十一月になり、この一週間の間に寒さがまし、冬が近づきました。私たちの国では、十月から十一月、様々な記念日があります。体育の日があり、文化の日があり、勤労感謝の日があります。(私たちにとっては、十月三十一日の宗教改革記念日も大事な日です。)一年のいつでも、体を動かし、文化に親しみ、勤労を尊ぶことは大事なこと。記念日だけ意識すれば良いというものではないのですが、記念日は思いを新たにする一つのきっかけとなります。
今日は、成長感謝礼拝の日です。一年のいつでも、神様から与えられたいのちを大切にし、成長を感謝することは大事なことですが、今日の礼拝が一つのきっかけとなりますように。神様との関係を再度考えること。今の時代、この場所でいのちが与えられていることの意味を再確認出来るようにと願っています。皆様とともに、「いのちを感謝する」とは、どのような生き方なのか、考えたいと思います。
開きます聖書箇所はコリントの教会に宛てたパウロの言葉です。
Ⅰコリント6章19節~20節
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
コリント人への手紙には有名な言葉、金言がいくつもありますが、中でも有名な言葉。今日は「いのちを感謝する」ことをテーマに、この言葉に注目します。
新約聖書の中には、パウロが書いた手紙がいくつもあります。これまで自分が関わって建てあげられた教会に向けて書かれた手紙。まだ行ったことのない、これから行きたいと思っている教会に書かれた手紙。個人に宛てられた手紙。色々なものがありますが、コリント教会というのは、パウロが伝道してたてあげられた教会。
パウロがコリントで伝道した詳しい様子は、使徒の働き十八章に詳しく記されています。この時の伝道旅行は、当初思い通りにいかなく苦難が続く中、次第に状況が好転しました。コリントで伝道した際には、アクラとプリスキラという有力な夫婦が仲間となります。さらにしばし別行動をしていたシラスとテモテも合流し(この時、マケドニアの教会からの献金を二人が持って来たため、パウロは自活を辞めて伝道に専念出来るようになりました。)、伝道活動に多くの実りが期待される状況が整います。
実際に、この地での伝道はうまくいっていたと思われる記事があります。
使徒18章5節~8節
「そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」
パウロは新しい場所で伝道する際、まずユダヤ人を相手にしました。この時も会堂でユダヤ人相手にイエス様のことを語っていましたが、そのパウロの主張に反抗する人たちがいた。するとパウロは着物を振り払い、あなたがたには言うべきことを言ったと宣言して、会堂を出て行きます。この地での伝道は失敗なのかと思えば、パウロが勢いよく会堂を飛び出した後に入ったのは、会堂の隣の人の家でした。さらには、会堂管理者も一家を挙げて主を信じた。ユダヤ人だけでない、コリント人もキリストを信じたと記録されています。
さらに、このコリントの町での伝道の際に、神様からパウロに対する励ましの言葉が語られます。
使徒18章9節~11節
「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」
この地での教会形成は一年半。パウロの伝道旅行の中では、長い期間です。ここに、パウロの他、アクラとプリスキラ夫婦、シラスとテモテもいた。ユダヤ人の中心人物(会堂管理者や会堂隣の者)も信仰を持ち、コリント人も信仰を持った。更には神様から「この町には、わたしの民がたくさんいる。」という励ましの言葉。
これだけ見ますと、さぞや立派な教会、麗しの教会が建て上げられたのではないかと想像するところ。
パウロはこのコリントでの伝道の後、エルサレムに行き、(派遣元のアンテオケ教会に戻ってから)続いてもう一度伝道旅行を行います。この伝道旅行でもコリントへ行くのですが、その前にコリントの教会に宛てた手紙が、コリント人への手紙となります。
(つまり、第二次伝道旅行で建て上げられたコリントの教会に、第三次伝道旅行でもう一度訪れる前に書かれた手紙がコリント人への手紙です。)
さて、このコリント人への手紙ですが、読んでみますと、コリント教会の実態に驚くことになります。ともかく酷い。悲惨な教会。
勿論、問題の無い教会はありません。教会は罪赦された罪人の集まり。どのような教会でも問題があります。しかし、それにしても、コリントの教会の有り様は酷いもの。コリント人への手紙を読めば分かりますが、分派、訴訟、不品行、結婚、供物、集会、賜物、復活の理解について問題がありました。不品行の問題などは、目を覆いたくなる程。「異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいる。」とまで言われています。ある人は(カルヴァン)、「神よりも、むしろ悪魔が支配しているとでも思われるほど、悪徳の充満していた人間の集団」とまで表現しています。
聖書の中には麗しの教会、目標にしたい教会があります。その地の人々の好感を得たエルサレム教会。世界宣教に取り組んだアンテオケ教会。貧しい中でも献金をささげたピリピ教会。熱心に聖書を研究したベレヤ教会。その中にあって、コリントの教会は見倣いたくない、目標にならない教会。
苦節一年半。あれだけの人たちが労したコリントの教会が、ひどい状態であった。残念であると同時に不思議です。何故、コリントの教会は悲惨な状態なのか。
一つには、教会が建っているコリントの町が、ひどい環境であったからと考えられます。現在の地図を見てみても、コリントが栄えやすい土地であることが分かります。ギリシャの南北結ぶ土地。交通の要所、貿易の要衝。大都市コリントです。
交通の要所、貿易の要衝ということは、人々が入り乱れる場所。手紙が書かれた当時、港町にはつきものの売春宿が流行り、千を超える神殿娼婦がいたと言われ、「コリント人のように生きる」とは、不道徳、不品行な生き方の代名詞とされました。商人たちのそろばん、旅人の乱交、売春巫女の色気が充満した、まさに欲望が煮えたぎる都市、コリント。
