2016年12月25日日曜日

ルカの福音書2章1節~7節「降誕~実現した良き知らせ~」


皆様、クリスマスおめでとうございます。今朝は救い主の誕生を記念し、その意味を考えるクリスマスの礼拝を皆様とともに迎えることができました。嬉しく思います。また、この礼拝で信仰告白や転入会を通して、六名の兄弟姉妹が私たちの教会に加えられることも感謝したいことです。

ところで、今年のアドベント、礼拝説教のテーマは「良き知らせ」。私たちは、神様から良き知らせ受け取ったザカリヤとその応答、同じく良き知らせを受けたイエス様の母マリヤとその応答を見てきました。そして、いよいよ今日は実現した良き知らせ、救い主イエス・キリストの誕生に目を向けてゆきたいと思います。

さて、ユダヤの人々が長い間待ち望んでいた救い主の誕生、世界全体に大きな影響を与える救い主の誕生と聞けば、さぞや人々の注目を浴びたことだろうと、私たちは考えます。今や、イエス様を救い主と信じる人々は世界中に広がり、イエス様の名前を知らない人はいないと思われます。ですから、昔も多くの人がその誕生を歓迎したことだろうと想像します。

しかし、意外なことに、実際は父ヨセフと母マリヤ以外の誰にも注目されず、誰からも歓迎されない状況で救い主は誕生したと、聖書は語っています。むしろ、その頃世界の人々の目が向いていた人物は、ローマ帝国初代の皇帝アウグストであったかもしれません。

 

2:12「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」

 

アウグストは政治家としても、軍人としても非常に有能な人物と評価されています。当時、人々は長い間繰り返された戦争や反乱に疲れ切っていました。しかし、アウグストの活躍により地中海世界には戦火が止み、平和がもたらされたのです。いわゆる、パックスロマーナ、ローマによる平和の到来でした。このためにアウグストはローマ帝国初代皇帝の栄誉を受けることになります。

 尤も、この平和は軍事力、経済力など、ローマ帝国のもつ強大な力による平和であって、支配国ローマにとって都合のよい平和と言う面があることは否めません。そして、アウグストはその支配をさらに徹底すべく、帝国内のあらゆる国から税金を徴収するため、住民登録の勅令を出したのです。

これによって国はますます富み、栄え、アウグストの時代からおよそ100年後の最盛期には、様々な民族や国を含む帝国の領土は、世界の四分の一の面積を占めたと言われます。

 今、世界の大国と言えば、アメリカ、中国、ロシアなどが思い浮かびますが、これよりも遥かに広大な領土と多くの民族を統一していた世界帝国。それがローマであり、その土台を築いたのが、このアウグストと言えるでしょうか。

 しかし、支配者の政策は、時に民衆にとっては厄介なもの。特に、貧しいユダヤの人々にとって切り詰めた生活の中から、自分たちに恩恵があるとも思えない税金を払うことも、そのために先祖の町で登録を行わねばならないことも、重荷であったと思われます。

けれども、皇帝の勅令とあれば、従わないわけにはいかないのが庶民の辛いところ。ヨセフとマリヤも、ヨセフの先祖の町ベツレヘムへと旅立つことになります。

 

2:3~5「それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」

 

ヨセフたちが住んでいたのはガリラヤの町ナザレ。ナザレからユダヤのベツレヘムまでは、120キロ程ですから、健康な人でも徒歩で4日はかかります。若いとは言え、身重の妻を連れての旅は難儀であり、危険でもあったでしょう。一家の稼ぎ手はヨセフでしたから、普通であればヨセフ一人ベツレヘムに行き、住民登録を済ませれば、それで良かったと考えられます。それなのに、何故ヨセフはマリヤを連れて旅に出たのでしょうか。

ルカの福音書には、マリヤが親戚のエリサベツの家で三カ月過ごしたとあります。つまり、マリヤはすでに安定期に入っており、徐々にお腹が目立つ様になっていたと思われます。マリヤの妊娠に、周りの人が気がつく状況に入っていたということです。

正式な結婚関係にない女性が身篭る。性道徳が現代に比べ格段に厳しい当時のユダヤ社会では、マリヤに対する心ない噂、冷たい視線や態度が向けられることは避けられません。その苦しみからマリヤを守り、少しでも安心して出産できるように努める。これが、ベツレヘムへの旅にマリヤを連れて言ったヨセフの配慮であったと思われます。

事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフはマリヤとマリヤの胎に宿る子どもを守るよう、神様から使命を与えられていましたから、いかに神様のことばに信頼し、従っていたか。ヨセフの信仰が際立つところです。

果たして、私たちはどうでしょうか。自分の人生に或いは家庭に思いもかけないこと、とても良いとは思えない大きな問題が起こった時、ヨセフの様に、そこにも神様の計画があると信じ、みこころに従うと言う信仰に立つことができるでしょうか。

さて、ベツレヘムまで旅路を守られたヨセフとマリヤでしたが、無事町に到着すると、マリヤが産気づいたようです。思っていた出産の時期よりも早かったのでしょうか。急遽安心して出産できる部屋が必要となり、ふたりは、ベツレヘムの宿屋を捜し歩くことになります。

 

2:6、7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 

当時のユダヤの宿屋は、狭い部屋がいくつか集まった長屋のような粗末なものでした。しかし、ここに宿屋と訳されていることばは、そんな粗末な宿屋ですらなく、普通の家の一間であったと言われています。その頃、普段使用している部屋を開けて、旅人のために一晩提供する人々がいたのです。そうした場合、宿を求める旅人をみな受け入れてゆきますから、旅人同士相部屋ということにもなるわけです。

ですから、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と言うのは、部屋はあったけれどもどこも相部屋状態で、人目を気にせず彼らが出産できる場所は、家畜小屋しかなかったと言う状況を示していると思われます。

