2016年7月31日日曜日

マタイの福音書5章48節、ピリピ人への手紙3章12節~16節「山上の説教(20)~完全でありなさい~」


イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて20回目となります。先週は「自分の敵を愛せよ」とイエス様が説く所。いわゆる愛敵の教えを学びました。

敵と聞いて、今の自分にその様な存在はちょっと考えつかないと言う人は、神様に恵まれた環境を与えられていることを感謝できたかと思います。しかし、イエス様の時代のユダヤ人の様に、憎み合うサマリヤ人とか、迫害するローマ人と言った様な敵はいないとしても、敵と言うことばを、イライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く対象と置き換えるなら、思いの他、身近な所に敵がいることに気づかされた教えでもあります。

反抗的な態度で向かってくる子どもは、その瞬間親にとって敵。感情的なことばで自分を責める配偶者は、その瞬間夫や妻の敵。自分の悪口を言い触らした友人も仲直りするまでは、私たちにとって敵と言えるかもしれません。いずれにしても、一瞬にせよ長い時間にせよ、イライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く相手に対し、私たちはどの様に反応してきたか。どう応答するようイエス様は教えているのか。この点を皆様と共に考えてきました。

そして、最終的な勧めとしてイエス様が語られたのが、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」です。今日考えたいのは「完全でありなさい」とはどういう意味なのか。それは、私たちが実行できる生き方なのかということです。

恐らく、多くの人は「完全であれ」と聞きますと、心から敵を赦した状態。何を言われても言い返さない。何をされてもやり返さない。怒りも憎しみも感じることなく、相手のために善を実行することのできる状態と考えるでしょう。心においても、ことばにおいても、行いにおいても、罪のない状態を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、聖書はこの地上に生きる限り、私たちはその様な意味での完全には、誰も到達できないと教えています。それは、死後天国において神様が私たちに与えて下さる恵みと教えているのです。

それでは、イエス様の言う完全とはどの様な意味なのでしょうか。先程読みましたピリピ人への手紙では、同じことばが「成人」と訳されていました。

 

3:15「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」

 

日本では20歳で成人と認められます。大人として生きることを求められる年齢です。最近はご存じの様に成人式の混乱ぶりから、本当に20歳が成人で良いのか議論されるようにもなりました。いずれにしても、成人とは肉体的にも精神的にも成熟、成長した人、一例を挙げれば自分の言動に責任を持てる人と言えるでしょうか。

そして、成人は必ずしも完全ではありません。間違った選択をすることもありますし、様々な点で失敗を犯します。しかし、そうだとしても、間違った選択で人に迷惑をかけたら謝罪し、失敗したら同じ過ちを繰り返さない様努力する。その様な振る舞いが成人の資質と考えられます。

繰り返しますが、成人イコール完全ではありません。山上の説教およびこの箇所で使われていることばは、所謂罪も失敗も犯さない完全なクリスチャンではなく成人、つまり成熟、成長したクリスチャンを指す。このことを押さえておきたいと思います。

それでは、ここでパウロが「成人である者はみな、このような考え方をせよ」と勧める、成人の考え方、生き方とは何でしょうか。三つにまとめて考えてゆきます。

第一に、成人の信仰者は、自分は完全ではないこと、不完全な者であることを認める人です。「自分はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」「すでに捕らえたなどと考えてはいません」と、パウロが語っている通りです。

パウロは、信仰者としての歩みを重ねるにつれ、自分の不完全さ、罪と弱さの自覚を深めた人でした。イエス様を信じた時から、順序を追って見てゆきます。

 

Ⅰコリント159「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。…」

エペソ38「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私…」

Ⅰテモテ1151:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

最初は「使徒の中で最も小さい者」、次は「すべてのクリスチャンの中で一番小さな私」死の直前に書かれた手紙では「罪人のかしら」。私たちはどんなに成長したとしても罪人であり、神様の恵みを必要とする存在と教えられます。信仰の成長とは、自分の罪と弱さの自覚を深めること、より一層神様の恵みの必要を感じ、それを受け取る歩みと教えられるところです。

第二に、成人のクリスチャンは、自ら成長に取り組む人です。「私はとらえようとして追及している」とか「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」「目標を目指して一心に走っている」とある通りでした。

ところで、罪を犯した時、聖書は私たちに何をするように命じているでしょうか。悔い改めることです。しかし、悔いる、後悔すると言うことばが含まれている為でしょうか。「あんなことをしなければよかった」と言う単なる後悔で終わってしまう場合が、多いような気がします。

けれども、悔い改めは単なる後悔とは違います。自分の罪を認め、神様に告白すること。神様から赦しの恵みを受け取ること。同じことを繰り返さないためにどうすればよいのか、神様のみこころを求め自分を改めること、変えることなのです。

パウロが「罪人のかしら」と言っているように、私たちの人生には罪と失敗があって当然です。成功ばかりで葛藤がない、痛みがないなどと言うことはありえません。しかし、その様な現実の自分をしっかりと受けとめ、神様の子どもとしての成長を願い、自分ができることに取り組んでゆく。それが、成人のクリスチャンの考え方なのです。ことばを代えれば、「自分はもう十分成長、成熟した」。この様に考える人は霊的に未熟と言うことです。

自分は罪人だから何もできないと諦めることも、もう自分は十分成長したと考えることも、成人の生き方ではない。私たちが目指すべきは、自分の霊的な成長に関して、自ら取り組み続ける生き方であることを教えられたいと思います。

第三に、成人のクリスチャンは、キリストの愛に捕えられている人です。「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」とパウロが語るように、私たちが信仰の成長に取り組む原動力は、イエス・キリストの愛にあります。

 

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

先週、私たちは敵を愛せよと言う教えについて学びました。しかし、それを実行しようとして、逆に相手から冷たいことばを浴びせかけられたら、どうでしょうか。私たちの心は傷つき、怒りが涌いてくるでしょう。それを悔い改めて、これからは怒りや憎しみを抱かないようにしようと決意し、しばらくの間はそれが続いたとしても、また元の木阿弥。それを繰り返すうちに、相手を責め、自分をも責め続ける。自分にはできないと失望してしまう。この様な経験はないでしょうか。

