2016年6月12日日曜日

マタイの福音書5章33節~37節「山上の説教(16)~偽りを捨て、真実を語れ~」


「人間と他の動物の違いは何か」と言う問いに対して、よく言われてきたことの一つに「人間だけがことばを使うことができる」と言うものがあります。しかし、今では、よく知られていることですが、イルカやクジラの群れは会話をしていると言われ、鳴き声の意味の分析も進められています。

けれども、人間ほど多種多様な方法で、様々な思いをことばにして表現できる動物はいないのではないか。つまり、ことばの多様さ、表現能力と言う点で人間は他の動物に抜きんでていると言うこと。これもまた広く認められているようです。

人を励まし、勇気づけることば。人をがっかりさせることば。人を慰め、癒すことば。人を傷つけ、絶望に追いやることば。ことばの影響力は非常に大きなものです。旧約聖書の箴言は、ことばの用い方とその影響について教えていますが、数ある格言の中に、この様なものがあります。

 

箴言1624「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。」

 

親切なことばを蜂蜜に譬えたこの格言は、いかに親切なことばがそれを聞いた人の心を喜ばせ、健康をもたらすかを印象的に描いています。しかし、いかに親切なことばでもそこに語る人の真実がこもっていなければ嘘、偽りとなります。

皆様は、有名なシェークスピアのリア王をご存じでしょうか。年老いたリア王が三人の娘に王国を譲り、王の仕事から引退したいと考えます。王は心の中では既に娘たちに分け与える領地を決めていました。

しかし、年老いて我儘になっていたリア王は最高の敬愛を受けたいと考え、三人の娘たちの愛情を試そうとします。長女と次女は巧みなことばで父親への愛を表現しますが、率直正直な三女は見え透いた方法で愛を図ろうとする父親をあわれみ、応えることを拒否。腹を立てた父親に国外へ追放されてしまいます。

案の定、残された娘たちの家で暮らすリア王は、耄碌した老人、厄介者と見なされ、冷たく扱われました。遂には彼女たちの策略によって国を追われると、正気を失い、野原をさまよう乞食となり果てたのです。やがて、隣国の王に嫁いだ正直者の末娘に助けられ、共に領地を回復すべく戦いますが、二人を待っていたのは戦死と言う運命であったと言う悲劇です。

本心を偽り、巧みに親切なことばを語る偽り者が得をし、正直者が馬鹿を見る。残念ながら、現代でもどこかの家、学校、会社で、同じようなことが起きているでしょう。

「巧言令色少なし仁」とも言われます。巧みにことばを使い良いことを語っても、心に真実がなければ意味がないと言う戒め、あるいは、ことば巧みな人ほど、心に真実が乏しいので注意せよと言う警告、とも取れます。

神様が私たちに与えて下さったことばと言う賜物。本来なら、それを用いて人を喜ばせ、人を慰め、人の徳をたて、神様と親しい関係をつくるべきことばを悪用乱用して、嘘偽りのはびこる社会にしてしまった人間。この様な罪の現実を踏まえつつ、イエス様が真実なことばを語るよう勧めているのが、今日の個所となります。

さて、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて16回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つのことば、八福の教えで始まっています。ここには、イエス様を信じる者が受け取る様々な祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと、私たちイエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。

続く段落では、「あなたがたは地の塩、世の光」とイエス様は語りました。私たちはその生き方を通して、この世の腐敗を防止する塩、神様のすばらしさを現す光となる使命があることを教えられたのです。

次に天の御国の民にふさわしい義、義しい生き方とは何かについて、イエス様は教え始めました。最初は「殺してはならない」と言う十戒の第六戒、二番目は「姦淫してはならない」と言う第七戒について真の意味を説明されたのです。

そして、今日の個所では「「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う第三戒に込められた神様のみこころを、説き明かしておられます。

 

5:33、34a「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。」

 

皆様ご存じの様に、キリスト教結婚式には必ず誓約と言うプログラムがあります。「~兄弟・姉妹。あなたはこの兄弟・姉妹と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、堅く節操を守ることを約束しますか」。私たち夫婦も31年前、お互いに誓約をかわしました。「約束します」と答えた時の緊張感は今でも心に残っています。

ところが、ここでイエス様は「決して誓ってはいけません」と語り、一切の誓い、誓約そのものを禁じているように見えます。事実、フレンド派と呼ばれるキリスト者たちはたとえ法廷の場に立とうとも、一切誓約しないと言う立場をとっています。

しかし、聖書は、偽って誓うなと戒めてはいますが、誓いそのものを禁じてはいません。むしろ、誓約する際の心得について教えているのです。

 

申命記23:21~23「あなたの神、【主】に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、【主】は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、【主】に誓願したとおりに行わなければならない。」

 

実際、旧約聖書では、ダビデとヨナタンが主によって友情の誓いを交しています。新約聖書でもパウロが兄弟姉妹に対し、自分の行いが愛から出たものであることを神によって誓約していました。イエス様も裁判の席においてご自分が神の御子、キリストであることを誓約されました。

と言うことは、ここで禁じられているのは主の御名によって誓うこと自体ではなく、本当に実行するつもりのない誓約やみだりに主の御名を用いて誓うこと、誓約の悪用乱用が禁じられていると考えられます。イエス様が敢えて「決して誓うなかれ」と誇張的で、強い表現を使われたのは、嘘偽りが横行する人間社会に深く心を痛めておられたからに他なりません。

実際、当時の律法学者やパリサイ人は誓いに関する律法を形骸化していました。人々が神様の前における心の真実を気にかけなくてもよいものにしてしまったのです。

具体的には、ありもしないこと、思ってもいないことさえ誓わなければ大丈夫と考えていたようです。ですから、人々は些細なことでも主の御名で誓約をしたり、真剣に実行する思いがあるかどうかを考えずに誓う。その様な軽々しい誓約を罪と意識することなく、繰り返すことができたのです。