それにしても、人々が待ち望んできた救い主がロクな宿屋もない様な寂しい町で生まれたこと、しかも、普通の人の家の、それもまともな部屋ですらなく、家畜小屋の飼葉おけの中で産声をあげたことは、何とも意外なことと思われます。もっと救い主にふさわしい町、ふさわしい場所が他にあっただろうにと考えてしまいます。

しかし、救い主がベツレヘムに生まれたことにも、家畜小屋の飼葉おけで産声をあげたことにも、非常に大切な意味があることを、聖書は私たちに伝えているのです。

先ずは、ベツレヘムでの誕生の意味から見てゆきたいと思います。最初にお話した通り、当時の世界における最高の支配者は皇帝アウグストでした。やがて世界の面積の四分の一を領土とし、多くの民族や国を含む、歴史上例を見ない大帝国の支配者です。

事実、アウグストの勅令で世界中が動きました。アウグストは、ローマの支配をさらに確立するため勅令を出します。シリアの総督はアウグストに従い、それをユダヤの人々に伝えます。ヨセフはマリヤを人々の冷たい視線から守るため、やむを得ず旅に出ることにしました。それぞれに理由があり、事情があって行動したわけです。

しかし、こうして救い主がベツレヘムで生まれたことは偶然ではありませんでした。アウグスト、総督、ヨセフ。人間たちひとりひとりの思い、計画、行動の背後に、この世界を真に支配し導いている神様、全能の神様がおられると聖書は教えているのです。イエス様誕生から800年以上前の昔、預言者を通して神様はこう語っていました。

 

5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

 

ベツレヘムは旧約聖書の昔、イスラエルの12部族のうち最も弱小な部族、ベニヤミン部族の町でした。しかし、その最も小さな部族から救い主が出ることを、神様は昔から定めており、それがイエス様の誕生において実現したのです。この世において力なき者に心を注ぎ、小さき者をあわれむ神様の愛が、ベツレヘムにおけるイエス様の誕生において表されました。そのために皇帝アウグストの勅令も、シリア総督の行動も、ヨセフとマリヤの旅も、神様に用いられたと、ルカの福音書は私たちに語っているのです。

世界の歴史を支配する神様がおられること、その神様が本当にこの世界に来られたこと、それもこの世において最も力なき者、最も小さき者のところに生まれてくださったこと。ここに、私たちは力なき者、小さき者に対する神様の愛を見ることが出来ると思います。

この世の厳しい現実の中で、私たちは自分の力のなさに失望することがあります。涙する時もあるでしょう。神様の前で、自分がいかにちっぽけな存在であるか、痛感させられる時もあると思います。しかし、その様な私たちの存在を心から大切に思い、救い主を与えて下さった神様の愛を受け取り、味わいたいと思うのです。

次に、救い主のイエス様が貧しい場所に生まれた意味を確認したいと思います。

世界の歴史を支配する神様なら、救い主を誕生させるのに多くの人の注目を引くような方法や場所を選ぶことができたはずです。それなのに、何故神様は名もなき庶民の家の、しかも人間が使う部屋ですらない、ただ家畜小屋に転がされていただけの、汚れた飼葉おけと言う、貧しい場所を選ばれたのでしょうか。

第一に、神様がこの様な場所を選ばれたのは、イエス様がこの世で無名の人、貧しい者、弱い立場に置かれた者の友となるため、この世界に来られた救い主であるからです。事実、イエス様の弟子は全員が肩書なし、無名の人でした。一緒に食卓を囲む仲間と言えば、収税人ややもめ、遊女など世間から除け者扱いされていた人々で、宗教の指導者やエリートは皆無でした。イエス様が親しく接したのは、こう言う人々だったのです。

第二に、貧しい場所で生まれたことは、やがてイエス様が受ける十字架の苦しみを予告していました。今日の聖句です。

 

Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

ここでイエス様について言われている「貧しさ」は、経済的な貧しさのことではありません。それは、人々のしもべとなって仕えた、イエス様の生き方を表すことばです。

イエス様の時代、皇帝アウグストは、その軍事力、政治力、経済力によって世界を支配していました。勅令を出し、税金を徴収することでさらにその力を高めようと考えていたでしょう。イエス様は神の御子ですから、アウグストのような力をもとうと思えばいくらでも持つことができたはずです。しかし、それらを一切持とうとはされませんでした。むしろ、進んで無名の人、貧しき者、弱い立場に置かれて苦しむ人々の仲間となり、しもべとなって仕えることで、彼らの人生を豊かものにしたのです。

自分を豊かにすること、自分が高い所に上ることよりも、自分を低くして人を愛し、人に仕え、人を豊かにすることに関心を持ち、行動する生き方。それがイエス様の示された貧しさであり、その最終的な形が十字架の苦しみであることを、心に刻みたいと思います。

このクリスマス、イエス・キリストの十字架の苦しみによって豊かないのちを与えられたことを感謝したいと思います。それと同時に、私たち皆がイエス様のように、自ら貧しくなり、人を豊かにする歩みを進めてゆきたいと思うのです。

2016年12月18日日曜日

ルカの福音書1章46節~55節「アドベント(4)~マリヤの応答~」


神様からの知らせを、どのように受け止めるのか。神の言葉にどのように応答するのか。私たちの人生に大きな影響があります。今年の待降節、アドベントは「良き知らせ」をテーマに、神様からの知らせを私たちがどのように受け止めているのか、確認しながらクリスマスへと歩みを進めているところです。これまで、ザカリヤへの良き知らせと応答、マリヤへの良き知らせを確認してきまして、今日はマリヤの応答の姿を見ることになります。

 