私たちは意志の力や行動力を成長の源にしている限り、自分に失望するしかないことを聖書は教えています。しかし、成人のクリスチャンは、いつでもキリスの愛のうちに立ち続けるのです。愛したい、赦したいと思っている相手に自分は怒りを感じてしまう。しかし、その様な者をイエス・キリストは自ら十字架に命を捨ててまで赦し、愛してくださった。このキリストの愛を受け取りながら自分を変えることに取り組む。パウロによれば、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰による」と言う生き方です。

罪悪感や義務感ではなく、自分を愛してくださるキリストの愛を受け取り、安心することによって、心からこうしようと思い願うことを実行してゆく歩み。これが私たちが目指す生き方なのです。

しかし、再度確認しますが、私たちの信仰がどれだけ成長、成熟しても、人から酷いことを言われたり、されたりしたら、心が痛みます。心の葛藤がなくなることもないでしょう。それでも、私たちはイエス・キリストの愛と赦しは変わらないと言う信仰に立ち続けるのです。自分でも嫌になり、情けなくなるような者を丸ごと受け入れ、大切な友と呼んでくださるイエス・キリストの愛を受けとり、その上でみこころに従い続けてゆくのです。

ナーウェンと言う人が、「すべてのクリスチャンは神様から愛されている者として生き続けるという使命を与えられている」と書いています。いつでも神様の愛を受け取ること。特に人を責め、自分を責める心の状態に気がついたなら、先ず神様の愛に安らぐこと。神様から愛されている者として生きる。これが最も大切な使命であることを意識しながら、日々歩む者でありたいと思います。

以上、自分は生涯不完全な者であり、神様の恵みが必要であると自覚している人、自ら信仰の成長に取り組む人、イエス・キリストの愛に心捕えられ、キリストの愛、神様の愛を成長の原動力としている人。これがパウロの言う信仰の成人、イエス様の教える完全な生き方であることを確認してきました。

最後に、二つのことをお勧めしたいと思います。

 一つ目は、信仰の成長を生涯継続するものと考え、長い目で見てゆくことです。皆様は、良く祈って行ったことなのに上手くゆかないと言うことを経験したことがあるでしょうか。この様な場合、私たちは、上手くいったかいかなかったかと言う結果だけで信仰の成長を判断しがちです。しかし、この様な捉え方は、上手くゆけば喜び、上手くゆかなければ失望と言う歩みの繰り返し。結果によって一喜一憂する信仰です。

しかし、信仰の成長を生涯継続するものと言う長い目で捉えるなら、私たちは上手くゆかなかったなら上手くゆかなかった理由を考えます。失敗と言う結果は、私たちの心の深い所に隠れていたプライドや、弱さを示され、それを神様に取り扱ってもらうチャンスなのです。 

これを愛敵の教えに適用すると、どういうことになるでしょうか。自分の敵を愛すると言う教えについて、相手を心から赦す、優しく接する言う結果だけを目標にしていると、相手の心ない言動に怒りを覚えたら、失敗と判断し、やはり自分は人を愛せないダメな人間だという後悔で終わってしまうでしょう。

しかし、結果だけで判断せず、信仰の成長の一段階と捉えるなら、自分の怒りはどこから生まれてきたのか、怒りの表し方は正しかったのかどうかを考えることができます。もし相手の言動が不正なものであるなら、不正に怒りを感じるのは当然であり、自然なことです。

しかし、相手の言動が酷いものであっても、こちら側も酷いことばで言い返す、酷い態度でやり返すと言う形で怒りを表したとしら、それは、私たちの罪であり、問題です。

聖書は、私たちの怒りを相手の悪をとめるという正しい目的のために用いることを教えています。そう考えると、言われたら言い返すやられたらやり返すと言うのは、相手の酷い言動を助長する最悪の選択と言うことになります。むしろ、どうしたら相手の言動を辞めさせることができるか。どうしたら自分の思いを冷静に伝えることができるのか。それを聖書から学ぶ、信頼できる人に相談する、自分でも考える。その上で、実行する。それが神様が望む考え方、生き方なのです。

一歩進み、失敗し、悔い改めて、そこから神様のみこころを学ぶ。次は、より良い選択ができるように準備する。神様のみこころにそって自分を変えること。信仰の成長は少しずつ進んでゆきます。生涯継続する歩みです。一つの結果だけを見て一喜一憂せず、焦らずに長い目で見て、取り組んで行くことをお勧めします。

二つ目は、自分のことをケアしながら信仰生活を進めることです。私たちは神様によって創造された者、被造物です。その一つの意味は、私たちは神様や周りの人々の助けやなしには、正常に機能できない存在だと言うことです。肉体的にも精神的にも霊的にも限界があり、教会の兄弟姉妹や家族、友人などの助けを必要としている存在なのです。

預言者のエリヤが異教バアルの預言者と戦い勝利した後、ひどく落ち込みました。死を願う程の絶望状態で、彼はこの時鬱病を患っていたと考える人もいます。その様なエリヤに、神様が与えたのは、まず休息と食べ物、次に神様からの語りかけ、そして信仰を同じくする預言者たち七千人の存在でした。つまり、エリヤは休息と食べ物と言う肉体的必要、神様からの励ましと言う霊的必要、そして信仰の仲間からの友情と言う精神的必要を満たされ、立ち直ることができたのです。

敵を愛するという歩みにおいても、これは真理です。私たちにとって肉体的に疲れ切った状態で人を愛することは至難の業です。神様の愛に励まされる必要もあります。自分を敵とみなす人から友情は受け取れませんから、安心して交わることのできる信仰の友も必要です。肉体的にも、霊的にも、精神的にも、自分をケアしながら、神様のみこころに従い続ける歩みを進めることをお勧めします。今日の聖句です。

