2016年9月4日日曜日

ルカの福音書22章7節~20節「あなたがたのために」


 祈祷会では祈祷表に基づく聖書通読の箇所の学び(ショートメッセージ)をしていますが、先週、今週と詩篇の都上りの歌の箇所を扱っています。都上りの歌とは巡礼歌、礼拝賛歌。礼拝とは何か。礼拝にどのような思いで臨めば良いのか。礼拝の恵みとは何かが歌われる詩。そこに表された詩人の思い、告白を確認していると、果たして私自身はどれ程真剣に礼拝に出席していたのか。神の民とされ、仲間とともに礼拝をささげることが、どれ程大きな恵みであるのか。よくよく味わっていたか。考えさせられました。いかがでしょうか。皆様は礼拝に対して、どれ程の喜びと期待を持っているでしょうか。大事な習慣であると同時に、いつも新鮮な思いで礼拝に集えるように。神様の素晴らしさを覚え、罪を告白し清められ、今一度生きる力を頂く。そのような恵みを、確かに神様が用意して下さっているという期待を持ちつつ、礼拝をささげたいと思います。そして今日は聖餐式もあります。主イエスがどのような思いで聖餐式を定められたのか。私たちをどれ程愛して下さっているのか。御言葉から確認しつつ、実際に聖餐も味わう。今日の礼拝が私たち皆にとって祝福された時となるように心から願っています。

 

 イエス・キリストが十字架にかかる直前。AD三十年四月六日、木曜日の夕べと考えられています。最後の過越の食事にして最初の聖餐式が、イエス様によって執り行われました。過越の祭とも、種無しパンの祝いとも言われる時(二十二章一節)のため、多くの人が各地から都エルサレムに集まる状況でのこと。

過越の祭にしろ、種無しパンの祝いにしろ、その名の由来は出エジプトの出来事です。「過越」というのは、イスラエルの民を奴隷から解放しなかったエジプトに災いが下る際、神様の言われたように子羊の血を門柱と鴨居に塗った家は、その災いが「過越」したことに因みます。「種無しパン」というのは、エジプトを脱出する際、口にしたのが、種無しパンであったから。

 十字架にかかる直前、イエス様はこの祝いの食事をどうしても弟子たちと食べたかったのです。何故か。この食事が、ご自身が十字架にかかり死ぬことの意味を教えるのに最後にして絶好の機会であったから。もっと言えば、目の前にいる弟子たちだけでなく、この時よりキリストを信じる全ての者に、キリストの十字架の意味を思い出す大事な儀式(礼典)を定める時であったから。この食事かけるイエス様の並々ならぬ気迫を感じる箇所となります。

 

 ルカ22章7節~13節

さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。『わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。』彼らはイエスに言った。『どこに準備しましょうか。』イエスは言われた。『町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。』彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。

 

 過越の食事をする祝いの日に、イエス様はペテロとヨハネをつかまえて、食事の準備をするように言われました。二人から、「どこで準備したら良いですか?」と聞かれると、水がめを運ぶ男が目印で、その者の家が会場として用意されていると言います。ペテロとヨハネは、その場所で、過越の食事の準備をすれば良い。これはつまり、イエス様がそこまで手配していたということでしょう。(余談ですが、エルサレムで大きな家があり、イエス様に好意的な人と言えば、マルコが想像されます。この水がめの男はマルコで、この二階座敷はマルコの家ではないかと考える人もいます。)

家の人には、「弟子たちが行くので、準備が出来たら水がめを目印に持ち、待っているように。」という伝言が出されていたのでしょうか。夕暮れ時、二人の弟子は都に入り、目印の男を見かけ、イエス様の言われた通りと安堵しつつ、過越の食事の準備が出来ました。入念に準備されていたと読むと、イエス様のこの食事に対する並々ならぬ思いが確認されます。

 ところで、ペテロとヨハネですら、過越の食事をどこで行うのか知らなかったとすれば、イエス様は、会場を押さえる手配を秘密裡に行っていたと読めます。何故、主イエスはこの食事の場所を秘密のまま準備されたのか。

 

 その理由となることが、この少し前に記されていると思います。

ルカ22章4節~6節

「ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」

 

 裏切り者のユダは、祭司長、律法学者と話しを進め、いつイエスを彼らに引き渡すか算段していました。多くの人がエルサレムに集まるこの時。群衆が賑わう中で、イエスを取り押さえることは難しいと考え、群衆がいない状況を狙っていた。

 過越の祭の都エルサレムで、群衆のいない状況とはいつか。一つの候補が、この過越の食事の時となります。皆がそれぞれ家族ごとに過越の食事をし、イエス様も弟子たちと過越の食事をする。イスカリオテのユダからすれば、この食事はイエス様を引き渡すのに丁度良い機会。あらかじめ、過越の食事の場所をユダが知るとしたら、そこがイエス様の捕まる場所になる可能性がある。

 そのためイエス様は、この場所を秘密裡に用意していたのだと思います。この食事の時は誰にも邪魔されないように。どうしても、弟子たちと過越の食事の時を持ちたかったイエス様。

 

このように無事準備がなされ、邪魔が入る心配もなく、主イエスをして念願の、過越の食事が始まります。

 ルカ22章14節~18節

さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。』そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』

 

 イエス様と弟子たちは、これまで何回か、過越の食事をともにしてきました。ところが、この日のイエス様の様子は普通とは異なる。いつになく厳かな雰囲気だったと想像します。発せられた言葉も印象的。「苦しみを受ける前」とか、「二度と過越の食事をすることはない」とか、「もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはない」とか。この食事を心待ちにしていたというわりに、不吉な言葉が響くのです。