 確認となりますが、ザカリヤに対する良き知らせと、ザカリヤの最初の応答の姿はどのようなものだったでしょうか。

ザカリヤに対して告げられた知らせは、念願の子どもが与えられるというもの。その子は、神様の重要な働きを為す人物となること。これはザカリヤにとって、ひたすらに良いこと。嬉しいこと。ただただ、良き知らせでした。ところが、当初ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。受けとめきれなかったといいます。興味深く、面白いところ。神の前に正しいと評されたザカリヤ。旧約聖書に精通した祭司。当然のこと、アブラハムと不妊の妻サラが老齢になって子どもが与えられたことも知っていました。そして、長らく祈り願ってきたこと。それでも、子どもが与えられるという知らせを、受けとめきれなかった。人間ザカリヤです。あまりに嬉しい知らせ。しかし、この知らせ自体が自分の妄想だったらどうしようか、という恐れでしょうか。悪い知らせを受け入れたくないというのは分かりやすいのですが、あまりに嬉しい知らせを受け止めきれなかったという場面。このザカリヤを神様は慮ってくださり、神の言葉を素直に信じる者へと導かれました。

 それに対して、マリヤに告げられた知らせは、必ずしもマリヤにとって良いこととは言えないものでした。婚約中のマリヤが男の子を産む。それが実現したら、婚約者のヨセフにどのように思われるのか。社会的にどのように扱われるのか。一般的に考えれば、大きな悪影響が予想される出来事です。それも、不妊とか老齢の問題ではなく、男性との性的関係無しで、聖霊によって身籠るという知らせ。受け入れがたい、信じがたい知らせではないかと思うところ。しかし御使いとのやりとりを経て、マリヤはこの知らせを受け止めました。

 

 ルカ1章38節

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

 

 ザカリヤの姿と比較すると、この時のマリヤの素直さ、神様の言葉に対する従順さが際立ちます。神様の言葉にかくも従順である一人の信仰者を通して、イエス・キリストの誕生があり、全世界に救いの御業が広がりました。神様の知らせに、このように応じる者でありたいと思うマリヤの姿でした。

 

 ところで、「男の子を産む、救い主を産む、神に不可能なこと無し」と言われ、「その通りになるように」と応じたマリヤですが、その後、出産までどのように過ごしたのでしょうか。もし、自分がマリヤの立場だったら(男性は想像するのが難しいと思うのですが)、何をするでしょうか。

 婚約者ヨセフへ相談するでしょうか。(マタイの福音書に記されているヨセフの姿からは、マリヤはヨセフにしっかりと相談していなかったように思われます。)親や友に相談するでしょうか。(マリヤは親や友に相談したかもしれませんが、聖書には記されていません。)現代人であれば、妊娠検査薬で調べるか、産婦人科に行くでしょうか。

 実際にマリヤが取り組んだこと。それは御使いの知らせの中に出て来た、親戚エリサベツのもとに行くことでした。御使いは、不妊で老齢のエリサベツの妊娠を枕にして、神に不可能なことはないと告げています。マリヤは、エリサベツのもとに行くことが、自分の状況の助けになると思ったようです。そして実際に、エリサベツに会うことは、マリヤにとって重要な意味のあることになります。

 

 ルカ1章39節~45節

そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。て大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』

 

 マリヤがエリサベツに挨拶した時、驚くべきことが起ります。マリヤは挨拶しただけ。ところがエリサベツは「あなたの胎の実」と言い、マリヤのことを「私の主の母」と言いました。エリサベツの胎内にいるのは、救い主の前触れをすると言われたザカリヤとの子。その子も胎内で喜んで踊ったと言います。

 これは、マリヤは御使いの言葉を受けて、それほど日時が経っていない時。(1章36節、56節と、一般的な妊娠期間は約十カ月であることより、マリヤがエリサベツを訪問したのは、受胎告知の後1ヶ月以内と考えられます。)自身、身体に変化はなく、本当に妊娠しているのか分からない時。

 マリヤは御使いの言葉を信じていました。しかし、まだ実感を持てない状況。そこに神様が備えておられたのは、エリサベツの言葉。この言葉を聞いて、マリヤは自分の聞いた知らせがより真実なもの、確実なもの。確かに自分が約束の救い主を産むことを実感するに至ります。

約束の救い主が来る、キリストの到来、そのことを実感したマリヤがささげた賛美。それが今日の箇所です。キリストの到来を実感した者の口から出てきた賛美、それがマリヤの賛歌でした。

 

 ルカ1章46節~47節

マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

 

 一般的に、「マリヤの賛歌」、あるいは「マニフィカト」と言われる賛歌です。「マニフィカト」とはラテン語で、「あがめる」という意味。原典のギリシャ語では、「メガリュノー」という言葉で、大きくするという意味。「わが魂は主を大きくする。」「わが魂は主を大いなる方とする。」「わが魂は主をあがめる。」です。

 約束の救い主の誕生を前に、マリヤは何を思ったのか。救い主の誕生は、マリヤにとって、どうしようもなく嬉しいことだったのです。たましいも霊も喜びで振るえ、主を褒め称える思いで満たされ出てきた言葉が、わが魂は、主をメガリュノーする。わが魂は、主をマニフィカトする。わが魂は、主をあがめる、という言葉でした。ともかく神様を賛美したい。ともかく主をあがめたい。大変に嬉しいという思いでした。救い主の誕生を前にしたマリヤの第一の思いは、賛美であり喜びでした。

 

 罪からの救い主が生まれる。この知らせを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。キリストの到来を覚える、このアドベントの時、どれ程の喜びを感じているでしょうか。

年の暮。社会人も学生も忙しい時期。教会自体も多くのプログラムを用意し、忙しくしています。教会生活が、何年、何十年と続くうちに、キリストの誕生はよく知ったこと。感動も、喜びもなく、クリスマスを過ごしてしまうということが起ります。これまでのことはともかく、今年、アドベントを過ごしながら、どれだけイエス・キリストの誕生自体を喜び、楽しみ、賛美をささげたのか。