 

ピリピ3:12「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

 

 

2016年7月24日日曜日

マタイの福音書5章43節~48節「山上の説教(19)~自分の敵を愛し~」


イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて19回目となります。今日は「自分の敵を愛せよ」とイエス様が説く所。いわゆる愛敵の教えの登場です。

ところで、皆様は自分の敵と聞いて、ピンとくるような人を思いつくでしょうか。その様な存在はちょっと考えつかないと言う人は恵まれた環境にあると思います。もし、自分には敵がいると明確に感じている方がいるなら、その苦しみはいかばかりかと思わされます。

しかし、敵と言うことばを、イライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く対象と置き換えるならどうでしょうか。思いの他、身近なところに敵がいることに気がつかれるのではないでしょうか。

昔々美しい女王様がいました。女王様はひとりの女の子を生みました。その女の子の肌は雪のように白かったので白雪姫と名づけられました。ご存知、グリムの童話「白雪姫」です。

女王は自分よりも美しい人がいることに我慢できません。彼女は不思議な鏡を持っていて、その鏡の前に立って「鏡よ鏡。この国で一番美しいのはだれか」と尋ねます。すると、鏡は「女王様。この国で一番美しいのはあなたです」と答える。これを聞いて女王は満足する。鏡は本当のことしか言わないのを知っていたからです。

しかし、白雪姫がすくすくと成長し、美しくなったある日のこと。女王が鏡の前に立って、「鏡よ鏡、この国で一番美しいのはだれか。」と尋ねると、「女王様、この国で一番美しいのはあなたです。けれども、白雪姫はあなたより千倍も美しい」と鏡は答えました。女王はこれを聞いた女王は怒りと妬みに悩まされ、白雪姫を見るたび腸が煮えくり返る思いになる。とうとうじっとしていられず狩人を呼んで、娘白雪姫の殺害を命じるという物語でした。

グリムの物語は極端な例かもしれません。しかし、人間がいかに自分勝手な理由で人を敵と見るか。自分の身近なところに敵がいるものかがよく伝わってきます。

遠い国よりもお隣の国。よく似た文化や習慣を持つ民族同士。赤の他人よりも家族や親族、友人や同僚。教会の兄弟姉妹。私たちがイライラした気持ちや怒りを向けやすい相手は、思いのほか身近にいるものではないでしょうか。

「お兄ちゃん。よくもぶったわね。あたしも仕返しさせて。」と妹がぴしゃりと叩く。そうすると、お兄ちゃんはお兄ちゃんで、「そんなに強くは叩かなかったぜ。よし、二倍にしてやる、三倍にしてやる」と言い、ますますやる。私自身も経験した兄弟喧嘩です。あの瞬間、私は妹の敵、妹は兄の私にとって敵でした。

反抗的な態度を繰り返す子どもは、その瞬間親にとって敵。ひどいことばで自分を責める夫は、その瞬間妻の敵。無責任な行動を繰り返す妻は、反省の態度を示すまで夫の敵。自分の悪口を言い触らした友人も仲直りするまでは、私たちにとって敵と言えるかもしれません。

いずれにしても、今日のことば。一瞬にせよ、長い期間にせよ、自分がイライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く相手に対し、私たちはどの様に反応てきたか。どう応答するようイエス様は教えているのか。この点を意識して読み進めてゆきたいと思います。

「自分の敵を愛しなさい」。有名な愛敵の教えは、イエス様が旧約聖書の律法を引用し、それを歪めて解釈していた律法学者パリサイ人の教えを正し、律法の真の意味を説き明かすという段落の第六番目に登場してきます。

 

5:43,44「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

 

旧約聖書を開きますと、確かに「あなたの隣人をあなた自身の様に愛しなさい」(レビ1918)とあります。しかし、その後に「自分の敵を憎め」とはどこにもありません。それでは、何故律法学者やパリサイ人は「敵を憎め」と言う教えを付け加えたのでしょうか。

背景にあるのはイスラエル民族の苦難の歴史です。イスラエルが国家として最も繁栄したのはダビデ、ソロモン二代にわたる王様の時代。あとは、多少栄えた時代はあるものの、基本的には周辺諸国の侵略に苦しみ、遂に国は滅亡。人々は捕囚の民としてアッシリヤ、バビロンに移されました。漸く帰還を許されたものの、ギリシャ・ローマと大国に支配され、迫害に苦しみます。聖書の神を知らない異邦人を「犬」と呼んで蔑み、敵視すると言う形で民族のまとまり、アイデンティティーを保ってきたのです。

特に、先祖は同じであるのに、異教の影響を受けたサマリヤ人に対するユダヤ人の憎悪は激しく、両者は犬猿の中にありました。ですから、律法学者パリサイ人の言う隣人とはユダヤ人を、敵とはサマリヤ人および支配国のローマ人を指していたのです。

しかし、これはイエス様の時代のユダヤ人だけの問題ではないように思われます。すべての人を隣人とすることができず、敵を作ろうとする性質は私たちの内にもあります。考えが合わない人は無視したり、避けたりする。一旦心を閉ざすと、敵視して冷たい態度を取り続ける私たちもユダヤ人と同類ではないでしょうか。

しかし、その様な私たちに、イエス様は「自分の敵を愛しなさい」と言われる。敵を愛するとはどういうことなのでしょうか。敵を好きになれと言うことでしょうか。それとも、敵と仲直りせよと言うことでしょうか。

この教えの意味を考える上で参考にあると思われるのが、「善きサマリヤ人のたとえ」です。「私の隣人とはだれですか」と質問したひとりの律法学者に対し、敵対するサマリヤ人が道に倒れていたユダヤ人を助けると言う、当時の現実としては稀にしかなかったであろう出来事を譬えとし、イエス様が隣人愛の真髄を教えておられます。

 

ルカ10:3037「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」」

 

