2016年12月18日日曜日

ルカの福音書1章46節~55節「アドベント(4)~マリヤの応答~」


神様からの知らせを、どのように受け止めるのか。神の言葉にどのように応答するのか。私たちの人生に大きな影響があります。今年の待降節、アドベントは「良き知らせ」をテーマに、神様からの知らせを私たちがどのように受け止めているのか、確認しながらクリスマスへと歩みを進めているところです。これまで、ザカリヤへの良き知らせと応答、マリヤへの良き知らせを確認してきまして、今日はマリヤの応答の姿を見ることになります。

 

 確認となりますが、ザカリヤに対する良き知らせと、ザカリヤの最初の応答の姿はどのようなものだったでしょうか。

ザカリヤに対して告げられた知らせは、念願の子どもが与えられるというもの。その子は、神様の重要な働きを為す人物となること。これはザカリヤにとって、ひたすらに良いこと。嬉しいこと。ただただ、良き知らせでした。ところが、当初ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。受けとめきれなかったといいます。興味深く、面白いところ。神の前に正しいと評されたザカリヤ。旧約聖書に精通した祭司。当然のこと、アブラハムと不妊の妻サラが老齢になって子どもが与えられたことも知っていました。そして、長らく祈り願ってきたこと。それでも、子どもが与えられるという知らせを、受けとめきれなかった。人間ザカリヤです。あまりに嬉しい知らせ。しかし、この知らせ自体が自分の妄想だったらどうしようか、という恐れでしょうか。悪い知らせを受け入れたくないというのは分かりやすいのですが、あまりに嬉しい知らせを受け止めきれなかったという場面。このザカリヤを神様は慮ってくださり、神の言葉を素直に信じる者へと導かれました。

 それに対して、マリヤに告げられた知らせは、必ずしもマリヤにとって良いこととは言えないものでした。婚約中のマリヤが男の子を産む。それが実現したら、婚約者のヨセフにどのように思われるのか。社会的にどのように扱われるのか。一般的に考えれば、大きな悪影響が予想される出来事です。それも、不妊とか老齢の問題ではなく、男性との性的関係無しで、聖霊によって身籠るという知らせ。受け入れがたい、信じがたい知らせではないかと思うところ。しかし御使いとのやりとりを経て、マリヤはこの知らせを受け止めました。

 

 ルカ1章38節

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

 

 ザカリヤの姿と比較すると、この時のマリヤの素直さ、神様の言葉に対する従順さが際立ちます。神様の言葉にかくも従順である一人の信仰者を通して、イエス・キリストの誕生があり、全世界に救いの御業が広がりました。神様の知らせに、このように応じる者でありたいと思うマリヤの姿でした。

 

 ところで、「男の子を産む、救い主を産む、神に不可能なこと無し」と言われ、「その通りになるように」と応じたマリヤですが、その後、出産までどのように過ごしたのでしょうか。もし、自分がマリヤの立場だったら(男性は想像するのが難しいと思うのですが)、何をするでしょうか。

 婚約者ヨセフへ相談するでしょうか。(マタイの福音書に記されているヨセフの姿からは、マリヤはヨセフにしっかりと相談していなかったように思われます。)親や友に相談するでしょうか。(マリヤは親や友に相談したかもしれませんが、聖書には記されていません。)現代人であれば、妊娠検査薬で調べるか、産婦人科に行くでしょうか。

 実際にマリヤが取り組んだこと。それは御使いの知らせの中に出て来た、親戚エリサベツのもとに行くことでした。御使いは、不妊で老齢のエリサベツの妊娠を枕にして、神に不可能なことはないと告げています。マリヤは、エリサベツのもとに行くことが、自分の状況の助けになると思ったようです。そして実際に、エリサベツに会うことは、マリヤにとって重要な意味のあることになります。

 

 ルカ1章39節~45節

そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。て大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』

 

 マリヤがエリサベツに挨拶した時、驚くべきことが起ります。マリヤは挨拶しただけ。ところがエリサベツは「あなたの胎の実」と言い、マリヤのことを「私の主の母」と言いました。エリサベツの胎内にいるのは、救い主の前触れをすると言われたザカリヤとの子。その子も胎内で喜んで踊ったと言います。

 これは、マリヤは御使いの言葉を受けて、それほど日時が経っていない時。(1章36節、56節と、一般的な妊娠期間は約十カ月であることより、マリヤがエリサベツを訪問したのは、受胎告知の後1ヶ月以内と考えられます。)自身、身体に変化はなく、本当に妊娠しているのか分からない時。