マリヤの姿を前に、私たち皆で、今一度救い主が生まれるという知らせに集中したいと思います。世界の創り主が、私のために人となられた。この知らせに感動や喜びはあるのか。もしないとしたら、何故、喜びや感動がないのか。よくよく確認したいと思います。今一度、マリヤが感じている感動、喜び、賛美をともに味わいたいと思うのです。

 

 ところで、マリヤの感動、喜び、賛美には理由があり、そのことも歌われていました。

 ルカ1章48節

主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

 

 マリヤの喜び、賛美の源は、「主はこの卑しいはしために、目を留めて下さった」というものです。主が来られる、キリストが来られるという知らせは、マリヤにとって、主が私に目を留めて下さった出来事、それもこの卑しいはしために、目を留めて下さった出来事だというのです。

 マリヤの卑しさは、社会的立場という意味もあったと思いますが、それ以上に、神様の前での卑しさです。罪という卑しさ。本来ならば、永遠に神様には目をむけられないはずの卑しさ。しかし、そのような卑しいはしために、主は目を留めて下さった。マリヤにとって、救い主が誕生するというのは、「神様が罪ある私に目を留めて下さっていた」という出来事でした。

「神様は私のような罪人を選ばれた。」「主がこのような卑しい私に目を留めて下さった。」そこから喜びが溢れだし、主を大いなる方とする賛美が生まれています。

 

この主が私に目を留めて下さったという喜びには、二重のものがあると思います。一つは、罪の中にいる卑しい私へ、約束の救い主、待望のメシアが与えられるという意味での喜び。またもう一つは、マリヤ個人の喜びとして、マリヤの胎内にその救い主がいるという喜びです。

処女である自分が、聖霊によって今、実際に妊娠している。これから後、自分の体で、救い主の到来を感じていくということです。主がこの卑しいはしために目を留めて下さっているということを、自分のお腹が大きくなるのを見るだけで、実感できる。ここに、マリヤならではの喜びがあります。婚約中の妊娠という負の状況よりも、主が到来することを、実際に体験していることが、本当に幸せだという思い。

キリストが来られることを体験している。同時に、主が私に目を留めて下さっているということを、体験している。その喜びが、マリヤの根底にある喜びでした。

 

 さて、マリヤのこの思い。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という思いが、続けて様々な表現で出てきます。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という太い幹から、いくつかの枝が伸びているような賛美。

 

一つ目の枝は、49節から50節です。

 ルカ1章49節~50節

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 

 主が卑しいはしために目を留めてくださったという思いが、ここでは、力ある方、御名が聖い方が、主を恐れかしこむ者をあわれんで下さる、という思いへと広がります。

 キリストの到来は、マリヤにとって、大きな喜びでした。しかし、マリヤ個人だけの喜び、マリヤのもとにだけ救い主が来るのかというと、そうではありません。救い主は、主を恐れかしこむ者のところへ。「主が卑しいはしために目を留められた。」というメロディが、「あわれみは、主を恐れかしこむ者へ」とアレンジされているのです。

 

キリストが到来するということ、救い主が来るということを、本当に喜べる人は、自分には救い主が必要であるということが分かっている人。言い換えますと、自分は正しいという人は、自分に救い主が必要であるということが分からない。救い主が来ると聞いても、喜びがないのです。(もし、私たちが救い主誕生の知らせを聞いても喜びがないとしたら、自分が罪人である実感が薄れているからかもしれません。)

主を恐れかしこむ者こそ、救い主到来の知らせを喜ぶことが出来る。主を恐れかしこむ者に与えられる喜びは、主が、卑しいはしために目を留めて下さったという、マリヤの喜びと同じ喜びです。

 

 続けて、二つめの枝です。

 ルカ1章51節~53節

主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

 

 主の御腕をもってなされる力強いわざは、どのようなものなのか。それは、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、富む者に何も持たせないで追い返すという、高いものを退けるというわざ。そして、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ちたらせるという、低いものを省みるというわざでした。

 この「高ぶる者を低くし、低き者を高くする」神様の働きを喜ぶことが出来るのは、自分は神様の前で低く、自分の霊は飢えているのだと自覚する者でした。「主は卑しいはしために目を留めて下さった」というメロディが、「主は、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる。」とアレンジされるのです。

 

 さて、最後の三つ目の枝です。

 ルカ1章54節~55節

主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。

 

 マリヤはその賛美の最後に、キリストの到来という出来事の出発点に目を向けます。今、自分自身に起こっている出来事、それはイスラエルの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りである。主が卑しいはしために目を留めて下さったのも、ひとえに、この神様の真実さがあったからだと歌い上げます。

 マリヤは救い主の誕生という出来事は、神様の変わらない真実によると感動したのです。人間がどれ程、神様に対して、歯向かい、無視をしても、それでも神様の真実さはかげることがない。マリヤは、神様の真実さを、その身で感じたのです。

「主は卑しいはしために目を留めて下さった」という喜びは、このような神様の真実さに触れた喜びです。低く、飢えた、卑しいはしために、主は目を留めておられる。そのまなざしは、永遠の昔から変わらない、神様の真実さに溢れている。その真実なまなざしを浴びた者の喜びの賛美でした。

 

 以上、マリヤの賛歌、マニフィカトを見てきました。

マリヤは、キリストが到来するという出来事を、主がこの卑しいはしために目を留めて下さった出来事として理解しました。どうにもならない貧しい私に、救い主が来られる。自分の罪が分かれば分かるほど、救い主の到来が嬉しいという思い。その思いに溢れた賛歌です。

 

 待降節、アドベント、キリストの到来を待ち望む時。この時に、私たちはどのようにして、キリストを待つでしょうか。マリヤが抱いた喜びと、主をあがめたいと思ったのと同じ様に、私たちもキリストの到来を喜び、主をあがめること。そのためには、まず、自分の卑しさに目が開かれることです。マリヤと同じ思いで、喜びと感動と賛美を持って、クリスマスを、迎えたいのです。