誓う必要がないこと、誓うべきでないことに主の御名を使うことで、人々は神様の前における心の真実を意識すること、考えることがなくなっていったのです。

明治時代の代表的クリスチャン内村鑑三は、キリスト教信仰を深め、聖書を学ぶため、キリスト教国アメリカへと心躍らせ渡りました。しかし、彼はそこで大きなショックを受けました。キリスト教国アメリカで、主の御名がみだりに使われ、軽んじられていたからです。

思いもかけず嫌なことが起こると、「何ていうこった。こんちきしょう」と言う思いを込めて、「Oh my God」や「Jesus」を乱発する人々。日常生活の些細なことでも「Iswear God」、神かけて誓うと口にする人々。これが世界一のキリスト教国かと失望したと書いています。

主の御名を乱発したり、軽々しく誓うことを自戒する。これは、ユダヤの昔も今も、アメリカでも日本でも、イエス様を信じる者が皆心に留めるべきことではないかと思います。

さらに、イエス様の時代のユダヤ人たちには、もう一つの問題がありました。それは、誓いを、絶対に果たさなければならないものとそうでないものとに区別分類したことです。そうした誓いの内、いくつかの例が挙げられています。

 

5:34b~36「すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」

 

主の御名を口にした誓約は絶対に実行しなければならない。しかし、主の御名を避けて、天、地、都エルサレム、自分の頭など、他のものをさして誓約するなら、絶対的な義務はない、守ることができなくても仕方がないと律法学者やパリサイ人は考え、人々にも教えていたのです。ことばを巧みに整えることで、抜け道を作ったと言うわけです。

しかし、イエス様はそれを見逃しませんでした。主の御名を用いようが用いまいが、誓いは神様の前になされる厳粛なもの。天は神の御座、地は神の足台、エルサレムは偉大な王つまり神の都、あなた方の頭も神のもの。だから何を指して誓おうとも、逃げ道にはならないと迫り、人々の言いのがれ、言い訳を封じたのです。

私たちは、当時のユダヤ人の様に頻繁に誓うことはないかもしれません。しかし、誓約とは言わなくとも、人と交わす約束も神様に対する誓約です。天の御国の民とは神様の前に生きる者ですから、どのようなことであれ良く祈り、よく考え、約束誓約する者でありたいと思います。約束誓約したことは誠実に実行できるよう、神様に助けていただく信仰も必要ではないかと思います。

そして、神様の聖なる目は、誓約約束に限らず、日常生活で私たちが交わすことばの真実にも向けられていると、イエス様は語るのです。

 

5:37「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」

 

私たちは、政治家や官僚が国会などで証言する時、それが真実かどうかを非常に気にします。それが虚偽だと分かった時、非常に強く非難します。しかし、夫と妻、親と子の間のことばの真実を同じ様に大切にしているでしょうか。その様な関係の中に嘘が混じる時、親しい関係が一瞬に、あるいは徐々に壊れてしまうことがありうることを考えているでしょうか。

また、日常会話の中で、自分に都合のよい面だけを強調したりすることはないでしょうか。「みんな」「いつも」「誰もが」「絶対に」「当たり前」等と言う誇張したことばを使って、自分の主張を押し通すため、何パーセントかの嘘を混ぜていることはないでしょうか。

「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。イエス様のことばは、私たちの中に宿るこの様な罪の性質にも光を当てているように思われます。

神様にことばの賜物を与えられた人間が、これを悪用乱用している姿は、聖書の中にも登場します。イエス様を死刑にするための裁判で、ユダヤ教指導者が招集した証人たちは皆嘘の証言を行いました。いかにも正義の人らしく振る舞い、偽りの証言でイエス様を糾弾したのです。

その時、裁判所の庭では、「あなたも、あのイエスの弟子ですね」と尋ねられた弟子のペテロが恐れの心に捕らわれて、「私はイエスなど知らない。何の関係もない」と三度嘘の誓いを立てていました。イエス様から警告されていたにもかかわらず、「主よ。たとえほかの弟子が全部離れても、私はどこまでもあなたに従います」と堅く誓ってから、僅か半日後の出来事です。

また、キリスト復活後に建てられたエルサレム教会では、一時期兄弟姉妹がお互いの財産を持ち寄って貧しい者を助けると言う共同生活が行われていました。財産をささげるかささげないか、またささげるとすれば、どれだけささげるかは本人の自由であったのに、虚栄心にかられたアナニヤとサッピラ夫婦は、実際よりも多くをささげたと虚偽の申請をし、その途端その場に倒れ、息を引き取ったと聖書にあります。

裁判に出席した虚偽の証人たちは、イエス様に不当な苦しみをもたらしました。弟子のペテロは、祈りも熟慮もなく口にした誓約を破ってしまった自分を恥じ、責めました。アナニヤとサッピラ夫婦の偽りは、彼らの身に神様のさばきをもたらしました。

偽りの証言、軽々しい誓い、誇張された嘘。それは他の人の人生に、本人の人生に、また神様との関係にも大きな影響をもたらすことを、私たちは教えられます。

神様は私たちの口にするあらゆることばを見ておられる。意図的な嘘も、少しぼやかした嘘や故意に誇張したことばも聞いておられる。ことばにはならない私たちの思いも見通しておられる。公の場であれ、家庭であれ、友人隣人との会話であれ、私たちのどんな言葉も、この神様の前で口にすると言うことを心に留めながら生活をする者でありたいと思います。今日の聖句です。

 

エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」

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