想像してみてください。傷ついたユダヤ人に対し、サマリヤ人が好意を抱いたとは考えられません。敵対するユダヤ人を助けることに心の葛藤があったとしても当然です。同胞である祭祀やレビ人でさえ関わりになるのを嫌がった程の重体でした。サマリヤ人が自分に助ける義務はないと考えたとしても不思議はありません。

しかし、サマリヤ人はユダヤ人の苦しみを見るに見かねて、自分がなしうる最善の助けをささげました。彼は助けたユダヤ人と言葉を交わすこともなく、翌日旅立ったように見えます。そして、イエス様は三人の中でこの人が強盗に襲われた者の隣人となったと言われ、「あなたも同じようにしなさい」と締めくくっているのです。

つまり、隣人を愛するとは、相手が好きであろうと嫌いであろうと、たとえ相手から感謝されようがされまいが、苦しむ者のために自分がなしうる最善の行動を選択すること。これがイエス様のメッセージでした。

現代の多くの人々にとって、愛は好きと言う感情と同じものと考えられています。しかし、イエス様は、ここで愛イコール好きと言う感情ではない、二つは別ものと教えています。

勿論、好もしい人、親しみを感じる人を助けることは、実行しやすいことですし、その様な関係は私たちにとって大きな恵みです。しかし、嫌いな人を好きになることが愛だとしたら、それは非常に難しい目標ではないかと思います。何故なら、私たちには嫌いと言う感情を好きと言う感情に、憎しみを好意に変えることはできないからです。 

しかし、神様の愛を心に受け取るなら、相手に対する感情や相手の態度に関わらず、苦しむ人のために自分がなしうる最善の態度や行いを選ぶこと。つまり、態度や行いを変えることは可能。これが、イエス様を信じる者に与えられた「愛する自由」と言う恵みなのです。

 

5:45「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 

イエス様を信じる者は、神様が天の父であり、自分はその子どもであることを知っています。天の父が信じる人にも信じない人にも同じく自然の恵みを与え、養っておられることを知っています。そうだとすれば、神様の子どもである者は天の父と同じ愛で人々と接してゆくがよい。このイエス様の教えを、心に刻みたいところです。

続くところでも、神様の子どもとして私たちの愛がどのようなものであるべきか。相手との関係が良好であってもそうでなくても、自分から愛を示すことの大切さが教えられます。

 

5:46~48「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 

収税人は、当時ユダヤ人同胞から税金を搾取し、富を築いていた社会の嫌われ者。自己中心的な生き方の代表者としてあげられています。異邦人とは、聖書の神様を信じない人々のことです。

収税人でも自分を愛してくれる人は愛するし、異邦人でも挨拶をしてくれる人には挨拶を返す。しかし、あなた方天の父の子どもの愛はその様に相手の態度や行動次第のものであってはならない。天の父が完全なように完全であれ。そうイエス様は言われるのです。

完全とは「成熟」とか「成人」と訳す方が良いことばとも言われます。確かに、完全と言われると罪のない状態、怒りや憎しみを全く覚えない状態を思い浮かべますから、個人的にも「成熟」あるいは「成人」と訳したほうが良いかと思います。

このことについては次回改めて考えてゆきたいと思っています。今日は、天の父の様に相手の態度に左右されない愛が、神様の子どもには恵みとして与えられていること、私たちはその様な愛を目指して歩むべき者であることを押さえておきたいと思うのです。

最後に、実際に愛において成長、成熟するために心に留めておくとよいことを、二つお勧めします。ひとつめは、すぐに理想的な状態を目指すのではなく、自分ができることから実行して行くことです。旧約聖書に隣人愛の一例としてこの様な教えがあります。

 

出エジプト235「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」

 

この状況、分かりますでしょうか。私たちの生活にも似たようなことがありそうです。相手は自分を憎んでいる人ですから、こちらにとっても嫌な相手。「それを起こしてやりたくなくても」と言う気持ちはよくわかります。けれども、たとえロバの持ち主は嫌いでもロバに罪はない。同じ町同じ村に生活する者として、荷物の下敷きになって苦しむロバ、貴重な家畜を助けるのは共同生活における最低限のルールとも考えられます。

自分を憎む人は自分を傷つける可能性がある人ですから、安心して近づくことはできません。そういう場合はすぐに仲直りしようと考えず、相手が困っている時には手を差し出すという愛し方から始めればよいと教えられます。そこから初めて、相手のために祈る、出会った時には挨拶を交わすなど、できることを少しずつ増やしてゆくのです。

そうした実践が、心の中にある怒りや苦々しい思いを徐々に取り去り、相手の幸いに対する関心を深めてゆく助けになるのではないでしょうか。私たちは相手を変えることはできません。しかし、自分にできる愛を実行することは私たち自身を変えてゆくのです。

二つ目は、この様な努力を神様との恵みの関係の中で継続することです。私たちの努力は常に報われるとは限りません。相手が責めてくるのに腹を立てて言い返したり、やり返してしまうこともあるでしょう。もし、神様の赦しの恵みと言う支えがなかったら、私たちは自分の罪と無力に失望するしかないのです。

しかし、聖書はイエス様を信じる者の罪は完全に赦されており、神様の愛は、私たちがどんな酷い罪を犯しても変わらないと保証しています。自分を変えることは長い時間がかかる作業です。何度でも心に涌いてくる怒りや、自分の弱さを受けとめ、試行錯誤を繰り返しながら、取り組み続けることです。私たちが皆、神様と心から安心できる恵みの関係にあることを信じ、与えられた愛を実践し、育てる歩みを進めてゆきたいと思います。

 

エペソ431,32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2016年7月17日日曜日

「一書説教 アモス書 ~選び出された者として~」


世界をどのようなものと観るのか。「世界観」によって、その人の生き方は変わります。偶然の積み重ねの果てに今の世界があるとして生きるのか。世界を創り支配されておられる方がいるとして生きるのか。違いがあります。この地上での生涯が全て死んだら終わりと考えるのか。この地上での生涯の後に、永遠の世界があると考えるのか。違いがあるのです。