いや、もっと言えば、私たちは、マリヤ以上にキリストの到来の意味を教えられた者たちです。マリヤは、約束の救い主が来るということで、大きな喜びに満たされました。

私たちは、その救い主が、私たちの身代わりとして、十字架にかかることを知っています。そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に及ぶどころか、主を知らなかった者にまで及んでいることを知っています。高きを退け、低きを顧みる主は、なんと、その業を行うために、ご自身が徹底的に低くなられたということも知っています。アブラハムとその子孫に語られた通りになされる主の真実さは、実は、アブラハムの時から始まった真実さなのではなく、世界の基の置かれる前からの真実さであることも知っています。更に、この時、マリヤの胎に宿られたキリストが、今度は御国の完成のために来られるということも知っています。キリストの到来の意味を、よく分かっている私たち。それならば、マリヤ以上に、キリストの到来を喜び、主をあがめる者でありたいと思います。

 キリストの到来を、主が私に目を留めて下さった出来事として覚え、クリスマスを迎えたいと思います。

2016年12月11日日曜日

ルカの福音書1章26節~38節「アドベント(3)~マリヤへの良き知らせ~」


今日はアドベント、イエス・キリストの到来を覚える礼拝の三回目です。今年のアドベントから降誕の説教のテーマは「良き知らせ」。第一回はザカリヤへの良き知らせ、第二回はザカリヤの応答を扱いました。今日の第三回はマリヤへの良き知らせとなります。

最初に救い主誕生に関する良き知らせを聞いたのは、経験豊かな祭司、人々から信頼されていたザカリヤ。場所はユダヤの都エルサレムの神殿。人々が長い間待ち望んできた救い主到来の知らせを受け取るのにふさわしい人物、ふさわしい場所と思われます。

しかし、それから六か月。御使いが救い主到来という重大な知らせを届けたのは、意外な場所に住む、意外な人でした。

 

1:26,27「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」

 

神様が御使いガブリエルを遣わされた町はガリラヤのナザレ。ユダヤの都エルサレムからはるか北にある田舎でした。当時、人々のガリラヤ、ナザレに対する評価は非常に低いものだったようです。「ナザレから、何の良いものが出るだろう」とか「まさか、キリストはガリラヤから出ることはないだろう」と、この地方を馬鹿にする人々のことばが、聖書にも残っています。ガリラヤには、農民や漁師として働く無学な人が多く、異教の影響もあったため、偉大な人物など、まして救い主など出るはずがないと思われていたのです。

しかも、御使いが向かったのはヨセフと言う人のいいなずけ、マリヤと言う女性です。いいなづけのヨセフは、歴史上最も有名で偉大なダビデ王の家系とは言え、それは昔々の話。かっての栄光は影もなく、ヨセフは貧しき大工、平凡な庶民の一人にすぎませんでした。

また、その頃、ユダヤの女性は14歳から16歳で婚約するのが普通でしたから、マリヤはまだ十代半ばの女性。そんな二人の子どもに、一体誰が目をとめるだろうか。もし、マリヤが「救い主を身ごもりました」と言ったしても、一体だれが彼女のことばに耳を傾け、信用するだろうか。そう思われます。

事実、多くの人が祭司ザカリヤの子ヨハネの誕生を期待したのとは対照的に、マリヤの子イエス様の誕生に期待し、目を向ける人は誰もいなかったのです。

それでは、何故神様は良き知らせを、世間か馬鹿にされ、見下されていた地方に住む者にに届けたのでしょうか。どうして救い主を産むという大切な働きを、人々から信用されにくい若い処女、貧しき大工のいいなづけマリヤに託したのでしょうか。

私たちはここに、一部の権力者や知者、宗教家だけでなく、全ての人を救いに招く神様の広き愛を見ることができます。むしろ、名もなき人、貧しき者、世間から軽んじられ、見下されている弱者にこそ向けられる神様の愛を見ることができますし、見るべきでしょう。

この神様に愛されている者の一人であることを喜ぶととともに、果たして、自分の愛はどの様な人々に向いているのか、私たち一人一人心に問われるところです。

そして、御使いはマリヤにこう告げました。

 

1:28、29「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」

 

「主があなたとともにおられます」と言うのは、神様が特別に親しくその人を守り導いてくださると言う祝福のことばです。同時に、神様が大切なことをその人に託する時、語られることばでもありました。果たして、自分の様に経験に乏しく、社会的な肩書も、教養もない者に、神様は何を期待しておられるのか。マリヤはひどく戸惑ったとあります。

 

1:30~33「すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 

御使いは、マリヤが男の子を身ごもると告げ、生まれた子どもに「主は救い」と言う意味の「イエス」と名をつけよと命じました。その子がいと高き方、神様の子と呼ばれるほど、神様を愛し、神様に従い、力あるわざを為す「すぐれた者」になるとも語っています。

さらに、その力あるわざとは何かと言えば、イエス様がダビデの王位について神の国の王となり、とこしえにヤコブの家即ち神の民を治める者となると預言しました。これらのことは神様からの約束として、旧約聖書で繰り返し語られてきましたが、ついに約束実現と言う良き知らせが、ザカリヤに次いでマリヤにも届いたことになります。

ザカリヤもマリヤも、救い主の到来を待ち望む者の一人でした。しかし、ザカリヤは年老いた妻が救い主のために道を備える預言者を産むと言う知らせに驚きました。それに対してマリヤの場合には、いいなづけのある身で救い主ご自身をみごもると知らされたのですから、その驚き、その畏れたるや、どれ程のものであったかと思わされます。

 

1:34~35「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言うことばは、神様はどの様にして処女である自分から男の子を出産させようと考えておられるのか、教えて欲しいと言う、マリヤの切なる思いの表れと考えられます。

