2016年10月23日日曜日

マタイの福音書6章9節~13節「山上の説教(25)~御名があがめられますように~」


今私たちが礼拝で読み進めているのは、イエス・キリストが語られた説教。聖書に記録された説教中、最も有名な山上の説教です。礼拝で山上の説教を扱うのは一か月振りとなります。マタイの福音書の5章から7章、合わせて3章にわたる山上の説教も6章に入りました。ここ3回は、祈りについて学んでいます。

人間は祈る動物と言われます。ある歴史家は、「世界中どの国、どの町に行っても見られるものは、祈る人と祈りの為の場所」と書いています。日本人は、手紙に「ご多幸を祈ります」等と書き記すことは日常茶飯事ですし、普段「神など信じない」と豪語する無神論者も、窮地に陥れば「神様、助けてください」と祈ることがあります。つまり、人間は本能的に祈ることのできる者でした。

しかし、それらは祈りの相手がはっきりしない、独り言の祈り。どんな神様でもよいから、とにかく助けてほしいと願う、困った時の神頼み。聖書が教える本来の祈りとは程遠い祈りばかりです。神様に背を向けた人間は祈りを歪め、本来の祈りを忘れてしまったと言えるかもしれません。

イエス様の時代もそうでした。信仰深い人と認められたくて、わざわざ目立つ場所に立って祈るパリサイ人がいました。自分の願いを神に叶えてもらうため、同じ言葉を繰り返し祈る異邦人もいました。しかし、パリサイ人や異邦人の祈りは決して他人事ではありません。私たちの中にも、自分が認められるため、あるいは自分の願いを実現するために祈りを使うという性質があるのではないかと思います。

ですから、私たちは正しい祈りについて教えられる必要があります。本来の祈りを学ぶ必要がある者です。この様な私たちのために、イエス様が教えてくださったのが、有名な主の祈りです。先回は、私たちの祈りの相手として、この世界の造り主なる神様が与えられていること、私たちは神様を天の父と呼び、親しく語りかけることができる恵みを与えられていることを学びました。

今日、私たちが心に留めたいのは、「御名があがめられますように」という第一の願いです。

 

6:9~13「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 

「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけのことばの後に、六つの祈りがあります。それが三つずつ、二つのグループに分かれていることが分かります。前半は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」とある通り、神様のことを覚えての祈り。後半は「私たちの日ごとの糧をお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」として、私たちの必要のための祈りが教えられています。

注目したいのは、祈りの順序です。イエス様は、先ず神様のために祈り、次に私たち自身のために祈るよう教えています。ことばを代えれば、私たちの願いや必要のための祈りから始めないように。先ず神様のことから祈り始めよと言われたのです。

ところで、皆様は普段心の中で何について考えていることが多いでしょうか。どの様なことについて関心を抱いたり、心配したりすることが多いでしょうか。ある心理学者によれば、私たちは起きている時間の内95%は自分のことを考えているそうです。この数字は正確ではないかもしれません。しかし、95%とは言わずとも、かなり多くの時間を自分の必要や問題について考えていることに、皆様も思い当たるのではないでしょうか。

この様な私たちが神様に祈るとしたら、先ず自分の願いから祈り始めると言うことは、ごく自然なことと思われます。試験のため、仕事のため、就職や結婚のため、病気の癒し、家族の健康のため。自分の将来のため。自分の願い事に終始するうち、祈りはいつの間にか願い事実現の道具になってしまいかねません。

勿論、イエス様はそれ等のことを祈ってはいけないとは言われませんでした。ただ、祈り

りには順序があること、自分に関する必要や願いを祈る前に、神様の御名、神様の御国、神様のみこころのために祈ることを教えているのです。

自分の必要が満たされること、自分の願いが叶うことを目的として祈る時、神様と私たちの関係は歪んでゆく危険があると思います。「神様を知り、神様のみこころに従うために私がいる」。その様な関係から、「私の必要を満たし、願いを叶えるために神様が存在する」という関係に変わってしまう危険です。

誰の心にも潜んでいるこの様な自己中心の性質、罪を良く知っておられたイエス様は、だからこそ、祈りの順序を教えたのではないでしょうか。「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけで、私たちの関心を父なる神様へと引き上げたイエス様は、先ず神様のために祈る様に、その後で、私たちの必要や願いについて祈る様命じているのです。

まず、神様を知ること、神様のみこころを考え、みこころに従う信仰があり、その信仰によって心を吟味し、整理する時、自分の本当の必要、自分が本当に願うべきことが、私たちに見えてくるからです。それが逆になるなら、私たちは神様のみこころを無視した祈りをささげやすい者であることを自覚したいのです。

まず、神様がどのようなお方か、神様のみこころは何かをわきまえてから、私たち自身のことを祈る。イエス様が教えた祈りの順序を心に留めて、主の祈りを祈る者でありたいと思います。

それでは、私たちは最初に何を願うべきなのでしょうか。イエス様は、先ず私たちが願い祈るべきは「御名があがめられこと」と教えてくださいました。

私たちは、「御名を賛美します」とか「御名をあがめます」と言うことばを、祈りの中で使います。いわば祈りの決まり文句で、余りその意味を深く考えることなく口にすることが無きにしも非ずのことばではないかと思います。

日本語でも「名は体を表す」と言われる様に、御名は、聖書において示された神様のご性質、お働きのすべてを意味します。旧約聖書には、全能の神、聖なる主、永遠の神、すべてのものを支える神、良き物を備えてくださる主、あるいは牧者、羊飼いなど、人々の置かれた状況に応じた神様のお名前が示されています。人々はそれにより、神様のご性質や、お働きを知ることができました。神様はご自分について、私たち人間が知るべきことを御名を通して伝えてきたのです。