 聖書に触れ、創造主を知り、キリストを信じることで、私たちの世界観は変わります。何のために生きているのか分からない、人生の目標は自分で定める生き方から、私たちの人生には神様の目的がある、生きる理由が明確になる人生となる。いかに自分が中心となれるか、自己中心を追い求める生き方から、いかに世界に仕えることが出来るのか、神中心を目指す生き方となる。キリストを信じる信仰によって、私たちは大きく変わります。

 

 しかし、キリスト教信仰を持っていても、いつでも聖書の世界観に立って生きられるかと言えば、なかなかそうはいきません。神様が望まれること、聖書から考えて正しいと思うことを、選べないことがあります。間違っていると思いながら、悪に走ること。怒りや憎しみの感情に支配されること。そもそも、何が聖書的なのか、何が正しいのかよく考えないこともあります。

 忙しい毎日を生きる私たち。朝起きたら、あとは一日のスケジュールを必死にこなし、夜を迎える。神様が私に願っていることは何か。今日、どのように生きるべきなのか。よく考えないまま、あっという間に一週間が過ぎることがあります。

 

 キリストを信じる私たちは神の民。世界を祝福する使命が与えられています。人間のあるべき生き方を示す。どのように神様を愛し、どのように隣人を愛するのか、私たちを通して世界中の人が知るようになる。

 私が救われたのは、私が幸せになるためだけではない。救われた私が、今日生かされているのは、神の民の使命を果たすためでした。今一度、この礼拝の時、神様が私にどれ程大きな使命を与えられているのか。どれ程大きな期待をされているのか。再確認し、神の民として生きる決意を新たにしたいと思います。

 

聖書の中、一つの書を丸ごと扱う一書説教。断続的に行ってきましたが、今日は三十回目。旧約聖書第三十の巻き、アモス書です。

 預言者アモスが活躍したのは(ヤロブアム二世という王の時代)国が政治的に安定し、経済的に繁栄した時代。それは信仰よりも政治や経済を優先させることへつながります。何が真実か、何が正しいかよりも、豊かさが追求された時代。物質的繁栄は道徳的腐敗に通じ、偶像崇拝、貧者圧迫が時代の特徴となります。

 神の民が、与えられた使命を果たそうとしなかった時。世界を祝福する使命は忘れ去られ、経済的繁栄を追い求める風潮が蔓延した時代。使命を思い出すようにと遣わされた預言者アモスの言葉を、今日は確認することになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それでは、この書の中心人物、預言者アモスは、どのような人だったでしょうか。預言者として大きな特徴がありました。

 アモス7章14節~15節

アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。』と。

 

 当時、預言者として一般的に認められるのは、神殿の働きに就いている人か、預言者の仲間に属している人でした。ところがアモスは、羊飼い(牧者)であり、農夫。宮仕えの者ではなく、預言者仲間に属しているわけでもないといいます。(今の私たちの感覚で言えば、教会で仕えたことも、神学校で学んだこともないけれど、牧師の働きをしているという状況に近いでしょうか。)神様から預言せよと言われたので、預言者の働きをした人。

 神様からの使命を受け取った時、アモスはどのように思ったでしょうか。奮い立ったのか。戸惑ったのか。怖気づいたのか。残念ながら心情は聖書に記されていなく分かりませんが、与えられた使命を果たそうとしたことは分かります。神の民が、その使命を果たさず、自分中心の生き方に走っていた時、アモスは自分に与えられた使命を果たそうとした。信仰者として見習いたい姿です。

 羊飼いであり農夫であるアモス。語ることから縁遠い人。その言葉は、朴訥とした、粗野な語り口調かと想像するところですが、実際にアモス書を読んでみますと、その語り口調は雄弁で洗練されたものであることに驚きます。小預言書随一の文学的に巧みな書です。召しに応じたアモスに、その働きに相応しい力が与えられたということでしょうか。

 

 その預言の多くは警告です。使命を果たさず、悪に走る神の民に、悔い改めるように。そのままでは、大きな裁きが下されるとの警告。しかし、警告の仕方にも、技巧が凝らされています。

 アモスが主に語った相手は、イスラエル王国が南北に分裂した後の北王国。北イスラエルに対して。しかし前半、語り始めは諸外国に対しての審判の言葉からとなります。

 

 アモス1章3節

主はこう仰せられる。「ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじったからだ。

 

 「〇〇の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」という表現が繰り返されます。最初にダマスコ(アラム)、続けてガザ(ペリシテ)、ツロ、エドム、アモン、モアブと続き、さらには南ユダまで。北イスラエルを取り囲む近隣諸国に対して、どの国もひどい悪を行い、神様の裁きを免れないとの宣言が繰り返されます。

 北イスラエルの人たちが、この宣言を聞いた時、どのような思いになったでしょうか。あいつらは裁かれて当然として裁きの宣告に胸をすかせて拍手を送ったでしょうか。他の人の悪は非難しやすいものです。

ダビデ王が、自分の欲望を満たすために人妻バテ・シェバを呼びつけ姦淫を犯し、夫ウリヤを激戦地に送り込み殺し、この一連の出来事を隠そうとした時。姦淫、殺人、偽証と三大悪に走った時、預言者ナタンは、はじめに例話をもって警告しました。金持ちが自分の羊を惜しんで、貧しき者が大切にしている羊を奪ったという話。ダビデはその話を聞き、その金持ちは死刑だと宣告するも、ナタンはあなたこそ、その男だと切り返しました。ダビデ王に対するナタンの警告の仕方と、北イスラエルに対するアモスの警告の仕方は、類似しているように思います。

 まずは近隣諸国に対する裁きの宣告。しかし狙いは北イスラエルの民。興味を惹きつけ、聞く耳を持たせ、返す刀で本命の北イスラエルを切りつける。警告の仕方にも技巧が見られるのです。

 