一人の処女が男の子を産み、この子が成長して救い主となる。これも、旧約聖書で預言されていました。いわゆる処女降誕の預言です。人類の歴史の中で、マリヤしか経験していない奇跡を前にして、彼女が不安を覚えたとしても、それは理解できます。

聖書は、神様の前にすべての人が罪人と教えています。罪人には他の人を罪から救う資格も能力もありません。ですから、罪人が罪から救われるためには、罪なき人、神様のみこころに完全に従うことのできる聖なる人間が必要となります。その為に、処女降誕と言うただ一度の奇跡が必要だったのです。

マリヤがみごもる間、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」と御使いは言いました。いと高き方つまり聖霊の神様がマリヤをおおうと言われた時の、「おおう」ということばには、「保護する、守る」と言う意味があります。聖霊の神様に守られ、イエス様は罪なき人間としてマリヤの胎に宿ることができたということです。

この処女降誕の奇跡は、私たちに何を語っているのでしょうか。神様が罪の中に生きる人間を見捨てることができず、わざわざ救い主を与えて下さる。それも私たちと同じ人間の姿をした救い主、私たちが近づきやすく、親しみやすい救い主を与えて下さる。それほどに、私たちのことを心にかけてくださる神様の愛を、私たちこの奇跡を通して受け取りたいと思うのです。

ところで、出産については、神様が守ってくださると聞いてホッとしたものの、マリヤの不安がすべて解消されたわけでは、ありませんでした。御使いは心細いマリヤを励ますべく、親戚のエリサベツの存在を告げています。

 

1:3638「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」

 

祭司ザカリヤの妻エリサベツの場合は、処女降誕ではありませんでした。けれども、常識では考えられないような状態、年齢でみごもると言う神様の奇跡がなされたと言う点では共通しています。

事実、この後、マリヤはエリサベツを訪問し、共に励まし合う交わりの恵みを経験することができました。そして、マリヤの心を静め、励ます御使いのことばは「神にとって不可能なことはひとつもありません」において、頂点を極めます。

この知らせを聞いて、応答したマリヤのことば。それが「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言う有名な信仰の告白でした。

もし、私たちがマリヤの立場にあったとしたら、どう応答したでしょうか。この時マリヤはヨセフと婚約中でした。当時の婚約は、未だ同じ家での生活を許されていないと言う点を除けば結婚と同じ重みのある関係です。お互いが夫として、妻として行動する責任が求められる重大な、準備の時期を、マリヤは過ごしていたのです。

その様な時期に子をみごもり、お腹が大きくなって来たら、愛するヨセフとの関係はどうなるのか。周りの人からはどうみられるのか。旧約聖書には、婚約中の女性が男性と性的関係を持った場合、ふたりとも死刑と言う律法がありました。当時、それが常に文字通り行われていたわけではないと思われますが、それにしても、」みごもったマリヤに対する人々の視線が厳しく、冷たいものとなることは容易に想像できます。

ですから、マリヤが御使いに「どうか、その様なことはしないでください。私の幸せを壊さないでください」と叫び、訴えたとしても、無理はないと思います。神様のことばが実現するより、ヨセフとの結婚生活に何事もなく進んでゆく方が、はるかに好ましいと考えたとしても、よく理解できます。

しかし、マリヤは「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と応答しました。自分の考え、自分の計画よりも、神様の考え、神様のご計画をよしとしたのです。

マリヤの目には、自分が歩んで行くその道に、数々の困難や苦しみが見えていたと思います。しかし、そうであっても、神様が真実な方であり、自分と民全体のために最善のことを為してくださると信頼し、困難な道を歩み始めました。神様はこのマリヤを用いて、救いのわざを進めてゆかれることになります。

以上、今日私たちはマリヤに対する神様からの良い知らせを見てきました。皆様は、今日の個所を読み終え、何を思われたでしょうか。最後に、二つのことを確認したいと思います。

一つ目は、今日の出来事に込められた熱心、私たちの救いに関する神様のご熱心です。救い主到来と言う、この世界全体に対する大切な知らせを、名もなき人、貧しき者、世間から見下されていた者のところに届けてくださったのは、その様な者をこそ救いたいと言う神様の熱心の表れです。

救い主をこの世界に送ってくださるにしても、私たちが驚かぬよう、恐れ過ぎぬように、むしろ、近づきやすく、親しみやすいようにと赤ん坊の姿、人間の姿で送ってくださったご配慮。罪のない、聖い人間を救い主として誕生させるため、マリヤの出産を見守り、心細く、不安で一杯のマリヤを励まし続けたお姿。これらの行動にも、私たちに救に関する神様のご熱心を見ることができるのではないでしょうか。

私たち人間の側は、罪を悟ることにおいて本当に鈍い者です。罪からの救いを求める熱心にも欠けています。それにもかかわらず、神様の方は私たちの救いのために、これ程熱心に、これ程全力を尽くして下さっている。その神様のお姿を仰ぎ見、礼拝したいと思います。

二つ目は、神様を信頼して歩む道は、決して平坦ではないと言うことです。この時のマリヤがそうであったように、私たちの願いや計画と、神様のみこころがぶつかる時があるかもしれません。神様が進むように命じる道と、自分が進みたい道が異なる時、私たちはどちらを選ぶでしょうか。神様は真実で最善を為してくださるお方と信じていても、目の前に立ちふさがる困難と将来への不安が心を塞ぐとき、私たちは「あなたのみこころがこの身になりますように」と、神様に応答する事ができるでしょうか。今日の聖句です。

 

へブル10:36「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

私たちは神様の約束を信じています。しかし、神様の祝福を受け取るためには、忍耐が必要であることを理解しているでしょうか。聖書が勧める忍耐は、ただの我慢とは違います。マリヤがそうであったように、私たちの人生、家庭、私たちの住むこの世界に対する神様の祝福は必ずなると信頼すること、信頼しつつ自分に対する神様のみこころを行うために日々最善を尽くすことです。