このように見ていきますと、よくぞこの町に教会が建てられたとも思います。このような町と知って、「この町には、わたしの民がたくさんいる。」という神様の言葉を覚えると、あの時パウロがどれ程励ましを受けたのか、分かる気がします。
ともかくこの地の教会は、コリントの風習、文化の影響を直に受けるわけで、大変な環境でした。人間は環境に左右される。良い環境にあれば良くなり、悪い環境にあれば悪に染まるということが確かにあります。
しかし、コリント教会が問題山積みだった理由を、環境のせいだけにするわけにはいかないでしょう。本来、キリストの贖いの業は、環境より大きな力をもって、人間を変えるものでしょう。
ではコリント教会の根本的な問題は何でしょうか。現れてきた問題は、多種多様ですが、根本的な問題は一体何なのか。これほど問題が膨らんだ原因は何なのか。それは、コリントの教会が、「教会とは何か」ということを理解していなかった。クリスチャンとはどのような者か、分かっていなかったということです。
パウロはこのコリントの教会に手紙を書きます。手紙を通して、コリントにある様々な問題に解決を与えようとします。それはつまり、教会とは何か。教会とはどのようなところなのかを教えることでもあるのです。
その思いは手紙の冒頭にも表れています。
Ⅰコリント1章1節~3節
「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
多くの問題を抱える教会。異邦人にも見ない不品行を行っている教会。しかし、それでもパウロは「神の教会」「聖徒として召された」「聖なるものとされた方々」と呼びかけます。あなたがたは、キリストによって救われた人たち。現状がどうであれ、教会とされた人たちとの呼びかけ。
パウロは手紙の中で、あれやこれやの問題に解決を与えようとしますが、その都度、教会とは何か、キリストによって救われた者はどのように生きるのか、確認することになります。
このようなコリント人への手紙で語られたパウロの言葉。教会とは何か。キリストを信じる者とは、どのような存在なのか。必死に訴えかけるパウロの言葉が、今日注目したい言葉です。
Ⅰコリント6章19節~20節
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
コリントの教会は様々な問題を抱えていましたが、この六章の終わりでパウロが扱っているのは不品行の問題、それも遊女と交わるなと言っています。「あなたがたはキリストのからだの一部。遊女と交われば一つからだとなる。キリストのからだをとって遊女のからだとするなど、絶対に許されない。」とパウロは言いますが、それをしていた者たちが、コリント教会にはいたのです。それも相当数いたと考えられます。当時の遊女は神殿娼婦が多く、遊女と交わるというのは性的不品行とともに信仰面でも問題。目を覆いたくなる現状でした。
しかし、それだけがコリント教会の姿ではないと言います。「あなたがたのからだは、聖霊の宮です。」「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」「あなたがたは、神の栄光を現わすのに相応しい者とされたのです。」と、福音の告げるコリント教会の姿を語ります。
つまり、コリントの教会は、片一方に大きな罪の現実を抱えながら、もう片一方でキリストのもたらす恵みを手にしているのです。救われながらも罪の中に沈んでいる者たち。キリストを信じながらも、どのように生きたら良いのか分からなくなっている者たちに、パウロは今一度、自分自身がどのような者なのか思い出すように促します。「あなたのために、主イエスが何をされたのか。あなたのために、どれ程の代価が払われたのか。今や、あなたは聖霊の宮であり、罪の思いで自由に生きて良いものではない。むしろ、救われた者として、神の栄光を現わす生き方をするように。」と。
救われた命を無駄にしないように。神様が下さった永遠のいのちを、永遠のいのちとして用いるように。拳を握り、唾を飛ばしながらのパウロの必死な姿が見えるところ。そしてこのように聖書を書かしめる神様の必死な思いを感じる言葉です。
今日のテーマは「いのちを感謝する」です。それも特にキリストに頂いた永遠のいのちを感謝するとは、どのような生き方か考えてきました。「いのちを感謝する」というのは、ただありがたいと思うことではありません。頂いた永遠のいのちがどのようなものなのか。その永遠のいのちを手にした者が、どのように生きるのか。それをよくよく考え、実行することが、いのちを感謝することです。
この一週間の自分の歩みを振り返りますと、実に罪にまみれたもの。神の子らしくない、クリスチャンと言うには恥ずかしい歩みをしてきました。コリントの教会はひどい教会と言いましたが、自分の行動、自分の心の中を見ますと、コリントの教会と変わらない。問題だらけでした。
しかし、それが私の全てではないのです。今朝、もう一度、自分が頂いたいのちがどのようなものだったのか、聖書から確認したいと思います。片一方で、罪にまみれた自分の姿を確認しつつ、もう片一方で福音の語る自分の姿を確認します。私のために、主イエスが何をされたのか。私のために、どれ程の代価が払われたのか。今や、私は聖霊の宮であり、罪の思いで自由に生きて良いものではない。むしろ、救われた者として、神の栄光を現わす生き方をすること決心したいと思います。
皆様も是非、今日の聖書の言葉に真正面して下さい。あなたのために、主イエスは何をされたでしょうか。あなたのために、神様はどれほどの代価を払われたでしょうか。あなたは聖霊の宮で、神の栄光を現わす生き方へと召された者です。そうだとしたら、あなたは今日、どのように生きるでしょうか。この一週間、どのように生きるでしょうか。
最後にもう一度、今日の聖書箇所を皆で読み説教を閉じます。
コリント人への手紙第一 6章19節~20節
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
自分は何者であるのか。どのように生きるのか。神様が言われていることを受け取ることで、いのちを感謝する歩みを送りたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