 それでは北イスラエルへの宣告とはどのようなものだったでしょうか。

 アモス2章6節~8節

主はこう仰せられる。「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金のために正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。」

 

 アモスによって糾弾される北イスラエルの中心的な悪は、貧しい者、社会的弱者が虐げられていたこと。(同時代、同じ北イスラエルで預言するホセアと比べると、特徴がよく分かります。ホセアの主なメッセージは、宗教的姦淫、偶像礼拝の問題でした。対してアモスは、罪の糾弾の中でも社会悪、不正に対するものが多く扱われます。)貧者圧迫、弱者虐待ということ自体、神の前に裁かれるべき悪でしたが、神の民がこのような悪に走るというのは、与えられた使命を果たさないという意味もあります。何のために生きているのかを忘れ、経済的繁栄の波に乗り遅れないように必死になる北イスラエルの姿は、実に現代的な気がします。

 この警告を皮切りに、アモス書の中盤は、北イスラエルへの警告、断罪の言葉が続きます。(3章から6章では、北イスラエルの民に対する直接的な語りかけが中心。7章から9章の前半まで、幻による預言の言葉となり、大きく雰囲気が変わります。)

神の民がその使命を果たさない時、神様はどれ程悲しまれているのか。そのような神の民に、どのように声をかけられるのか。あの手この手と、技巧を凝らして語り続けるアモスの警告を、かつての北イスラエルの人たちに語られた言葉として読むだけでなく、今の私たちにも語られている言葉として読み進めたいと思います。

 

 中盤の警告、断罪の箇所で、特に有名で印象的な箇所をいくつか押さえておきたいと思います。一つは懲らしめの意味が語られる箇所。

 アモス4章6節

わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

 

 神の民がその使命を果たさない時。神様は預言者を送り、立ち返るようにと呼びかけます。しかし、それだけではない。懲らしめを通して、立ち返るようにともされる。それも一回の懲らしめだけではない。ここで言われるような、飢饉による懲らしめ。更には、干ばつ(7、8節)、穀物の病気といなご(9節)、疫病と戦争による被害(10節)、町が破壊される(11節)懲らしめがあったと語られますが、しかし、「それでも、あなたがたは、わたしのもとに帰って来なかった。」という残念な結末。

私たちは大丈夫でしょうか。日々の生活のあらゆる場面を、神様との関係で受け止める信仰を持てるようにと願います。せっかく神様が用意された懲らしめを無視することのないように。その時には痛く、避けたいと思うことが、神の民としての取扱いの故であるということがあるのです。

 

 次の言葉も有名であり印象的です。

アモス5章21節~24節

わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

 

 神様が礼拝を嫌うという言葉。強烈です。このような言葉に触れると、果たして私のささげている礼拝は、神様に喜ばれるものだろうかと心配になります。

 アモスは、礼拝の時だけではない。神様に心を向けるだけではない。日々の生活の中で、正しく生きること、隣人に目を向けることの大切さを訴えます。悪から離れることなく、それでも礼拝を続けていれば安泰ではないと言うのです。正義を行わない。隣人を愛さない者の礼拝を、神様は退けられる。使徒ヨハネの「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4章20節)という言葉が思い出されるところ。

 

 他にも有名、印象的な言葉は多数。是非とも、あれもあった、これもあったと確認しながら、アモス書を読み進めて頂きたいと思います。

 その殆どが警告、裁きの宣言のアモス書。それも後半に進めば進むほど、神の裁きは避けられないものと展開していきますが、最後の最後で、励まし、希望の言葉が語られアモス書は閉じられます。

 アモス9章11節、15節

その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。

『わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。』とあなたの神、主は、仰せられる。

 

 神の民が使命を果たさない。預言者が送られ警告が告げられ、繰り返し懲らしめも与えられ、それでも悪から離れない。その結果、より強大な裁きが下されるも、しかし決定的に神の民がいなくなることはない、というのです。神様は世界を祝福する使命を与えた者たちを、この世界に送り続けるという宣言。この宣言の延長に、私たちがいると見ると、アモス書がグッと身近になります。

 

 以上、簡単にですがアモス書を読む備えをしました。神の民として選び出された者たちが、その使命を果たさない時。神様はその神の民を見捨てるのではなく、預言者を送り、使命を思い出すように。選び出された者として生きるようにと、警告を発します。

 それでは、神の民は預言者の言葉を聞きいれたでしょうか。アモスが、北イスラエルに最初の語った言葉は次のようなものです。

 

アモス2章10節~12節

「あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。――主の御告げ。――それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。」

 

 奴隷であったエジプトから救い出され、約束の地が与えられ、神の民として選び出されたイスラエルの子ら。救い出されたこと、選び出されたことを忘れる時には、預言者が送られてきた。しかし、その預言者には、預言するなと命じたと言います。ひどい状態。

 しかし、それでもここに、神様はアモスを預言者として立て、送られたのです。私たちの神様は、神の民を見捨てないお方。アモスを通して、警告を発し続け、大きな裁きが起こるとしても、神の民がいなくなることはないと励ましまで与えられる。アモスを通して、何とか神の民を導こうとされる神様の情熱が見えます。

 これが私たちの神様。今朝、アモス書を通して、私たちの神様は、私たちを見捨てないお方と受け取ります。キリストによって神の民とされた私たち。しかし、救いの喜びを忘れ、与えられた使命を放棄し、預言者に預言するなと言うがごとく聖書から遠ざかろうとする時。何とかして、選び出された者として生きるように、神の民として生きるように、私たちを導くお方がいること。この神様だからこそ、今も信仰者として生きることが出来ているのだと再確認します。この礼拝と、アモス書を読むことを通して、私たちに対する神様の情熱と期待を再確認し、今一度、選び出された者として、神の民として、それぞれの生活の場で与えられた使命を果たしていく決心を新たにしたいと思います。

