。そんな心の状態に陥ることがあるのです。

だからこそ、イエス様は「明日のための一日分の糧を今日お与えください」と祈るよう命じました。この祈りによって、私たちが天の父に心を向け、明日のために最善の配慮をしてくださる神様に、日々信頼するよう勧めているのです。

イエス様の時代、殆どの労働者は日雇いでした。弟子たちにも裕福なものは少なく、多くの者は将来の生活の安定を確保するすべなど持ってはいませんでした。ですから、日々の糧を与えたまえと言う祈りは切実であったと思われます。それに対して、私たちはイエス様の時代の人々のような貧しい状態にはありません。祈らなくても、日々食べ物に困ることはありませんし、ある程度将来の保証を確保できていると言う思いもあります。神様に心から信頼しにくい時代です。

しかし、この様な時代だからこそ、私たちが生きてゆくのに必要な物を、日々本当に備えてくださるのは神様であることを自覚する必要があると思います。食べ物も着物も、経済も健康も、命そのものも、神様の配慮に支えられていることを思い、日々神様への信頼を新たにする必要があるのです。

次に、日ごとの糧の「糧」について考えます。この「糧」と言うことばは、元々「パン」を意味していました。パンが糧つまり食物の代表だったからです。しかし、私たちの生活に必要な糧は食物にとどまりません。

ルターと言う人がこう説明しています。「日ごとの糧とは、食べ物と飲み物、着物と履き物、家と畑と家畜、金と財産、良い家族、良い政府、良い気候、平和、健康、教育、良い友人、信頼できる隣人などである。これらが日ごとの糧に含まれる。」

私たちは時間を取って、神様がどれ程私たちの生活のため配慮してくださっているかを考える必要があると思います。私たちの多くは町に住んでおり、農業に携わっている人はあまりいません。しかし、実際に農業に携わっている方がおられるので、私たちは日ごとの糧を手にすることができます。作物が実るための天候や土地、水などの環境を守り、働く人々の健康を支え、働きを祝福しておられるのは神様です。

さらに、私たちは各々仕事から得る収入によって日ごとの糧を得ていますが、これにも多くのことが関わっています。神様は私たちが仕事を為すための健康を支え、仕事に必要な能力も備えてくださっています。私たちが収入を得ることができるのは、神様が私たちの社会を安定したものとして保っていてくださるからです。

今日では、世界大の規模で人間の欲望が噴出し、環境破壊や戦争など、悲しむべき現実が至る所で見られます。しかし、それでもなおこの様な世界で生きることができるのは、神様がこの罪の世界を導き、守っておられるからだと、聖書は教えているのです。

イエス・キリストを信じた私たちは、世界をこの様に見る信仰の目を与えられました。皆様は、日ごとの糧を神様の恵みと考えているでしょうか。それらの糧を受け取るに値しない者たちに対する神様の贈り物と考えているでしょうか。それとも、受け取って当たり前のものと考えているでしょうか。

イエス様によって私たちは、日ごとの糧を受け取って当たり前のものではなく、神様の恵みと見る信仰の目を開かれました。私たちは、日々の食物、健康、家族、良き友人、社会で働く人々の存在を通して、日ごとの糧を与えて下さる天の父を喜ぶことができます。日ごと受け取る糧の背後に、どれだけ神様の配慮があるのかを思い、神様に感謝するのです。

かって私たちは手にした物質や金銭にのみ目を向け、他の人と比べて大いの少ないのと不平不満をこぼす者でした。様々な心配事に心が支配される者でした。しかし、イエス様により、自分などには勿体ない様な神様の恵みとして、日ごとの糧を受け取る者、感謝で心満ち足りる者へと生まれ変わったのです。

そして、その様な生き方において、さらに成長してゆくため、私たちはこの祈りによって、一日の終わりに神様から受け取った恵みを数えたいと思います。神様を喜び、神様に感謝をささげる歩みを続けてゆきたいと思うのです。

最後に考えたいのは、どの様な願いを込めて、「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と言う祈りをささげるべきかということです。旧約聖書の箴言に、アグルと言う人の祈りが記されています。

 

30:7~9「 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

アグルが神様に祈ったことは二つありました。二つと言うのは箴言の独特な表現で、同じことを別のことばで言い表し、その真理を強調しています。

一つは、不真実と偽りとを私から遠ざけてくださいと言う願いです。積極的に言いますと、自分が真実に生きられるようにと言う願いです。

二つ目は、貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために、と言う願いでした。

私に定められた分の食物で私を養って下さい。このことばが「日ごとの糧を与えたまえ」と言う主の祈りに重なってきます。注目したいのはその理由です。「あなたを否み、主とは誰だと言わないために」からは、神様を畏れず、神様を信頼しないような生き方はしたくないと言う願いが伺われます。もう一つは、隣人のものを盗むことによって、神様の御名を汚すような生き方はしたくないという願いが示されています。

二つとも消極的な表現です。しかし、これによって、アグルが神様を畏れ、信頼する生き方、神様の御名があがめられる様な生き方を、真剣に、心から願っていることがわかります。そして、その様な生き方を妨げるものを避けたいと思い、そのために貧しさも富も私に与えず、定められた分の食物つまり日ごとの糧で養って下さいと、神様に祈っているのです。

アグルは心の中に、貧しさが自分を盗みに走らせる弱さがあることを自覚していました。富が心の中から神様への畏れと信頼を取り去ってしまう危険があることをわきまえていました。だからこそ、貧しさも富も与えず、神様が定め、与えて下さる分の糧で養ってほしいと祈ったのです。

これとは、対照的な生き方をした人についての例え話を、イエス様が語っています。

 

ルカ12:1521「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの愚かさとは、畑の豊作を神様の恵みと認めないこと、全ての富を自分のために蓄えようとするその心から神様への畏れや信頼、隣人への配慮が失われていることです。アグルが恐れていたのは、この男の様に、富によって心が占領され、神様への信頼を忘れること、富が神様のみこころに従う生き方を邪魔することだったのです。

果たして、私たちが神様に金銭、食物、家、健康など、生活に必要な糧を祈り求める時、願うのは自分が富む者となるためでしょうか。それとも、神様に信頼し、隣人に仕えることことでしょうか。自らの心に問いながら、主の祈りを祈る者でありたいと思うのです。今日の聖句です。

 

30:7~9「 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」