2017年2月19日日曜日

ナホム書1章1節~6節「一書説教 ~神の怒りに任せる~」


キリスト教は恵みの宗教。神様の愛を得るのに、しなければならないことがあるのでもない。何が出来るのかで救われるのではない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。しかし、放縦の宗教かと言えば、そうでもありません。結局、キリストによる救いがあるのだからどのように生きても良いとは教えていません。キリスト者のあるべき生き方についても、聖書は多く記しています。

 「神様がして下さること」、「私たちがすべきこと」。どちらも大事ですが、より重要なのは順番です。神様が私を救って下さった。罪の中にいる者を、義と認め、神の子として、聖なる者へと変えて下さっている。だからこそ、私たちの取り組むべきことがありますし、また取り組むことが出来るのです。

 私たちの信仰のあり方として、神の民として自分は何をすべきなのかと考えることは大事なことですが、それよりもまず取り組むべきは、神様が私に何をして下さったのか思いめぐらすこと、受けとめること。この順番を間違えると、私たちの信仰生活はどこか歪んだものとなります。

 礼拝に集うこと。祈ること。聖書を読むこと。ささげること。奉仕をすること。伝道すること。あるいは、愛すること、赦すこと、和解すること、信頼すること。本来麗しいこれらのことが、自分のすべきことだからするとして取り組むとしたら、喜びのない信仰生活。良くて無味乾燥。悪ければ苦痛となります。あるいは、そのような信仰生活を送ることで、自分が立派であると主張したくなるか。これらのことも、恵みへの応答、神の民に加えられた喜びとともに取り組みたいと思うのです。

 皆様の信仰生活はいかがでしょうか。どこかバランスを欠いた信仰生活、あるいは順番を間違えた信仰生活となっていないでしょうか。この礼拝が自分の信仰生活を確認し、必要ならば見直す時間となりますように。

 

少し間が空きましたが、断続的に行ってきた一書説教、今日は三十四回目となります。聖書は全部で六十六巻ですので、一書説教はここから後半戦に入ることになります。開くのは旧約聖書第三十四の巻き、ナホム書。不条理な悪に圧迫され、多くの人がどのように生きたら良いのか分からず混乱した時代に遣わされた預言者ナホムの言葉を読むことになります。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。ただし、読まなければならないから読むのではなく、神様の恵みに応える者として読むことが出来ますように。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みを味わいたいと思います。

 

 ナホム書ですが、皆様はどのようなイメージを持っているでしょうか。特別に有名な聖句もなく、おそらく多くの人にとって印象の薄い書ではないかと思いますが(四日市キリスト教会の教会学校には、その名も「なほむ」君がいますので、その点で馴染みがありますが)、実際には大きな特徴があります。

 特筆すべき特徴の一つは、預言の対象がアッシリヤ(表記はアッシリヤの首都ニネベとなっていますが)であるということ。

 ナホム1章1節

ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。

 

 旧約聖書には多くの預言書がありますが、通常、預言の対象となるのは北イスラエルか南ユダ。つまり、神の民に向けて語られるものが主な内容です。いくつかの預言書で、神の民以外に預言が語られ、その内容が記録されていますが、それは中心ではなく余禄。一書全体で、神の民以外に向けて語られた預言を扱うのは、ナホム書とオバデヤ書の二つだけとなります。

 

 それでは、神の民にとってアッシリヤとは、どのような国でしょうか。もともと、神様が神の民に与えると約束していたカナンという土地は、大きな二つの文明に挟まれた地域。西にエジプト(エジプト文明)、東にアッシリヤ(メソポタミア文明)。聖書に記された神の民の歩みは、この両国に翻弄され続ける歩みとなります。歴代の王は、両国の力関係を見つつ、ある時はエジプトにへつらい、ある時はアッシリヤにおもねり、ぎりぎりの外交政策で国家としての生き残りをはかりました。(そのような王たちに対して、預言者は、どこかの国を信頼するのではなく神様を信頼するように訴えていましたが。)

 

 預言者ナホムが活躍する少し前、アッシリヤが力を増す状況で王に就いたアハズが、親アッシリヤ政策をとり、同盟というよりは自ら支配下に下る選択をした様が、歴史書に記されています。