2016年7月10日日曜日

マタイの福音書5章38節~42節「山上の説教(18)~あなたを告訴して~」


19世紀後半、中国で活躍した宣教師の一人にハドソン・テーラーがいます。テーラーは宣教団体を設立し800人の宣教師を養成し、125の学校をつくり、18000人もの人をキリスト教信仰に導きました。非常に有名な宣教師です。

テーラーは、当時の宣教師としては極めて稀なことでしたが、現地中国人の服を愛し、常に着用していたそうです。ある日の夕方、テーラーが岸辺に立って、向こう岸まで渡るため小舟に呼びかけると、小舟が近づいてきました。そこに中国人の金持ちが割り込み、中国服を着ていたみすぼらしい男が宣教師であるとは気がつかず、待っていたテーラーを押しのけたため、テーラーはぬかるみに落ち、服がどろどろに汚れてしまいます。

金持ちが小舟に乗り込もうとした時、船頭が「いや、この外人さんが先に私を呼んだのです。だから、この人が先に乗る権利があります」と拒むと、金持ちは自分のしたことに気がついて非常に驚きました。しかし、テーラーは苦情も文句も一言も口にせず、彼を招いて一緒に船に乗せたのです。

侮辱的な取り扱いに対し憤慨することもできたテーラー。しかし、テーラーは自分にこの様な行動をさせたものは一体何であったのか。それは、自分の力ではなく、心にある神様の恵みであることを船の上で話し、その証が金持ちの魂に深い影響を与えたと言うエピソードがあります。テーラーが、語ることばだけでなく生き方を通しても、神様の恵みを人々に示していたことを確認できるエピソードです。

 

5:39「…あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。」

 

これは、聖書を開いたことのない人でも知っているほど、有名なことばです。イエス様の時代、人が受ける侮辱の中でも最大のものとされ、この様な行いをした者は罰金を支払うことを命じられたとさえ言われる、頬を平手で打つと言う行為。このような侮辱に対して、復讐心をもって応じてはならないことを、イエス様は教えられました。

兄弟喧嘩に親子喧嘩、夫婦喧嘩。地域、職場、学校における隣人、同僚、仲間との争い。小さな子どもも大人も老人も、男も女も、言われたら言い返す、やられたらやり返す。自分はそうしたいし、そうする権利がある。人間社会の至る所に見られる復讐心。一度捕まったら、簡単には逃れられない心の病。この復讐心からの解放について、私たちは先回の説教で学びました。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で18回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つの言葉、八福の教えで始まっています。ここには、イエス様を信じる者が受け取る八つの祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと。イエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。

続く段落では「あなたがたは地の塩、世の光」と語り、天の御国の民はこの世の腐敗を防止する塩、神様のすばらしさを現す光として生きる使命があることを教えられます。

次に天の御国の民にふさわしい義、義しい生き方とは何かについて、イエス様は教え始めます。

最初は「殺してはならない」と言う十戒の第六戒、二番目は「姦淫してはならない」と言う第七戒、先回は「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う第三戒に込められた神様のみこころを、説き明かされたのです。

そして、今日の個所では十戒ではありませんが、同じく旧約聖書に定められた律法、「目には目で、歯には歯で」に込められた神様のみこころを教えておられます。これまでの三つと同じく、この律法も律法学者やパリサイ人によって真の意味が歪められていたからです。

今日は主に40節から42節を取り上げ、私たちイエス・キリストを信じる者、天の御国の民の生き方を考えてゆきたいと思います。まず先回扱った内容を確認しておきます。

 

5:38,39「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」

 

「目には目を、歯には歯を」という律法は、自分を傷つけた者に怒りを抱き、度を越えた仕返しを行うと言う風潮がイスラエルの社会を覆っていたことに対し、心を痛めた神様が定めたものでした。復讐心の制限、抑制を目的としていたのです。

しかし、イエス様の時代、人々から尊敬される律法学者、パリサイ人は、これを自分に対し侮辱を加えた隣人に対する復讐心の承認と考えました。言われたら言い返す、やられたらやり返す。自分はそうしたいし、そうする権利がある。その様な思いに駆られて行動することが正当化されたのです。

それに対しイエス様は、「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と語り、復讐心からの解放こそ神様の恵みであり、私たちに求められる義しい生き方と言われたのです。

反抗的な子どもの態度に腹を立て怒鳴る。配偶者の無責任な行動に憤慨し、これからは一切愛情を示すまいと決心し、心を閉ざす。身勝手な隣人の振る舞いに堪忍袋の緒が切れて、責め立てる。その様な場合、非は相手にあるのだから自分の態度には問題なしと、私たちも考えてきました。

その様な私たちがイエス・キリストを信じ、神様の恵みにより天の御国の民、神の子とされたのです。果たして、私たちの心は復讐心からどれ位解放されているのか。復讐心ではなく、神様の恵みに動かされ人に対応できているのか。一人一人、心に問われたところです。

さて、今日の個所でイエス様は、当時の人々が直面する可能性のある問題の中から、二つの例を挙げられました。復讐心からの解放だけではなく、もっと積極的に相手の求めに応じることを勧めているのです。

 

5:40,41「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」

 

下着と日本語に訳された物は、今日で言うワイシャツやTシャツ等。普通の服、上着です。上着と訳された物は、私たちが言う上着の上に羽織るオーバーのことです。

その頃、人々は上着を布団代わり、夜具としても用いていました。貧しい者にとっては二つと持てない貴重な生活必需品でした。ですから、旧約聖書は、貧しい者から上着を質にとる場合、日没までには返してやらねばならないと定めています。他方、下着は何着か持っているのが普通でしたから、借金の方として求められることが多かったようです。

この様な時代、イエス様は、下着を借金のかたに取ろうとする者には、あなたにとって大切な上着をも、気前よく与えてしまう程の姿勢で生きよ、と命じられたのです。相手の要求は下着であるのに、上着をも与えよと言われたイエス様。イエス様は、自分の上着を守る権利を捨て、相手の求める以上のものを与えよと勧められたのです。

