2016年4月17日日曜日

ホセア書14章1節~7節「一書説教 ホセア書~それでも、なお~」


一般的に、言葉は誰が言うのかが大事と言われます。同じ言葉でも、発言者によって重み、重要性に違いが出ます。苦労した人の言葉は重みが増し、軽薄な生き方の人は言葉も軽くなることがあります。思春期には、親の言うことは聞きたくなく、同じ内容でも友人の言うことは聞き入れることがあります。言葉による影響力は、その言葉を使う人がどのような人なのか、その人と自分がどのような関係にあるのかによって変わるのです。

 説教についてはどうでしょうか。本来、説教はその内容が聖書に忠実であれば、誰が語ろうと、聞き従うべきもの。説教においては、誰が語ったのかということより、聖書が語られているのかが大事。その原則は見失わないようにと思いつつ、しかしやはり、聞く者にとっては、誰が語っているのかも重要な事柄になります。

神学校の説教学という授業で聞いた話。説教学の先生が、あるクラスで、かつて自分がした説教を神学生に披露し、批評するように伝えたところ、概ね素晴らしい説教だという意見しか出なかったそうです。その先生が別のクラスで、同じ説教を披露しつつ、これは問題を起こして辞任することになった牧師の説教として、批評するように伝えたところ、神学生の出した意見は概ね酷評だったとのこと。全く同じ説教でも、説教学の教師の説教として聞くのか、問題を起こして辞めた牧師の説教として聞くのか、大きな違いがあったという話です。知らない人の説教よりも、信頼関係のある人の説教の方が、受け入れやすいということがあります。

 

 聖書の中、一つの書を丸ごと扱う一書説教。断続的に行ってきましたが、今日は二十八回目。旧約聖書第二十八の巻き、ホセア書です。

預言者ホセアの言葉。それは、旧約の説教者ホセアの説教と読むことも出来ます。誰だか分からない人の話としてではなく、ホセアという人がどのような人で、どのような時代に、どのような人生を生きたのか。理解を深めつつ、そのホセアを通して語られた言葉として、重みを感じながら読み進めたいと願います。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それではホセアとはどのような人で、どのような時代に活動した預言者でしょうか。まずは時代から確認します。

 ホセア1章1節

ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。

 

 イスラエル王国が南北に分裂した後のこと。ホセアは、BC790年頃から、約六十年に渡って北王国で活動する預言者です。(南ユダの王がウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤとなれば、北イスラエルの王はヤロブアムからアッシリヤ捕囚に至るまでの時代となります。しかし不思議なことに、一章一節では北イスラエルの王はヤロブアムの名前しか記されていません。)

北がヤロブアム王、南がウジヤ王の時代は、イスラエル地方は政治的、経済的には安定しました。ところが、ヤロブアム王以降、北王国は低迷期となります。三十年の間に、六人の王が立ち、その内四人は暗殺されます。三人は治世が二年以内。大混乱期となり、ついには強国アッシリアに滅ぼされる歩みとなります。

 政治的、経済的に大繁栄した時代。とはいえ、それは信仰よりも政治や経済を優先させたものでした。何が真実か、何が正しいかよりも、富国強兵が良しとされた時代。物質的繁栄は道徳的腐敗に通じ、偶像崇拝、貧者圧迫も時代の特徴と言えます。しかもその結果、富国強兵の願いとは裏腹に、国は衰退し、混乱は増し、ついには大国に滅ぼされていく。ホセアが活動したのは、激動の時代でした。

(ちなみに同時代、同じ北王国で活動した預言者にアモスがいます。同じ時代、南王国で活躍したのはミカ、イザヤです。)

 

 それではホセアはどのような人でしょうか。預言者の中でも特異な経験の持ち主。私たちからすれば興味深い、本人からすれば大変な経験を神様から命じられた人物。

 ホセア1章2節~3節

主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。

 