ですから、「御名があがめられますように」と祈る時、私たちは漠然と神様があがめられることではなく、私たちに示された神様のご性質やお働きのすばらしさがそのまま人々に認められ、尊敬され、賛美される様にと願っているのです。その御名が傷つけられたり、ゆがめられたりすることがありませんようにと願うのです。

私たちは、愛する者のすばらしさが人々に認められ、誉められることを願います。人々が妻の料理を誉めたなら、妻を愛する夫は喜ぶでしょう。人々がお父さんの仕事ぶりを認めてくれたら、お父さんを大好きな子どもは喜びを感じるでしょう。

同じ様に私たちは神様の御名があがめられることを願っているでしょうか。御名が世界中の人々に認められ、賛美されることは、私たちの中でどれ程大きな願いでしょうか。「御名があがめられるように」と願い祈ることは、私たちがどれ程神様を愛し、敬っているかを計ること、省みることでもあるのです。

しかし、「御名があがめられるように」と願う私たちは、自分自身が御名をあがめる者でなければなりません。十戒の第三戒は「あなたは、主の御名をみだりにとなえてはならない」でした。「みだりに唱える」とは、神様にふさわしい尊敬や畏れを抱くことなく、御名を軽々しく口にすることです。

昔、川上哲治と言う野球選手がいました。「ピッチャーの投げるボールが、自分には止まって見える」と言うことばを残したすばらしいバッターです。川上選手は「野球の神様」と呼ばれました。この間テレビを観ていましたら、脳の難しい手術を一年に何十件も成功させた外科医が、「神の手」をもつ医者と呼ばれていました。

もちろん、彼らの才能や努力は賞賛に値します。しかし、聖書の神様を知る者にとっては、優れた能力や業績を残した人間が神と呼ばれることは非常に残念です。神様の名前が軽々しく使われていることを悲しく思います。

同時に、聖書の神様を知る者である私たちが、普段の生活の中で、礼拝の中で、御名を軽々しく口にしてはいないか省みる必要があるでしょう。神様の御名を口にする時は、心を込めてと思わされるのです。聖なる主よと呼ぶ時は畏れを抱いて。天の父よと呼ぶ時は親しみを込めて。全能の神と呼ぶ時は全幅の信頼を寄せて。わが牧者と呼ぶ時は、一匹の羊になりきって。御名にふさわしい心を抱いて、神様を呼ぶ者、神様に近づく者でありたいと思います。

 

レビ記103『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』」

私の高校時代の友人は、野球部でショートを守る、強肩の内野手でした。しかし、ある試合で無理な体勢から送球して転倒、地面に強く肩をうちつけケガを負い、それ以来まともにボールを投げられない肩になってしまいました。

しかし、結婚して子どもができてから、子どもとキャッチボールをしたいと願う様になり、痛めた肩の回復とトレーニングに励むようになりました。二年ぐらい辛い思いも味わいましたが、固くなっていた肩や腕の筋肉が回復し、ほぼ全力で腕を振りボールを投げられるようになったそうです。そんなある日、息子とキャッチボールをしていた時「お父さんて、野球が凄く上手いんだね」と言われ、友人は喜びを感じました。その喜びは、仕事で成果をあげた時、上司に認められた時以上のものだったそうです。

神様も、子どもである私たちが心を込めて御名を呼び、賛美する時、それを心から喜んでくださるお方であることを、このことばによって確認したいと思います。

最後に、アブラハムの信仰から、どの様に御名があがめられたかを見てみましょう。

 

ローマ4:1821「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

 

神様がアブラハムに「あなたたち夫婦に、子どもが生まれる」と約束した時、アブラハムとサラ夫婦に子どもはいませんでした。その上、サラは不妊の女性でした。アブラハムが百歳になっても、まだ子どもは与えられませんでした。人間的に見れば、アブラハム、サラ夫婦に子どもが与えられることは不可能な状況だったのです。

しかし、それでもなおアブラハムは神様に信頼したのです。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた」。つまり信頼し続けたのです。神様を知り、神様を信頼する。それ以上に神様を喜ばせることはありません。それ以上に、神が第一とされる信仰もないでしょう。それゆえに、神の御名があがめられたのです。

私たちは、いつの間にか神様から目を離し、神様以外のものに信頼し、助けを求めてしまいやすい者です。しかし、アブラハムの様に、神様がはっきりと示された約束、みこころは必ず実現すると信頼すること。そこに神様の御名をあがめる生き方があるのです。

神様のみこころを知り、神様に信頼することは御名をあがめること。神様のみこころをわきまえず、神様に信頼しないことは、御名を汚すこと。アブラハムの歩みからこのことを教えられたいと思うのです。

「御名があがめられますように」。この祈りを日々真剣に祈るなら、私たちの生き方は変えられてゆくと思います。この祈りを祈る時、私たちは御名を汚すような思い、ことば、行動を悔い改めるようになります。何が神様の御名をあがめることになるのか、従うべき神様のみこころを求めるようになります。神様の御名をあがめるような生き方をするためには何が必要なのか。自分に本当に必要なものを願い求めるようになります。そして、私達の愛する人々が、また、世界中の人々が神様の御名をあがめるようになることを切に願う様になるのです。

今生かされているこの時この場所で、御名をあがめる者として何を語り、何をすべきなのか考えつつ、日々歩んでゆく。私たち皆で励まし合いながら、その様な生き方を目指したいと思います。

 

Ⅰコリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

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