 Ⅱ列王記16章10節~12節

アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。

 

 これは一つの例ですが、強国アッシリヤにおもねるというのは、貢物を納めるだけでなく、アッシリヤの宗教を取り入れることでもあった。王自ら率先してアッシリヤの祭壇を作成したと記録されますが、神の民にとって屈辱的なこと。決して正しい判断ではないですが、そうでもしないと立ちゆかないと王と祭司が思うほど、アッシリヤの脅威は凄かったということ。神の民にとってアッシリヤは好ましくない相手でした。

 

 また「アッシリヤへの預言」で思い出されるのは、預言者ヨナです。当時、弱体化したアッシリヤに神様はアッシリヤが悔い改めるように預言者を送りますが、それが例のヨナでした。敵国に行き、悔い改めを説くなどしたくない。もし悔い改めてしまい、神様が裁きを下すことを思いなおされたら、せっかく弱体化しているアッシリヤがまた力を戻すかもしれない。そのため、ヨナはその働きはしたくないと一度逃げ出しました。このようなヨナの姿からも、神の民にとってアッシリヤが好ましくない相手であったことが分かります。

 

 そして、このアッシリヤは南北に分かれた後の北王国、北イスラエルを滅ぼした国でもあります。

 ナホム書の特徴の一つは、その内容が、神の民以外を対象にした預言であり、それも友好国ではなく敵対国。これまで虐げを受けてきた相手、北王国を滅ぼした国。そのアッシリヤに対しての言葉がナホム書の中心であるということ。

 

 それではナホムは何を語ったのか。その主な内容はどのようなものでしょうか。その語られる中心的な内容が、他の預言書にはあまりないもの。ナホム書の特徴となります。

想像してみてください。もし皆様に敵対する相手がいたとします。繰り返し虐げられ、悪意ある攻撃をされてきました。自分のうちにその相手に対する、怒りや憎しみ、赦せない思いがあります。

神様はそのような私たちに何を語られるでしょうか。神様がいかに私たちを愛し、また赦してきたのか。その愛や赦しを受け取って、私たちもその相手を赦し、愛するようにと語られます。

深く傷つき、怒りや憎しみで覆われている時。神様の愛を受け取ること、そしてその相手を愛していくという教えに、私たちは更に苦しむこともあります。怒りや憎しみの最中にいる時は、神様が私を愛しているということすら、受け取ることが難しくなります。それでも、神様からの語りかけは変わりません。何故なら、怒りや憎しみを持ち続けることは、私たち自身にとって良いことではなく、愛すること、赦すことが私たち自身にとって祝福の道だからです。

 それでは、その相手に対して神様は何を語られるのか。神の民に対して、繰り返し攻撃し虐げてきた者たちに、何を語られるのか。(ヨナを通して)悔い改めが勧められることもありますが、ナホムを通して語られる内容であることもある。驚愕の、そして恐ろしい言葉となります。

 

 ナホム1章2節~6節

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる。バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる。山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。

 

 ねたみ、復讐、憤る、怒りを保つ。聖書の中でも、神様を修飾する言葉としてあまり見かけない言葉が続きます。海や川を干上がらせ、木々や草花を枯らし、山々を動かし、大地を覆す。全知全能、世界を支配する力を持つ方が、その憤りを火のように注ぎ、必ず罰すると言われる。凄まじい怒り、凄まじい宣言です。徹底して審判者であり報復者である神様の姿が示される。この憤りを受ける立場であれば、これ以上恐ろしいことはない宣言。

 

 この宣言はナホム書の冒頭だけかというとそうではなく、これがナホム書全体の中心的な内容となります。

それでは神様の裁きは、どのように実現するのか。二章から三章に、神様の裁きの具体的なあらわれとして、アッシリヤの首都ニネベが包囲され攻撃を受けることが預言されますが、その冒頭にアッシリヤに対する皮肉まじりのあざけりの言葉が出てきます。

 ナホム2章1節

散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。

 

 アッシリヤの首都ニネベは、歴代の王が防衛の町として拡大整備した都市。アッシリヤの人からすれば防衛に自信のある街。そのアッシリヤに対して、守れるならば守ってみよ、と挑発の言葉が語られます。預言者を通して語られる神の言葉に、アッシリヤに対する言葉とはいえ、あざけりの言葉、挑発の言葉があるというのに驚きます。神様が本当に怒っていることのあらわれということでしょうか。