 聖書の中には様々な預言者が登場しますが、ホセアは姦淫の女を娶るようにと命じられた人。「姦淫の女を娶れ」と言われ、ホセアはゴメルと結婚します。

姦淫の女と言われて、何故ゴメルだと思ったのか。ゴメルはその地方の名うての遊女であったのか、バアル宗教の神殿娼婦だったのでしょうか。分からないことが多いのですが、しかし、預言者として生きて行こうとするホセアにとって、「姦淫の女を娶れ」というのは、避けたい選択であったことは十分に理解出来ます。

「姦淫の女」という言葉が何を意味するにしろ、性的に問題のある女性と親しくなり結婚するとしたら、それによって預言者としての活動に支障が出るのではないかという恐れがあります。仮に私が未婚で、これから結婚するとして、その相手の女性が、聖書に従う思いはなく、性的にふしだらな人であったとしたら、皆様は私が牧師を続けられるかどうか疑問に思うのではないでしょうか。それでもホセアは、神様に命じられた通りにします。ホセアの信仰が見えるところ。

 

 困難が予想される状況で、それでも神様の言われる通りにしたホセア。主に従い、これからは祝福された結婚生活が待っているかと思いきや、ゴメルはホセアのもとを離れ、他の男のもとへ行ったといいます。ホセアの人生は大変な人生。

 自分のもとから離れ、著しく身を崩した妻。それでも迎えに行くようにと神様はホセアに命じます。

 ホセア3章1節~3節

主は私に仰せられた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。』そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』

 

 このような出来事は何を意味しているのでしょうか。

 一つには、預言者ホセアは、生き方で神の言葉を語る預言者として召されたということです。不貞、不忠実を繰り返す者を追いかけ、赦し、受け入れる。その生き方が、神様の神の民に対する向き合い方を示すものでした。ホセアの生き方を見て、そこまでするのかと思うとしたら、罪人に対する神様の姿にこそ、そこまでするのかと驚嘆すべきでした。また、生き方を通して、神の言葉を語ることがあることも覚えておきたいと思います。私たちの発する言葉だけでなく、私たちの生き方自体が、福音を示すものでありたいと思います。

 

 不貞の妻を追いかけ、赦し、受け入れる。このような出来事は何を意味しているのか。もう一つの意味は、この出来事は、ホセアを預言者として整えたということです。聖書の中で、神様と神の民の関係は婚姻関係にたとえられることがあります。そのため、神の民が他の神々を拝む時、偶像礼拝に走ることを、姦淫と表現されます。

ホセアの語る主なメッセージの一つは、神の民が宗教的姦淫にふけることへの糾弾、警告。(同時代、同じ北イスラエルで預言するアモスと比べると、特徴がよく分かります。アモスの主なメッセージは、罪への糾弾の中でも社会悪、不正に対するもの。対してホセアは罪の糾弾の中でも、宗教的姦淫が扱われます。)いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば

 ホセア4章12節~13節

わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。彼らは山々の頂でいけにえをささげ、丘の上、また、樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で香をたく。その木陰がここちよいからだ。それゆえ、あなたがたの娘は姦淫をし、あなたがたの嫁は姦通をする。

 

 妻が自分のもとを離れ姦淫を繰り返す痛み、苦しみを知るホセア。裏切られることの痛みを知り、それでも愛することの情熱を持つ預言者。他の者ではない、ホセアを通して、神の民の姦淫が糾弾されることに意味があります。ホセアにおいては、姦淫の女と結婚することが、預言者として相応しくないのではない。むしろ預言者として整えられるための出来事であると思うのです。

 私たちも、あのホセアを通して語られた言葉として、その重さを味わいつつ、読みたいと思います。

 

 それでは、ホセアの語った言葉はどのようなものでしょうか。概観することが難しいホセア書ですが、その語られている言葉は、大きく三つに分けることが出来ます。

 一つ目は罪の指摘のメッセージです。「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもない。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。」(四章一節から二節)のように、直接的、具体的に罪を指摘することもあれば、「まことにイスラエルはかたくなな雌牛のようにかたくなだ。」(四章十六節)とか「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(六章四節)のように、間接的、抽象的表現で罪を指摘することもあります。