 マリヤは御使いの言葉を信じていました。しかし、まだ実感を持てない状況。そこに神様が備えておられたのは、エリサベツの言葉。この言葉を聞いて、マリヤは自分の聞いた知らせがより真実なもの、確実なもの。確かに自分が約束の救い主を産むことを実感するに至ります。

約束の救い主が来る、キリストの到来、そのことを実感したマリヤがささげた賛美。それが今日の箇所です。キリストの到来を実感した者の口から出てきた賛美、それがマリヤの賛歌でした。

 

 ルカ1章46節~47節

マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

 

 一般的に、「マリヤの賛歌」、あるいは「マニフィカト」と言われる賛歌です。「マニフィカト」とはラテン語で、「あがめる」という意味。原典のギリシャ語では、「メガリュノー」という言葉で、大きくするという意味。「わが魂は主を大きくする。」「わが魂は主を大いなる方とする。」「わが魂は主をあがめる。」です。

 約束の救い主の誕生を前に、マリヤは何を思ったのか。救い主の誕生は、マリヤにとって、どうしようもなく嬉しいことだったのです。たましいも霊も喜びで振るえ、主を褒め称える思いで満たされ出てきた言葉が、わが魂は、主をメガリュノーする。わが魂は、主をマニフィカトする。わが魂は、主をあがめる、という言葉でした。ともかく神様を賛美したい。ともかく主をあがめたい。大変に嬉しいという思いでした。救い主の誕生を前にしたマリヤの第一の思いは、賛美であり喜びでした。

 

 罪からの救い主が生まれる。この知らせを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。キリストの到来を覚える、このアドベントの時、どれ程の喜びを感じているでしょうか。

年の暮。社会人も学生も忙しい時期。教会自体も多くのプログラムを用意し、忙しくしています。教会生活が、何年、何十年と続くうちに、キリストの誕生はよく知ったこと。感動も、喜びもなく、クリスマスを過ごしてしまうということが起ります。これまでのことはともかく、今年、アドベントを過ごしながら、どれだけイエス・キリストの誕生自体を喜び、楽しみ、賛美をささげたのか。

マリヤの姿を前に、私たち皆で、今一度救い主が生まれるという知らせに集中したいと思います。世界の創り主が、私のために人となられた。この知らせに感動や喜びはあるのか。もしないとしたら、何故、喜びや感動がないのか。よくよく確認したいと思います。今一度、マリヤが感じている感動、喜び、賛美をともに味わいたいと思うのです。

 

 ところで、マリヤの感動、喜び、賛美には理由があり、そのことも歌われていました。

 ルカ1章48節

主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

 

 マリヤの喜び、賛美の源は、「主はこの卑しいはしために、目を留めて下さった」というものです。主が来られる、キリストが来られるという知らせは、マリヤにとって、主が私に目を留めて下さった出来事、それもこの卑しいはしために、目を留めて下さった出来事だというのです。

 マリヤの卑しさは、社会的立場という意味もあったと思いますが、それ以上に、神様の前での卑しさです。罪という卑しさ。本来ならば、永遠に神様には目をむけられないはずの卑しさ。しかし、そのような卑しいはしために、主は目を留めて下さった。マリヤにとって、救い主が誕生するというのは、「神様が罪ある私に目を留めて下さっていた」という出来事でした。

「神様は私のような罪人を選ばれた。」「主がこのような卑しい私に目を留めて下さった。」そこから喜びが溢れだし、主を大いなる方とする賛美が生まれています。

 

この主が私に目を留めて下さったという喜びには、二重のものがあると思います。一つは、罪の中にいる卑しい私へ、約束の救い主、待望のメシアが与えられるという意味での喜び。またもう一つは、マリヤ個人の喜びとして、マリヤの胎内にその救い主がいるという喜びです。

処女である自分が、聖霊によって今、実際に妊娠している。これから後、自分の体で、救い主の到来を感じていくということです。主がこの卑しいはしために目を留めて下さっているということを、自分のお腹が大きくなるのを見るだけで、実感できる。ここに、マリヤならではの喜びがあります。婚約中の妊娠という負の状況よりも、主が到来することを、実際に体験していることが、本当に幸せだという思い。

キリストが来られることを体験している。同時に、主が私に目を留めて下さっているということを、体験している。その喜びが、マリヤの根底にある喜びでした。

 

 さて、マリヤのこの思い。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という思いが、続けて様々な表現で出てきます。「主は卑しい者に目を留めて下さった」という太い幹から、いくつかの枝が伸びているような賛美。

 