 

 それに続く戦の描写は、非常に詳しく、絵画的。目撃者の報告のように生々しく、古代文学の傑作と言われる箇所でもあります。

 ナホム2章3節~4節、3章1節~3節

その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦車は整えられて鉄の火のようだ。槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。

ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

 

 おそらく聖書中、最も生々しい戦の描写の場面。鞭のうなり、戦車の車輪の響き、馬のいななきと蹄の音、騎兵隊の突撃の喚声、剣の斬撃、槍の刺突。あまりの死体の多さに、立つことが出来ない程になるという有り様。このナホムの預言の言葉を、アッシリヤの人たちはどのように聞いたのか。また、神の民はどのように聞いたのでしょうか。

実際の戦いにおいては、戦勝国のバビロニヤの年代記によれば、三か月に及ぶ包囲と戦闘によってニネベは陥落したそうですが、現代の私たちが想像することも難しい凄惨な状況だったと思われます。

 

 神様による復讐、裁きを宣言し、その具体的な内容を告げたナホムですが、その終わりも恐ろしい言葉で閉じられることになります。

 ナホム3章18節~19節

アッシリヤの王よ。あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は山々の上に散らされ、だれも集める者はいない。あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。

 

 ナホムの時代からは少し先になりますが、南ユダはバビロンに滅ぼされるも、その後で回復します。ところがアッシリヤについては、「傷はいやされない。」と告げられて預言が閉じられる。アッシリヤからすれば望み無し。これでナホム書は閉じられます。徹頭徹尾、神様の裁きがテーマとなっているのがナホムの預言でした。

 

 以上、簡潔にですがナホム書について確認してきました。ねたみ、復讐し、憤り、怒りを保つと言われる神様から、神の民に敵対する者たちに語られる激しい裁きの宣告。皆様は、このナホムを通して語られた神様の言葉を、どのように受け止めるでしょうか。現代の私たちは、この神の言葉から、神様がどのようなお方で、私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、どのように考えたら良いでしょうか。

 

 大事なこととして覚えておきたい一つのことは、神の民が虐げられ、攻撃されている時、神様はかくも怒っておられるということです。私たちが虐げられようが、さげすまれようが関係ない、痛くも痒くもないという方ではない。子どもがいじめにあった親のような姿と言えば良いでしょうか。

 もし私たちが誰かから攻撃され、怒りや憎しみで心が覆われた時。心が傷つき苦しくてしょうがない時。実は、神様も苦しみ、怒っておられるということを覚えたいと思います。(ただし、私たちは自分では不条理に攻撃されたと思っても、自分に原因があるということもあります。自分では正当な怒りだと思っても、そうでないこともあります。自分の怒りと、神様の怒りが全く同じであると思うことは危険なことです。)

私たちが、怒りや憎しみに覆われている時、神様は赦すことや愛することを教えます。それは、怒りや憎しみで命を使うことは不幸なこと、私たち自身にとって赦すことや愛することが幸せの道だからですが、実はもう一つ理由があり、復讐は神様のものだからです。神の民が傷つけられたら、その落とし前は神様がつけると言われる。それほど、私たちは大切にされていることを、ナホム書を通して覚えたいと思います。このような神様の姿を知って生きるのか、知らないで生きるのか、違いがあると思いますが、いかがでしょうか。怒りや憎しみに覆われている時、復讐はわたしのすることだと言われる神様を覚え、自分で怒ることを止め、神様の怒りに任せることが出来るようにと願います。

 ローマ12章19節

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』

 

 もう一つ覚えておきたいことは、神様にとってそれほど大切な存在が、私たちの周りには多くいるということ。神様は、神の民を特別に扱われる。私たちの周りにいる人は、キリストがご自身の命を投げ出す程に愛している存在。父なる神様が、主イエスがそれ程愛している人に対して、私はどのように接するのか。真剣に考えたいと思います。

 是非とも、自分自身で聖書を開き、ナホム書を読み通すこと。神様がどのようなお方で、その方の前で、どのように生きるべきなのか、真剣に考えることが出来ますように。私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う歩みに取り組みたいと思います。

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