お互いに助け合い、支え合いながら、私たちもマリヤのような信仰の歩みを進めてゆきたいと思います。

 

2016年12月4日日曜日

ルカの福音書1章57節~80節「アドベント(2)~ザカリヤの応答」



今日はアドベント、イエス・キリストの到来を覚える礼拝の二回目となります。今年のアドベントから降誕までの説教のテーマは「良き知らせ」。先回は、皆様にこの一年どの様な良い知らせを受け取ったのか、考えてもらう様お勧めしました。

私自身もこの一週間、身近な所から、また世界から届いた様々な知らせについて振り返ってみましたが、一つ気がついたことがあります。それは、今の時代、私たちの元には余りにも多くの知らせが届くため、それらについて思い巡らしたり、深く考えたりすることが非常に難しいと言うことです。

届いた知らせに一喜一憂することはあっても、いつの間にか心の中から消え去ってゆく。そんな知らせが多かった気がします。もしかすると、大切な人から大切な知らせを受け取っていたかもしれないのに、目先のことに心奪われ、それを十分受けとめないまま、時間だけが過ぎてしまったのではないかと言う残念な思いが心に残っています。

何が受けとめるべき知らせなのかをよく考える。その知らせが自分にとって、身近な人にとって、この世界にとって、どのような意味を持つのか深く思い巡らす。その様な時間を持つことがより一層大切な時代に、私たち生きているのではないかと思います。

ところで、先回と今日のお話の主人公ザカリヤは、ザカリヤ自身にとっても、ユダヤの人々全体にとっても非常に大切な知らせを受け取りました。神殿で栄誉ある奉仕をしていた時、御使いが現れ、年老いたザカリヤ・エリサベツ夫婦に男の子が生まれること、名をヨハネとつけること、この男の子が成長し、救い主の先駆けとして活躍することが告げられたのです。

しかし、ザカリヤはこの良き知らせを信じ切ることができず、その為に口を開くことができない、不自由な生活を強いられることになった。これが、先回までの流れです。

今日は、月満ちてザカリヤの妻エリサベツが男の子を産むと言う喜びの場面から始まります。ザカリヤが不自由な生活を強いられてから、およそ10か月後のことでした。

 

1:57~61「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。」

 

子どもが生まれたと聞いて、近所の人や親戚がお祝いに駆けつける。赤ん坊を真ん中にして人の輪ができ、笑顔が広がる。子どもの誕生は誰にとっても嬉しいもの。けれども、特に年老いたザカリヤとエリサベツ夫婦にとって、また、二人の苦労を知る知る親しい人々にとっては、一際嬉しい日であったでしょう。

しかし、そんな喜びも一段落。男の子が生まれて丁度八日目、人々は驚くことになります。当時の一般的な風習だったのか、それともザカリヤ、エリサベツの親族の習慣であったのか。人々はお父さんの名にちなみ、幼子にザカリヤと命名しようとします。

それに対して、エリサベツは「いいえ、ヨハネと言う名にしなければなりません」と反対を表明。「あなたの親戚にも、そんな名前の人はいないじゃないか」と反論する人々と押し問答となります。「それじゃあ、ここはお父さんに決めてもらおう」と考えた人々は尋ねます。

 

1:62~65「そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。」

 

「幼子の名前は何にしますか」と、人々が身振りで尋ねたところを見ると、ザカリヤは耳で聞くこともできない状態に置かれていたのでしょう。そこで、口をきけないザカリヤが、板を取り出し、「彼の名はヨハネ」と書き記したその瞬間、ものが言えるようになったのを見て、人々は神を恐れ、名前の問題は一件落着となりました。

私たちはここに、口と、恐らく耳をも閉じ、ザカリヤに不自由な生活を強いた神様の行動が、実はザカリヤのための恵みの訓練であったと見ることができます。

長い間祭司として忠実に神に仕えてきたものの、自分とユダヤの民を祝福する神様の良き知らせを信じ切ることができなかったザカリヤ。厳しい現実の中で、小さく固まってしまっていたその信仰を大きく開くために、神様は訓練と言う恵みをザカリヤに与えたのです。

口と耳を閉じられると言う不自由な生活の中、ザカリヤは大きくなってゆく妻のお腹を見ながら、良き知らせを思い巡らしたでしょう。救い主に関して神様がこれまで告げられたことばについて考え、神様の力、愛、真実を思い、その実現を確信するに至ったと思われます。

周りの人が反対しても、断固「子どもの名はヨハネ」と書き記したその行動からは、彼らが神様の良き知らせを受け入れたこと、神様を信頼している様子が伺われます。

つまり、ザカリヤが神様のことばを良き知らせとして、心から受け入れるには、神様のことばを思い巡らし、神様がどのようなお方なのかよく考える時間が必要だったのです。今、私たちのもとには、救い主誕生の知らせだけでなく、救い主が誰で、どのようなお方で、何をされたのか。その良き知らせが届いています。

私たちも、受け取った知らせを良き知らせとして受けとめるため、イエス・キリストについてのことばを思い巡らし、その意味を考える時間を持つこと。ザカリヤから教えられたいと思うのです。

こうして、良き知らせで心満たされたザカリヤの口から、賛美と預言のことばが溢れでます。先ずは、イスラエルの民を顧み、救い主を与えて下さる神様への賛美です。

 

1:67~75「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」

 

ザカリヤが属するイスラエルの民は、神の民として選ばれ人々。神様のことばを受け取り、それを記録してきました。それが旧約聖書です。旧約聖書には、救い主に関する様々なことばがあり、イスラエルの民はそれを通して来るべき救い主を待ち望んできたのです。