一つ目の枝は、49節から50節です。

 ルカ1章49節~50節

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 

 主が卑しいはしために目を留めてくださったという思いが、ここでは、力ある方、御名が聖い方が、主を恐れかしこむ者をあわれんで下さる、という思いへと広がります。

 キリストの到来は、マリヤにとって、大きな喜びでした。しかし、マリヤ個人だけの喜び、マリヤのもとにだけ救い主が来るのかというと、そうではありません。救い主は、主を恐れかしこむ者のところへ。「主が卑しいはしために目を留められた。」というメロディが、「あわれみは、主を恐れかしこむ者へ」とアレンジされているのです。

 

キリストが到来するということ、救い主が来るということを、本当に喜べる人は、自分には救い主が必要であるということが分かっている人。言い換えますと、自分は正しいという人は、自分に救い主が必要であるということが分からない。救い主が来ると聞いても、喜びがないのです。(もし、私たちが救い主誕生の知らせを聞いても喜びがないとしたら、自分が罪人である実感が薄れているからかもしれません。)

主を恐れかしこむ者こそ、救い主到来の知らせを喜ぶことが出来る。主を恐れかしこむ者に与えられる喜びは、主が、卑しいはしために目を留めて下さったという、マリヤの喜びと同じ喜びです。

 

 続けて、二つめの枝です。

 ルカ1章51節~53節

主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

 

 主の御腕をもってなされる力強いわざは、どのようなものなのか。それは、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、富む者に何も持たせないで追い返すという、高いものを退けるというわざ。そして、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ちたらせるという、低いものを省みるというわざでした。

 この「高ぶる者を低くし、低き者を高くする」神様の働きを喜ぶことが出来るのは、自分は神様の前で低く、自分の霊は飢えているのだと自覚する者でした。「主は卑しいはしために目を留めて下さった」というメロディが、「主は、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる。」とアレンジされるのです。

 

 さて、最後の三つ目の枝です。

 ルカ1章54節~55節

主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。

 

 マリヤはその賛美の最後に、キリストの到来という出来事の出発点に目を向けます。今、自分自身に起こっている出来事、それはイスラエルの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りである。主が卑しいはしために目を留めて下さったのも、ひとえに、この神様の真実さがあったからだと歌い上げます。

 マリヤは救い主の誕生という出来事は、神様の変わらない真実によると感動したのです。人間がどれ程、神様に対して、歯向かい、無視をしても、それでも神様の真実さはかげることがない。マリヤは、神様の真実さを、その身で感じたのです。

「主は卑しいはしために目を留めて下さった」という喜びは、このような神様の真実さに触れた喜びです。低く、飢えた、卑しいはしために、主は目を留めておられる。そのまなざしは、永遠の昔から変わらない、神様の真実さに溢れている。その真実なまなざしを浴びた者の喜びの賛美でした。

 

 以上、マリヤの賛歌、マニフィカトを見てきました。

マリヤは、キリストが到来するという出来事を、主がこの卑しいはしために目を留めて下さった出来事として理解しました。どうにもならない貧しい私に、救い主が来られる。自分の罪が分かれば分かるほど、救い主の到来が嬉しいという思い。その思いに溢れた賛歌です。

 

 待降節、アドベント、キリストの到来を待ち望む時。この時に、私たちはどのようにして、キリストを待つでしょうか。マリヤが抱いた喜びと、主をあがめたいと思ったのと同じ様に、私たちもキリストの到来を喜び、主をあがめること。そのためには、まず、自分の卑しさに目が開かれることです。マリヤと同じ思いで、喜びと感動と賛美を持って、クリスマスを、迎えたいのです。

いや、もっと言えば、私たちは、マリヤ以上にキリストの到来の意味を教えられた者たちです。マリヤは、約束の救い主が来るということで、大きな喜びに満たされました。

私たちは、その救い主が、私たちの身代わりとして、十字架にかかることを知っています。そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に及ぶどころか、主を知らなかった者にまで及んでいることを知っています。高きを退け、低きを顧みる主は、なんと、その業を行うために、ご自身が徹底的に低くなられたということも知っています。アブラハムとその子孫に語られた通りになされる主の真実さは、実は、アブラハムの時から始まった真実さなのではなく、世界の基の置かれる前からの真実さであることも知っています。更に、この時、マリヤの胎に宿られたキリストが、今度は御国の完成のために来られるということも知っています。キリストの到来の意味を、よく分かっている私たち。それならば、マリヤ以上に、キリストの到来を喜び、主をあがめる者でありたいと思います。

 キリストの到来を、主が私に目を留めて下さった出来事として覚え、クリスマスを迎えたいと思います。

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