この時の弟子たちは、これらの言葉の重みをどれ位理解していたでしょうか。(何しろこの食事のすぐ後で、弟子たちは誰が一番偉いのかと議論を始めます。残念ながら、キリストの思いを理解しているとは思えない姿を晒すことになります。)

 

これまで千年以上続けられてきた過越の食事は、この時で役目を終えます。何しろ、過越は(かつて神の民に与えられた恵みを覚えると同時に、)やがてくる救い主の働きを指し示す意味がありました。キリストの十字架、その贖いの御業をもって、その役割を終える。出エジプトの際、子羊を殺し、その血を門柱と鴨居に塗った家は災いが過越ましたが、あの子羊と同じ役目を、もうすぐイエス様ご自身が担われる。そのいけにえとしての死、罪の罰を身代わりに受ける死が目前に迫っている。「二度と過越の食事をすることはない。」それどころか「もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはない。」とまで言われる程、間近に迫っている死。

 キリストの死によって過越の食事は役目を終える。そのキリストの死が差し迫っている。そのため、これが最後の過越の食事となる。このような緊迫した状況の中で、イエス様は新たな食事を定めます。

 

ルカ22章19節~20節

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』

 

 イエス様は裂いたパンを指し、これはわたしのからだと言い、ぶどう酒の入った杯を指し、これはわたしの血と言われました。「わたしのからだ、わたしの血。」

 これは、木曜日の夜のこと。これから弟子の裏切りに合い、不正な裁判を味わい、翌日の金曜日の午前九時には十字架につけられる。キリストの肉が割かれ、キリストの血が流される。主イエスは十字架での死の覚悟を持って、「これはわたしのからだです。」「これはわたしの血です。」と言われていた。この迫力。

 

 キリストのからだも、キリストの血も、「あなたがたのため」のものだと言われます。罪の罰を身代わりに受けること。あらゆる罪の呪いを引き受けること。それは、このパンと杯を口にする、あなたがたのためにすることだと言われる。

 神を神と思わず、人を人とも思わない。自分の好き勝手に生き、それでいて苦しくて仕方がない。良くありたい、正しいことを行いたいと願いながら、悪に染まる。愛を示したい、応援したいと思いながら、傷つけ、痛めつけてしまう。怒り、憎しみに心が覆われ、不平、不満を吐き出し続ける。何のために生きているのか分からない。私が幸せであればそれで良い。

 そのような、人間が神様を離れてから味わうことになった、ありとあらゆる罪の呪いと、その罰を一身に引き受けて十字架で死なれるイエス。そのイエス様が、この死は、「あなたのため」と言われる。

 

 また、わたしのために割かれるからだを食べ、わたしのために流される血を飲むようにと言われます。キリストのからだと血を食するとは、キリストのいのちを頂くこと、キリストと一体となることを意味します。

特にユダヤ人は、旧約聖書で「血はいのち」であり、そのため「血は飲んではいけない」と教えられていました。血はいのちであり、他のいのちを取り入れてはならない。そのように教えられてきた弟子たちにとって、これはわたしの血であるとの宣言の後に、だからこれを飲むようにというのは、衝撃的な宣言。わたしのいのちを受け取るようにと迫るキリストです。

私はあなたの罪を背負い、身代わりに十字架で死にます。あなたが罪の呪いから助け出されたいと願う時、私のもとに来なさい。生きる気力が失われたとき。絶望にうずくまるとき。怒りや憎しみで何も見えなくなった時。あらゆる罪の呪いをわたしが背負ったことを思い出しなさい。あなたは私を信じるように。あなたは、わたしのいのちを受け取るように。あなたは、わたしとともに生きるように。わたしと一体となった者として、その歩みを全うするように。そのようなキリストの勧めを、私たちは、パンと杯に見るのです。

 

 十字架直前、イエス様が定められた、過越の食事に代わる新しい食事。聖餐式は、キリストの再臨まで、教会は行い続けるように命じられたものです。そのため、約二千年の間、全世界で聖餐式が執り行われてきました。

 イエス様にとって、十字架にかかるのはたいしたことではない。当たり前のこと。当然のことだったでしょうか。そうではありません。この過越の食事の後、「悲しみのあまり死ぬほど」と言われ、父なる神にささげられたのは「できますならば、この杯をわたしから過ぎさらせてください。」と祈られました。イエス様にとって、罪人の身代わりとなることが、どれ程のことなのか。十字架での死、父なる神に裁かれることは、どれほど避けたいものなのか。

 十字架での死、罪の裁きを前にして、苦しみの最中にいる。そのイエス様が、「これはわたしのからだです。」「これはわたしの血です」と言われたのです。私たちをどれ程愛してのことだったかと、今朝改めて確認したいと思います。

 

 私たちは、聖餐式に臨む時は、このイエス様の思いを覚えながら、食し飲むべきです。十字架での死を前に、本当に悲しみ、恐れ、避けたいと思われながらも、それでも、私たちがいのちを得ることが出来るようにと定められた。今日、この場で聖餐式に臨めるということが、どれ程の愛を受けた結果なのか。よくよく味わいたいと思います。

私はあなたの罪を背負い、身代わりに十字架での死を味わいます。あなたは私を信じるように。あなたは、わたしのいのちを受け取るように。あなたは、わたしとともに生きるように。わたしにつながるように。わたしと一つになるように。わたしと一体となるように。このイエス様からの勧めを、私たち皆で真正面して、存分にイエス・キリストを味わいたいと思います。

 今日の聖句を皆様とともにお読みして終わりにいたします。

ヨハネの福音書6章53節~54節

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』」

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