 そして確認してきたように、主に扱われるのは、霊的姦淫の罪。偶像礼拝の罪。主なる神以外のものを神として生きること。真に頼るべきお方以外を頼りにすることが、大きな問題として指摘されるのです。

 

 二つ目は、罪に対する裁きの宣告です。「わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになる。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない。」(五章十四節)とか、「アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。」(十一章五節)など。義なる神様の罪に対する激しい言葉が繰り返し出てきます。

 

 三つ目は、赦しの宣言、救いの宣言です。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また包んで下さるからだ。」(六章一節)とか、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことが出来ようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(十一章八節)など。愛なる神様が、いかに神の民を愛しているのか、これも繰り返し出てきます。

 

 読み進める際に、罪の指摘がされる箇所では、自分にもその罪がないか真剣に考えたいと思います。裁きの宣告がなされる箇所では、罪をそのまま放置しておくことの危険を再確認したいと思います。神様が神の民をいかに愛しているのか語られる箇所では、その神様の愛を受け取るべく招きに応じたいと思います。かつての北イスラエルに語られた言葉としてだけではなく、今の私にも必要な言葉として読むことが出来るようにと願います。

 

 実際に読み進めてみますと、ところどころに聖書の中でも有名な箇所が出てくることに気づきます。それもホセア書の特徴の一つと言えるでしょうか。例えば、

 ホセア6章6節

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

 

 「主に立ち返ろう。主を知ることを切に求めよう。」との勧めに続く言葉。いけにえをささげる行為自体よりも、心を見られる神様。心のともなわない礼拝よりも、神を知ろうとする心自体を神様は喜ばれる。だからこそ、主を知ることを切に求めようというのです。

 そしてお気付きでしょうか。主イエスがマタイを弟子にした際。パリサイ人たちが文句を言ったことに対して、反論した場面でこの言葉を引用しています。イエス様はこのホセアの言葉を枕にして「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た。」と言われました。

 あるいはホセア書13章14節

わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。

 

 罪が蓄えられ、自分ではどうにもできない状況にあるものを、神様は助け出して下さるとの宣言。そしてお分かりになるでしょうか。後にパウロが、死からの復活を説く際に、このホセアの言葉をもって感激を表していました。

イエス様が、あの場面で引用された言葉。パウロがあの段落で引用した言葉と意識すると、ホセア書が身近に感じられるところです。

 

 以上、大雑把にですが、ホセア書を読む備えに取り組みました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。激動の時代、特別な経験をするように召された預言者ホセアの言葉。生活の全てを用いて、神の言葉を語ることに取り組んだ、信仰の大先輩の言葉を読みます。その重さ、真剣さを味わうことが出来ますように。ホセアの思いを意識しつつ、同時に自分はゴメルの立場であったこと、罪を指摘し糾弾される側であることも忘れずに読み進めることが出来ますようにと願います。

 

 最後に、ホセア書の終わりの言葉を確認して、終わりにしたいと思います。

 ホセア14章1節~7節

イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

 あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。』

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

 

 政治的、経済的に安定と引き換えに、偶像礼拝がはびこり、道徳的、倫理的に腐敗した時代。姦淫の女を妻とし、結婚後も妻を追いかける特異な経験をするホセア。自分の生活全てで神の言葉を語る預言者。しかし、神の民は聞き入れません。次第に国際情勢も不安定になり、王は次々に代わり、国が滅んでしまうと思われる状況。絶体絶命。もう終わり。もう助かりようがないと思える、あの北イスラエルの終焉の時代に、それでもホセアはこの言葉を告げていました。「主に立ち返れ。わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」と。悔い改めるのに、遅いということはない。神の民に絶体絶命などない。不信仰、不貞、不忠実を繰り返しても、それでも、悔い改めの道が用意されている。福音が、このホセア書にも記されていることを確認して、私たちも「主に立ち返れ」という招きに応じたいと思います。

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