ザカリヤは「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに」とか、「主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」と語りました。父祖アブラハムの時代から続いてきた民の歩みを振りかえり、神様が約束を忘れず、実現してくださる真実なお方であることを確認しているのです。ついに救い主が到来し、民を救って下さる時が来たと言う、ザカリヤの心に高まる期待感を、ここに見ることもできます。

そして、神様による救いを、ザカリヤは「贖い」と言いました。これを「救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救い」と言い換えてもいます。贖いとは、束縛状態にあって苦しむ人を、代価を払ってそこから救い出し、解放することを意味します。

ザカリヤの時代の人々、また、現代の私たちは何によって束縛されているでしょうか。当時ユダヤの人々はローマ帝国の支配下にあり、その圧制に苦しんでいましたから、ユダヤ人にとっては、救い主が敵であるローマからの解放を実現することの預言と受け取れます。そうだとすれば、この預言はその時代で実現して終わり。今の私たちには関係がないことになります。

しかし、聖書は、贖いを、私たち人間の心を深い所で束縛している罪の力からの解放をと教えています。ザカリヤが言う様に、私たちが、正しく、きよく、神様に仕える生活を送ること、つまり神様との正しい関係、神様との親しい関係に生きることを妨げる敵として罪の力が描かれているのです。

聖書は、私たちを、怒りや憎しみの感情に束縛されやすい存在、金銭や物質への欲望、快楽に束縛されやすい存在、思い通りに物事や人を動かしたいと言う願いに束縛されやすい存在であることを教えています。人間は、それらの束縛から、自分の努力で自由になれない悲惨な存在であるとも語っています。

ザカリヤは、神様が与えて下さる救い主を「救いの角」と呼んでいます。「角」は力を意味しますから、「救いの角」は力強い救い主のことと考えてよいでしょう。また、救い主は「しもべダビデの家」に立てられたとも言われています。これは、救い主イエス・キリストの父ヨセフが預言の通りダビデの子孫であることを示すものでした。

私たちは、キリストが力強い救い主として、ご自身の命を十字架にささげて、ユダヤの人々を、私たちを罪の力から解放し、神様との正しい関係、親しい関係に入れてくださったことを、ここで確認したいと思います。

こうして、神様の恵みを賛美したザカリヤは、今度は妻のお腹の中にいる我が子に顔を向け、語りかけます。我が子ヨハネとヨハネが指し示す救い主についての預言です。

 

1:76~80「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」

 

ヨハネは救い主のために道を備え、人々に罪の赦しによる救いについて教えると言われています。つまり、ヨハネは、イエス・キリストの救いとは罪からの救いであることをはっきり語ることを最大の使命とする預言者でした。

皆様は「救い」と聞くと、どんなことを考えるでしょうか。ザカリヤの時代の人々でしたら、ローマ帝国の支配からの解放と言う政治的な救いを願うでしょう。病気による痛みからの解放、健康の回復を救いとして願う人もいるでしょう。貧しさからの救い、経済的な豊かさを救いと考える人もいるでしょう。人間関係の苦しみ、悩みからの解放を救いと考える人もいるのではないかと思います。

しかし、神様の目からみる時、救いに関して尤も根本的な問題は罪であることを、ザカリヤの預言は教えているのです。神中心ではなく、自己中心に生きる罪が、支配する者と支配されるものと言う人間関係を生む。持てる者が持たざる者を顧みない社会を生む。人間の罪に対する罰として病や死の苦しみがあると、聖書は語っていました。

ヨハネの働きは、人々にとって最も重要な問題は罪であることに気づかせること、罪からの救い主イエス・キリストへと、人々を導くこととザカリヤは告げています。これが、預言の最も大切なメッセージでした。

さらに、ザカリヤは「暗黒と死の陰に座る者たち」について語っています。これは、荒野を行く旅人が夜の闇につかまり、恐れと不安の中身動きできず、座り込んでしまうしかない姿を、罪に束縛された私たちの姿に重ねたことばです。

しかし、そこに朝日が昇るとどうなるでしょうか。朝の光を受けた旅人の心は活力を回復します。進むべき道を見出し、そこに進み行く勇気と希望を与えられます。罪に束縛された私たちにとって、イエス・キリストは朝日のような存在です。イエス・キリストによって罪の赦しの恵み、神の子とされる恵みを受けた私たちは、神様を愛する人生、人を愛する人生、つまり平和の道を歩むことができるのです。

以上、良き知らせに対するザカリヤの応答、ザカリヤの賛歌を見てきました。最後に、短くふたつのことを確認したいと思います。

第一に、私たちはキリストを信じる者として、今この地上で、どれ程大きな恵みと祝福を受けているのかを確認し、感謝をささげたいと思います。どんな罪も赦し、私たちを受け入れてくれるキリストの愛。神様と親しい交わりができる恵み。心から神様に仕え、人に仕えることのできる平和な心と言う恵み。自分の罪の酷さを見つめる時、その様な恵みを受けるに値しないと感じ、畏れる私たちに、神様はいかに良くして下さったか。どれ程恵みを注いでおられるのか。このアドベントの季節、私たち何度でもこの恵みを確認し、感謝し、賛美する時を持ちたいと思います。

第二に、ザカリヤの預言に示された祝福が、すべての神の民とこの世界に実現するため、もう一度来られるイエス・キリストを待ち望むことです。ザカリヤの預言は実現しましたが、未だ部分的です。未だ私たちの内に罪は残っています。この世界も罪に大きく影響されています。身近な所からも、海の向こうからも様々な悲しい知らせが届くのが、私たちの現実です。それにもかかわらず、私たちが失望しないのは、キリストがもう一度この世界にきて、救いを完成してくださると言う、神様からの良い知らせをもっているからです。

今キリストを信じる者に与えられた恵みを味わうこと。再びこの世界に来られるキリストを待ち望むこと。二つのことに心を向ける歩みを、私たち皆で進めてゆきたいと思います。

 

コロサイ316「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」