これは、相手の権利よりも自分の権利を重んじる私たち。いや、自分の権利のことしか頭になく、自分の権利に固執しがちな私たち。時には、お互いに権利を譲らず、争い対立することすら辞さない私たち。そんな私たちの生き方への挑戦です。天の御国の民として、自分の権利にしがみつく様な生き方はふさわしくないとの教えでした。

ある姉妹が洗礼を受けた時のことです。姉妹は一日も早く洗礼を受けたいと思っていましたが、ご主人がなかなか納得してくれませんでした。ご主人が家の宗教のことなど考え、悩んでいることが分かっていた姉妹は、「あなたが納得できるまで考え、認めてくれた時に、私は洗礼を受けます」と伝えたのです。「一人の人間として、私には信仰の自由がある」と言って自分の権利を主張せず、ご主人の思い、ご主人の権利を優先したのです。その結果、ご主人も出席された礼拝で、姉妹は洗礼を迎えることができました。

これはどの様な夫婦の場合にも当てはまる行動ではないかもしれません。しかし、自分の権利を後回しにし、相手の思いや権利を大切にすると言う私たちの生き方が、相手の心に大きな影響をもたらす例ではないかと思います。「下着をも取ろうとする者には、上着をも与えよ」。イエス様が天の御国の民にふさわしいと示したのは、この様な生き方なのです。

また、「あなたに一ミリオン行けと強いる様な者とは…」と言う言葉は、古代社会においては良く行われていた慣習を指しています。国家はこの慣習に基づいて、人々を荷物の運搬のため徴用する権限を持っていました。

庶民にとっては実に迷惑なこと。特にこの時代、ユダヤはローマ帝国の植民地でしたから、ローマ兵士に労働に駆り出されることは人々に迷惑なばかりか災難。苦々しい思いで、嫌々応じる者も多かったであろうと思われます。それなのに、「一ミリオン行けと強いる様な者とは、二ミリオン行け」と、イエス様は語られました。

イエス様を信じる者が受け取る神様の恵みは、これ程に私たちを変え、人のために犠牲を惜しまぬ者へと造り変えるという祝福であり約束です。同時に、私たちが日々取り組むべき義しい生き方でもあるのです。

大学時代のクリスチャンの先輩の証です。私の先輩は家族でただ一人のクリスチャン。特にお父さんは浄土真宗の檀家、頑固なキリスト教反対論者で、息子が教会に行くことにも、聖書を読むことにも、勿論洗礼を受けることにも大反対しました。

しかし、すでに成人した息子の行動を力で制することはできず、あきらめたかと思いきや、様々な方法で日曜日の礼拝出席を邪魔し始めたのだそうです。日曜日の朝になると、「あれをしろ、これを手伝え」と言い出し、「礼拝に行くので、それはできない」と断ると、「お前は家族を大事にしないのか」となじられる。

ほとほと困り果てていた時に、この山上の説教のメッセージを聞いて、先輩はある行動に出ました。お父さんに「私にしてほしいこと、すべきことを、金曜日の夜までに教えてくれますか。そうしたら、土曜日の内にそれを行い、できない分は日曜日教会から帰ってきてから行います」と約束し、その通り実行し始めました。そればかりか、頼まれてもいないこと、日曜日の朝の食事のご飯とみそ汁を家族全員の分を作る事まで、行ったそうです。

ある日曜日、お父さんがそれまでの様に息子に命令を出そうとすると、さすがにお母さんがそれに抗議しました。「お父さん、私もキリスト教のことは難しくてよくわからないけれど、変わった息子の姿を見ると、キリスト教も良いもんだと思うし、教会にも行かせてあげたい気がする」と言い、先輩の味方についたのだそうです。

頑固なキリスト教反対論者の要求を聞き、それに応じたばかりか、自ら求められた以上のことを行うとする。「あなたに一ミリオン行けと強いる様な者とは、一緒に二ミリオン行け」。イエス様が私たちに求めているのは、この様な生き方ではないかと思われます。

そして、段落最後の言葉はずばり私たちの物に対する執着、所有欲に切り込んできます。

 

5:42「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」

 

「求める者には与え、借りようとする者には断るな」と、イエス様は言われました。しかし、人を見ることなく与え、考えなしに貸すのが良い、と教えているのでないことは明白でしょう。詐欺師に与えることは愚かですし、怠けて働こうとしない人や浪費家に貸すことは助けにはなりません。

イエス様が問題にしているのは、所有欲のゆえに、真に必要を覚えている人を助けようとはしない私たちの生き方です。所有欲に満たされ、縛られているがゆえに、助けるべき人を見ても手を差し出すことのできない、不自由な私たちの心と行動なのです。

この説教、このことばをよくよく覚えていたのでしょう。弟子のヨハネは後に同じことを、次に様に人々に伝えています。

 

Ⅰヨハネ3:17、18「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

以上、自分の権利に固執する生き方、自分の所有物に捕らわれた生き方からの解放について、私たちは教えられました。自分の権利よりも相手の権利を優先する生き方、自分の願いよりも相手の願いを大切にする生き方、所有欲に縛られず、必要な人に与え、貸すことのできる生き方を選ぶことができる神様の恵み。この尊い恵みを頂いていることを確認できたのではないかと思います。

勿論、私たちは今すでにこの様な生き方が出来ているわけではありません。むしろ、いかに自分の権利にしがみついて人と争ってきたか。いかに、人の求めに応じて労苦することを嫌がり、拒んできたか。与える物を持ちながら、どれ程深く所有欲に捕らわれてきたか。その様な自分の姿を、これらのことばを通して示され、情けない気持ちがするばかりです。

しかし、イエス・キリストはこの様な私たちのために十字架に死なれ、罪の贖いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストを信じる者は天の御国の民、神の子とされました。私たちは皆罪を赦され、罪の力から解放されるという神様の恵みを頂いたのです。

 

Ⅱコリント9:8「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」